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二人の兄貴

11 苛立ちと過去

「いいから、これで体拭いて。着るもの借りてくるから」
景伊は家に入ると、ありったけの手拭を定信に押し付け、ばたばたと屋敷の奥へ走って行ってしまった。
「あ、おいお前…!」
言いかけて、定信はため息をついた。
忙しない奴だと思う。
強引にこの家に居る様に言ったのは自分だった。
何かあったとき後悔しない様に、会って兄に言いたい事は言っておけと。そう伝えた時、景伊は乗り気ではないような顔をしていた。
……言いたい事。文句も、特にない。
そう言っていた彼が、今こうして特に沈んだ様子もなく、変わりない様子でいる事は素直によかったと思う。 だが状況は想像していた事よりも、嫌な方向へ進んでいた。
それを言わなくてはいけないのが、気が重くてならない。

お前、大丈夫なのかよ。
その首、どうしたんだ。
あいつはどうなんだ。

聞きたい事も山ほどあった。
これらの思いは自分の中に蓄積されていて、早く言葉として出たがっている。
でも自分達が見た物を説明する事。彼らの身に起きている現実を知る事。
どちらもしたくない、逃げ出したい。
そんなふうにちらりとでも思う事自体、情けないと思うと同時に、自分が嫌になる。
髪や着物から滴り落ちた水滴が、玄関の土間に水たまりを作る。
ぼんやりとした思考のまま突っ立っていると、景伊の軽い足音とは違う、別の足音がこちらに歩いてくるのがわかった。

「また、随分とひどい格好だな。この雨の中帰ったのか」
「……あんた」

足音は、この家の主のものだった。
定信が驚いていると義成は特に愛想笑いもなく、持っていた着物を押しつける。
「着替えてくれ。風邪引かれても困る」
「……なんだ。あんた、元気そうじゃねぇか」
「生憎、まだ生きてるよ」
「それだけの口がたたけるようなら大丈夫だろ。何か変わった事あったか?」
定信がそう問うと、義成は眉間に皺を寄せて視線を落とす。
「…それは今から話す。お前の方も何か掴んだんだろう?そちらの方を連れているという事は」
義成が「お久しぶりです」と太助に頭を下げた。太助も先ほど「おっかない」と告げていた相手を前に、「あ…どうも」と煮え切らない返事をしている。
「貴方も着替えて上がって下さい。お疲れでしょうから……」
「ちょ…犬、待っ…!」
義成がそう言いかけた瞬間、景伊の焦ったような声とバタバタと走り回る音が奥から聞こえた。

何事かと声がした方を見れば、廊下を見慣れた犬が駆け抜けていく。
景伊がそれを捕まえようとしているらしいが、犬にひらりとかわされ、追っているのか追い掛けられているのかよくわからない状況になっていた。
廊下にはくっきりと、犬の肉球の跡が点々と続いていた。壁にも少々、水気と泥が飛び散っている。
いつの間に上がり込んだのだろうか。そう言えば、太助の側にいたはずのあの犬がいない。
全く気が付かなかった自分達は、多分相当疲れ切ってしまっているんだろうなと思った。

いつもこの家の廊下は綺麗だった。
無駄に広い家だから、掃除も大変だろう。
庭も自分達がいる利秋の屋敷とは比べ物にならないくらい、手が入っている。
まぁ、目の前のこの無愛想な主が掃除するわけではなく、きちんとそれを生業にしている人はいるのだろうが。
横で太助が頭が痛い、というような顔をしていた。
奥の方で使用人が突然現れた大きな犬に驚いたのか、軽い悲鳴の様な声がする。
何度かの往復の後、一抱えもある大きな犬を景伊は捕まえるが、犬は濡れた体をぶるぶるっと震わせて、あたりに水気をさらにまき散らしていた。
「うわ…散らすな!」
それをもろに受けながら、景伊が必死に犬を抱えている。
義成はそれを変わらぬ冷静な顔で見ていたが、少々遠慮の混じった目で太助を見た。
「……できれば犬は、外へ繋いでおいてほしいんですが…」
「まじですんません……」
太助が苦い顔をして指笛を吹くと、犬はぴくりと反応して太助の元までやってきた。
「人んちで暴れてんじゃねぇよ…」
太助は叱るが、犬は探索が済んだのか、どこか満足げな様子だった。
「呼んだら来るんだ……賢い」
廊下で景伊が、どこかずれた呟きを漏らしていた。



「何か悪かったな。病人の家で騒がしくしちまって。逆に世話になってるし」
借りた着物に袖を通し、まだ少し濡れている髪で定信が言えば、義成は首を横に振った。
「それは別に。これでも賑やかなのは嫌いじゃない」
「冗談?」
「いや。わりと本気で」
そりゃ意外だ、と定信は義成の部屋を見渡した。
部屋には定信と義成と太助の三人しかいない。…一人足りない。
「景伊どこ行った?」
「床拭いてくると言っていた。そんなのお前がしなくていいと言ったが、聞かないから。昨日も部屋の片づけをやってくれたし、どれだけ掃除好きなのか」
「あー…多分それ俺のせい」
定信は頭を掻いた。
共に暮らすようになった頃、何もしないのは嫌だと言う景伊に、掃除を手伝うよう言った。
最初は手際も悪かったが、あれこれ口を出すうちに働きに出しても恥ずかしくないくらい、まめな掃除をするようになっていた。
それが武家の子として良い事かは置いておくとして、本人がやりたくてやっているならまぁいいか、とも思う。
派手さはないが、まめな性格をしていた。
何も使用人もいる実家に帰ってまでやらなくてもいいだろう、とは思うが、多分この家でじっとしていたくないというのも理由にあるのだろう。それは何となくわかるので、定信は何も言わなかった。
義成も理解しているのか、基本好きにさせているらしい。

景伊の雰囲気を見る限り、義成とはそれなりに話をしたようだった。
一晩ここにいてこの家に慣れたというのもあるのだろうが、ここに来るまでの妙に張り詰めたような緊張感は無くなっていた。
それは、多分良い事だ。
定信としては正直あまり面白くはないのだが、景伊が根本で一番気に病んでいるのはこの家の事、兄の事なのだろうし、少しでも距離が縮まればそれはきっと良い事なのだ。
自分が「ここにいろ」と言った癖に、そう思うのだから心が狭い、と定信は思う。

しかしこの家に自分達が顔を見せた時、景伊は少し動揺した様子で「兄を診てくれ」と言った。
何かしらあったと思うのが普通だろう。
あれから義成は特に変わった様子もなく、調子の悪そうな所も見せていない。
ばたばたとしてゆっくり診察する事もできていなかった。
彼の体を蝕んでいるものが自分達が見たアレならば、医者としてどうにかできるものではない。
あの山神は天敵の「毒」の存在を示したが、それは定かではない。
とりあえず先に診察させろ、と言いかけたところで、義成が先に口を開いた。

「お前が戻ったのならもう、あいつを連れて帰ってくれないか」
「…は?」

義成がいきなりそんな事を言いだした事に驚いて、定信は裏返ったような声を出した。
話の流れがさっぱりわからない。
何言ってんだこいつ、と定信は義成を見た。
反射的にいらいらとしてくる。
「……嫌か?あいつがここに居たのが迷惑とか、そう言う事か?」
「そうじゃない」
怒鳴りだしそうな定信の声に対し、強めの声で義成は否定した。
「あいつの首。お前も見ただろう」
首。
そう言われて、定信は景伊の首にあった痛々しい包帯の事を思い浮かべた。
忘れていた訳ではない。
聞きたいと思っていた事だった。本人は言葉を濁したが。
景伊が言わなかった理由。
定信なりにいろいろ考えてみたが、やはり可能性としては一つしか思い当たらなかった。
「…あんたか」
「俺が、噛んだ」
「噛んだ?」
予想外の言葉に思わず問い直す。
首を絞めた。斬り付けた。それくらいの想像しかしていなかった。
「白い粉を吐いた」
そう言うと、義成は側の机の引き出しを開ける。

取りだしたのは、小さな器に入った、乾燥してざらざらとした白い粉。

それに、少し離れた場所に座っていた太助が目を剥いた。
定信も言葉を失う。見覚えのあるものだった。
あのウサギの体からこぼれた白い粉。あれも、こんな粉だった。

「お前、これ、いつ」
「昨日。昼頃だったか……咳が止まらなくなった。そのときに吐いた」
「何ともないのか。これ、吐いた後に」
「確か今までの患者は粉を残して一時的に姿を消していた、と言ったな」

この男はよく覚えている、と思う。
確かに自分達が見た患者はそうだった。
あの山神は「アレがその人になり切るのにまだ時間がかかるから、怪しまれないよう」姿を消すのだと思う、と語った。
この男はそうなっていない。
自分達が見たウサギの様に、毛皮を残して舞散るような事にはなっていない。
細かい仕草や表情。話し方。
それらはこの男のものに違いなかった。入れ替わった、とは思えない。

太助が首を落としたウサギは、まだ活きの良い元気なものだった。
目の前で粉を噴いたウサギは、既に弱って動きも鈍いものだった。
ウサギと人。
その違いはあるだろうが、今までの症例から想像するとして、粉を出すのはアレに体内を浸食されつくした状態。
末期の状態だ。この男もそういう時期を迎えていたという事になる。

「側にあいつがいた。咳き込む俺を、不安そうに見ていたよ」
義成は昨日の事を思い出すように、淡々と語る。
「息は出来ないし、目の前も暗くなるし、これで死ぬんだろうと思った。だが目の前のあいつを見た瞬間、意識が妙な方向へ飛んだ」

―あぁ、目の前にいいものがある。

「…いいもの?」
その言葉に、定信は顔をしかめた。
「それ以外に例えが見当たらない。目の前のこいつの首を今すぐ噛み切って溢れる血を肉を……それが正しい事のように思えた」
「それで噛みついたのか」
「幸い首を噛み切る前に目が覚めたがな。その後は相当吐いた」

義成は、床に置かれた器に入った粉を見つめている。
「だからもう、連れて帰ってくれ。俺の側に置いておくのは、怖い」
「連れて帰れって……小さい子供じゃあるまいし」
そう言いかけて、定信はふと、気付いた。

普段共に過ごす事のない義成にとって、景伊はまだ子供、少年のような扱いのままなのではないだろうか。
確かに年齢も十近く離れているし、今もこの家で立場が弱く、外の事情も知らない子供に接していた、当時の感覚のままなのではないだろうか。

景伊は「休んでくれない」と嘆いていたが、それならわかる。
弟の前で寝込む様な事、できるわけがない。
恐らくこの男には、そういった意識があったのではないだろうか。

「でもあいつ、アンタから逃げなかっただろ。残ってたじゃねぇか。昔のあいつだったら逃げてたんじゃねぇかな」
「……確かに変わったよ」
義成の言葉に、定信は苦笑いしながら頷いた。
この男とは共通の話題が景伊の事くらいしかないので、顔を合わせれば必然的にそうなる。
その彼がらみで、まだ自分は話しておかなければならない事がある。

「例の村に行ったよ。あの、髪の白い山神とも会った」
それは太助さんも見てるから、と話を振ると、それまで黙って話を聞いてた太助も「……まぁ」と答える。
「あと残念だけど、あんたらの病の原因はアレだ。虫状になって体内を食ってる」
「おおよそ想像の通りじゃないか。面白くもない」
「お前さぁ、自分の生き死にの事なのにもうちょっと……」
「今更。それでお前にもどうにもできないんだろう?」
「体さばいて取りだす訳にはいかないからな。でも、お前はもしかしたら……死なない、かも」
「……かも?」
義成が、眉間に皺を寄せる。
定信としても悩んだ。
これはまだ不確定だ。でも、粉まで吐いた男が今、こうして変わらず生きている。
そうだとしか思えなかった。
「あの神さんは、景伊に細工をしたらしい。アレを殺す毒を預けたとか言ってやがった」


定信がそう言った後の事は凄まじかった。

ぶつん、と人が一瞬でキレるところを初めて見た気がする。
(こいつ直情型なんだなぁ……)
胸倉を掴まれながら何故か殴られそうな勢いなのに、定信の頭は冷静だった。
ぎり、と歯を噛みしめる音がする。親の仇を見るかのような目で、義成は定信を睨みつけていた。
「……噛んだんだろ?血飲んだろ?俺もあんたの話聞くまで半信半疑だったよ」
この男が目の前の人間を「噛みたい」と思ったのは、アレに自身を乗っ取られる寸前だったからではないか。
目の前には餌がある。
しかしそれを貪る寸前に、義成は激しい嘔吐をして自分を取り戻した。
真意の程はわからないが、定信は毒が効いてアレは死んだのでは、と思った。
「俺にだってわからねぇよ!でもそうとしか思えないじゃないか!俺だって嫌だ、でもあんたが生きてる!……わからねぇけど。わからないけど、効いちまったのかもしれないだろ!」
「何でもっと早く言わなかった」
「俺だって言いたくなかったし信じたくなかった。……でもあいつがそうなったの、昨日今日の話じゃない。あの山に連れてかれたときだ。あの神さんは誰でも良かったんだ。餌に毒を混ぜてみただけだ。アレが殺せるなら何でも良かっただけだ」
陰鬱な地方の山の神。
その土地で生まれたアレを他の土地に逃した事は責任を感じているようだったが、守ろうとした人間はあの村の人間たちだけだ。
他の土地の人間がどうなろうと、あの山神の管轄ではない。
「……」
義成は定信の胸元から手を離した。
口元がわずかに笑っている。はは、と乾いた笑いが漏れた。
「……俺は無様に生き延びたと言うのか。あいつの体に傷一つ増やしただけか。どうして、いつも」
―いつも、あいつを犠牲にして、生き延びてしまうのか。
義成の言葉に、定信は眉を寄せる。
「あんたが、悪いわけじゃねぇよ」
誰も悪くない。
きっかけなんて考えてしまったら駄目だ。
誰かを責めたところで、状況など何も変わらない。
「とにかくさ。あんたは命を拾ったんだ。それは事実として受け止めろ。無駄に使うなよ」
「……一つ、聞かせろ」
義成の声は下から響く様な、低いものだった。
「お前は医者だ。今は奇病ですんでるが将来、アレの数が増えて俺と同じ症状にかかる者が増えたら。……原因と対策を知ってるお前はどうするんだ」
「……聞くなよ」
定信は深いため息をついた。
考えなかったわけではない。
確かに自分は医者で、周りの人を助けたいという理想があって。
でも。
「俺は……家族を取るかな」
重苦しいものを吐きだすように息を吐いて、定信は天井を見上げた。
簡単に答えが出せるものではないな、というのはわかっていた。



義成の部屋を出て廊下を歩いていると、裏庭に面した縁側で、景伊が座って犬を撫でているのを見つけた。
「掃除終わったのか」
声をかければ、景伊がこちらを振り向いた。
「他の人に手伝ってもらったから、結構早く終わってた。……話してただろ、いろいろ。入り難いから、行かなかった」
「……そうか」
来なくて正解、とは言わないでおいた。
重苦しい雰囲気で、太助に申し訳ないとは思っていたが、どうにもできなかった。
縁の下の柱に繋がれた犬は、こちらを見てゆっくり尻尾を振っている。
大昔に噛まれた記憶が蘇るが、恐る恐る頭を撫でてみた。
猟犬だが、一応触らせてくれるらしい。
「定信。俺、本当になにもない。何が変わったとか、そういうのはないから」
「……え」
「言ってたろ?さっき。立ち聞きしてごめん」
自分が毒を持っていると言う事。
景伊は申し訳なさそうに、少し笑った。
「あの山の神様なら、それくらいやるかもしれないな。でもあの人がそれで助かったのなら、俺はいいよ。周りに何か影響でなければいいんだけど」
「……三年も前の話だからなぁ」
よっこいしょ、と定信も景伊の隣に腰かける。
「アレに効く毒だろ。義成は生きてるから、アレだけに効くって事だろ。お前に変わりはない。一緒に住んでた俺らにも変わりはない。だったら、あまり悲観するものでもないのかもしれないな。……わかんねぇけど」
景伊の首にはまだ包帯が巻かれたままだ。
傷を自分が見ていないからわからないが、かなり強く噛みつかれたのだろうか。
「なぁ景伊」
「何」
「お前今までの事全部夢だったら良かったのに、とか思うか?」
「……ときどき、思うよ」
そういうと、景伊はあそこ、と庭の端に見える離れの建物を指差した。

「俺、ここの家ではずっとあそこで暮らしてた。離れって言うか……なんか変なところなんだよ。暗いし、窓は高い所にあって、でも鉄格子が入ってる。蔵みたいな造りなんだ。兄上が言ってたけど、何代か前に病気の人とか…都合の悪い人があそこで暮らす為に作った離れなんだって言ってた」

調度大きな松の木や庭木、塀に隠れる場所にある。
外から見た様子は普通の離れだが、景伊の言う事が本当ならば。
(どっちかって言うと、座敷牢みたいなもんか)
それは暮らしていたと言わない。
「今でも夢に見る。起きたら暗くて、寒い。上の方から少し、光が入ってて、「ああ、あの部屋だ」って思う。あんな事がなければ、俺はまだあそこにいたんじゃないかな」
「……今はどうなってるんだ、あの部屋」
「まぁ、入る人もいないし。俺がいなくなってからは手つかずだって言ってた。何かいるものあったら持って帰るかって言われたけど、そんなに物も持ってたわけじゃないし、着物も小さくなってるし」
だからこれだけ、と景伊は脇に置いていた風呂敷包みを膝の上にのせた。
犬がふんふんと臭いを嗅ぐので、「これは食べ物じゃない」と慌てて頭上に持ち上げる。
「それ、何だ?」
「本と小物」
定信の問いに、景伊が風呂敷を開く。
出てきたのは、数冊の古びた本と、小さな風車。
「定信達が帰る前に、一度離れの鍵を開けてもらったんだ。本はずっと借りっぱなしで、まだ読めてないから読んで返すつもりのもの。風車はあの人が買ってくれたもの。こっそり、近所のお祭りに連れて行ってくれたときに」
緋色の小さな風車は、もうかなり古いものなのか、指で回してもぎこちなくしか動かない。
きっともう、風が吹いてもからからと回る事はないだろう。
「なにかの機会であそこを片付けてしまったら、きっと捨てられてしまうだろうから持ってきた」
「……帰って、どっか飾っとけよ」
「いいよ子供みたいで恥ずかしいから。持っとくだけでいい」
景伊は少し、照れくさそうに笑った。

その顔を見て、定信は何とも言えない、微妙な気持ちになった。

景伊にとっては大事な思い出なのだろう。捨てられたくはないもの。捨てるつもりはないもの。
定信にしてみれば、義成がそんな事をするようには思えないが。
……自分は知らない。小さな風車で喜ぶような子供の頃の景伊の事は、これっぽっちも知らない。

「今度さ。もうちょっとあいつにまめに顔みせてやれよ。こーんなだだっ広い家に一人でいるからあんな性根になるんだよ」
「また喧嘩したのか……」
「殴り合いまではいってない。そこは褒めろ。俺も譲歩してるんだ」
「譲歩?」
景伊が首をかしげているが、定信は答えず立ち上がった。
「俺先に帰って飯の用意してる。太助さんに飯食わせるって約束してるし、寝てないからさっさと寝たいし」
「あ……うん、わかった」
「お前はのんびり帰れ。あいつの相手はお前にしかできん」
「どうかな」
景伊が苦笑いを浮かべたのを見て、定信はもう一度犬を撫でてから立ち上がり、背を向けた。

景伊の中には兄への「恐れ」はまだ残っているようだったが、「恨み」はないのだろう。
被害者の方が加害者を許している。
加害者の方が気に病んでいる。
もし義成が景伊を斬った事を全く気にしていない、というのであれば、自分はこうまで苛々しないですんだのかもしれない。
どうしようもないクソ野郎、と思ってそこで終わっていただろう。
だが彼が後悔しているとわかるから。まだ景伊の事を大事に思っているとわかるから、突き放す事もできないのだ。

景伊はこの家に帰るつもりはないようだが、どちらが彼にとって良い事なのか。
自分は医者として、これからどうしたらいいのか。
義成はどうするのか。

答えが見えない。
こんな事、助言してくれる人間もいないだろう。
この国の先も見えないが、自分達の先も全く見えない。

庭を見れば、まだ雨がしとしと降り続いている。
また濡れるな、と思いながら、定信は廊下の奥へ消えた。