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二人の兄貴

16 医者、不適正かも

あいつはどこまで走って行ったのか。
定信は話す言葉に迷いながらも、景伊の部屋の前まで来た。
まだ怪我の治療が必要だった頃は定信と同じ部屋で寝起きしていたが、こちらが見習いから医者の看板を掲げるようになった頃から、部屋は別れた。
ただ単にこちらの本や医療道具が多くなり、部屋が手狭になってきた事がきっかけだったが、年頃的にも調度良かったのではないかと思う。

景伊の部屋は、定信の部屋とは反対側になる。
六畳ほどの部屋で、日当たりはあまり良くない。
空き部屋だったそこは元々利秋の物置きになっていたのだが、そう広くはないこの屋敷で他に部屋があるわけでもなく、そこを整理して今は寝起きをしている。
相変わらず物は置いたままなのだが、本人曰く「狭い方が落ち着く」らしい。
広い所は胸がざわざわして寝れないのだと言っていた。
そのときは、「こいつの言ってる事は相変わらずよくわからん」と思ったものだが。

「……」

部屋の前で、定信は悩んだ。
いつもならこの戸を何の躊躇もなく開け放つのだが、今は手が出しにくい。
こんな時間に外まで駆けて行ったという事はないだろうが、考えられなくもなかった。
この部屋にいなかったら、どうすればいいのか。
それこそ義成の元へ帰っていたら?
落ち着かない考えばかりが巡る。

「……景伊、いるか?」

声をかけたが、返事はない。
意を決して戸を開けて暗闇に目をこらすと──いた。
部屋の奥に立って、こちらを見ている。
泣いてはいない。

「……何」

随分と無愛想な声だった。何で来るんだ、という顔をしている。
こちらに対して苛立ちを感じているらしいが、話してくれないわけではなさそうだった。
定信は少し、安堵する。
「その…何て言うのか。さっきの事、もう一度謝りに来た」
「謝るならしなきゃいいんだ」
「……ごもっともで」
「…舌」
「あ?」
「舌。……大丈夫?」
定信は思わず、口元に手をやる。
「あぁ…当分塩物食えない感じではあるが」
「謝らないからな俺は」
「お前が謝る必要はねぇよ。……それより」
「ん」
定信は言おうか迷ったが、景伊が言葉を待っている。
この際だと、告げた。

「正直、これでお前があいつんところ帰っちまうんじゃないかって、不安だった」

そう言えば景伊は少々うんざりした顔をしていたが、部屋の外に突っ立ったままの定信を見て「こいつは本当にどうしようもない」というような笑みを、仕方なく見せた。
「……帰れるかよ。第一、何があったかなんてあの人に絶対言えない。言いたくもない」
あの人、という言い方に、景伊と義成の微妙な距離感を感じさせる。
確かに言いにくい事だろう。
義成が知ったらどうなるのだろうか。
瞬間ぶち切れられて自分は殴られるか、どうしようもなく馬鹿にした目でこちらを見てくるのか。
多分、前者だろう。
「……お前が怒るのも仕方ない。でも、傷の手当てだけさせてくれ。包帯取っちまっただろ。まだ剥きだしにしとくのは良くない」
定信がそう言えば、景伊も忘れていたかのように首に手をやった。
忘れているくらい痛みがないのであれば、それは良い事なのだが。
「……わかった。中入れよ。またうるさいって利秋さんに怒られたくない。あ、戸は閉めて」
「いいのか?」
「いいよ。でも今度何かしたら、その舌噛み切る」
「……マジな顔して言わないでくれ。もうしねぇから」
降参、というように両手を上げて、定信は部屋へ入った。


行灯の光が、さほど広くはない部屋をぼんやりと薄暗く包む。
部屋には本であったり、よくわからないガラクタの様な物が箱に入れられ部屋の隅に置いてあった。
本は利秋の物らしいが、あれば景伊も読むだろう。
しかしがらくたにしか見えない物たちはさっさと捨ててしまえばいいと思うのだが、利秋には妙なこだわりというか収拾癖があったりするので、勝手に捨てると叱られかねない。
あれはなかなか難儀な大人だ、と遠縁である定信も思う。

「鶏ガラを抱きたい気持ちがわからない」
「……は?」
突然の景伊の言葉に、首の包帯を新しく巻き直していた定信は、潰れたような声を出した。
「言ってたじゃないかお前。俺の事、鶏ガラだの出がらしだの」
「……ちょっと待て、出がらしとは言ってないぞ俺は」
「どっちでもいい」
景伊は機嫌悪そうに言った。
確かに以前、細くて肥えない彼の事を「鶏ガラみたいだ」とからかった事があるが、その件を根に持っていたらしい。もう言うまい、と心に誓う。
「……俺だって抱くなら抱き心地がいい方がいいに決まってる」
「うるさい酔っ払い」
「よ…」
ばっさり言い切られて、「酔ってねぇし」と言いかけた定信は言葉を飲み込んだ。
怒らせたのは自分。
あんなことをしたのも自分。
確かに酒は入っているが、そのせいではないと思う。自分のしようとした事がわからなかったわけじゃない。
言い訳はできない。
黙る間にも手は動き、景伊の細い首に包帯を巻き終える。

その首は細いが、喉仏はある。
顔だって整っている方だとは思うが、成長した今は決して女顔ではない。
撫で肩で薄いその体は柔らかくはないし、手の甲にも青白い血管が浮いて、手のひらには竹刀だこもいくつかある。
「女」を感じさせてくれる部分などない。
それでもあの瞬間は、自分はこの若者を「抱ける」と思った。
今はどうなのか、自分でもよくわからないのだが。

手当てを終えると、やる事がなくなってしまった。
言いたい事がないわけではないのだが、それが出て来ない。
景伊もこちらが何を言う気なのか、薄暗い中じっとこちらを見ているが、言葉を発しようとはしなかった。
「お前なんか知らない」と、拒絶されなかっただけマシなのだろうか。
自分は辛抱強くこいつにとっての「都合のいい男」を演じていれば良かったのだろうか。
そもそもこれはなんなのだ。
素直に恋愛感情、とも言えない。ねじり曲がり過ぎている。

「……何、考えてる?」

ぽつりと、景伊がこちらを見て言う。
景伊の顔を見ると、そこに先ほどまでの苛立ちはなかった。
真剣に疑問を浮かべている顔だった。

「お前、帰ってきてから変だ。俺に何かを隠してるわけじゃないだろう?いつものお前らしくない」
「……いつもの俺って、どんな」
「わかりやすい男。まじめで頑固で、曲がった事が嫌いな、口の悪い医者」
「……あんまいいとこねぇじゃねぇか」
「これでも褒めてるつもりで言ったんだけど。俺はそういうお前、嫌いじゃない。むしろわかりやすくて好きだった」
「だった?」
「……今は、わからない。お前が何に苛立って、何を俺に向けたのか。……全然わからないから」

景伊は、定信をじっと見ながらそう語った。
定信の真意を、必死に見つけようとしている様子だった。
景伊もあまり自分自身の気持ちを語る事は得意ではない。
だが恐れもなく、こちらを真摯に見つめながら問う景伊の顔を見ていると、先ほど無理矢理口づけた事を生々しく思い出した。
あのときの驚いたような表情が忘れられない。
今、必死に言葉を絞り出すその薄い唇にもう一度口づけしたら、景伊はどういった反応を示すだろうか。
そういった誘惑も沸く。
だが今そうすれば、今度こそ舌を噛み切られるだろうか。こちらの命を取ろうとして来るだろうか。
それもいいかもしれない、と心の奥底で暗く笑う自分がいる事にも驚く。
そんな事考えた事もなかったというのに。

「……お前、これからどうするんだ?」
「…何が?」
定信の問いに、景伊が眉を寄せる。
「お前もいい歳になってきただろ。お前の実家……あんな事があって、お前の兄貴はあの家で今一人だ。今はお前ら、前みたいに話もできてるみたいだし。そしたらここにいる理由なんてない」
「……そんなに、俺に帰れって言いたいのか」
「逆だ。帰ってほしくないから言ってる」
途端に機嫌を悪くする景伊を制するように、定信は言った。
「お前、あいつの事好きだろう?あそこにはいられないからってここに残ったんじゃなかったのか。もうあいつは、お前の事を拒んでなんかない。お前もあいつの事好いてる。帰らない理由なんてないだろ?……だから、いつか帰っちまうのかって不安だ」
「……」
珍しく弱音を吐く様な定信の言葉を、景伊が呆然と見ている。
「……確かに今回みたいに、あの人に何かあれば俺はまたあの家に行くと思う。でもそれ、帰るとかそんなのじゃないだろ?ずっといるかはわからないし、何かが変わるわけでもないのに」
「……俺は欲張りだから独り占めしたいんだよ」
定信の言葉に、景伊は見た事がない物を見るかのような目をした。
「お前は俺と義成の仲が悪いのは気が合わないからだと思ってるだろ。……確かに、気は合わねぇ。でも本当に気に食わないのはあいつ自身の事じゃない。お前に、無条件に好かれてる。お前にあんなことしておいて、まだ好かれてる。お前が最後に選ぶのがあいつだろうってわかるから、気に入らないんだよ。……俺は、お前の、何だ?」
「何、って言われても、……」
明らかに戸惑っているのに、自分でさえわからない答えを求める。
自分にわからないこの感情の名前を、十近く歳の離れたこの若者にぶつけている。
最悪だと思う。
自分でも考えてみたが、よくわからないのだ。

自分とは、こいつにとって何なのか。こいつは俺にとって何なのか。

主治医。家族。友人。兄の様な、弟の様な。言葉にするとしたら、それくらいしか浮かばない。
こんなに人間に対して執着した事がない。
己の家族の時でさえ、袂を分かつのはあっさりしたものだった。
なのにどうして、自分は今こんな醜態をさらしているのか。
困らせたいわけでも、傷つけたいわけでもないのに。

だからとてもじゃないが、こいつを使って治療しようなんて思えないでいる。
自分は今完全に、あらゆる方向で詰んでしまっていた。

「……定信は」
景伊が言葉を探すように立ち止りながら、たどたどしく呟く。
「俺の、恩人。一番親しい人……それじゃ駄目なのか?なんて言ったらお前は満足するんだよ」
「……わからない。自分でも無茶苦茶言ってるっていうのはわかってるんだ。……悪い」
定信は額を押さえて息を吐く。

こいつの人生に口を出すべきではないとは思うのだ。
今まで勝手な大人の事情で振りまわされてきたこの若者が、今は自由に考えて行動する事を許されている。 それを与えているのは、考えてみれば義成だ。
彼は景伊に、戻って来いとも何も言わない。
景伊にとってはそれが不安でもあったようなのだが、義成にしても今までの事で罪悪感はあったのだろう。
景伊の事に関しては、完全に本人とこちらにまかせている。
利秋は彼とあれから付き合いがあるようだから、話はしているのだろうが。

定信は思う。
義成は景伊に直接「戻れ」なんて言わないだろう。
本心ではどうだか知らないが。
少ないやりとりの中で、景伊の事を嫌っていない事だけはわかる。常に気にかけているようだ、という事も。
そこに愛情がないだなんて、自分も思っていないわけではない。

「そういえばあの家でのお前の扱い、今どうなってるんだ。……未だに存在しない扱いか?」
「いや」
景伊が首を横に振る。
「一応、あの家の人間って事にはしてもらったみたいだ。素性がわからないのもこれから困るだろうからって、兄上が。俺は父上と他の女の間に生まれて、養子に出されてあちこち巡って、あの事件の後帰って来た。今は利秋さんの所に預かりっていう設定になってるらしい」
「……まぁ、大筋間違っちゃいない設定だなぁ…」
「うん。あの人もよく考えるなって思う。帰ってたときに教えてもらった。だから、もうこの家の門をくぐるときは遠慮するなって言ってくれたけど。……慣れるものじゃない。あそこに親しみがあるわけでもないし」
「……そうか」
この若者の、立場の変化。
良かった事だとは思うのだが、微妙な反応しかできない。
「それに俺は兄上とは違う。そういう教育受けてるわけでもないから、戻った所で何かできるってわけでもないし。あまり詮索もされたくないから、結局は離れてた方があの人の迷惑にならないかなって」
「そういうもんか?今からでも遅くないだろ」
「お前、俺に帰ってほしいのかほしくないのか、どっちなんだよ」
呆れたように言う景伊に、定信は何とも言えない顔をする。
「……どうなのかな。でもお前はこれで、れっきとした名のある武家の次男坊ってわけだ。良かったじゃねぇか」
「……」
景伊は何も言わなかった。
こちらの取ってつけたような言葉には反応してくれない。

再び、どことなく気まずい沈黙が流れた。
今まで景伊と口論めいたものをした事がないわけではない。しかし気まずく、後を引くような喧嘩をした事はなかった。
これは喧嘩ではない。自分が一方的にした事で、相手を混乱させたものだ。
しかしいつものように、ぽんぽんと言葉が出て来ない。
それは景伊も同じようだった。
今日はやたらと、定信の顔を見つめてくる。きっと自分の口から言葉を聞きたいのだと思う。
それはわかっているのだが、どうしても言葉が出て来てくれなかった。
しばらくの沈黙の後、景伊が一言「わからない」と呟いた。

「……お前が、どうしてあの人の事が気に入らないのか、俺にはよくわからないんだけど。あの人はあの人。定信は定信だ。あの人は半ば俺の親代わりみたいなものだし、恩が大きすぎて俺はあの人をなかった事になんてできない。怨むとかは筋違い。定信は俺を助けてくれて、馬鹿な俺の面倒ずっとみててくれただろう?それもまた恩なんだよ。俺にとっては」

だから俺はこの恩を二人に返さなければならない、と景伊は定信の目を見て言う。

「だからあの人に何かあれば帰るし、お前が悩んでるんだったら力になりたい。二人とも、俺の大事な兄さんだ。二人の気が合わないのは仕方ないけど、二人が喧嘩して怪我するような事があれば俺は止めるし、あの人が悪ければあの人へも怒るよ。お前も同じだ。お前は欲張りだって言ったけど、俺にはやっぱり順位なんてつけれないよ。だからお前があんな風に言っても、俺には選べない。だから」

「──お前がそれで何か吹っ切れるなら、俺を抱けばいい。それで解決するなら」

景伊は怯えのない視線で、定信にそう言い放った。
あっけにとられたような顔をしていた定信は、少しの間の後、何故か漏れてきた笑みを噛み殺す。
腕を伸ばして目の前に座る景伊の肩に触れれば、真っ直ぐにこちらを見つめる瞳が一瞬、不安に揺れた。
どこまで阿呆なのだ。
あんな事をした自分を部屋に入れ、そんな気もない癖に抱けばいい、なんて。

「……いらねぇ。そんな、抱かせてやるから落ち着けみたいな」

あんなに怖がっていた癖に強がって、と定信は思う。
何をされるのか知らないわけじゃないだろうに。
そんな差し出された様な体を抱いたところで、こちらは嬉しくもなんともない。
いじめてやりたいと思うほど、堕ちてはいない。

今の景伊には、普段よく見せる不安で自信なさげな様子はなかった。
わかっていたつもりで、わかっていなかったのかもしれない。日に日に、自分が見てやらねばと思っていたひ弱な子供は大人になっていく。特にこの数日で、彼は随分と変わった気がした。
幼さが抜けてきた表情に、義成と同じものを見る。
嫌なくらい似てきたと思う。それにすら腹が立っている。

もう、自分はどうしようもない。

力でぶつけて、何も言わず聞こうとしなかった自分の方が幼い主張をしている気持ちになった。
こんな若者でさえ、自分と真正面から向き合おうとしているというのに。
思えば景伊は昔からそう言う奴だった。
出会った当初から「兄ともう一度話がしたい」と言っていた。「そんなの無駄だ」と突っぱねた自分に対して、何度も。

こいつは自分とは違う。
自分とは全く違う思考回路を持っている。
裏切られた癖に信じる事を止めない。臆病な癖に時に大胆に、馬鹿正直に自分の気持ちを述べてくる。
自分にはない素直さだった。人によってそれを馬鹿と言うか純粋と言うかは別れるところだろう。しかし定信は景伊のそういった面は好きだった。
──どこで自分は、こうも歪んだのか。
この若者を手放したくない。そういった好意と呼べなくもない執着があったのは、そういったこの若者の「綺麗な部分」に自分が惹かれていたからだろう。

欲しい答えを得たわけではない。
自分はこの若者と違って歪んでいるから、多分嫉妬は消えないんだろうと思う。
しかし今景伊を抱いたところで、この若者は自分だけの物になるわけではない。
荒れる自分を諌めるためだけに、欲しいなら貸してやる。
そう、この若者は言っているだけだ。
自分はそんなもの欲しいわけではない。
今の自分が、汚していいものでもない。

「……今日は悪かった。俺どうかしてたな。戻って寝るわ。お前も疲れただろ」
「そうでもないけど……お前、本当に大丈夫か?」
「あー、まぁ。少し、頭は冷えた」
定信はそう答えながら立ち上がる。
景伊はまだこちらを心配そうに見上げたままだ。
「……本当に悩んでるのは、治療の事?」
「……」
嫌なところを突くな、と思った。
景伊をそんな気持ちで見れば、彼はまだこちらを黙って見上げている。
「使えばいいじゃないか。俺を毒餌に」
「簡単に言うんじゃねぇ!」
自分でも驚くくらい、大きな声が出た。しかし景伊も怯まず、こちらを座ったまま見つめている。
嫌な間だった。

「……俺はアレが嫌いだ。アレはあの人の家族を殺した。俺をあそこに居れなくした。殺せるものなら、俺は殺したい」

景伊の口から出る物騒な単語に、定信は眉をしかめる。
自分が「綺麗なもの」だと思う若者の顔に浮かぶ、影のような黒い物。
この若者は純粋だ。
だが同年齢の人間たちと比べたら、圧倒的に人生経験が偏っている。
あんな環境でよくここまで綺麗に育ったと感心させられるが、立ち位置は決して安定しているわけではない。
闇に堕ちるときは一瞬のようで、それが怖かった。

「気持ちはわかる。でも、お前はそんな事言うな。……もう関わらなくていい」
「でも、お前」
「あの神さんは試しただけだ。別にお前がやらなきゃいけないわけでもない。俺達だって、お前にそんなの求めてない」
「でも今、アレを中に飼ってる人達は…?」
「……」
無視しろ、という言葉は、ぎりぎり喉奥で止まった。
それを言ってしまったら、自分は完全に終わるような気がしていた。
「…もう寝ろよ。俺も寝るから」
息を吐き切って戸に手をかける。
何気なく背後を振り向くと、景伊はまだこちらをじっと見ていた。
「……お前本当の事、何も言ってくれない」
景伊の声は、こちらを非難しているようだった。
「別に俺達だって。……俺だって、お前にどうにかしろって言ってるわけじゃないのに」
「おやすみ」
無理矢理言葉を断ち切って、定信は部屋を出る。
今度は背後を振り向かなかった。景伊がどんな顔で自分を見ているか、知りたくないと思った。

どうにかしろと求められているわけではない事はわかっている。
ただ自分は医者で、どうすればアレが体内に潜り込んだ人達が命を落とさずすむか、知ってしまっている。
可能性に賭けるのが医者ならば、自分は動かねばならないのではないだろうか。

──医者なんて、辞めてしまおうか。

結局自分は、己の感情に振りまわされているだけのような気がした。
誰かの為だとか、そんな綺麗なものじゃない。
ただ単に我儘なのだ。自分がしたいのか、したくないのか。
ゆがんだ己の欲を満たす為に、いい歳こいて気持ちも整理できずに。子供か、と思う。
一番不安なのはあいつ自身だろうに。

自暴自棄になっている、とは認めたくなかった。
何も知らない瞬間に戻れたら、どれだけ楽かとも思う。
今このときばかりは、全て捨ててしまいたいような気もしていた。