HOMEHOME CLAPCLAP

二人の兄貴

15 感情的

目の下に隈ができてる、と言ったのは景伊だった。

定信はそのとき、利秋の屋敷の縁側で座り込んでいた。
辺りはもう暗くなってきていて、義成の屋敷の庭に比べれば猫の額ほどの小さな庭を眺めながら、風に当たっていたときだった。
あの後訪ねてきたという患者の家に行って診察をして、それから帰って料理もして、ひとまず太助と約束した「飯を奢る」は達成できた。眠さの峠も越したような気がする。

今は奥の部屋で、利秋と太助が飲んでいる。
あの二人はなかなか気が合うようで、酒も強い。定信も少しばかり同席していたが、疲れていたせいか、いつもより酒の周りが早いようで、早めに席を立ってきた。
酒は飲めないわけではないが、酒に呑まれるのはあまり好きではない。
景伊も先ほどまで利秋達と共にいたはずなのだが、いつの間にか自分同様に抜け出してきていたようだった。

「お前も、あの人たちと飲んでたらいいのに」

定信がそう言えば、景伊が眉をしかめる。
「……あの人たちと一緒に飲んでたら死ぬ。今も逃げて来たのに」
景伊の答えに、定信は噴き出した。
彼も意外な事に、人並みには飲める。しかしあくまで人並みであって、うわばみを二人相手にしていては身が持たないだろう。
定信が笑う様子を見て、景伊も苦笑いしながら隣にやって来る。
「先に寝たらいいのに。片付けくらい俺がやるけど」
「……そんなにひどい顔してるか俺?」
「してる。二、三歳老けたかも」
「うるせぇ」
首を傾げながら言う景伊の頬をつねると、痛い、と笑い交じりの抗議の声が上がる。

いつもと変わらぬその様子に、人の気も知らないで、と思う。
定信の胸の奥が、ざわりとしたものに包まれた。

こいつ、わかってるのだろうか。
事の重大性を、本当にわかっているのだろうか?
あの山神の真意は知らないが、人じゃなくなってる可能性だってあるわけだろう。
あんな生き物の体を奪い捨てながらうつろう山神とはわけが違う。
お前の体は一つしかないのに、アレを殺すならその血を流せ、とは。

ここに帰ってきてから呼ばれて診た患者も、恐らく義成と同じ物が体内にいる。
原因も対処方法も知っている癖に、自分は何も言えなかった。
いや、言わなかったのだ。
目の前のこの若者に、血を流させるのが嫌だからだ。
自分はそんな事絶対にさせたくなかった。

しかし他の患者を見捨てれるほど、自分は非情にはなれていない。
自分は医者だ。求められたらそこに行く。
だが身内を傷つけたくないばかりに、他の患者を助けれない。見ないふりをしている。見殺しにしている。
そんな矛盾が、自分の神経を徐々に削っていた。

利秋は、事実を公表すべきなのではないかと言った。
せめて医者の間で、自分達が知る事は共有すべきなのではないかと。
景伊の事をどうするか、それも伝えるのかについては、利秋も言葉を濁した。

「……俺だってお前ほど話してたわけじゃないが、それなりに情は持ってるんだぜ。何年も、一緒にいたらそりゃあなぁ」

どうしたら一番いいのか、と言う事は利秋もわかっているのだと思う。
ただそれを口にできるほど、彼も情を捨てることのできる男ではなかった。やりたい放題に生きている男ではあったが。
「……まぁ、考えるまでもなく、俺らの取れる方法は二つだけか。……お前もわかってないわけじゃないんだろうが」
利秋にしては珍しく、歯切れの悪い答えだった。
「景伊に痛い目みてもらって他を助けるか、見捨てて他の命の代償を一生背負うか」

現段階で「薬」と呼べるものは、それしかない。
勿論他人の血を飲め、と言っても、嫌がる患者も多いとは思う。
どのみちどうしていくかにしても、人々がアレの存在を知らないのでは予防も撲滅も難しい。


「……定信」
「…あ?」

しばらく黙って考え込んでいた定信の顔を、景伊が少し心配そうに覗きこむ。
「お前、やっぱり変だ。大丈夫なのか?」
その顔を見ていたら、何となく笑みが漏れた。
「怪我人に心配されるほどじゃねぇよ。それより、大丈夫なのか首。俺が見てないから不安なんだよ、傷見せろ」
景伊の首には、まだ真新しい包帯が巻かれている。
「一応知らない人だけど、ちゃんとした医者に診てもらったから大丈夫だよ。血も止まってるし」
「お前の大丈夫は信用ならん」
「……信用ないな」
「がたがた言うな、いいから見せろ」
定信の言葉に、景伊が渋々首の包帯を解く。
そこには痛々しくくっきりと、歯型が残っていた。確かに血は止まっているが、まだ赤く腫れている。
……これは痛いだろうな、と定信は思う。
「これ、何て言って診せたんだ」
「……犬に噛まれたって言った」
「どう見ても人の歯型だろこれ……」
その医者も何も言わなかったのかよ、と定信は呆れる。
まぁその医者があの家のお抱えの医師なのだとしたら、騒ぎ立てる事はしないだろう。
穏便に済ませたかったのだろうが。

「場所が首だからなぁ……また厄介な場所に傷つけてくれたもんだな」
傷はきちんと手当されているらしいが、首は人体の急所でもある。
噛み傷はなかなか治りにくい。しばらくは化膿しない様に診てやらないと駄目だろう。
「でも別に、これはあの人のせいじゃない」
「……あぁ、まぁそうだけど」
本人がそう納得しているのなら別にこちらが何か言う事ではないのだが、定信としてはすっきりしない。

傷だけ増やしておいて、それでもこいつに慕われるあいつが気に入らない。

意味がわからないと思った。
前回も死にかけたし、今回だって一歩間違えれば、首の太い血管を食い千切られていた可能性だってある。
そんな事になっていたら、例えその場に医者がすぐ駆けつけていても、どうにもならなかっただろう。

こいつもこいつなのだ。
人が良いにもほどがある。正直馬鹿なんじゃないかと思う事もたびたびある。
こいつが不遇だった時代に、少し優しくされただけだろう?
この三年はどうだ、と言いたくなる。

あいつは自分から、お前に会いに来たか?

してないだろう?償いだってしてない。金出しただけじゃないか。
その程度の男だろう。
なのに今どうして、へらへら笑っていられるんだ。
馬鹿だ。
馬鹿じゃないのか。
そんな疑いもせず純粋にきらきらした思いを、俺の前でぶちまけてくれるな。
自分が随分と薄汚れて見える。

そんな感情を、いつもの顔の下に押しつぶしていた。
自分は器の小さい男だとつくづく思う。

景伊は多分、「誰かの為に血を流せ」と言えば、あっさりと首を縦に振るのではないだろうか。
それが怖い自分がいる。
それに彼の血縁に嫉妬したところで、仕方のない事だという事も理解している。
出会ったころのボロボロだった子供時代と比べて、思考も年齢も体も、随分大人にはなった。
だから自分が過剰な心配をしても仕方のない事だし、家の事も自分の身の振り方も兄貴の事も、景伊の意思が尊重されるべきだとはわかってはいるのだ。頭の中では。

たびたび黙りこむ定信を不安に思ってか、景伊がじっとこちらを見ていた。
その黒い瞳と目が合う。
定信は自分の歪みつつある感情を見透かされたような気分になり、居心地が悪かった。
「……なんだよ」
「……なんか」
言いかけて、景伊は口をつぐむ。そのまま視線を逸らしてしまう様子が気になって、定信は問いかけた。
「言いかけて止めるのやめろよ。気になるだろうが」
「……」
景伊は言うのを迷っているようだった。
「なんか、一瞬」
不安げに揺れる視線が、こちらを見た。


「定信が、兄上みたいな目をしてるって思った」


予想外の言葉に声も出ず、定信は一瞬ぽかんとした顔をした。
は?
俺があいつみたいな目をしてるだと?
あんな陰気な目を?
「なんか、思いつめてるみたいだったからそう思っだけだと思う。……気に障ったならごめん」
景伊はそう言うが、何かが腹の奥底から這い出して来ているような感覚があった。
気に障ったとか、そんなんじゃない。

もっと別のものだった。

知らず知らずのうちに抑圧していた、何か。
こいつにぶつけては駄目だと思っていた何か。

「……お前」

腹から出た声は、案外優しげなものだった。
隣に座る景伊が、疑いもせずこちらを見る。
自分の口角が上がるのがわかった。
今多分、顔は笑っている。
次の瞬間、口は突拍子もない事を口走っていた。

「お前、どちらを選ぶんだろうな。俺とあいつ。どっちかしか助けれないってなったら、どっちを」

景伊が微かに目を丸くした。
いきなり何を言い出すのだ、と思っているのだろう。
自分だって、その自覚はあった。

俺は何を言っているのか。自分が矛盾の中で今死にそうだからって、こいつにまで選択を迫る事はないのに。

それに聞かなくても、何と答えようとも、こいつはきっと兄貴を助けるんだろうなと定信は思っていた。
今回の事で、良くわかった。
どうせ、いつか帰るんだろう。
あいつのところへ帰るんだろう。
こいつの扱いがあの家で今どうなっているか知った事ではないが、あの男が現当主なら酷い扱いはしないはずだ。
気に入らないが、あの男は「どうしようもない屑」ではない。
本当は自分よりも、よっぽどまともな神経を持った男かもしれない。
今はそれなりに話もできているようだし、景伊があの家へ「戻る」と言いだすのが、そう遠くない事のような気がしていた。

(俺は、その間の変わりでしかないんだろう?)

「兄」の変わり。
今このときしか、必要とされていないもの。
そんな抑圧していた思いが、何故か今ばかりは抑えられなかった。
初めて会った日、景伊が血塗れで倒れているのを拾ったあの雪の日。

あの夜、この目の前の若者は、半分落ちかけた意識の中で自分を「兄」と呼んだ。

年齢も近く背格好も似ている自分を、朦朧としている意識の中で勘違いしただけだろう。本当にそれだけなんだろう。
それを聞いて、自分は助けてやりたいと思ったのだ。
家族に会わせてやりたいと思った。自分が手を出し、助けた命なのだから、責任を取らなければと思った。
彼らの確執を知ったとき、少年は誰かの支えがなければ崩れそうなくらいに弱っていた。
だから自分が支える側に回らなければ。
彼が慕う兄自身にはなれないが、変わりに支えてやれる人間になりたかった。実際、そうしているつもりだった。

ただ善意だったはずなのに。

それがどうしてこんな歪んだ思いに姿を変えたのか、全くわからない。
その気もないと思っていた自分が、だ。

「……どうして今、そんな事聞くんだ」
景伊の声からは、困惑が伝わってくる。
「言えよ今。簡単な二択だろう?」
その二択に苦しんでいるのは己だろう?という囁きは、都合良く無視して問う。
「お前、やっぱり今日おかしいよ」
「言えよ」
「いつもと、違う」
「言え!」
強めの言葉に、景伊が呆然としてこちらを見ている。
「……選べるわけないだろそんな」
景伊はわかっていない。
どうして今、こちらがこんなに荒れているのか、全くわかっていないんだろう。
「あの人と何か話したのか。……何か言われたのか?」
「あいつは今関係ない。俺が、お前に聞いてる事を答えろって言ってる」
「……どっちを無くすのも嫌だ。どちらも助ける。それじゃ駄目なのか?」
「欲張り」

自分は、今すごく嫌な顔をして笑っていると思った。
肩を掴んで無理矢理こちらに体を引き寄せると、景伊が少し怯えを見せる。
だが構わず、逃げられない様に押さえつけて、こちらに顔を向かせた。

「皆言うんだよ、お前と同じ答え。どっちも守る。どっちもやるってな。でもそれができるのはよっぽど頭のいい奴か、能力のある人間だけだ。大抵の人は抗えずにどちらか一つか、どちらもできないか、どっちかなんだよ。お前は甘い」

そう耳元で囁けば、景伊がぎり、と睨みつけてきた。いい目だと思う。
この大人しそうな癖に、負けん気の強い所は嫌いじゃない。

「……俺が世間知らずの甘ちゃんだって事は、自分が一番知ってるよ。でもそう思うのはいけない事か?やってみなきゃわからない事だってあるだろう?お前、今日どうかしてるよ!普段そんな事言う奴じゃないだろう!」
「お前が普段、俺をどう見てるのかは知らないが」
定信は睨みつけてくる景伊の視線を、冷めた目で受け止めながら言った。
「…俺は元々、冷たい男だよ。特別頭も良くなければ、特別優れた医者でもない。……ただの」
言い放ちながら手首を掴み、無理矢理立ち上がらせると、暴れる景伊を無視して自分の部屋に連れ込む。
「何……離せよ!」
「うるさい」
自分の手から必死に逃れようとする景伊を、部屋の中に放り込んだ。
畳の上に身を打ちつけた景伊は首の傷が痛んだのか、少し呻きながら身を起こしてこちらを見る。
後ろ手に扉を閉めた。

刀ではきっと敵わないだろうが、今彼は丸腰だ。
鶏ガラのように痩せ気味で自分より小柄の、まだ少年といった方がいい体つき。
力で抑え込む事は出来ない事じゃない。
それに今、景伊は目の前の出来事が良く理解できていないようだった。
薄暗い部屋の中、じりじりとこちらを見上げたまま後ずさる。

わからないだろうなこの状況が、と思った。
どうせまだ女も抱いた事がないんだろう。この年頃にしては、その手の知識もなさそうだ。
ひどく大人びて物わかりのいい面も見せる癖に、こうした方面は子供でしかない。

「……お前、どうしたんだよ。何で」
なんで、と景伊が再度呟いた。
「俺が、何か怒らすような事を言ったのか?俺のせいか?」
「お前のせいじゃない」
そう答えれば、ますますわけがわからない、というように景伊が顔を歪めた。

「……例えば、子猫を拾ったとする」

一歩近づけば、壁際まで来てもはや逃げ場のない景伊が、びくりと体を震わせた。
「怪我した猫だ。自分の家で飼えないと思った。でもよくよく調べたら、よその家の猫だった。最初は返すつもりだったんだ。ただなかなか、迎えが来ない。そしたら年月も経つ間に、返す気なんてなくなった。今更迎えに来られても、俺は知らんよ」

自分勝手な言葉だとは思っていた。
しかし本当に子猫が大事なら、自分のせいで怪我をさせたのだとしても、飼い主はさっさと引き取りに来るべきだった。
子猫も飼い主が恋しいなら、自分の足で早く帰るべきだった。
拾い主に情を持たせる前に。

「……俺はあの家に帰る気なんてないよ」
近づいて腰を下ろし、目線を合わせた。怯えながらも気の強い視線が、こちらを見る。
両手首を掴んで壁に押し付けると、息を飲む気配がした。
「そんなのわからないだろ。今回みたいにあいつに何かあったら、お前また帰るだろうが」
「帰れって言ったのはお前じゃないか!」
「あぁ、言ったよ。だが人間ってのは、本音じゃない事でも口に出来るだろ?お前だってそうじゃないのか?お前の信頼を裏切った、聞く耳持たなかったあいつの事を、本当は怨んでたじゃないのか?……綺麗な事ばっかり言いやがって」
「……違う!」
「どうだか。あいつにとって、お前は都合のいい弟だろうよ。罪は責めない、痛みはお前だけが飲み込んで、何事もなかったかのように接して。……それがお前らの関係だ。対等どころじゃねぇ、最初っから甘く見られてんだよ!」
「そんな事言うな!」
噛みつかんばかりの形相で叫ぶ景伊の首を、片手で壁へ押さえつける。
痛みが走ったのか、表情を歪めた。

俺は何をしているのか、という意識もあった。
こんな何も知らない子供をいじめてどうする。
歳の離れた友人のように、兄の様に慕ってくれるこの子に何をするのか、という自分もいる。
だが、止まれなかった。

「……考えるのに、疲れた。どれが本音なのか、もう」

闇の中でこれから起きる事に怯える黒い目と、目が合った。
優しくしてやりたかったはずなのに、どうして自分はこんな事をしているのだろう。
自分はどこで、間違えたのだろうか?

定信はその怯える唇に、噛みつくように口づけた。

景伊が驚いて、目を見開くのがわかる。
「ん…ぅ」
嫌がって、必死に首を背けて逃れようとする。腕は壁に縫い付けてあるし、こちらの体で押しつぶすような体勢に、逃げ場があるとは思えない。
だが、景伊は抵抗する。
「……っ!」
舌に強い痛みが走り、思わず身を引くと、口の中で鉄臭い味が広がる。
噛みつかれたのだとわかった。拘束の手が思わず緩んだ瞬間、押さえる手をすり抜けて、景伊が近くの本を手に取った。
派手な音と同時に側頭部に衝撃が走る。古い本だったのか、頭に当たったはずみで中の紙がいくつか散らばった。 しかしそれはそう厚くもない和綴じの本だ。それで頭をはたかれた所で、こちらは何と言う事もない。

「……お前、何がしたいんだよ…何なんだよ!」

息を荒くした景伊が、興奮とも怒りともとれぬ表情に顔を染めてこちらを睨んでいた。
「酔ってるわけじゃないだろ?どうしてこんな事するんだよ……」
半ば泣きそうになっている表情に、罪悪感がないわけではない。
きっとこんな行為、こいつには理解できていないだろう。
恐らく自分からこんな事をされるなど、夢にも思わなかったんじゃないだろうか。
「……お前、女抱いた事ないだろ」
そう言えば、景伊の表情にさっと朱が走る。
初心な反応だと思った。こんなときでなければ、好ましいとすら思う素直な反応だった。
「やろうと思えば、男とでもできる……いくらお前でも、知らないわけないだろう?まぁあいつは、お前にそんな事教えなかっただろうけど」

何がしたいって、そう言う事だよ。

そう耳元に囁いてやれば、景伊が目に見えて怯えた。
掴む手首が若干震えているのに気づく。
有無を言わさず両肩を押さえ、力任せに畳に押し倒した。
「いや…だっ…!」
悲鳴のような声は無視した。
馬乗りになって暴れる手足を押さえつけ、着物の合わせ目に手を入れる。
体がびくん、と跳ねるのがわかった。
心臓辺りを手のひらで撫でれば、ばくばくと激しく脈打っている。
「定信……離して……」
体の下で、景伊が懇願のような声を出す。
「俺はお前とこんな事したくない……!」
「お前はしたくなくても、俺はしたい」
「……やりたいなら金払って行くとこ行って来いよ馬鹿野郎!」
「……金で女に一晩やらせてもらってそれで満足するなら最初っからそうしてんだよ!」
叫びながら着物の前を広げ、逃げる体を追って背中に手を回す。
素肌を撫でまわす感覚に、景伊はぎゅうと目をつぶって顔を背けている。
「こっち向け」
「あ、ぅ…」
顎を掴んで無理に上を向かせれば、随分と反抗的な目が、涙に濡れて真っ赤になっていた。
悔しいのだろうか。
自分が憎いのだろうか。
それとも、裏切られた、と思っているのだろうか。
顔を近づければ、再び目をつぶって顔を背ける。
抵抗は諦めたのか弱くなっていたが、歯を噛みしめて目線だけは絶対に合わせようとしなかった。
そのくせ、体はこれから起こる事にがくがく震えている。
「……」

何故だろうか。

すぅ、と頭が冷えた。あれだけ酷くしてでも抱いてやろうと思っていたのに、急に酔いが覚めたような、熱の消え方だった。
定信は、景伊の腕を離す。体の上からどくと、景伊がおそるおそる半身を起こし、こちらの様子を伺っていた。
「……定信」
「もういい。……悪かった。もう何もしない。だから、部屋戻れ」
「……」
景伊が、何か言いたげにこちらを見ている。
暗闇の中でもわかるくらいに彼の顔色は真っ青で、まだ小さく震えているのがわかった。
こんな景伊を見たのは、出会った日にこの家の中で、利秋の姿に化けたアレを前にしたときくらいだ。

自分からしてみれば口づけて、上半身を撫でまわしたくらいの事。
しかし嫌がっているところを無理矢理ねじ伏せた。
景伊にしてみれば、自分がこんな事をした、という事が恐怖だったのだろうか。
自分でやったくせに、着物の乱れもそのままに呆然としているその姿があまりに哀れに見えて、直してやろうと手を伸ばすと、景伊がその手を掴んでそれを止めた。
「……」
「いい。……自分で、直す」
その声は小さく、拒絶を感じた。
「……俺が、悪いのか……?」
消え入りそうな呟き。
景伊は、自分が何かで定信を怒らせたのではと思っているのだろうか。
そうだとすれば、随分おめでたい奴だと思った。
怒りで抱こうとしたわけではない。
嫌がらせだったわけでもない。
相手の気持ちなど関係なかった。ただ自分のものにしてしまいたかっただけだ。

―下衆だ、と思う。これで誰かを助けるなんて笑わせる。

「お前は悪くねぇよ。……俺が。勝手にお前が欲しくて、ガキみたいに欲しくて。勝手にお前の兄貴に嫉妬して喧嘩売って、無理矢理にでも手元に置いておきたくなったのが俺だ。……お前が悪いわけじゃない。俺が悪い」
「……」
「わかんねぇだろうな。……わからなくていいよ」
景伊は黙ったままだった。
ただ黙って、こちらを見ているだけだった。
何も言わない。だがその視線は、あきらかにこちらを責めている。まだ罵声を浴びせられた方がいいとすら思う。
そう思っていると、廊下をドスドスと音を立てて近づいてくる足音が聞こえた。

「うるせぇーぞガキ共!夜中に暴れてんじゃねぇ客が来てんだろうが!」

利秋が障子を開け放ち怒鳴りこんでくる。
そのはずみだった。
景伊が立ち上がり、利秋にぶつかるようにしてそのまま、部屋の外へ走り出て行ってしまった。
「あ、おいこら景伊!」
利秋の声にも応えず、そのまま走る足音が遠くなった。
ため息をついて、利秋が呆れた顔でこちらを見る。
「……何だお前ら。喧嘩でもしたのか、珍しい」
「え」
「口んとこ。血ぃ付いてる」
利秋に指で示され口の端をぬぐうと、微かに薄く血が手の甲に付く。
恐らく舌を噛まれたときのものだろう。
「何があったか知らんが、泣かすな」
「……理由、聞かないんですか」
「ガキの喧嘩に首突っ込みたくねぇし。折れてやんのも年上の宿命だろ?……まぁあいつが悪いならきちんと叱れ」
そう言えば、この人も長男だったのだと思い出した。兄弟との喧嘩で「上ばかり注意される」という理不尽な思いをして悟ってからの言葉らしいが、今回は完全にこちらが悪い。

目が似ている、と言われた。ただそれだけ。

それだけで自分が義成と同じように見られているのだ、と思った。
それで激昂して、手篭めにしようとした。

「謝るならさっさと探して謝って来い。あいつは多分、根に持つ。後々面倒くさいぞ」
利秋の言葉に、そうだろうと思う。
廊下には解かれた包帯がそのまま落ちていた。
手当もしてやらなければならないと思いながら、包帯を拾い上げる。
しかし、なんと声をかけたらいいのだろう。
一時の感情に流された代償は、途方もなく大きい気がした。