慌ただしく準備をして、長棟家の屋敷を出たのはその日の正午過ぎ。
住宅の密集した町並みを外れ、田畑が見え始め、山が近くなる。
道中、利秋は義成と今までの事を話しながら歩いていた。
自分達が見たもの。
義成はそれを茶化す事も無く、黙って聞いていた。
元々理解は早い男だと思うが、正直な話定信たちでさえよくわからない事の方が多い。
人の姿に化ける「アレ」と、白い男の関係性。
景伊の事。
自分たちは、よくわからないまま突き進んでいる。
定信は無言で進む。目的地ははっきりとしているのに、出口の見えない迷路に迷い込んだような気分だった。
「…あなた方が見たものが、真実としたら」
定信の意識の向こうで、義成の声がする。
「俺は、無実の弟を斬ったのですね」
低く、風にかき消されるかのような声だった。
その山間の村に辿り着いたのは、空が夕日に染まるころだった。
出発してから歩きどおしで疲れはあったが、明るいうちに情報を得たい。
周囲をうっそうとした暗い山々に囲まれ、山の斜面に作られた小さな田畑が見える。
人家は数えるほどしかない。本当に人口が少ない集落のようだ。
利秋は周囲を見回すと、少し離れた場所にある古い農家へと近寄っていく。
その家の軒下では、青年が何やら藁を片手に農作業をしていた。
ちょっと話してみるわ、と利秋がその男に近づいて行く。
「…すみません。少しお聞きしたい事があるのですが」
青年は作業の手を止めて、利秋を見上げる。何か胡散臭そうなものを見る様な目だった。
「…お侍がこんなへんぴな所へ、何の用ですかね?」
「そう警戒しないでほしいね傷付くから。この辺りの山の事で聞きたいんだが」
「…山?」
若者の目に、警戒の色が強まる。
「鬼が下りてくる山ってのは、どの山?」
「…さぁ。…あんたらに教える義理もないだろ」
利秋のストレートな問いに、男は顔を背けた。
「…あんたらは、どこからその話を聞いた。見に来たのか?暇人だな」
「物見遊山で来たわけじゃない…ちょっと急いでるんだ。知り合いがその山にいるかもしれないんで」
「そりゃ、もう駄目なんじゃないか?」
鼻で笑って、若者は藁を編む手を止めない。
「…駄目って、どういう事だ」
口を挟む定信を、男は嫌な笑いを浮かべて見上げる。
「言葉の通りだ。あの山はまともじゃない。馬鹿が知らずに入って消えるのさ」
「何が出るんだ」
「化け物だよ。運よく助かっても、山神様に食われちまう事もある」
山神様?と聞き慣れぬ言葉を呟く定信に対し、利秋はふーん、と興味深そうに話を聞いていた。
「…化け物ってのは、人に化ける方の事か?それとも髪の毛の白い男の事か?」
利秋の言葉に、若者の手が止まる。
「…あんたら、それをどこで見た」
男の顔色が変わった。
男は周囲を見回すと、小さな声で「入んな」と告げ、家の引き戸を開ける。
「俺以外にその話、この村の誰にもしてないだろうな」
静かに戸を閉め、男が押し殺した声で言った。
「まだも何も、俺らも着いたばっかりなんだよ」
人もいないしね、という利秋の返答に、男は少し安堵したようだった。
「この辺りは余所者にうるさいからな。余所者のあんた達がそんな事嗅ぎまわってるってばれたら、面倒な事になる」
「ふぅん…面倒臭いんだな、田舎の決まりってのは」
「…空気読んで下さい、利秋さん…」
頭を抱える定信に対し、男は意外にも苦笑している。
「はは。そう、面倒なんだよ。…何かあんたら、事情がありそうだが、俺がわかる範囲なら教えてやるよ」
ただし、話した分だけ金は貰うからな、と男は笑みを浮かべた。
男の名前は太助といった。
無精ひげを生やし、中肉中背で歳の頃は30くらいだろうか。
田畑を耕しながら山で猟師をしているらしい。通された農家の土間や壁には、いくつか動物の毛皮や山鳥の尾羽が飾られていた。
棚の上には見慣れぬ獣の頭骨が置かれていて、定信はその光景にぎょっとする。
聞けば、猪の頭だと男は言った。当たり前のように答えるが、薄暗くなり始めた家の中で多くの獣の痕跡があるこの部屋は、少し不気味に感じられる。腕が良い猟師には間違いないのだろうが。
何故利秋達がこの村へやってきたか。その経緯を語ると、太助の顔色が少し悪くなる。
「あんたらにゃ悪いが、その子の事は諦めたほうがいい」
「何故、そう言い切れる?」
定信の問いに、太助はため息をついた。
「あんたらが見た、髪の毛が白い男っていうのは、多分この山の山神様だ。恐ろしさから鬼だなんて呼ぶ奴もいるが、れっきとした土地の神様なんだよ。あんたらそれを捕まえてたって?…恐ろしい事するねぇ…」
「神様が恐ろしい…?」
定信は予想外の言葉に、疑問を頂く。
「…世の中には、元々「祟ってくれるな」と祭られている神が多い。祭られているもの全てが良いものではないんだろう」
それまで黙っていた義成が、静かに口を開いた。
「…あんた、結構詳しいな」
定信は素直に感心して言うが、義成は定信を一瞬見ただけで、何も言わずに目を逸らす。
やっぱりこいつは嫌いだ、と内心思う。
街中で育ち「祈祷で病気が治るなら医者はいらん」と言う楠の教えを受けて来た定信には、そうした山間の教えや信仰は身近なものとして感じる事はできない。
山には独特の信仰が存在する。
その地域の者しか知らない土地神であったり、言い伝えであったり、形は様々だが。
太助の言う山神というのも、そういった部類のものなのだろう。
山を守り生き物や人々を見守る神。
呪いや災いをもたらす、と祭られている神。
しかしその山の神は、里の人間に害だけをもたらしているわけではない、と太助は言う。
「あの山の神様は、俺らにとっちゃいてもらわないと困るが、反面とても怖いものでな」
太助は「年寄りから聞いた話だが」と付け加え、猟師の間に伝わる話を語る。
「…山神様は山に入った奴の体を奪うのさ。山の神様が入った体は、髪も目も色が抜けちまうからすぐわかる。その体が傷んだら、別の体に移って、元の体は捨てる」
だからその山に迷って入ったら、下手すると体を盗られちまうんだよ。太助はそう付け加えた。
「どうしてそんなものが存在するんだ?…神に肉体なんかいらんだろ?」
「どうしてと言われても、俺達はそう教えられてるからそれ以上の事は知らんよ。山神様は山にいる化け物を殺すのに、肉の体がいるんだと」
利秋の問いに、太助は顔をしかめて言う。
「山神様がいる山一帯は元々入山禁止になっている。神様がいるからだけじゃない、あの山にはおかしなものがいるからだ。その山に入ったら、死んだ奴とか、知ってる顔に会うんだ。知り合いだと思って安心したら、頭から齧られたり。…俺の知り合いもやられた。…あの神様はそれと争ってるんだ」
人に化けて、人を襲う化け物。
アレの事だ、と定信は思った。義成も眉をしかめ、黙っている。
「でもそれは、その山の話だろう?何故他所でそいつらが現れたんだ。俺らの町なんか、結構離れてるぞ」
利秋の指摘に、太助は困った様に頭をかく。これは俺の推測なんだが、と考える様にしながら口を開いた。
「あの山にはその化け物が外に出ないようにする「囲い」があったんだけど、土砂崩れで一部が壊れてね。村の年寄りが気づいて直したけど、外に出ちまった化け物もいたんじゃないか?それを山神様が追って行ったんだと思う」
太助の他人事のような言葉に、3人は沈黙する。
…あの「人に化けるもの」は、山を下り人里へ出た。それを追ってきたのがあの髪の白い男。
あのとき庭でぼろぼろになっていた男は「人の体を奪う」この山の神。
それでは。
あの男に連れ去られた、景伊は。
「じゃあ、景伊はあれに…体を取られる、っていうのか…?」
定信の声が震えた。
白い髪の男は随分ひどい怪我をしていた。
外に逃げた「化け物」と戦い、傷ついた体を変える為に、あの少年を連れ去ったのだとしたら。
「…どうだろな。でもまだ子供なんだろ?基本、山神様は若い大人の男の体を好むって聞くけど。切羽詰まった状況ならわからんけどさ」
太助は神妙な顔をする利秋達を見つめていたが、しばらくすると口元ににやり、と笑みを浮かべる。
「山まで、どうせあんたら止めても行くって言うだろうしな。道案内してやってもいい。俺も何度かあの山には入った事があるからな」
「立ち入り禁止になってるんだろ?行った事あるのかよ」
定信の問いに、男は鼻で笑う。
「獣はいないが、山菜とかはよく獲れるんだよ。この辺りは貧しいし、化け物も怖いが飢えも怖いしね」
だから皆わかっちゃいるが、山に入るのさと太助は言う。
山神に体を取られたり、化け物に襲われるというのは、地元の人間にとっては恐ろしい事だが、生活のためには命をかけてでも山に入らねばならない事もあるらしい。名目上立ち入り禁止となっているが、そうした生活の為に山へ入る事は暗黙の了解となっていた。…自己責任だが。
「ただ俺は山神様が実際どんなものか見た事ないし、夜に山に入った事もない。何が起こるかは保証しない。
それでも入るって言うなら、付き合ってやってもいいぜ。…そうだな、10両払うなら行ってもいい」
金額を聞いて、利秋が感心したように言う。
「ぼるねぇ。まぁ命かけるんだったら仕方ないけどな。どうせ俺らは土地勘ないし」
ここまで来たが、地元民の力を借りるしか、こちらとしては方法はない。
「物わかりが良くて助かるね、お侍様」
「他人にただで一緒に来いとは言えんわな。まぁ、払うのは全員山から生きて帰ってからにしてくれ」
「いいよ。交渉成立だ」
太助は意地悪く笑って見せた。