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二人の兄貴

18  そば屋で

目の前に、ほかほかと湯気を立てるそばがある。
「……」
「唐辛子。使うならどうぞ」
「あ、どうも……」
隣に座る義成に唐辛子を置かれて、かけようかかけまいか悩みつつも、定信はそれを手に取った。

自分達は何故か今、そば屋にいたりする。
目的は「無駄話」であったけど、歩きながら気楽に話が出来る程、自分達は打ち解けているわけでもない。 どうせならどこかへ腰を落ち着けたい、という事で、たまたま近くにあったそば屋にいる。

「……あんたって、こういう所来たりすんの?」
「来るよ」
昼飯時を過ぎて半端な時刻の今は、店内も空いている。控えめに周囲を見回して聞けば、義成は素直に答えた。
「一人でふらふらするのは好きだから」
「へぇ」
庶民的で特別美味くはないけれど、値段が安くて出てくるのが早いというのが取り柄の、このそば屋。
自分はともかく、この男がこういう所にいる絵というのが、頭の中でなかなか浮かんでくれない。

「で、何が話したいんだ」

箸を持つ義成を見ると、それこそお手本のような持ち方をしていて、「こいつはこんな無愛想な奴だけど、やっぱり育ちはいいんだなぁ」とよくわからない感心をしてしまう。

「……別に何もないから無駄話なんだよ。聞きたい事はいろいろあるのかもしんないけど、あんた目の前にすると出てこない。だから山もオチもない話するかもだけど、許してくれ」
「……何だそれ」
「自分でもよくわからん」
言いながらため息をつくと、義成に「飯食いながらため息つくな」と怒られた。
「すんません」と心のこもっていない謝罪をして、定信も箸を持つ。
特別腹は減ってない。先ほど、潮津と共に茶を飲んだばかりだ。小食を気取るつもりはないが、なんとなく箸が進まない。温かいそばを見ているだけで腹がいっぱいになったような感覚だった。

「そういえば昨日、景伊がうちに来た」

ぼんやり湯気を眺めていた定信は、その言葉に現実に引き戻される。

「……あいつ、何か言ってた?」

定信は、その事は聞いていなかった。
考えてみれば自分に了承を取る必要もないわけだし、好きに行き来すればいいのだ。しかし景伊が何も言わなかった事に、何となく腹に一発重い拳をもらったような気持ちになる。
それまでは、何するにしても自分に相談していたのに。
話したところで定信が良い顔をしないのはわかりきっていた事だから、景伊も何も言わなかったのかもしれないが。

「たまたま近くを通ったから顔を見に来ただけ、って言ってすぐに帰った。何か言いたげではあったけど、俺も聞かなかったから知らない」
「何でお前、そういう事わかってて聞かないわけ?」
「自分の口から言わなきゃ意味がない。特にあいつの場合」
非難を込めた言葉は、さらりとかわされる。
「あいつが言わなかったって事は、俺に言わなくていい事なんだろう。俺の耳に入れたくない事くらいあるだろうし、一から十まで根掘り葉掘り聞こうとは思わないよ。必要なら言うだろ、あいつ」
「……まぁ、そうだろうけど」

そこが、自分と義成の違いなのだろうと定信は思う。
定信はできれば何でも話してほしいと思うし、何か悩んでいるのがわかれば声をかける。
こいつは溜めこむ、というのがわかっているからだ。それが優しさだと思っていた。
この男は違う。
何か思いを溜めていると気付かないわけではないが、本人の口から出るのを待つ。
あくまで本人にまかせている。
助けを求められたら、応えないわけではないのだろうけど。
「俺は、お前ほど優しくないから」
「俺だって優しいわけじゃねぇよ。状況によるんだろうけどね、そういうの」

再びため息をつきかけて、定信はやめた。またこいつに怒られるのは勘弁だ、と思った。

「……何ださっきから。あいつと喧嘩でもしてるのか?」
「喧嘩と言うか……」
「あいつが何かした?」
「そうじゃない。俺が吹っ掛けた」
そう言えば、義成の眉間に皺が寄る。
「いい歳こいて」
「全くですよ。……なんかもういろいろ駄目過ぎて、景伊にもお前にも申し訳ない」
「……珍しいな。そこまで弱気なのは」
「元から強気でもねぇだろ俺は」
「嘘つけ。気に入らない事があったら噛みつく癖に」
「……すんません」
そう言われれば、定信は苦い顔をして黙るしかない。

目の前にあるそばに手をつける。
味は少々しょっぱい。俺だったらもう少し出汁きかせて薄味にするなぁ、と思いながらすする。

「俺さ、お前に結構今まで突っかかってきてるだろ。腹立たないのか?今一緒にそば食ってて平気なわけ?」
「そばに罪はないだろ」
「ないけどさ。……あんたはどう思ってるんだろうってちょっと思った」
「今更か」
「……俺だって今いろいろ考えて反省してるんだよ。感情的になり過ぎてたとかさ」

思い出せば、随分と子供じみた態度を取ったような気もする。原因は、己の嫉妬。
それがわかっているから、余計に情けない。
義成は少し考えるように黙って、箸を置いた。

「別に。まぁ多少腹は立つ事があったが、特には。これでも一応、恩人だとは思っているから」
「恩人?」
出てきた言葉の意味がわからず定信が問うと、隣の義成と目が合った。景伊とよく似た、黒い目をしている。
「景伊を助けてくれただろう」
「……子供が怪我してたら、誰だって助けるだろ。特別な事じゃねぇよ」

思わず、目を逸らす。
あのときは確かに、そういった気持ちで、血塗れの少年を助けねばと担ぎあげた。
今ほど歪んではいなかった。
義成はそんな定信を横目で見ると、湯呑みを包むように持つ。
「助けてくれた事も感謝してるが、その後も可愛がってくれているとわかるから、恩人と呼ぶんだよ」
「……ろくな事教えてなくてもか?あいつの今の得意技は掃除と料理だぞ」
定信の言葉に、義成が小さく笑う。
「いいんじゃないか?出来ないよりは、出来る方がいい」
本当に気にしない奴だな、と定信は思う。
武家らしくとか、強くあれとか、ありがちな言葉をこの男の口から聞いた事が無い。
この男は、景伊に何も求めていないのだろうか?という思いが浮かぶ。
それはそれで悲しくも、どこか悔しくもあった。

「あいつ…」
「ん?」
「あいつ、お前に戻りたい、って言った事は?」
「……ないな」
「お前が戻れ、って言った事は?」
「ないよ」
「戻ってほしい、って思った事は?」
そう言えば、義成は少し困ったような視線を、定信に向ける。
「……そうだな」
義成は少しためらうようにしながら、重い口を開く。
「一人でいる時にあいつがいたら、と思う事はある。でも帰ったって、いい事はない。あいつには窮屈かもしれない」
「……」
定信は、視線をどんぶりの中に落とす。
これはこの男の本音だと思っていいのだろうか。
あいつがいたら、という言葉は、どうとっていいのかわからない。
でも、いなくて寂しい、ともとれる気もする。 あの家は広い。家族も既におらず、使用人はいても一人。夜になっても一人。
そんな環境にいたら、いろいろ考えてしまうのではないだろうか。

「……言わないのそれ。あいつに」
「……どの面下げて」

義成は少々自虐の含んだ笑みを浮かべて答えた。それ以上は話してくれそうになかった。

確かに景伊にあの家は似合わない、と思う。勿論、帰ってほしいとも思わないが。
若くして後を継いだこの男がどれだけ有能で、弟を理解しているのだとしても、まだ若いこの男に口を出してくる存在はいるだろうし、そういったものと景伊がなじめるとも思えない。

定信は内心、この男を責めていた。
自分から顔も見せやしない。金を少々出したくらいの事。
お前に傷つけられて、景伊がどうなっていたか、知りもしない癖に。
形だけの心配なんてしなければいい。

この男の後悔と、暗く重い思いに気付いていないわけではなかった。
だがこの男を内心攻撃する事で、自分をごまかしていた。
自分の整理できない気持ちをどうにかする為に、「敵」をつくっていた。
定信は、そんな気がしている。

「今日、道場にちょっと用があったから行ったんだ。潮津さんと会って話をした。あんたと幼馴染なんだろ?」
「あぁ」
話題を変える様に言えば、義成が微かに頷く。
「強かったって聞いた。潮津さんも一度も勝てなかったって。塾頭やってたんだってな」
「随分と昔の話だがね」
「……それ、聞いて思った。昔、アレ相手に立ちまわったお前の事も思い出したよ。景伊の傷はいろんなところにあったけど、その一つ一つは致命傷じゃなかった。お前なら無抵抗の子供一人、一太刀でどうにかできただろうに」
「……痛めつけて苦しませるつもりだったのかもしれないじゃないか」
義成は、質の良くない笑みを浮かべた。定信はその表情に顔をしかめるが、躊躇わずに言う。

「お前、どっちにしろ、あいつを殺せなかったんじゃないかって」

何となく、今はそう思う。
随分と不器用な愛情を見せるこの男に、不思議と今この瞬間は嫉妬を頂かなかった。
義成はどこか不愉快そうに、定信の顔を見ている。

「今考えたって仕方のない事だよ。俺がした事は変わらない」
「……」

した事。
義成の言葉に四日前、自分が景伊にしようとしたことが脳裏に浮かぶ。
嫌がる体を無理矢理抱こうとした。
野蛮な事だとは思ったが、そのときはそうすれば手に入る気がした。どこへも行かない様な気がしていた。
──気がした、だけだったけど。
あのとき噛まれた舌は、まだ痛む。
警戒しながらも、あの後景伊は自分と話してくれた。今もそうだ。拒絶はされていない。
だけどあのとき、「兄弟のような」優しい自分達の関係は終わったように思う。
そうするきっかけを作ったのは自分だ。
自分がしようとした事を、なかった事になんてできない。

「……俺、あいつを抱こうとしたよ」

定信の呟きに、義成の顔色がぎょっとしたものに変わる。
言わなくても良い事だったが、隠すつもりにはなれなかった。
懺悔にも似た気持ちだったのかもしれない。

「お前」
「未遂だけど、悪い事したと思う。もちろんそれだけが原因じゃないんだろうけど、あいつにいらん気の回し方されたり、なんかうまく話せなくなっちまった。あいつもお前も、俺を信用してくれてたのに……すまねぇ」

拳が飛んでくるかと思った。だが、予想外に殴られはしなかった。
ただ義成は、そんな定信の顔を、厳しい目でじっと見ている。
そば屋の客の回転は速い。長居する自分達を余所に、客たちは次々に入れ替わる。
どこかまったりとした店内の雰囲気に反し、自分達の周りだけが冷たい刺すような空気になっていた。

「戯れか。あいつに、手を出したのは」
義成の声は低いものだった。
「違う……」
軽く首を横に振って否定する。違う。自分は、その気があったわけでも戯れだったわけでもない。
あの瞬間まで、そんな事は微塵も思っていなかった。

「……俺は、お前になりたかった」
「……俺に?」

予想外だったのだろう。義成は、軽く目を見開いていた。
「何もかも持ってるお前。あいつに愛されてるお前。あいつの兄のお前。……お前になりたかったんだ、俺は。抱きたいと思ったから手を出したんじゃない。俺なんか都合のいいただの保護者だ。いずれ必要とされなくなる。だったら、力づくでも俺の存在を頭の中に植え付けてやりたかった」
「馬鹿な事を」
「だよな。余計嫌われるだけだっていうのに。……どうしようもねぇ。あいつの事言えねぇよ。俺も馬鹿だ」

ただ、自分が馬鹿だから。方法が思いつかなかった。
自分はこいつとは違うのだ、兄貴と同じような目で見るんじゃない、と思った。
義成にも、景伊に対する愛情はあるだろう。
だがきっと、こんな愛し方はしない。
この男と違う愛し方。そう考えて、行きついた方法がそれだっただけ。
相手の事など考えない、一方通行のものだが。

目の前のどんぶりに入った半端な量のそばの麺は、すっかり伸びてしまっている。
汁もぬるくなり、どれくらいの時間自分達がここにいるのかはわからないが、相当時間は経ったんだろうと思った。
空気を読まない告白をしても、隣の男は自分を叱りつけてもこなかった。
ただ台の上で手を組んで、小難しい顔をしている。
当然だろう、と思った。
この男は自分を恩人である、と先ほど述べたばかりなのに、その恩人は彼の弟に手を出そうとしていたわけだ。
「お前なんか信用できない」と言われればそれまでだろうと思っていたし、「連れて帰る」と言われても仕方のない事だろうと思っていた。

「……お前、これからどうするつもりなんだ」

これから、と問うものは、一つではないとわかっていた。
いろいろあるんだろう。この男にも、自分に聞きたい事は。
景伊の事も。アレの事も。

「それが簡単に答えられたら、あんたと今ここで飯食ってねぇよ。……ただ」
定信は唾を飲み込む。
「医者は辞めるかもしれない」
「どうして」
義成が怪訝な顔をした。
「お前から医術取ったら何が残るんだ」
「やっぱ嫌な奴だよなお前……」
悪態をついて、定信は義成を見る。
「今すぐってわけじゃないよ。診てる人達放り出すわけにもいかないだろ。その人達のが終わったら……もう診ない」
「……唐突な奴だな。理由は?」
「自分が向いてないってのがわかってきたから。人の命天秤にかけ始めたらもう駄目だ。平等に、なんて見れなくなってる。そういう選民的なものが嫌だから、俺は権力には付かなかったはずなのに」

恐らく自分の根底には、父親との確執があると自覚している。
父は民に慕われる町の先生の立場を捨て、金持ちのお抱え医師の地位を選んだ。
それまで診ていた人々を唐突に捨てた、というのと、そちらの方が「名誉な事」として選んだ父。
それらに反感を覚えて、「そうはなるまい」と、今ここに自分はいるのだと思う。
なのに今、自分は助ける命を選ぼうとしている。

「あと俺が医者やってる事で、景伊に何かあったら嫌だ。あいつまだ若いし、突っ走りそうで怖いんだよ。アレに良い感情持ってないってのはわかるんだけど……」
「高潔なのはいい事だが、逃げているとも取れるぞ」
「そう思いたきゃ思えばいい。自覚はあるよ」
「別にお前を責めているわけじゃない。逃げたきゃ逃げればいいし。誰も責めはしないよ」
「……」

定信は黙り込む。
確かに何とかしろと言われているわけでもないし、求められてもいない。
ただ自分達だけが秘密を握っていて、それをどうするのか。
それを悩んでいる。

「例えば、だ。あんただったらどうする?思いつきでいいから、どうするか教えてくれよ」
「俺か?」
義成は定信の顔をちらりと見た。
「……他の人間の事なんか知らん。あいつが身を削る必要もない」
「言い切るな、あんたは……」
「お前がどう思ってるかは知らんが、俺は案外、他の事はわりとどうでもいいと思ってる」

定信は苦笑を浮かべた。
自分がこの男ほど断ち切って物事を考えられるのであれば、どれほど楽だったのだろうか。

「まぁそう思うようになったら、お終いだとは思うよ。別にすぐ結論を出す必要はない事だろうし、一介の医者一人に求める決断でもないと思うがね。恩はあるからこちらも出来る事は手伝うが」
「あんたはそれより体まず治してくれよ。調子悪かったら俺でも自分とこの医者でもいいから、ちゃんと診てもらえ」
「……わかった」
義成も苦笑する。
「辞めるまでもなく、根っからの医者だとは思うんだが」
「そうかね」
定信もなんとも言えない表情をして見せた。
どうするかはまだ決めかねているが、いずれ選ばなければならないんだろう。
あの夜、景伊に吐いた言葉は、己への問いかけだったのだろうか。

どちらを選ぶ?
どちらもなんて選べるのは、よっぽど優れた人間だけ。
大抵の人間は片方だけか、どちらもできずに終わる。

自虐も含んだ問いかけだった。問われて、景伊は相当困っただろう。



「……その、俺殴られてないけど、いいのか」
少しの沈黙の後、口に出しがたい事のように呟けば、義成が眉をひそめた。
「何が」
「何て言うか、景伊に手を出そうとした事」
「殴られたいのかお前は?良い趣味してるな」
「違うって……でも何も言われないのも、何か悪いと思って」
そう言えば、義成は特に表情も変えず、淡々と言い放つ。

「正直、どうしてやろうかとは思ってるよ」

あまりにも普通に言われて、「ですよねぇ」と定信は小さく呟いた。

「でも景伊がまだ何も言って来てないから、俺からは何も言うまい。任せてる手前、あまり妙な事を噴きこんでくれるなとも言えんし。まぁあいつが泣きついてくるような事があれば、そのときは考える」
「……俺だって泣かしたいわけじゃないんだけどね」

定信は今度こそ、深い深いため息をつく。
食事は終わっていたから、今度は叱られる事はなかった。