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二人の兄貴

02 奇病と兄

「俺に長棟の家に行けって、どういう事ですか」
その日の昼過ぎ。定信はふらりと屋敷まで帰って来た利秋に呼ばれた。
しかし帰る早々「悪いけど、義成のところに行ってくれないか」と言う利秋の言葉に何で俺が、と反発を覚える。

長棟義成にはあまりいい印象を持っていなかった。
別に定信自身が彼と揉めたわけではないが、景伊を取り巻くものであったり、あくまで冷静で冷徹な一面を持つ、歳が近いあの男が気にくわないという、半ば自分からの言いがかりに近いものであった。
向こうも別に自分など好いてはいないだろう。
自分達が交友を持つ気がない事くらい、利秋もわかっていると思っていた。
そう言うと、利秋の眉間に皺が寄る。

「別に個人で仲良くして来いって言ってるんじゃねぇよ。医者として行って来いって話だ」
「医者として…?あいつ、どっか悪いんですか」
「んー、まぁしっかりした奴なんだけど、心労もあるんだろうよ。俺も本人から直接聞いたわけじゃないからはっきりした事はわからん。でもちょっと今、体調崩してるっぽいんだわ」
「…でも、俺が行かなくても」

あれだけ大きな家ならば、掛かり付けの医者くらいいるだろう。
自分なんて駆け出しの医者を呼ばなくても、名の知れた名医を呼ぶ事くらい容易なはずだ。

「仕方ないだろ?お前連れて来いって御指名なんだからさ。なんなら景伊も連れてけよ。最近会ってないだろあいつら」
「景伊を…ですか?」
「兄貴がそこまで具合悪いって知ったら、あいつも心配するだろ。義成も前から景伊の事気にかけてた。何があるかわからんし、景伊が嫌じゃないなら連れてってやるのもいい見舞いかもしれんよ?」

利秋はそれだけ言いに帰って来たらしい。それからまた慌ただしく出掛けて行った。
確かに、景伊は兄の義成を随分慕っている。
容赦なく自分を殺そうとした男を慕えるという心情が、定信には未だに理解できないでいる。
定信が義成を好きになれないという理由も、景伊に無条件に好かれているあの男が気に入らない、という子供じみたものがあるのかもしれない、となんとなく思っていたりもする。それは自覚していた。
…それにしても、だ。
(お前を連れて来いって御指名なんだからさ)
利秋の言葉を思い出す。
「俺じゃないといけない理由って…何だ?」
定信にはその理由がさっぱり見当たらなかった。

それからしばらくして、外から帰って来た景伊にその話をしてみれば、景伊は随分と驚いた様子だった。
寝耳に水の事だろうし、驚くのも無理はない。
「…あの人が病気って、何」
「俺も詳しい事は聞いてないんだ。今から行く。お前どうするかと思って待ってたんだが、行くか?」
景伊は少し迷っていたが、黙って頷いた。


二人で共に景伊の実家を訪れるのは初めての事だった。
定信が前に訪ねた時は景伊はいなかったし、景伊が最後に行った時は彼一人での帰宅だった。
今回は事情が事情だけに、何となく重苦しい空気のまま、二人して言葉少なく町を歩いた。
景伊を見れば少し緊張した面持ちで、あれから全く会っていない兄に会うというのは、彼の中でまだ勇気のいる事なのだろうと思った。 恐らくこんな事情がなければ、彼がまたあの家に「行く」と言う事などなかったはずだ。

「…命に関わる事だったら」
ぽつり、と呟く景伊の声は不安げだった。
「縁起でもない事言うなよ。利秋さんもそんな深刻だって事は言ってなかったし、あいつがそんな簡単にくたばるわけがないだろ」
「…そう、だけど」
景伊はどうも、悪い方へ悪い方へ考える癖がある。
それきり黙りこんでしまう景伊の背中を軽く叩いて、定信は景伊を伴って歩いた。


義成の元を訪れるのは久しぶりの事だが、三年前と何が変わった、という様子はなかった。
庭も手入れが行きとどいているし、屋敷を囲う白壁も黒い瓦の屋根もくすんではいなかった。
敷地も広く立派な屋敷であったが、足りないと言えば人の活気、だろうか。
静か過ぎる。
自分たちが普段馬鹿みたいに騒がしく生活しているせいだろうか。
…騒がしいのは大体利秋一人のせいだが。
部屋数も多く広いからか、と思ったが、そういうわけでもないようだった。
張り詰めた様な空気が漂っていて、定信には居心地が悪い。
隣の景伊を見れば、景伊も同じような顔をしていた。


使用人に先導されながら、本宅の庭に面した長い廊下を歩く。
彼の部屋の前まで来ると、この家の主が縁側に腰掛けているのが見えた。
使用人が声をかける前に義成は気が付いたらしく、こちらを見ると立ち上がる。
着流し姿ではあるが、久しぶりに会う男はそれほど顔色は悪くない様な気がした。

「…呼びつける様な真似をして申し訳ない」
義成はそう言うと、使用人を一瞥する。「ごゆっくり」と言いながら使用人は下がる。
その姿を見送ると、義成は再度二人を見た。

「…お久しぶりです」

景伊が隣で頭を下げる。その様子を、義成は少し目を細めて見ていた。
「お前も元気なようだな。…よかった」
「あんたはそうじゃないみたいだけどな。何だよ、らしくない」
定信がそう言うと、義成はわずかに苦笑する。
「少し、聞きたい事があった。俺から行くのが筋だと思ったが…すまない」
病人のようには見えないが、覇気がないのは確かだった。
景伊も違和感に気が付いているらしい。少し不安げな目で兄を見ている。

「景伊、悪いが少し席を外してくれないか。この医者と話したい事がある」
「…わかりました」
「すまないな。また、後で話そう」
義成がそう告げると、景伊は素直に頷いた。
そしてそのまま、歩いて来た廊下を戻る。途中、使用人に声を掛けられて、部屋の奥へと案内されていった。

「いいのかよ」

定信は少し不満げに義成の顔を見る。
「せっかく来たのに、あいつ」
「連れて来てくれた事は感謝してる。…久しぶりに顔を見れた。元気でやっているなら、それでいい」
「俺が連れて来たんじゃねぇよ。あいつが自分で来るって言ったんだ。あんたの事、心配して」
「…それなら、余計に心配かけられない」
「あんた、本当にどっか悪いのか?」
義成の言葉に、定信も不安になった。


義成は定信を自室に招き入れた。
そしてその場で、左腕の袖をめくり上げる。

「呼んだのは、これを見てもらいたかったからだ」

二の腕の辺りに、腫れと共に何か小さな虫刺されのようなものがある。
刺し口は、二つ。

「…これ」

定信は血の気の引く思いだった。
忘れもしない。あの「粉になって消えた」男と、同じような傷。
「やはり、見た事があるんだな」
動揺を隠せない定信に対し、義成はひどく冷静だった。
「どうしたんだ、これ」
「…三日程前からある。刺された覚えはないな。だるいし、左足の爪先から皮膚が黒ずんできた。少しずつ広がってる」
症状も間違いないと思った。
「知り合いの医者にも見てもらったが、原因はわからないと言われた。ただ、何人か似たような症状を見た医者がいると言われて、それがお前だと聞いた。だから確かめてほしかったんだが」
義成はめくっていた袖を戻す。自らの身に起きた未知の事なのに、本人は淡々とした表情で定信を見る。

「俺は死ぬのか」

定信は、なんと答えていいのかわからなかった。
ただ自分が今まで見聞きした例では、この症状の患者は全て死亡している。

「…まだ、例が少なくてわからねぇ」
できるだけ冷静にそう言うが、義成は定信のわずかな沈黙を「手の施しようのないもの」として取ったようだった。
「なら仕方ないな」
そう息を吐いて床へ座る義成を、定信は驚き半分、怒り半分で見た。
「あんた、何も思わないのか?いきなり、そんなわけのわからん症状で死ぬかもしれないんだぞ?」
「……この三年、俺は自分が死んだ方がいいと思っていたよ」

表情も変えず語る義成の言葉に、定信は息を飲んだ。

「俺は、何をしているんだろうな。景伊にあんな事をしておいて、何の罰も受けずにのうのうと生きて。なのに景伊は、俺を『恨んでいない』なんて言うんだ。馬鹿な奴だよ。俺を恨んで俺を殺すというのなら、それで俺は良かったのに」

義成は自嘲的な笑みを浮かべる。

「俺もあのとき、一緒に死ぬべきだった。あのとき家族と一緒に食い殺されておけば、景伊に手をかける事もなかった。あんな事せずに済んだ。ここで俺が、こんなもので死ぬのも因果だろう」
「……」

淡々と語る、血を吐くような苦しみの言葉を、定信は呆然と聞いていた。
自分はこの男は、実の弟を斬り殺しかけながら、「仕方のなかった事」として終えているのだと思っていた。
血も涙もないようなやつだと思っていた。

だが実際は、誰にも言えない苦しみにこの三年、耐えていたというのか。
たった一人で。

「あんたが、もし」
定信は眉を寄せる。

「あんたがもし死んじまったらさ。景伊、泣くぞ」

今は別室にいる青年を思いながら、定信は言った。
「あいつさ、馬鹿なんだよ。頭はいいけど馬鹿なんだ。俺だってこいつ頭おかしいと思ったさ。何で。お前に殺されかけたのに、って。痛くて長い間苦しんだの、俺は見てるからさ」
当時の事を思い出す。
暴れる体を押さえつけて、傷口を縫い合わせたときの事は忘れられない。
「でもさ、あいつあんたの事、未だに慕ってるんだぜ。神様みたいに思ってるんだ。初めていろんな世界を見せてくれた、いろいろ教えてくれた優しい完璧な兄貴だって。馬鹿みたいだけど、本当に今でもそう思ってるんだ。ほんとに、馬鹿だよ」

だから、手に取る様にわかるのだ。
悔しいけれど。この男がいなくなれば、どれだけ彼が嘆き、悲しむか。

「あいつに悪いと思ってるなら、あいつに絶対そんな事言わないでくれ。景伊の方が逆に責任感じちまうから」
「…お前の方が景伊の事をわかってるな。本当の兄弟のように見える」
「家族だとは、思ってるよ」
定信の言葉に、義成がわずかに微笑んだ。

「……景伊を助けてくれたのが、お前で良かった」

そう告げる義成を、定信は痛ましく見つめる。だからといって、自分はどうしたらいいのかわからない。
このままであれば、この男は間違いなく死ぬ。
その事実は変わらない。

「とにかく、俺もあんたを助ける方法探すよ。できる限りの事はすると約束する。だから、あんたも早まるな」
「そのつもりはないが。…時間はどれくらいある?」
「ばらつきがあって正直わかんねぇ。事例も少ないんだ」
「なら、都合のいい観察対象にしてくれて構わない。お前達医者にとって、症例は大事だろう」
「そうだけどさ…」

知人が治療法のない、新しい病に感染していて、それを助ける方法も見つからないまま接し、ただ相手が弱って行くのを見ているしかない状況。それは定信にとっても辛い。

「有難い話なんだけど、俺が頻繁にお前んとこ出入りしてたら、さすがに景伊も疑うぞ」
「できれば黙っていてほしいが、感の鋭い奴だから気が付くだろうな。仕方ないさ」
「…あんたさ。こんな事言いたかねぇけど、もしあんたに何かあったら、景伊にこの家の事まかすとか、言いださねぇよな?」

定信の言葉に、義成が心底意外そうな顔をしてこちらを見る。

「そのつもりはない。あいつに面倒な事を押しつけてどうする。家は潰れるなりなんなりすればいい。あとの事は知るか」
「あんたがそんな奴で良かったよ…」
「俺は自由に生きろと言った。あれがこんな家に囚われる事はないさ」

こんな家、とは随分な言い草だな、と定信は苦笑いした。
しかし逆に考えれば、この男も長男として生まれた時から決まっていた「後継ぎ」という決まりを面倒に思っていたのかもしれない。
問題なくそれをこなしているようにも見えるが、本人もそれなりに自由、というものに憧れていたのかもしれなかった。

「あんたの事は景伊には黙っておく。でもあいつが気付いたら、あんたの口からちゃんと話しろよ」
「わかってる」
定信と義成は、顔を見合わせて頷いた。

あまり自分達は互いに良い感情を持っていなかったはずだ。
この目の前の男も、自分なんかに助けてもらいたいとも思っていないだろう。それは今も変わらないと思うし、普段生活する上で出会っていれば、きっと好んで付き合いたいと思う男でもなかった。
これは一種の同盟のようなものだ。

自分達は立場は違えど、景伊を大事だと思っている。

それだけは確かだった。


新米の無名の医者に何ができるのか。
定信は義成の部屋を出て、長い廊下を歩きながら考える。
若造の自分にこの男を助ける事ができるのか。出来る限りの事はする、と行った手前、定信の重圧も並大抵のものではなかった。
しかしこの男が今死ねば景伊は嘆くだろう。
後悔するだろうし、きっと自分を責める。

3年前の事は事故だ。
あんな事、誰にも予測できなかった。仕方のない事だったのだ。
あの人に化ける者が何故、景伊を「気に入ってしまった」のかは知らない。
景伊はただこの家にいて、普通に暮らしていただけなのだから。

一体何がきっかけで、何が始まりで、何が彼らを壊したのか。

そんなのはもう、誰にもわからない。
誰も責めるべきではない事は、お互いにわかっていないわけではなかろうに。


「景伊、話終わったぞ」
客間を覗けば、景伊が一人、部屋の中でぽつんと座っていた。
茶は出されていたようだが、手をつけた様子もない。
実家なのに客人扱いかよ、と定信は思った。
「…あの人は」
景伊が不安げな顔で、定信を見た。真剣な顔でこちらの顔を見上げてくるので、彼に嘘をついて本当にいいのか、定信の心に迷いが生まれる。
「……風邪だよ、ただの。長引くようならまた薬持って来てやるから」
「本当に風邪なのか?」
「本当。俺はこの後寄るとこあるから、先に帰るぞ。お前はあいつと少し話して帰れ。せっかく来たんだからさ」
景伊はまだ晴れない顔をしている。
頼む、納得してくれよ、と定信は思った。自分が嘘が下手だというのもあるが、こういうときだけ、妙に感が鋭い。
「……わかった。そうする」
少しの間の後、景伊はそう言うと立ち上がり、定信の横まで歩いて来た。
「遅くはならないと思うから」
「あぁ。もしかしたら俺は帰るの遅くなるかもだから、そんときは利秋さんに言っといてな」
それだけ伝えて、定信は足早に屋敷を出た。

とにかく、自分はあの症状の正体を確かめる必要がある。