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二人の兄貴

10  帰宅

今、目の前では鮮やかな茶色の毛並みを持った犬が、ふんふんと鼻を鳴らしている。
これは普通の犬だ、と思う。
先ほどまでこの犬に宿っていた不気味な気配も目の色も、今は感じられない。
消えたのか、去ったのか。
定信は暗い周囲をゆっくりと見回したが、木々のざわめく音が聞こえるだけで、自分達以外の気配と言えば、目の前の犬が泥まみれになった定信の匂いを嗅ぐ鼻息の音くらいだろうか。
アレが追ってくる様子はない。
諦めたのかとも思ったが、自分達に判断はできないし、確かめようとも思わなかった。


毒を、景伊に持たせたのだと言った。
山神がアレを狩るときに用いるものと、同じ毒を。

自分はあれからずっと景伊と共にいたが、この三年、特に変わった様子は感じられなかった。
変わったとすれば、あの頃よりも少々少年が育ったくらいだ。しかしそれはあの年頃の少年には当たり前の事で、特別心配する事なんて何もない。
あの山神が言ったこと。恐らく本人も、そんな事に気付いていないのではないだろうか。
(頭の痛い事増やしやがって……)
定信は頭を掻きむしる。
アレも、あの山神も、ろくなものではない。

アレが景伊に化けたのは、たまたまだ。どういうわけか「気に入っていた」のは事実だとしても。
山神が景伊に「毒」を仕掛けたのも、アレをおびき寄せるべく餌として連れて来た時に、思いついたから試したとでも言うのか。
補食の対象が、天敵を殺す毒を持てばどうなるのか。

もし、それが本当だとして。
毒など体内に持っていたら、本人への影響はないのだろうか。
人の身でそんなものを持って大丈夫なのか。周囲への影響はないのだろうか。
本当に、その毒は体内に潜むアレを殺すような「薬」となるのか。
人を救うものになるのだろうか?

「……先生、帰るんだろ」

苛々の混じった思考を重ねていると、太助から声をかけられた。
自分達はまだ、山に囲まれた街道にいる。
ようやく足の震えも消え、立ち上がれたところだった。

「……帰るよ。とりあえず、あいつらには伝えなきゃならんし。迷惑かけたな、太助さん」
そう言えば、太助も鼻で笑った。
何となく、軽口が戻ってきたようだった。
そんな太助を見て、定信にも少し笑顔が戻る。
「あんな目に会わせやがって高ぇぞ、と言いたいところだが。……アンタは、例のアレに歯向かうのか?」
「……どうだか」
定信は自分がどうするべきなのか、未だにわかりかねていた。
もはやこんな事、医者の自分が個人でどうこうできる範囲ではない。
「歯向かうとか、そんなかっけぇもんじゃないよ。とにかく今は、知り合い助けたいだけだし」
「でもあんたの町、アレが広がってんだろ?あんたは見過ごすのか?知ってて」
「わかんねぇよ……」
定信は深いため息を吐いた。
自分達の町で見られ始めた、奇病の正体を知った。
しかしそれは、受け入れがたいものだった。
まだごく珍しい病ではあるものの、患者はこれから少しずつ増えていくだろう。
気付かない間に人が死んでいる。アレが人のふりをして過ごし、新たな得物を探している。

そんなもの、自分が証明できるのか。知ったからと言って、どう対応したらいいのか。

医者なら事実を公表して、アレに対抗するべきなのか。
しかしそんな事をすれば、人々は混乱するのではないだろうか。
無名の医師の言葉なんて信じないだろう。

こんな事知らなければ良かったし、関わらなければよかったのか。
「正しい」と思える行動が、見つからないでいる。

(……結局俺はただ、自分の周りの人間の事しか考えられねぇ)

こんな事を言えば医者失格になるのかもしれない。だから口には出したくない。
自分にとって大切なのは大勢の人々、ではない。
自分が家族の様に接する人間。それが、悲しむのを見たくないだけ。
その為に今動いてるに過ぎない。
(俺はやっぱり、医者なんて向いてないのかもしれないな)
理想はあった。
町の人達を助けられたらいいな、とか。
昔の親父のようになりたい、とか。
でもこうして追いつめられてみれば、そんな個人の欲の方が見えてくる。
自分は医者だが、神でも仏でもない。人間ができているなんて最初から思っていない。
自分勝手で気が短い、嫉妬深い男だ。
欲望の為に動いたに過ぎない。
これからどうするかなんて、頭が真っ白で考えられなかった。

黙りこむ定信を見て、太助はため息をつくと、近寄って猟銃の柄で定信の頭をごつんとやった。
いきなり殴られて驚いたし、何より結構痛かった。
「……何」
非難の色を込めて太助を見ると、太助が雑木林の中に続く街道の先を指で指す。
「帰るんだろうが。ならさっさと行こうぜ」
「え」
「先生危なっかしいから、あんたらの町まで送ったるよ。つーか丸腰で来るとかアホだろ、このご時世に」
「いや俺が武器持ってても……って言うか俺、今ほんと金ないんだけど。後でたかられてもほんと困るんだけど」
「金はいいから飯おごれ。飯食い逃したし、腹減って死にそうなんだが。俺、あんたと夕方にここで会った時、飯食いに行くつもりだったんだよね」
太助の言葉に、定信は思い出した。
ここに到着してすっかり廃墟と化した村に驚いていたら、この男に背中に猟銃突き付けられたのだった。
恐らく山を下りて来ていたのは、近場の村にでも行くつもりだったのだろう。
そこで不審な男を見つけた、というわけか。
「……そりゃ、悪いことしたよ…」
しかしあんな目にあってよく空腹を感じられるものだ、と定信は呆れるより感心した。
やはり普段から山で命のやり取りをしているだけあって、打たれ強いのか。
「…地元帰ってからでいいなら、いくらでも。でも、いいのか?」
「俺も行くとこなくなっちまったからさ。急ぎの用もないし。ここにはもう戻らねぇよ、さすがに気味悪い」
またどっか田舎の山で生きていくさ、と太助は軽く流した。

元々ここは豊かな土地ではなかったようだし、気味の悪い話もあった。
山神に言われてもなおこの土地に残っていたのは、あてがないというのもあったのだろうが、彼なりの愛着があったからだとは思う。
そう考えると、この男の事を少し不憫に思った。
しかし腕の良いこの男なら、どの土地に行ってもやっていけるだろう。
少々頑固で取っつき難いところのある男だが、利秋と気が合うのがわかる気がした。
意地の悪い面もあるが、基本的に人は良いのだ。



深夜から降り始めた霧雨が、やがて大粒の雨となった。
それに濡れながらも自分達の町へ戻ってきたのは、昼前になってからだった。
さすがに飲まず食わずで、眠りもせずに長距離を移動するのはきつかったが、何より置いて来た、あの兄弟の事が気になって仕方なかった。
自分達が見た、ウサギの行く末。
嫌な考えは何度も頭をよぎったが、できるだけ考えない様にしていた。

自分達の姿の汚さはわかっていたが、どうにも彼らが心配で、定信は先に景伊達がいるはずの屋敷を訪ねる。
対応に出てきた使用人の女性は、定信の姿を見ると眉をしかめた。
「……主は今、体調を崩しておりますので」
あからさまに怪しまれ、拒まれている。話だけでも先に聞こうかと思ったのだが、この様子では無理そうだった。
まぁこんな姿じゃ仕方ねぇかと出直そうとしたとき、待って下さい、という聞き覚えのある若い男の声が中からした。

「定信!」

ばしゃばしゃと濡れた地面を駆ける音と共に、景伊が中から飛び出してきた。
「…お前」
焦ったような声に驚いたが、本人が元気そうなのには安堵する。
会うのは丸一日ぶりなのだが、もう何日も会っていないような気がした。
「こんな格好で悪いな。一度帰ろうかと思ったんだが……」
泥だらけ、びしょ濡れの姿で他人の家に上がるのは、さすがに気が引けた。
だが景伊はそんな事に構わず、定信の腕を引っ張る。

「そんなのいい、それは俺が謝るから。無事で良かったけど……早く兄上を診て」

見上げてくる目には、疲れと焦りが見えた。
元々口下手な景伊だが、今は複数伝えたいことがあるようで、何から言ったらいいのか本人も整理ができていない様子だった。
先ほどの女性も「主は体調が優れない」と言っていた。
追い払う建前ではなかったのか。なにか異変があったのか、と景伊に視線を落として、定信は気付く。

景伊の細い首に巻かれた、痛々しい包帯。

「お前首、どうした」
手首を掴んで詰め寄ると、景伊が気まずそうに目を逸らす。
「これは……」
それだけ呟いて、答えようとしない景伊に苛立ちを感じながらも問い詰めようとしたとき、後ろでぶぇくしょい、とくしゃみが聞こえた。

「いいからさ、とりあえず屋根のあるところで話しようぜ。寒い」

後ろで同じくびしょ濡れの太助が鼻水をすすっている。
連れている犬も濡れてふさふさの毛がぺたんとしており、一回り小さくなっていた。
「………太助さん?」
景伊がこの人は誰だ、と言わんばかりに太助を見ていたが、どうやら記憶に引っ掛かったらしい。
当時のバタバタとした状況で、よくこの猟師を覚えていたと思う。
「……どうも」
太助も軽く手を上げて答える。
そう言えばこの二人は、ほとんど面識がないはずだ。
「とりあえず二人とも、中に入って下さい。兄も待ってますから」
「起きてんの?あいつ」
「寝てて下さいって言っても、あまり休んでくれない」
「そーゆー所はよく似てるよお前ら……」
そう言えば、景伊がむっとした顔で定信を見る。
「あー…悪かった。俺が悪かったよ」
「……いいから上がって下さい」
そう言って先を行く景伊の後に続こうとすると、太助が定信の後ろに歩み寄ってきた。

「あんた、あのガキどうするんだ」
「……どうするも、こうするも」

定信は前方を歩く景伊の背中を見る。
問題は、山神に言われた事。
景伊の様子は変わりない。
何が変わったのか。何を与えられたのか。
それがわからない。

「しっかし、でけぇ家だな。こんな武家屋敷の中に俺が入る事なんて、一生ないと思ってたが」
太助が門から家を見上げて、はぁ、と感心したように呟いた。
まぁそれは確かに、と定信も思う。
今は何だかんだで、あの景伊の兄の事も呼び捨てで、お前呼ばわりしているわけだが。
本来であれば町医者の自分がそんな事できるわけがなく、「無礼」と言われても仕方がないはずなのだ。
身分だとか、あの男はあまりそういう所を気にしない。
「あのガキ、いいところの子供だったんだな。そりゃ、あれだけの金をぽんと出せるよな」
「……いや、あいつは」
あいつはあまり関係ない、と言いかけたが、定信は口を噤んだ。
さらりと話すには、なかなか面倒な事情がある。
「……たかるなよ?」
「たからねぇよ。金出してくれた方の旦那が主だろ?あいつ、おっかねぇもん」
「あんたでも人間怖いと思う事があるんだな」
化け物関連はともかくとして、クマもイノシシも恐れない様な男だから、そういった感想を聞くのは意外な事だった。
「何か下手な事言うとばっさり斬られそうな男だったろ」
「……まぁ」
以前はそんな空気も漂っていたがね、と思いながら、定信は敷居を跨いだ。