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二人の兄貴

01 三年たてば、変わるもの。

月日が経つのは早いものだ、と定信は思う。

気がつけば景伊と出会ってから3回目の春を迎えようとしていた。
あれから、自分たちの生活にはさほど変わりはない。

変わった事と言えば、「少年」としか言えなかった景伊の容姿。

もともと出会ったころから育ちざかりであったはずの景伊の背は、3年の間にかなり伸びた。
定信の胸元辺りまでしかなかった、鶏ガラのように痩せっぽちだった少年の背丈は、今では自分の肩とさほど変わらない。
大人しそうで少女と言われても頷いてしまいそうだった顔立ちも、男らしく精悍になってきている気がした。 こうして見ると、やはり義成と顔は良く似ていた。
やはり兄弟だと思う。

ものを知らずこちらをヤキモキさせていた少年は、今ではそんなそぶりも見せず、どこにでもいる若い侍として生きていた。
「暇なら、体鍛えてみたらどうだ?」という利秋の勧めもあって、剣術を習い始めた事も大きいと思う。
景伊は当初、あまり刀は好きではないようだった。
斬りつけられた恐怖心が残っていたからだろう。
しかし基礎から剣術を叩きこまれ、外の世界で揉まれるうちに次第に恐れを見せる様子もなくなっていた。
もともと筋はあったようで、今では若いなりに道場の塾頭と打ち合う事もあるという。
道場に通うようになったのは他の同じ年頃の門下生と比べれば遅いが、素質があると言われていた。
怪我の後遺症が残らなくて良かったと思う。
あんなに細くて頼りなかった少年が成長し、自分より大きな相手を竹刀で打ち負かすようになった。
その事は定信も意外に思っていた。大人しそうな容姿で、家では本を読むのが好き、という今でも物静かな性格だけに、人は見かけによらないものだなと思う。こんな才能を持っていたとは。

あの年頃の少年というのは可能性に溢れている。
少年から急激に大人の男に変わる、十代後半を駆け抜ける若者には、その時期にしかない独特の「勢い」のような力があった。
定信にそんな時期があったのはもうかなり前の事になるので、そういった景伊の姿を眩しく思えた。

定信自身の立場も少しずつ変わりつつある。
景伊と出会った頃はまだ見習いでしかなかったが、今ではしっかりと「医者」だと名乗れる。
未だに楠の元へ手伝いに行ったりはするが、自分の患者も持っていたし、定信を頼ってくる人達もいる。

利秋はと言えば、相変わらず面倒な事を頼まれたりして、文句を言いながらも走り回っていた。
世の中は開国だ攘夷と揺れていて、末端ながらも幕臣である利秋はいろいろと大変そうであった。
彼の元にもいろいろな話が来ているようだった。本人が自分たちには語らないのでわからないが。

そんな利秋でさえ時代に巻き込まれつつあるのに、景伊の兄である義成は、恐らくもっと面倒な事になっているだろうというのは、定信にとっても想像するに容易い。
自分とほとんど変わらぬ歳でありながら、由緒ある武家の当主になったあの男は今、どうしているのか。
景伊もあれから会う事はしていないようだ。
お互いに気にはかけているようだったが、直接会うにはまだ気まずい、と言ったところだろうか。
ただ義成は利秋とあれから親交を持っているようで、時折利秋を通して景伊の様子を伺う事はあったようだ。

あの屋敷で起きた凄惨な事件も、町の人々の記憶からは薄れつつある。
自分たちも、もうあの山と関わる気は全くない。
あの山から逃げ出した「アレ」が一匹だったとして、それをあの白い山神が駆逐したのだとしたら、きっとそれはもう自分たちの心配する事ではない。
景伊や義成には申し訳ないが、「運が悪かった」としか言いようがなかった。
景伊もあの事件の事はもう滅多に口にしないのだが、自分でさえこうしてたまに思い出すのだから、当事者である彼が完全に忘れてしまっている、という事はあり得ないだろう。
兄と表面上の和解をしても、景伊は時折悪夢を見ているようだった。
(…悪い夢だったんだよ、あれは)
(早く忘れてしまえよ)
そうは言っても、そう言えるのは自分が経験していない、所詮他人事だからだと思った。
景伊のトラウマは相当根が深い。


それ以外に、最近定信が頭を悩ます出来事が少しずつ増えてきていた。
今まで医者仲間達も見た事がないと口を揃える、奇妙な病を見かけるようになったのだ。


それを初めに見たのは、半年ほど前の事だった。
まだ冬の寒い頃だったと思う。
定信の元へある患者が訪れた。50代の男性だった。
その患者は「冬なのに、何かの虫に腕を刺された。腫れが引かない。どの医者に行っても、原因がわからない」と言っていた。
定信も刺し口を見たが、咬まれたと思われる傷口には小さな穴が二つ見えた。
冬に蚊も虻もいない。ムカデかと思ったが、刺し口がそれにしてははっきりとしていて、違う気がした。
噛まれた腕は赤く腫れていて、かゆみも痛みもないが、倦怠感がひどく微熱があるのだという。
そして足先を見せられて、定信は驚いた。
足の指が先からどす黒く変色し始めていたのだ。
(…壊疽?)
だが腐っているわけではなく、皮膚の色が黒く変色してるだけの様で、壊疽とは違う。
その色は少しずつ広がっているのだ、と患者は言った。
虫刺されでこうなるとは考えづらく、別の要因があるのではないかと疑った。
その時は傷への薬を出して、様子を見てもらうよう言う事しかできなかった。

しかし。
それから数日後、男は死んだらしい。
らしい、というのは、誰も男が死んだところを見ていないからだ。
起き出してこない夫を不審に思った妻が様子を見に行けば、男は布団の中で文字通り「粉になっていた」そうだ。
着物は布団に入ったときそのまま。その周辺には白い粉が散っていて、男の姿は見えなかったという。

あまりにおかしな状態で、これは男が本当に死んでこうなったのか、全くわからなかった。
消えたのか、これがあの男の成れの果てなのか。消える間際まで男は元気だったという。

それからしばらくして、他の医者も同じような症状を見た、と言う声が上がった。
やはり症状は同じで、原因不明の虫刺されに微熱・倦怠感。皮膚の末端からの黒色化。
そして最後、粉のような物を残して消える。

それは頻繁に聞かれる訳ではなく、風邪をこじらせて亡くなる人の方がよっぽど多いくらいであったが、いかんせん、症状の印象が強過ぎた。医者たちは寄生虫だ、異国から持ち込まれた新種の病気だ、と様々な意見を上げるが、そのどれもがはっきりしない。
定信も手当たりしだいに書物を読み漁ってみたが、当然そんな病気の記述はない。
あまりに信じがたい現象に、「あの山の何か」が絡んでいたら、と思ったが、まさかそんな事と思う。
もうあれは終わった事で、実際今までこの数年は何も起きなかったではないか。
こんな現象、聞いた事がない。

(どうなるんだろうね、この世の中は…)

定信は書物を本棚に戻して、ため息をついた。
お上の政治は不安定。国内の意見は真っ二つ。
その上、奇病の発生。
少しくらい明るい知らせが欲しいんだが。定信は屋敷の縁側に腰かけると、いろいろ思考をまとめようと重ね書きしていた紙を後ろへ放り投げた。
人も化け物も医学も、わからない事が多過ぎた。