HOMEHOME CLAPCLAP

町に出る鬼

03 話をしたい


季節は少しずつ移り、まだ寒いながらも梅が花をつけ始める。
あれから2カ月と少し。
景伊の体は少しずつ回復していた。
何度も熱を出し傷は化膿しかけた事もあったが、何とかそれを乗り切り今は休み休み歩けるまでにはなっていた。
彼の体には、いくつか傷が残るだろう。少年は「仕方のない事」と言って気にしている様子はなかった。


「お前、ちょっと背が伸びたか?」
廊下で少年とすれ違った時、ふと気になって定信は景伊に声をかけた。
少年の背は定信の胸辺りまでしかなかったはずだが、わずかに目線が近くなった気がする。
「…そうか?」
景伊にはあまり自覚がないらしく首を傾げているが、彼の足元を見れば袴の丈も気持ち短くなっているような。
子供子供と思っていたが、今が一番背が伸びる頃なのだろう。何となく感心してしまう。
「寝る子は育つって言うけど、お前育ちざかりなんだなぁ。そのうち丈合わなくなりそうだな。俺の着物やるよ」
「…定信のは大き過ぎると思うけど」
「誰が今の俺のをやるって言ったよ。子供んときのだよ」
「俺はそんなに伸びないと思うよ」
「わからんぞ、俺だって急に伸びたから。まぁお前は背より肉つけたほうがいいな。飯食え、飯を」
この少年は食が細く、何度「食べないと治らん」と叱ったかわからない。精神的なものもあったのだろうが、 元々量を食べる方ではなかったらしい。
それでも無理矢理食べさせてきたせいか、出会った頃よりも顔色も良く、健康的な風貌になった気がする。

療養中はわからなかったが、こうして見ると少年はかなり端正な顔立ちをしていた。
肌は白く、長く黒いまつ毛に縁取られた切れ長の黒い瞳は賢そうな印象を人に与える。
落ちついた雰囲気もあり、実際の年齢よりも大人びて見えた。
あと何年もすれば、いい男になるのではないだろうか。
定信は、ふと思い立ち少年の頭からつま先までを眺める。
「お前、今日体調はどんなだ?」
「悪くないよ」
「なら、ちょっと外へ付き合う気はないか?」
「…外?」
景伊が少し驚いたように目を見開く。
彼は動ける様になってからも、この屋敷から外へ出た事はなかった。
「お前もいい加減退屈だろうしな。…まぁ遊びに連れてってやれるわけじゃねぇんだが、会わせたい人がいるって言ったろ?」
そう言う定信の手には、医療道具の入った箱が握られていた。


『…定信。お前もあの子供を助けた事、誰にも言うな。きちんとした事がわかるまで、な』

利秋は当初、そう言った。
これは景伊が、あの凄惨な事件に関与していた場合を恐れての事だった。
実際のところ景伊は目撃者であり、被害者だった。
ただ問題は彼の兄が、「景伊が家族を殺したのを見た」と言い、彼を殺そうとしたという事。
真実がどうであれ、景伊はそこから命からがら逃げてきたという事。
この少年が犯人扱いされているかもしれないという不安があったが、不思議な事にそうなってはいなかった。
利秋も疑問に思ったらしく何度か情報を得ようとしていたらしいが、何故かはわからなかったらしい。
その事を一度、利秋が景伊に直接問うた事がある。
景伊は少し考えていたようだった。
利秋も答えにくい事を聞くと思ったが、少しして少年は口を開いた。

「家族を殺したのが弟だなんて、ひどい恥です。 あの人は俺を切り捨てて、いないものとして残った家を守ろうとしているのだと思う。…あの人ならそれくらい、やる」

死んでくれていればそれで良しという事なのだと思います、と付け加えてた少年の顔は、まるで他人の事を語るかのようだった。
彼の家の者にとっても、犯人は「別のところから来た何か」の方が都合が良かったという事か。
原形をとどめていなかったとさえ言われる凄惨な遺体を見て、誰も人間の仕業と疑う者はいなかったようだ。
次第にこの事件の事は暗黙の了解として、口にしないようになっているという。
「あの家は祟られた」という言葉を、定信も街ゆく人から聞いた。
祟りか何かなんて、定信にはわからない。
あれ以来、自分達の前に「アレ」は現れなかった。
今でも夢だったのかと思う。
だが利秋も含め、3人同時に目撃してしまった事は確かで、しばらくはかすかな物音にさえ「アレ」が来たのではと思い、反応してしまうほど だった。びびっている、と自分でも理解している。

景伊もあれから、事件の事は全く口にしない。
恐らく思い出したくもないのだろう。
今はもう平気そうな顔をしているが、時折夢で激しくうなされているのを見る。泣いているのを見る。
あまりにひどくうなされている時は起こすが、目を覚ましたときの少年の顔は恐怖に歪んでいて、嫌な汗をかいていた。
…悪夢を見ているのは明らかだった。
本当に大丈夫なのかと不安になるが、少年はその度に「何でもない」と言って、何事もなかったかのように丸まって眠りにつく。
「何でもない」事はないだろう、と思う。なら何でそんな顔をする?
少年は「触れてほしくない」のだろう。定信には心を開いてくれているようではあったが、その点に関して景伊は固くなだった。
心の傷はかなり深いように思う。


「久しぶりの外はどうだ?」
風が吹くとまだ肌寒いが、今日はよく晴れており日差しは暖かい。
店が並ぶ路地には人々が賑わっていた。
景伊は定信の後を、少し興味深そうに見渡しながら歩いている。
「どうって言われてもこの辺りは、よく知らないから」
少年が住んでいた地域はここから少し離れているらしい。
「……あまりこうやって、出歩いた事ってないんだ」
そう言う少年の目には、賑やかな人々の暮らしは新鮮に映っているようだった。
「…そうか。まぁまた今度いろいろ案内してやるよ」
定信の言葉に、景伊がこくりと頷く。
「会わせたいって言ったのは、俺の先生だ。この先の長屋に住んでる」
「先生……医術の?」
「そう。俺もまだ一人前ってわけじゃないし、教わりながら時々診療の手伝いに行ってるんだ…あぁ、ここな」
定信が指差したのは、見えてきた長屋の一角。
ひときわ年季の入った建物だった。
「先生、いますかー?」
定信は遠慮なく戸を開けると、建物の中に向かって叫んだ。
だが、中から返事はない。
「出掛けてんのか? 今日は居るって言ってたんだが」
「でかい声出すな。ちょっと外出てただけだわ」
「おわっ!」
背後からかけられた低い声に、定信が驚いて振り向く。
そこには、50代くらいの無精ひげが生えた、小柄な男が立っている。
白髪混じりの髪で肌は浅黒く、彫りの深い顔立ちに眼光の鋭さ。ぱっと見、どう見てもカタギの人間ではない。
「いたならいたって言って下さいよ!」
「気付かんお前が悪い」
そう言う頑固そうな男は、視線をぽかんとしている景伊に移す。
「お前さんが定信が拾った子か」
「……長棟景伊といいます」
「楠だよ。…寝込んでたって言うが、随分顔色は良さそうじゃないか」
頭を下げる景伊を見て、楠と名乗った男は笑った。


どう見てもやくざ者といった風貌の男は楠という名で、定信の師だと言う事だった。
「先生はこんなだけど、腕は確かなんだよ。この辺りの人は皆尊敬してる」
「こんなは余計だろうが」
定信の紹介に、楠は悪態をつく。
長屋の中には、医療道具や医術書が乱雑に積まれていた。
「この辺りの人は貧しい人も多くて、医者にかかれない人もいるんだ。先生はそういう人達も無料で診たりしてるんだよ」
「まぁ、おかげで貧乏だがね」
楠は豪快に笑いながら、景伊を見た。
「お前さん、運が良かったよ。いろいろあったかもしれんが、偶然通りかかったのが医者だったなんてな。 こいつなかなか見込みはある奴なんだ。まだ半人前だけど」
「いえ。…十分過ぎるくらい、助けてもらいましたから」
景伊の言葉に、「お前感謝されてるぞ」と振り返った楠は、足でちょいちょいと定信を蹴る。
定信は止めて下さいよ、と言いながら逃げ回っていた。
そんな話をしている間にも、急病の患者とその家族が慌ただしく楠の元へ訪れた。
楠と定信は連携しながら診察と治療を進めていく。
景伊には手伝える事があるわけでもない。邪魔にならないように、と外に出ていようとすると、 入口から数人の子供達がこちらを覗いているのが見えた。

患者の治療がひと段落して一息ついたとき、定信は部屋の中に景伊の姿が見当たらない事に気がついた。
「…先生、あいつどこ行きました?」
焦って問うと、楠は周囲を見渡す。
「外じゃないか?ほれ」
開いた戸の向こうを指差す楠。
そこには、子供達に囲まれて、何やら話している景伊の姿があった。
「……何してんだ、お前ら」
外に出てみれば、定信に気付いた子供達がわっと駆け寄って来る。
この子達は、この辺りに住んでいる子だ。定信とも面識があった。
「お客さんと遊んでたんだよ!」
「あやとり教えてあげた!」
子供達が口々に説明している。
定信に気付いた景伊も、こちらへ歩いてきた。
「子供らと遊んでたのか」
「遊んでたというか……遊びを教えてもらった」
景伊はどこか照れくさそうだった。
人懐こい子供達は景伊の着物の袖を引っ張っている。
向こうに行こうとか、追いかけっこしようとか、賑やかだ。
景伊は案外それにうまく対応していて、話を聞いてやっていた。
「……もう少し、この子らと遊んでいていいか?」
「いいよ。俺もまだかかるから。子供らにつられて無茶すんなよ」
「わかってる」
そう言うと、景伊は子供達に手を引かれて行った。
子供達は、見慣れぬ客が珍しいらしい。 景伊は困った様にしながらも、時折笑顔を見せていた。

定信の知る少年は、どこかいつも表情のない顔をしていた。
しかし今は、それなりに年相応の顔を見せている気がする。
「やっぱり、子供は笑ってないとな」
いつの間にか後ろにやって来ていた楠も、その様子を見て呟いた。
「……やっぱり子供は子供同士の方がいいんですかね」
「お前はよくやってると思うよ」
定信の言葉の裏にあるものを感じたのか、楠は定信の肩を叩く。
「お前にしかできないって事も、やっぱりあるだろうしな」
定信は黙って、景伊の背を見つめていた。

あの少年の力になりたいと、定信は思っていた。

出会ってから2カ月、少年は時折薄い笑顔を向けてくる事はあった。
物静かなのはもともと口数が少ないのか、事件の影響なのかもわからない。
傷が癒えてくると、景伊は家にある本を読んだり、縁側で庭を眺めたりして過ごしている。
そのときの横顔が妙に遠い物を見ているようで、声をかけづらいと思う事がたびたびあった。

この子供は、何を考えているのだろう。
何を思い、一日を過ごしているのだろうか。
ぼんやりと過ごしているような、何かを考えているような。

この2カ月を共に暮らすうちに、この少年に家族の様な情を抱いているのは自覚していた。
定信には兄弟はいない。だからこれが弟だとか、そういったものに抱く様な感覚なのかはよくわからない。 良家のお抱え医師として生きる事を選んだ両親と別れ、少年の頃から大人に交じって生活していた。
だから自分より年下という存在が珍しくて、何かと世話を焼きたくなるのかもしれない。
この少年といつまで一緒にいることになるのかはわからない。
景伊の選択もあるだろうし、周りの判断によるかもしれない。
だからせめて、共に過ごす間に、この少年の心からの笑顔と言うものを見てみたかった。


日が暮れる前に、定信と景伊は楠の家を後にする。
「また来い」と言う医者と子供達に見送られ、二人は来た道を歩き始める。
「悪かったな、俺も先生もあまりかまってやれなくて。……少しは気が晴れたか?」
景伊の顔には少し疲れが見えるが、その表情は少しいつもより和らいで見える。
「いいんだ、俺じゃ役に立てないし。子供達の方がいろいろ知ってて、教えてもらったよ」
「お前みたいなのは珍しかったんだろうな。あちこち引っ張り回されてたもんなぁ」
「少しあの辺りの地理に詳しくなれたかもしれない。…大変だったけど、楽しかったよ」
「そいつは良かった」
定信は微笑む。
景伊が少しでもそう思ってくれているなら、連れて来て良かったというものだ。
「あの子達と遊んでいたら、少し家の事を思い出した」
歩きながら、景伊が呟く。
「俺が生まれて育ったのが、今日行ったところと似てた。どこかはもうあまり覚えてないんだけど、ああいった長屋だったのは覚えてる」
「……長屋?」 定信は疑問を感じて、少年を振り返った。
この子供は、それなりの武家の生まれではなかったのか?
景伊は定信の疑問を感じ取ったらしく、頷く。
「俺が長棟の家に行ったのは、7歳のときだよ。母親は父の妾だった。母親が死んであの家に引き取られるまで、別の場所に住んでた」
景伊はただ淡々と、思い出す様に語る。
「あまり歓迎されていないってのはわかっていた。俺と同い年の妹がいたんだ。 父は本妻と妾の女を同じ時期に手を出していたって事だから。今考えれば、許せないだろうっていうのはわかる」
「でもそれは、お前に関係のない事だろう」
「そうかもしれないけど、向こうからしたら違ったんだと思う。引き取られてからは、ほとんど外に出してもらえなかったから。 俺があの家に居たって事、外の人間はほとんど知らないと思う。だからあの事件の後、俺がいなくなった事に誰も気がつかない」
だから、子供の遊びもよく知らなかった。
景伊はそう付け加えた。
景伊の初めて語る過去は、定信には重く、鉛のように感じられた。
自分より小さな子供達の駆け回る姿が、この少年にはどのように映ったのか。
どう反応したらよいのかわからないまま、定信は黙り込んでしまった。
「ごめん。関係ない話だった」
その空気を察したのか、景伊が申し訳なさそうに言う。
「いや、謝る事はない。こっちこそ悪かったな。思い出させちまって」
景伊は首を横に振った。
どことなく、気まずい空気が流れる。
この子供のどこか達観したような雰囲気は、恐らくその環境のせいもあったのだろう。
他人事のように淡々と語るが、「少年を隠したがった」家族と、それを感じ取っていた少年。
何を思い今まで生活していたのか、定信には見当もつかない。
「……なぁ、定信」
「ん?」
半歩後ろを歩きながら、景伊が定信の名を呼ぶ。
「聞いてほしい事があるんだ」
「…何だ、あらたまって」
景伊は俯きながら歩いていたが、ふと定信の方へ視線を向ける。
少年の顔にはどこか迷いが浮かんでいた。言おうか迷っている、不安げな顔だった。
「…兄と、一度話をきちんとしたい」
定信の脳裏に、あの雪の日の出来事が思い出される。
雪の中で、一人血塗れで倒れていたこの少年。
「馬鹿言え! お前を斬りつけたのはそいつだろう! そんな」
そんな奴の元へ戻る気か、と言おうとして、定信は言葉を飲み込んだ。
景伊が、泣きそうな顔をしてこちらを見上げていたからだ。
「あの家は大嫌いだった。でも、あの人だけは優しかったんだ……」
景伊は己の手のひらを見つめていた。
そこにはまだ、あのときの傷が生々しく残っている。
「母は違ったけど、本当に可愛がってもらった。誰も俺と関わろうとしなかったのに、あの人だけが……いろいろ教えてくれた」
時折家の外へ、こっそり連れて行ってもらったりしたよ、と景伊は呟く。
彼にとっては大事な思い出なのだろう。
だが、その顔には懐かしさを語る様な色はない。
「お前、戻りたいのか」
「……」
問えば、景伊は黙り込んだ。
少年が語る家の思い出。だがそれは、優しかったものばかりではない。
「…戻れない、だろうな」
景伊は眉を寄せて、自嘲的に微笑む。
「事情はどうであれ、あの人は俺を信じれないから殺そうとした。…俺が感じてた優しさは、偽善だったのかもしれないし。 家族と同じで、俺の事なんて本当は大嫌いだったのかもしれない」
でも、と景伊は続けて、しばらく黙った。

周囲には行き交う人々の、賑やかな声が響く。
そばを駆け抜けていく、元気な子供達の声。
色鮮やかな夕日が町を夕暮れ色に染める。
景伊はその光景を、目を細めて見つめている。切なそうな表情を浮かべて。

「こんな去り方は嫌だ…」

やっと絞り出された景伊の声は、町の景色の中に消え入りそうだった。
「……」
定信は黙って少年の様子を眺めていた。
事情が事情だけに「帰ればいい」なんて、定信には軽々しく言えなかった。
この少年にとって、「今までの思い出」がどれだけ大事か、その兄をどれだけ慕っていたのか。
それは少年の言葉の端々から感じられた。
元のような仲でいたい。それがどれだけ難しい事か、少年はわかっているのだろう。
だが彼は信じたいのだ。
あれだけ必要のない痛みと血を流して、それでも自分の兄に、言葉が届くと。
「お前がこのまま後悔したくないなら、会えよ」
定信は歩きながら、景伊に向けて言う。
「ただ相手がどう思ってるのかわからないんだ。お前に何かあったら意味がない。会うのはこっちから話を通してからだ」
「……定信」
「利秋さんが動いてくれる予定にはなってる。ただあの人も忙しいから、すぐって訳にはいかねぇぞ」
「…わかってるよ」
利秋はこのところ多忙だ。
もともと妙な仕事を押し付けられる傾向はあったが、最近出掛ける頻度が増えた。
何をしているのかは相変わらず教えてはくれない。
定信の本心としては、景伊が家に戻る事にあまり賛成はできなかった。
例え誤解が元であったとしても、こんな子供を殺しかけて放置するような人間の元へ返したくなかった。
しかしその少年が、本心では帰る事を望んでいる。
あんな目にあったと言うのに。
「もし駄目だったら無理せず帰って来い。俺も利秋さんも、お前を追い出すつもりはないんだからな」
そう言えば、景伊は意外そうな顔でこちらを見た。
「何だその顔」
「…どうして」
言葉が同時にぶつかる。
「…どうして、俺なんかにそんなに良くしてくれるんだ」
(俺なんか、ね)
景伊の言葉を、口の中で転がした。
接してみてわかったが、この少年はどうも遠慮がちというか、自分を周りと比べて「役に立たない」人間と思っているふしがある。
先ほど聞いた彼の生い立ちを聞けばわからないでもなかったが、定信はその考えが好きではなかった。
「…俺も利秋さんも物好きだからって言ったら、納得すんのか?」
「でも」
少年は納得いかないらしく、食い下がる。
定信は頭を掻いた。
真面目すぎるのも問題だ。もっと何も考えず気楽に生きればいいのだ、この子供は。
自分の事だけ考えていればいいのに。
「いいんだよ。それでも気にするって言うなら…そうだな。お前がもうちょっとでかくなって、俺が困ってたら、 そのときは助けてくれ。それでちゃらにしよう。いいだろ?」
景伊の顔を覗きこめば、曇りのない黒い瞳がこちらを見上げる。

―ああ、やっぱりこの子は、少し背が伸びたな。

視線の位置が近くなった事で、改めてそう思う。
この子供は自分の背を越すだろうか?
どんな若者に育つのだろうか。
だがこうして真っ直ぐに自分を見上げてくる少年には、妙に曲がってしまったものもない。
どんな目に合おうとも、この子供自信の芯は折れていない。

この子供はきっと大丈夫だ。
優しく賢いこの子供は、きっといい男になる。
定信はそう信じた。

同じ頃、利秋は町外れにある牢屋敷にいた。
罪人達が収容されている中の、一番奥の牢。
牢の中には、一人の若い男しかいない。
暗い牢の中でも白銀に輝く、ざんばらに短く切られた癖のない髪。西洋人のような白い、血の気のない肌。
その瞳は灰色で、猫の様に暗闇で光る。
歳の頃はよくわからないが、30前の若者に見えた。
その男は黙って、牢の奥に正座していた。
捕まってから1カ月と少し。
この男は一言も言葉を発していない。
利秋は牢の前に胡坐をかき、頬杖をついてその男を眺めていた。
「いい加減、何か喋ってくれんかね…」
このところ、話しているのは自分だけだ。
取り調べも何も、普段は別の人間がやっている。
だがこの男の風貌に恐れを抱いた係の者達は、皆それを嫌がった。
この白い男も口を開かず、語らない。
結果的に「変わり者には変わり者で」という事で、自分が呼ばれたのだという。
なんだそれ、ふざけんなと思ったが、少し興味もあった。
そもそも、この男は何か罪を犯したわけではないようだ。 たまたまあの事件があった夜、捕えられたというだけ。その姿を怪しまれて。
彼が捕まった事で、あの事件は解決したと思っている人間もいるようだが、利秋は実際、景伊が述べた様な「人に擬態する者」を見てしまった。
しかも自分の姿になっているアレを。
一ヶ月近く、何度となくこの牢の前に足を運んだが、この男と「アレ」はどうも違うような気がしてならなかった。
早く殺してしまえばいいという意見もある。
だが何も事実を知らないまま闇に葬るというのは、納得できない。
この男が関係ないのであればそれでよし。
だから違うのであればそうと、この男の意見を聞きたかった。だが、この白い男は口を開く様子はない。
「この部屋寒いな。お前、早く出たいとか思わないの?」
「あんたでも日に焼けたりとかする?」
「知り合いとかいないの? なぁ」
「犬と猫どっちが好き? 俺は猫」
もう尋問する気も段々失せている。
適当に思いつくまま、自分ひとりで喋っている気がしてならない。
男の気を引けるのが先か、利秋が飽きるのが先か。
以前はこうなったら意地でも喋らせてやる、という思いもあったが、最近は疲れていた。
(何かもう、無理な気がしてきたな)
何も話さない男の前で独り言を延々と喋る続ける時間。……不毛だ、と思う。
じと目で牢の中を見ながら、利秋はため息をつく。
「…俺の話が理解できてないってわけじゃないんだよな?」
男の反応はない。
こいつ死んでないだろうな、生きてるよな、という不安さえ湧く。
もう無理、と利秋の中で何かが切れる。
何でこんな寒い、暗い所へ来てまで一人で話をしないといけないのだ。
こうなったら「変わり者同士でも無理でした」と嫌味を言って、この話はなかった事にしてもらおう。
俺はもう知らん。
気は長い方ではない利秋のイライラは最高潮に達していた。
「これで終わりにすっから、一つだけ聞く」
他の人間は知らないだろう。
利秋もあの事件に関与しているか、何か知っているのか。
それは聞いたが、一つまだ聞いていない事があった。
景伊、定信、そして利秋しか、今のところ知らないであろう事。
「お前、人そっくりに化ける化け物の事知らないか?…人間齧り殺すような」
言いながら、埃を払って立ち上がる。
「知らないなら別にいいんだ。俺が個人的に聞きたかった事だか…」
視線を牢に戻して、利秋はぞくりとしたものを感じた。
牢の中の白い男が、じっとこちらを見つめている。

「…見たのか」

若い男の声だった。
低くもなく、高くもない声。
初めて聞いた、白い男の声。
薄暗い中で、猫のような瞳がこちらを見ている。
「アレ」を見たときと同じような恐怖が、背筋を走る。
「…お前、知ってるのか?あれが何だか、知ってるのか?」
利秋の声に、男は答えない。
ただ黙って、こちらを見ているだけだ。
(何なんだ、こいつ……)
利秋は言い様のない不安を感じた。