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二人の兄貴

12 歪みと成すべき事

自分がアレを殺す毒を持っている。
その事実を立ち聞きで知ったと言う景伊は、こちらの心配をよそにあまり気にしていないようだった。
当の本人には自覚が無く、自分達も気付かない、微妙な何かの変化。
一瞬、彼がなかなか太らず「鶏ガラ」のままなのはそのせいかとも思ったが、それは仕方のない、彼の体質だろうと考え直した。
食が細いから余計に肥えないだけだ。

少なくとも、本人は「仕方がない」と諦めているようだし、それで兄が助かったのならそれでいい、と思っているのだろう。
この少年は何かを「受け入れて」ばかりだと思った。
選択肢のない環境にいたし、身に降りかかる事を「飲む」しかなかった。抗う事をしない少年はものわかりが良過ぎて、こちらが逆に心配してしまう。
義成に噛み付かれたときは多分死ぬほど驚いただろうが、結果としてアレを「殺した」なんて事は想像もしなかった事だろう。
ある意味、景伊にとっては「復讐できた」という思いなのかもしれない。
彼と彼の生活を壊した、「アレ」への復讐。


定信は霧のような細かい粒子の雨の中を、考えながら歩く。
雨のせいか周囲の人通りは少なかった。
体は冷え切っていたのに、頭だけはぼんやりと熱を持っているような感じがする。いろいろ考える事が多かったからか、と思ったが、本当に風邪でも引いたかもしれない。

本来であれば、景伊と一緒に帰っても良かった。
だが今、義成が定信の胸ぐらを掴んで言った言葉が、頭の中から消えてくれなかった。
景伊の顔を見たくなかった。
嫌気が差したとか、そう言う事ではない。
自分が迷っている顔を、彼に見せたくなかっただけ。

―原因も、対処方法も知っているお前はどうするのか。

義成の言葉を思い出す。自分だって、それは考えたのだ。
山神の言った「毒を持たせた」の意味がわからなかったが、今回の状況を見れば、毒は血液中に含まれていると考えていい。
彼の皮膚、唾液。それらに毒はあるのか、それはわからない。
だがあの山でウサギを解体して、虫の害を確かめたように。あそこまでしないとしても、そんな実験的な事を景伊にしたくなかった。
……全く関係ない人間であったなら、自分は「調べさせてくれ」と言っただろうか。
(俺ばっかりの問題でも、ないんだからな)
自分を悩ます問いかけをした男の顔を思い浮かべ、定信は眉間に皺を寄せた。
原因と対処方法と言うのであれば、それを今回知ったのは定信だけではない。
義成は医者としてどうか、と聞いたのであろうが、その義成も、山で出会って共にこの町まで来た太助も、本来であればかやの外だったはずの景伊も。
どうすればアレを殺す事ができるのか、知った者達だ。

知らんふりしたところでお前だって同罪だ、と言ってやりたかった。

だが彼らは社会の中で立場は違えど、一般人だ。
自分は医者。人を助けるのが仕事の人間。
彼らは身内や己の心配だけしていればいい。
自分は不特定多数の人たちを看なければならない。
家族の事だけを心配していられるわけではない。
俺は家族を取る、そう言ったとしても。
自分で考えないわけではなかった。だが実際、人から言葉としてぶつけられてみると、無性に苛立ちと共に気持ちは揺れた。


屋敷に戻ると、畳の上に利秋が大の字で転がっていた。
最近やたらと忙しそうにしていたから、疲れているのだろうか。
寝ているのか、と思って側を通った瞬間、むくりと利秋が起き上がる。
寝ていると思い込んでいた定信はびくりと肩を跳ねさせた。

「よう、久しぶり。元気…そうじゃねぇなぁ。なんだそのツラは」
「寝てないんですよ」
「マジか。あー…お前がいない間に、新しい患者さん来てたぞ。戻ったら行かせるって言っちまったけど」
「あ、それは大丈夫です。ちょっとじゃあ、様子見てくるんで。症状は?」
「なんか妙な虫に刺されたって。風邪っぽいとか、足がおかしいとかなんとか」
途端に、定信の表情が強ばる。
「どうした?」
「……いえ」
そう何でもないように答えて、診察道具の準備を始める。

少しずつ。
だが確実に。アレはうまい事、人を蝕み始めているじゃないか。

今ならその人を助けれるかもしれない。だが……。
「義成の所へ寄ったのか」
「え」
後ろから利秋に声をかけられ、定信は振り向いた。
「何でわかるんです」
「着物。紋付だし、あいつのところのだなって思って」
「……」
そう言えば、着物を借りっ放しなのを忘れていた。改めて触ると、いつも自分が身につけるものと比べ、触り心地も違う。「そう言えばこれあいつの着物か」と意識すると、さっさと脱ぎたくてたまらなくなった。
駄目だ思考が死んでるな、と思う。
「……顔洗ってきます」
水でもかぶった方がすっきりするかもしれない、と立ち上がると、「ちょい待ち」と利秋が定信の襟首を掴んだ。
「何ですか」
「あいつどうなった」
あいつ、とは義成の事だろう。 彼の調子が良くないと定信に伝えたのは、利秋だった。
「……死にはしないと思いますけど」
「随分適当だな」
「だって、そうとしか言えない」
「…お前なぁ。俺には状況の説明はなしか」
「聞いたって、いい話じゃないですよ」
「俺だってアレは見てるし、知らんわけじゃない。それにアレ絡みの事なら、もうお前らの手に余る事だろう?状況がひどくなる前に何かしらの手は打つべきだ」
「……」
利秋の言う事は正しい、とは思うのだ。
もうこれは、自分達だけの問題ではない。これ以上患者が増えれば、まだ人では目撃されていない最期の様子を目にする人も出てくるはずだ。
粉を噴いて美しく舞い散るアレ。
明らかに普通の状態じゃない。今までの知られている病とは全く異なる。事実に、人々はきっと混乱する。
でも対応策を組織で取ったところでどうだ。
人を助けアレを殺す術はあの毒しかない。景伊は確実に引っ張りだされる。
その後はどうなる?心ない人たちに何を言われるか。また体に傷を増やすのか。
「定信」
久々に叱るように名を呼ばれ、定信は重たい視線を利秋に向けた。
利秋に言わないつもりはなかった。
彼にはきちんと、説明するつもりでいた。
彼ならどうすべきか、自分が考えつかない答えを出してくれるだろう。
だが利秋が出すどうすべきか、という答えに、甘えはないのだ。
効率と成果。
それを言われたら、定信は反論できない。
悪い男ではないが、周囲から煙たがられるほど、頭のきれる男。
昔から親戚付き合いの中で仲は良かったが、口で勝てた事は一度もない。
だから今、言いたくなかった。
しばらく視線を合わせた後、定信は重い口を開いた。


自分は人を助けたい。
昔の父親のように、周囲の人たちを助け信頼される医者になりたい。
でも、家族のように思う人間に、その為に血を流してほしいなんて思わない。
全部。どちらも。
何かを犠牲にしない答えなんて、浮かばなかった。最初からなかった。

淡々と事実を整理して、時系列順に話す定信の脳裏に、景伊と初めて会ったときの映像が浮かんだ。
雪の日に、血塗れで倒れていた子供。
あのときは、ただただ助けなくてはいけないと思っただけだった。三年も共にいる事になるとは思わなかった。家族のような存在になるなんて、思いもしなかった。
仲は悪くないと思う。
義成には遠慮して言わない事でも、自分には言ってくれる。本音を語ってくれていると思う。
しかし定信は、景伊が義成への思いを見せるたび、苛立った。
それは、薄い家族関係を持つ自分と比べての苛立ちだったのかもしれない。
景伊が見せる、ただ純粋に兄を慕うような感情が、自分の中になかった。
きっと、元々薄情な男なのだ。
あっさり切られた家族関係を、考えの違いから自分を切った父を、どうにかしようとも思わなかった。
悲しくはなかった。狼狽えもしなかった。
ただ、腹立たしかっただけ。

そんな薄情な自分を景伊は慕ってくれる。
そう思ったら、離したくなくなってしまった。

だから義成に、自分は嫉妬している。
景伊の根底にはいつも兄への思いがある事。
自分は所詮、兄の変わりでしかないのかもしれないという思い。
景伊がそう、定信に言ったわけではないのに。

義成も、人らしい情がない男ではない。悪い男ではない。
自分がもっと丸い言葉で話せば、あんな空気で話さなくてもいいはずなのだ。

座敷牢のような空間の中、兄に昔買ってもらったのだという小さな回らない風車を、大事そうに持っていた景伊。
捨てられたくないから持って帰ると言って、少し恥ずかしそうに笑った表情。
彼のそんな一途な所を好ましいと思う反面、無性に苛立っていた事に、景伊は気付いていただろうか。

あんな事の後に、景伊がまだ兄を慕う事。
彼らが父親のみの繋がりとはいえ、兄弟であるという事。
その繋がりの前では自分がどれだけ家族だと言おうとも、無力だと言う事。
自分は兄にはなれないという事。
そこまで考えて、定信は自分の嫉妬の最もたる理由に気が付いた。

(……そうか俺、あいつの兄貴になりたかったんだな)

そう考えると、すとんと自分の中で何かが落ちた。
だから自分は義成に当たっていたのだと気付いて、あまりの馬鹿らしさに目眩がした。
「おい定信、大丈夫かよ」
本当にふらつく定信を見て、利秋が慌てて腕を掴む。
「大丈夫ですよ。寝れば治る……」
そう答えたが、寝たぐらいで自分の馬鹿が治るとは思えなかった。
自分ならもっと、あいつに優しくできるのに。
絶対に裏切らないのに。
義成が昔かけた情けなんて、忘れてしまえばいいのに。
そう言ったら、景伊は怒るだろうか。

俺ならもっと、あいつを愛してやれるのに。