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二人の兄貴

03 医者として

景伊を残し長棟家の屋敷を出た定信は、その足で長屋街に向かう。
目的は、以前義成と同じ症状を発症し、白い粉を残して消えた患者の話を聞く為だった。

今のところ、この辺りでその症状を発症した人間は、定信が知っているだけで二名。
定信も看た、50代の男性。
もう一人は7歳の少女だった。
その少女は楠の住む長屋の連なる一角に住んでおり、定信も面識があった。
だが定信がその事を知ったのは、少女が「消えた」後の事。
楠もずっと治療にあたっていたらしいが、突然の見知らぬ症状のわけがわからないままだった、と言っていたのを覚えている。

自分もあの男性の治療にあたったとき、ただの虫刺されだと思っていた。
気になったのは皮膚の一部が黒ずんでいた事。
それが虫刺されと関連性があるとは、そのとき思わなかった。
(わけわかんねぇ…)
定信は頭を抱えたい気持ちで雑踏の中を歩く。
医者で「先生」と頼られる立場でありながら、「わからない」と答えるのは苦しい事だ。
怪我であれ病気であれ、どうにかするのが「医者」の仕事。
それができないのであれば、自分たちは意味がない。

しかし、医者にだってどうにもできない事。
それがあるという事も、悔しいながら理解している。
脳や体の奥深くの病を自分はどうする事もできないし、血を失い過ぎた人を助ける事はできない。

そして、自分が学んだ「医学」とは全く異なる、踏み込んではならぬ領域の事。


定信は、幽霊だの妖怪だの、その手のものは信じていないつもりだった。
しかし三年前に遭遇したものは、そんな自分の考えを豪快にへし折ってくれた。

そう言う者の存在を知ると、人はつい「それ」のせいにしたくなる。
定信だって同じだった。
祟りだとか呪いだとか。
そんな言葉で片付けてしまえば、こう深く考える事もしなくていいのかもしれない。それで全て片付いてしまう。
だが定信は認めたくなかった。
「祟り」や「呪い」「物の怪」が人を殺すと認めれば、医者という存在は歩みを止めてしまうと思った。
自分たちは諦めてはいけない。「どうにもならないものだから」と言った瞬間、医者としての自分は終わる。 ここ数年、外国から新たな医学知識が伝わり、この国の医学も、時代の流れと共に急速に発展している。
新たな手術方法や治療の道筋も増えてきた。
今だって進歩は続いている。医学の道は頭打ちではない。
今までわからなかった事が数日後、一日後にはわかるようになるかもしれないのだ。
治す方法を探す事を、諦めてはいけないと思った。


「あぁ…あのときの事ねぇ」
楠の元を訪ねれば、楠は煙草をふかしながら、乱雑な部屋の中から一冊の冊子を取り出し、定信に渡した。
「これは…?」
「診療記録。どういう症状だったかとか、患者の年齢とかをまとめた、俺の日記みたいなもんさね」
定信はぱらぱらと数週間前の記録をさかのぼる。
7歳少女、という記録を見つけて、それを読む。
首筋に虫刺され。 
右足に黒い色素沈着あり。少々歩きづらそうな様子。
微熱はあるが、元気。
「……」
定信は読みながら、眉を寄せる。
自分が看た男性の症状と変わらない。

「お前も看たんだろ?だったら聞く事もないと思うが」
「…この子の最後の様子を、詳しく聞きたいんです」
「最後、ね。俺もその瞬間を見たわけじゃないからなぁ。死んだというか…失踪なのか」

楠も両腕を組んで、当時の事を思い出すように語った。
「親がちょっと目を離したスキだった、って言ってたかな。微熱はあったが、それまでは元気で庭で遊んでたそうだ。で、気がついてみたら着物が一式その場に落ちてて、小麦みたいな白い粉が辺りに落ちてた。昼間の事だから、素っ裸でいりゃ目立つだろうし、親に黙ってどっか行くような子でもなかったんだよ。それを死んだと取るか、どこかで生きている、と取るか。定信、お前はどう思う?」
「…その粉、が何なのか。先生はどう思ってるんですか?」
質問に答えず、定信は師に問う。
楠は特に気を悪くした様子もなく、定信の顔を見る。

「俺はそれに触ったんだが、何だろうなぁ、あれは。小麦のように白くはあったが、粒の大きさは不揃いで、触り心地はもっとざらざらしていたような。長い事生きてるけど、正直な話わからん。舐めてみようとも思わんかったし」

着物のわきに散っていたとされる粉。
定信もその粉を見てみたいと思うが、庭での出来事だった為、それはもう風に飛ばされ、残っていないのだという。

「いなくなった、って言われて。誰もそのときは「死んだんじゃないか」なんて思ってもなかった。でも探しても探してもいない。で、着物の側にはそんな物が落ちてる。ああいう奇妙な症状だったし、だから「粉になって砕けて死んだんじゃないか」って騒ぐ奴が現れたってわけで」
「先生は…死んでないと…?」
「仮に砕けて死んだにしろ、人間一人分には到底足らない量だ。そんな胡散臭い話があってたまるか。お前はそう思うのか?」
「…いえ」
呆れるように言われ言葉に詰まるが、楠の反応が正しいと定信は思う。
女の子は失踪したか連れ去られた、と考える方が正しいのかもしれない。この場合。

しかし、自分が見た患者も、同様の消え方をした。
相手は子供ではない。50代の男性だ。
着物は布団に入ったまま、「中身」だけがない状態で消えていた。その、例の白い粉を残して。
少女のように「神隠し」だとは言うのだろうか?
この男性については遺族が葬式を上げたらしいが、少女についてはまだ家族が「死亡」を認めておらず、探し続けているという。

「どうしたんだいきなり。また似たような相談受けたのか?」
考え込む定信の顔を見て、楠が声をかける。
「…まぁ、そんなところです。原因について、先生の意見を聞きたくて」
「なら悪いが、俺もこの件についてはお手上げなんだ。聞いた事も見た事もないね」
そうだろうと思う。
確かに自分たちは全く見た事がない。
「せめて何の虫に刺されたのかがわかれば、対抗策もわかるんでしょうが」
「虫ねぇ…」
楠も腕を組んで考え込む。

人に悪さをする虫、というのはいくつかいる。
毒を持つ虫。これは運が悪ければ、刺されると死ぬ。
寄生虫。人と共存するものも多いが、これも物によっては死に至る。

新しい、まだ発見されていない虫か。
そもそも、もしかすると虫ですらないのか。
義成も「何に刺されたのか記憶はない」と言っていたし、自分の看た患者も知らない、と言っていた。

「あの子は何に刺されたとか、言ってなかったんですか?妙な虫を見たとか」
「……言ってなかったねぇ。ただ子供だから、どこで何触ってるかはわからんけどな」
手がかりが全くない。
どうすればいいんだ、と定信は思う。
あの男を助けるには、時間は恐らくあまりないのだ。
焦ってはならない。だが誤りは許されない。
どうすれば、と思った時だった。

何か外がざわざわと騒がしい。

二人が何事か、と思ったときだった。
長屋の戸が、勢いよく開く。
「…先生!」
現れたのは、先日「消えた」少女の母親だった。血相を変えて、飛び込んで来た。
「うちの子が…うちの子が、帰ってきました!」
帰って来た。
その言葉に、楠も定信も、一瞬何を言われているのかわからなかった。

慌てて外に出れば、着物を着た少女がちょこんと立っていた。

近所の人々もその様子に気付き、「無事だったのか」とか「どこに行っていたのか」と口々に声をかける。
小柄な少女は、汚れた様子もない。
泣きもせず、騒ぐ大人達の方を不思議に思っているような、そんな目で周りを見ていた。

「…どこに行っていたのかは覚えてないの」

少女はとても、落ち着いている様子だった。
当日残した着物とは別の着物を着て、微笑みながら立っている。
母親が少女を抱きしめ、周囲の人々も驚きながら、本当によかったと言いながら笑みをこぼしている。

だが、その中で一人。
定信だけが、釈然としない思いを抱えている気がした。

(……これは、本当にあの子なのか)

3年前の、人そっくりに化ける「アレ」の事を思い出す。
自分の中ですっかりトラウマと化したあの事件。
少女が、にこにこと笑みを浮かべながら定信を見た。
何も言わず、笑みを浮かべる視線と目が合う。

アレかどうかなんて、定信にはわからない。
この雰囲気の中、そんな疑いを持つ自分が嫌なような。自分も良かった、と思うべきなのか。
少女は元気で、変わりない様子だ。怪我している様子もない。
この状況ならば、誰かに連れ去られていたと考えるのが妥当なのだろうか。
少女の帰宅に喜ぶ周囲の中で、自分のこんな迷いのある意見を言う事はできない。

(…でも、不自然だろう?)

本当に無事ならばいい。
自分の身内だとすれば、この少女の身に何が起こっていようと、帰ってきてくれたならそれでいいだろう。
本物であるならば。

嫌な胸騒ぎがした。何かが腑に落ちない。

「先生、ありがとうございました。俺帰ります」
「随分急だな」
「すみません、また!」
そう言うと、定信は走って長屋街を出る。
自分の背に、あの少女の視線が張り付いているような気がした。


向かったのは自分が看た男性の家だ。
粉になって消えた後、帰ってこない男を「奇病で死んだ」として、葬式まで上げた家。
外はもう少し暗くなり始めていたが、その家の近くまで着くと、なにか周囲が騒々しいのに気が付いた。
「…まさか」
定信は驚きなのか何なのか、わけのわからなくなっている自分を叱咤しながら、その家の前まで歩く。

帰って来た。
死んだと思った男が、帰って来たんだ。

周囲には人だかりができていて、集まった人々は口々にそう言っている。
定信が聞くまでもなかった。
その中心には、定信が看た中年の男が立っている。
その男は定信に気がつくと、笑顔でこちらを向いた。

「あぁ、先生まで。この度は御迷惑をおかけしました」

そう言いながら、中年の男は定信に頭を下げる。
「……どこへ、行ってたんですか」
声が震えた。
どうしていいのかわからない。
「それが、覚えてないんですよねぇ。帰ってみたら葬式出されてたって聞いて、驚きですよ」
「……」
定信が何か言う前に、周囲の人々が次々に男に話しかけ定信は話しかける機会を失う。

帰って来た男は以前の通り、人の良さそうな男のままだった。
消えていた間の事は全く覚えていないようだが、仕草や口調が変わった様子もない。

本人か?
死んだわけではないのか?

理解ができない。
定信は人の輪を離れた。

自分が治療した事は覚えていた。
だが、失踪していた間の事は覚えていない。
衣服を残し、謎の粉を残し、とても不自然な状況だと言うのに。

こうしてみると自分ひとりだけがおかしいような気もしてきて、ざわざわとした気持ちが奥底から浮かんでくる。
人々の帰還を、素直に喜べない自分が「異質」のように感じた。
背にじっとりと、嫌な汗をかいている。

「何か」に刺された人は。
微熱を出し、倦怠感に襲われる。
その後皮膚の末端の色が黒くなりはじめ。
粉のようなものを残し、ある日姿を消す。自分たちはそこで「死んだ」と思っていた。
だが、時間が経つと、その消えた人々は何事もなかったかのように「帰ってくる」
姿を消していた間の事は覚えていない。
「…記憶障害?」
帰ってきたのが本人であるとすれば、何らかの理由でその間の事は記憶にない、という事になる。
「あいつも、そうなるのか…?」
いずれ姿を消した後、何事もなかったかのように帰ってくる、と言うのか。

定信はあの兄弟の事を思い浮かべた。

あれからもう時間は経ったし、景伊もさすがにあの家から帰っただろう。
兄とはうまく話せただろうか。少々緊張していたようだったので、気がかりだった。
しかしあの少年もあれから成長して、なりも中身も変わった。
自分が昔のように、あれこれ心配する必要もなくなった。もう何から何まで手を引いてやる必要はないのだ。
景伊も景伊なりに自分の言葉で兄と付き合えると思う。
あの二人の間にある問題に、定信は口を挟めない。

日が落ちて人も少なくなってきた通りを抜けながら、定信は今までの事を一つずつ思い出しながら、頭の中で整理していく。

(もし、あの山のアレが絡んでいる事だとすれば)

そうであってほしくはないが、確かめたいと定信は思う。
自分が感じる違和感が間違いであればいい。
むしろ間違いの方がいいのだが。

(あの山の村の人なら、何か変わりがないか知ってるかもしれない)

3年前に自分たちを道案内した猟師は太助と言ったか。
あれから付き合いがあるわけではないが、山と関わりの深い彼ならば、もし異変があったとしても気が付いているのではないか。
関わりたくはないが、変わりがない事を確かめたい。
どうにもあの事件の事が頭をちらつくのだ。

彼と話をしたい。

明日、朝のうちに義成の様子を見に行って。それから少々遠方ではあるが、あの火縄銃を持つ猟師を訪ねよう。
手紙と言う手段もあるが、時間が惜しい。
しかし金で動くあの男が、簡単に自分と話をしてくれるだろうか。
利秋とは気が合っていたようだし、彼に一度相談をするべきだろうか。

そんな事を考えながら、利秋の屋敷の前まで帰って来た時。

景伊が薄暗い中、屋敷の前に立っているのが見えた。
こちらをじっと見据えて、定信の帰りを待っていたような。

「…帰ってたのか、お前」

声をかければ、景伊は無言でこちらに歩み寄ってきた。
険しい顔をしている。
景伊は定信の正面へ立つと、睨みあげる様な視線で言った。

「…嘘をつくなよ、定信」

何が、とは言わなかった。すぐにこの青年の言いたい事はわかった。

(我ながら、下手な嘘だったとは思うが)
定信は青年の突き刺さるような視線を受けながら、どう答えていいのか考えていた。
本当に今日は考えなくてはならない事が多い。

…感づかなくたっていい事だって、世の中にはあるのだと、言ってやりたい気持ちを抑えながら。