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町に出る鬼

05 山まで連れて行く


眠るのが怖い。
必ずあの夜の夢を見るから。
これを「夢」と言えるのか、わからない。
ただ過去の映像を強制的に見せられている、それだけの様な気もする。

その暗闇の中、自分は何もできない。
ただ、自分の姿をしたものが、地面に倒れた家族だった「もの」に貪り付いている。
顔は見えず、後ろ姿だけだ。自分の後ろ姿を見るというのは奇妙な感覚だった。
景伊が夢を見るのは、いつもそこからだった。

咀嚼音。
何かが引き千切れる音。嗅いだ事のない、嫌な生臭さが漂った。
薄暗く、はっきりとしない視界の中でも、その音、臭いはわかるのだ。

(…嫌だ)
あの夢を見ている。それがわかるのに、これは過去だとわかるのに、景伊にはどうしようもできない。
立ち去りたい。逃げ出したい。
なのに、足は地面に埋まってしまった様に動かす事ができなかった。

――――お前は、何をしているんだ

背後で、聞き馴染んだ声がした。
その声が好きだった。
低く、よく通る落ち着きのある声。ときに厳しく、ときに優しい色を含んでいた声。
だが今の自分にとって、その声は恐怖でしかなかった。
すぐ近くにあるであろう、声の主。
足が震えた。振り向く勇気が出なかった。

――――お前が、やったのか
(違う)

景伊は、背後から聞こえる声に、必死に首を横に振った。
(俺じゃない)
(俺じゃ)
必死に出す否定の声は、音にならない。
この声が伝わらない。

――――お前が

「…違う!」

腹の底から叫んだ声が、やっと音になって暗闇に響いた。



叫んだ自分の声で、景伊は目を覚ました。
「…」
息が荒い。心臓がどくどくと脈打っているのがわかった。全身、嫌な汗をかいている。

天井は見慣れた、いつのもの部屋のものだ。
ここは自分の家ではない。だが「自分の部屋」と思うくらいに見慣れてきた部屋だ。
すっかり夜が明けているようで、部屋の中は明るい。
見れば、隣に寝ているはずの若い医者の姿はなかった。もう起き出しているらしい。
女手のないこの家で、料理など家事を担っているのは定信だった。
どこで覚えたのか、手先が器用で面倒見のいいあの男は、家では何もしない利秋の面倒もみている。
景伊も最近は定信の手伝いをするようになっていた。
手のひらに負った傷が癒え、リハビリがてらにと包丁で野菜の皮を剥いたり、料理を教えてもらう。
慣れない事ばかりだが、新しく知る事ばかりで景伊にとっては楽しい事だった。

何かしていた方が、気が紛れていい。いろいろな事を考えなくていい。
そんな景伊の思いは、定信には見透かされているようだった。
だからあれこれ話しかけてくるし、自分をかまうのだろう。


障子を開ければ、外は良く晴れた、気持ちのいい空が広がっている。
(…最近寝過ぎだ)
景伊は軽く頭を振って、どこかまだはっきりとしない頭を起こす。
この家に拾われてからあまり体を動かす事もなく、どうも体がなまっている気がする。
昨日など少し歩いた程度なのに、夕方帰ってからはぐったりしてしまい、そのまま寝てしまった。
痛みを感じる事は少なくなっていた。背中の傷が少し引きつる感覚はあるが、こればかりはどうしようもない。

「おはよ。今日は早起きだな」

声に振り向くと、定信が笑顔で廊下を歩いてくる。
「…おはよう」
「起こそうかと思ってたんだ、ちょうど良かった。利秋さんはもう出かけちまったけど、飯にしよう」
その前に顔洗って来い寝ぼすけ、と言われ、頷いた景伊は井戸へ歩きだした。


桶に水を入れ、顔を洗う。
井戸の水は冷たく、ぼんやりとしていた頭が一気に覚めた。
空を見上げれば、雲ひとつない青空が広がっている。空気は冷たいが、日が当たると暖かい。

この屋敷での暮らしは、今までの短い人生の中では一番穏やかな時間を過ごしている気がした。
波風のない、平穏な暮らし。
屋敷の主と医者は気持ちの良い男たちだ。
何の接点もなかった自分を助け、置いてくれている。
それには感謝している。
景伊も二人の事は好きだった。
だが、時折どうしていいのかわからない不安に襲われるのも確かだ。

自分はここにいていいのか。「アレ」はもう追ってこないのか。
あの後、家がどうなっているのか。
…あの人は。
次々に浮かぶ不安を払うように顔を拭く。

(…あの人は、どうしてるんだろう)

父・義母・妹があの晩死んだ。家族と名のつくものはいなくなった。
兄は、あの家に今もいるのだろうか。…一人で。

あの人は俺が死んだと思っているだろうか。
もし生きていると知ったら、どうするのだろう。



定信に話がある、と言われたのは、朝食を食べ終わった頃だった。

「今日お前が居た家に、利秋さんが行ってる」

言うのが遅くなって悪かったが。
そう言う定信は、景伊にいつ言いだそうか悩んでいたらしい。複雑そうな顔をして、景伊を見ている。
「…そう」
「そう、って…落ちついてるなお前。もう少し驚くかと思ったんだが」
本人も「話したい」と言っていた。
だが急な事で驚くのではと思っていた定信は、少し拍子抜けしたような顔をする。
「ただ、どうなるかはわからないぞ。利秋さんも付き合いがある家じゃないから、お前が望む方向に持ってけるかはわからない」
「いいんだ。…きっかけを作ってもらっただけ、有難い。後は俺とあの人の問題だから」
景伊はそう言うと、食器を持って台所へ消えた。
定信は黙って、景伊の後ろ姿を見ていた。



白壁に囲まれた、大きな屋敷。
壁の向こうには松の木と、蔵の屋根が見える。相変わらずでかい家だ、利秋は思う。
しかしよく晴れた朝だというのに、辺りは妙に人通りが少ない。
(まだあの事件引っ張ってるんだろうな…)
利秋は眉をしかめながら、門の前まで来た。

長棟家。惨劇のあった家。景伊があの晩までいた家。

利秋は一度、この家に訪れた事がある。
あの事件の翌朝にあたる。
残忍な事件が起きたと言われ、人出がいるので手伝ってほしいと言われたときだ。
またやっかいな事を頼まれた、そう思いつつも特に何も考えず従った。
しかし屋敷が見える辺りまで来た時、利秋はその尋常じゃない様子に気がついたのだった。
群がる野次馬に、罵声。
門から駆けだしてきた人間が、溝に向かって思い切り吐いていた。

生臭い臭い。

人が死ぬのを見た事がないわけではない。利秋自身は人を斬った事がなかったが、そういった場面に遭遇した事は何度もあった。
――――だがこれは。
利秋も思わず口元を押さえてしまったほどに。辺り一面に血しぶきが飛び、人であったはずのものが転がっていた。
当初遺体の損傷が激しく、一体何人殺されているのかがわからなかったほどだ。
あれから二ヶ月近くが経過し、臭いも事件の気配も薄れてしまったように思う。
広い屋敷は、何事もなかったかのように静まり返っていた。
だが人はどことなく恐怖を感じ、この家を避けるのだろう。


殺されたのは当主とその妻、長女。
長男は難を逃れ無傷だった。
景伊は、その彼に斬られている。
今から話そうとしている男は、どんな男だったろうか?
利秋は記憶を探る。
確かあのとき、見た様な。

――――あのときは、確か現場検証も終わって。
かき集められた人員で、遺体の処理をしていた。

(…たった一人で生き残っちまったって事は、いいことなのかねぇ)
(…でも後継ぎが残ったって事は幸いだろう。この家は残るさ)

周囲の声を潜めた会話に、ふと彼らが噂した生き残りの方へ視線をやった気がする。
確か…。

「我が家に、何か御用ですか」

ふいに背後から声をかけられ、利秋は振り向いて…驚いた。
背の高い、がっしりとした体格の若い男。
笑みも浮かべぬ冷たい色を持つ、切れ長の瞳が景伊と重なった。
(雰囲気とかは…言われてみれば、似てるな)
あのとき、一瞬視界の端に見えた生き残りの男。
長棟義成が、そこに居た。


線香を上げさせてほしいと言えば、長棟義成は丁寧な態度で利秋を仏間へと上げた。
仏壇には真新しい位牌が見えた。家族の物だろう。

「わざわざ足を運んで頂いて、ありがとうございます」
あの事件の際、家に来ていた事を告げると、義成は頭を下げた。
年の頃は20代半ばだろうか。定信よりも少し年上に見える。目は景伊と似ているが、顔のつくりは景伊よりも男らしさが強い。意思の強そうな若者だった。
だが、少し疲れも見える気がする。

「…貴方は、大丈夫なのかな」

そう問えば、若者は少し意外そうな顔をして、固く微笑む。
「…大丈夫、と言うしかないでしょうね。死んだ者の苦しみに比べれば、今の状況など」
若者は自嘲気味に笑う。
「この2カ月は怒涛のようで…正直、戸惑う事も多いのですが」
そう言って少し俯く若者は仏壇の方を見る。
彼としてもまだ、整理はついていない出来事なのだろう。
傷口を抉る様で聞きづらいが、その為にここに来たのだと利秋は思い直す。

「何度も聞かれたかもしれないが、貴方に今回の事で、思い当たるような事は…?」
「…恨みを全く買っていなかった、という事はないでしょうね。父の立場上、政敵もいたでしょうし。あとは…」
義成はそこで口をつぐんだ。
「…あとは?」
「身内の事です。…正直なお話をしますと、この家は元々崩壊寸前だったのです」
「崩壊?」
利秋の問いに、義成は頷く。
「父は外では、完璧な男だと言われていました。忠義に厚く仕事ができて部下を敬う男だと。しかし、私は父が正直な話、好きではなかった。子供の嫉妬だと言えばそれまでですが、いろいろな意味で家庭を顧みるような人ではなかった。私もこの歳まで、腹を割って話した事は一度もありませんでした」

武士としては、それでも良かったのかもしれませんが。と義成は付け加える。

「母も父を好いてはいなかったのです。しかし外では父を支える慎ましい良妻賢母を演じていた。陰では毒を吐くのですが…それが、昔から嫌で仕方なかった。何もかもが仮初で、互いを嫌いながら、ただ家をいうものを支える部品の為に共にいるような。息が詰まるようでした」
義成の視線は、仏壇の位牌へ向けられている。
当人たちに聞こえてもかまわない、という様に。今までの本心を吐き出すように。
「そういった者の集まりだったので、いつ綻びが出てもおかしくない状態ではありました。恥ずかしいお話ですがね。…だからと言って、あんな死に方をしていいとは思っていませんが」


…景伊は言っていた。
兄が自分を探さない、犯人としないのは、家の名を守るためだと。
世間に存在を知られては困るから。身内の犯行だなんて恥を、あの人は認めはしないから。
だから自分をこのまま切り捨てるのだ、と。

しかし利秋は初めてこの若者と対峙してみて、そういった景伊の話の印象とは異なるものを感じていた。
面識があるわけでもない利秋に、こうして家の恥部を語る。
確かに厳しく真面目そうな男ではあるが、強固に家を守ろうとするような、そういった意識があるわけでもないような。

「…そんな事、俺に言っていいのか?」
「事実ですから。体面を着飾るには、もう疲れました」
そう、義成は伏せ目がちに笑う。
だからと言って、家族には違いなかった。
複雑な思いなのだろう。

「妹さんがいたそうだが。仲は良かったのか?」
「…ええ。まだ14でした。体の弱い子でしたので、共に遊ぶようなありませんでしたが」
「――――御兄弟は、お二人だけ?」
そう告げると、義成の視線がわずかに揺れた。

(…この男、正直だな)
利秋は正座の上に作った拳に、わずかに力を込めて、頭を下げた。
利秋は思う。
恐らく自分がここへやってきたのは、景伊の為だけではない。
あの少年の願い以上に、自分が知りたいのだ。
この事件の真実を。

「俺個人で確認したい事がある。その為に、今日はここへ来た。
だから教えてくれないか。貴方があの日、本当に見たものを」



景伊が庭を掃きながら、時折門の方を見ている。
…利秋の帰りを待っているのか、と定信は思った。
利秋が長棟家に出向いていると伝えた時、景伊はあまり反応しなかった。
だが、気になるのは気になるようだった。

「…そんなにすぐ帰ってはこないさ。遅いのは、ちゃんと話ができてるって事だろう?」

こつん、とホウキの柄で景伊の頭を小突けば、景伊がバツが悪そうな顔をする。
「せっかく掃除手伝ってくれるなら、しっかりやってくれ。…まぁ放置し過ぎた俺が悪いんだけどな」
「…わかってるよ」
冬からいろいろと忙しく、庭まで掃除まで手が回らなかった。
この屋敷には何もしない主と怪我した子供と、マメだが暇でもない医者しかいなかったのだから仕方がない。 利秋だってもう奉公人くらい雇えないわけでもないだろうし、何とかしろと一度言ったがそっけなく「別に俺は汚くても気にせんよ」と言われた。
定信がやらない、という選択肢はない。…結局気になってやり始めてしまうからだ。
しかし今は、こうして景伊が時々手伝いをしてくれるのだからいい。

景伊は賢く、物覚えも悪くないのだが、何かが「欠けて」いるような感覚を定信は持っていた。
根は真面目なので黙々と丁寧に仕事をするし、よく働く。
だが難しい事を知っていたかと思えば、当たり前の事を知らなかったりする。
いろいろなものがちぐはぐなまま育ったような、そんな印象を受ける。
彼の育ちを思えばそれも仕方のない事なのだろうが、それも良くないと定信は色々な事を、できるだけ景伊に体験させてやりたいと思っていた。
(…うまく話がまとまれば、こいつも帰るのかな)
なんとなくぼんやりと、庭を掃く景伊の後ろ姿を見つめる。
「うまく」なんて、いくのかどうか。
定信にはそういう思いもある。

向こうは景伊を殺そうとした。誤解であれ、だ。

そんな元へ帰ると言うのか。あんなに痛い目を見て、今だって夜は怯えているくせに。
景伊の盲信とも言える兄への意識は、定信には複雑にしかうつらない。理解ができない。
(会ってどうするって言うんだ)
話をしたい、と少年は言う。しかし、事実をどうやって証明する?
人に化ける化け物なんて、どうやって相手に信じさせる?

「…定信!」

景伊の呼ぶ声で、定信は我に返った。
何かただ事ではない様子を含んだ声に、定信は景伊の側に駆け寄る。
「どうした」
「…これ」
景伊が、何かを指を差す。
指差す方には、庭の木の根元にかき集められた、枯葉の山。
その葉の一部に、べったりと赤黒い液体が付着している。
「…血、か?」
「お前は触るな」
近づこうとした景伊を制し、定信は近寄った。
どろりとした、液体。
触らなくてもわかった。…少し乾き始めた血の塊。
どうして庭に、こんなものが落ちている?
「定信、あそこにも…」
景伊が見る方へ視線をやれば、少し離れた場所にも地面に染み込んだような血痕。…その先にも。
「…この分だと、結構深手負ってるな…」
定信は立ち上がると、俺が呼ぶまでここから動くなよと景伊に釘をさして、血痕の後を追った。

このところ物騒過ぎる。庭へ何かが入りこんだ?気配には全く気がつかなかった。
ほうきを握りしめ、息を飲む。
そう広くはない庭の、手入れをされていない植木の向こう。
白い手が、地面に力なく投げ出されているのが見えた。
(人…)
駆け寄ろうとした定信は、その倒れている人物の姿を見た時、思わず息を止めた。

あちこちすり切れた、泥だらけの着物。
男性のようだった。
年齢はわからない。顔は俯いてしまっていて、肩で荒く呼吸をしている。
体格や肌から若い男性だと思った。
あちこち出血して、地面には男の傷口から流れたらしき血が溜まっていた。
その姿は、景伊と出会った時を思い出させる。
しかし、定信は男の容姿に驚いていた。

髪が白い。
銀髪とでも言うのだろうか。艶のある、顔を覆うくらいの長さの髪。
今は出血からか、あちこちに赤い染みができている。

唐突に利秋の言っていた事を思い出した。


(――――この町で、捕まったんだよ)

(山一つ向こうの地で、時折夜に妙な奴が出るって話があったんだよ。銀色の髪で、色が白くって、目の色まで…)

男が荒い呼吸をしながら、定信に気付いたのか顔を上げる。
その男は睨むように、定信を下から見上げた。

猫のような目だと思った。

酷い怪我をしている。
だが、定信は近づけなかった。
男は威嚇するように、低く唸る。
…野生動物のようだ。

男は、ゆっくりと立ち上がる。
動いた拍子に、男の傷口からぼたぼたと血が落ちた。
肩や脇腹に、抉られたような傷がある。熊の爪にでも持っていかれたような傷だった。

「…定信!」
景伊にも立ち上がった男が見えたのだろうか。景伊が動く気配がする。
「お前は来るな!」
そう叫んで、定信もゆっくりと後ずさった。
白い男の視線は、定信に注がれている。
山中でもし熊に出会ったら、こんな感じだろうか。
定信は意識の外で、そんな場違いな事を思う。手負いの獣の殺意を向けられているような感覚だった。
今この白い男から視線を外せば、たちまち襲われてしまいそうな気配がする。
ゆっくりと、男に向かいあったまま、後ろへ下がる。
自分だけならまだいい。後ろには子供もいるのだ。

そう思った時だった。
白い男の視線が動く。定信の後ろへ。
(まずい…!)
景伊に逃げるよう叫ぼうとしたとき、目の前の男の姿が消えた。

何だ。…何が起きた?
理解できず振り向く。
白い男はいた。

景伊の目の前に。

景伊は目を見開いて、突然目の前に現れた男を凝視していた。何が起こっているのか、わかりかねているようだった。
男も、黙って景伊を見ている。白い男はふいに、定信を振り返った。

「…山まで連れてく」

「な…おいっ!」
定信が声を出した瞬間、男は消えた。…景伊と共に。
「…」
地面には、白い男から流れ出た血痕だけが生々しく残っていた。
「…何なんだよ」
定信は突然の事に呆然としていた。

(山まで連れてく、って…どういう事だ…?)

あの男は定信に向けて言った。
何故景伊を選んだのか。
あれは何だ?

「…畜生!」
定信は苛立つまま、拳を近くの樹に叩きつけた。