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二人の兄貴

19 よく見えるし聞こえる

義成と別れ、定信は家路を行く。
別れ際、「あまり一人で抱え込んでくれるな。あいつに当たられても困る」と励ましだか苦言だかよくわからない事を言われ、相変わらずいけ好かない奴だと、定信は苦い顔をして義成と別れた。
友人、と言えるほど心を開けているわけでもない。
定信としては、未だに複雑な感情を抱く相手だった。

だがなんとなく、心に秘めていた事を吐きだした事で、少しだけ気持ちは軽くなったような気がする。

誘ったのは自分だし、付き合ってくれた事には感謝しなければな、とは思っていた。
自分が感情的になり過ぎなければ、それなりに付き合える相手のような気もするが、どうだろうか。
もう少し気を長く持とうと思っても、自分達は結局、互いに導火線が短い男たちなのだ。
間に景伊と言う緩衝材を挟まなければ、自然に付き合うというのは難しいのかもしれない。


利秋の屋敷へ帰る頃には夕方になっていたが、寄り道した自分よりも先に、景伊は帰っていた。
庭で、縁側の軒下の柱に繋がれた犬をかまっているのが見える。
あれ以来太助の犬を気に入っているらしく、暇なときはよく相手をしていた。
犬も景伊には懐いている。
名前はマチ、というらしい。雄だがマチ。町で拾ったからマチなのだと、太助は言っていた。
それを聞いた時はなんとまぁ安直な名前をつけるなぁと思ったのだが、犬は自分の名前だとわかっているらしく、呼べばこちらを見る。どうも人間の話を黙って聞いているようなところのある、賢い犬だった。

自分達があの山から帰宅して4日経つが、太助は何だかんだでまだここにいる。
あれから雨続きで天気が悪かったと言うのもあるが、どうも山に籠っている間に世俗の事に疎くなっていたらしく、あれこれ読んだり見て回ったりしているらしい。

「先生、お帰り」

先に定信に気付いて声をかけてきたのは太助だった。縁側で気だるげに煙管を吹かしている。
「どうも」
そう言えば、景伊もこちらを向いた。
「……おかえり」
「……」
その顔に、笑みはない。
定信の反応を見ているような、そんな様子が見えた。
どういう顔をして答えようか迷っている間に、景伊は定信の脇をすり抜けて縁側から室内に入って行ってしまう。
可愛げのない奴、と内心毒づいた。
そうした原因は、自分にあるのだが。

「……なに、喧嘩してんのあんたら?」

自分達の様子の違いに気付いたらしい太助が、縁側に座り込んだまま視線を向けてくる。
「……まぁ、そうと言うか」
会う人会う人全てに指摘されると、少々気が重い。
定信も自分の煙管を引っ張り出して、太助の隣で刻み煙草を丸めて火をつける。
立ち上る煙の香りに、少し苛々が治まってきた。

「あの年頃って難しいじゃねぇか。一番可愛げのない頃だよ。あんまアンタも真正面から相手してやる事ないって」
太助の言葉に、定信は苦い笑いで喉を鳴らした。
「確かに。……俺も可愛くはなかった気がするし」
「先生は今でも可愛げないよ」
太助は能天気に笑う。その言葉には笑みを浮かべながら、自分が景伊と同じ年頃だった頃はどうだったろう、と思う。
可愛げなど、昔からなかった。ひたすら生意気な少年だった気がする。
思い出せば当時の自分を蹴り飛ばしたくなるような事ばかりで、定信は考える事をやめた。
そんな呑気な話を交わしていると、太助が急に真面目な顔をして言った。

「……先生よ。俺、人を探してみようかと思うんだよね」
「人?誰を」

突然の太助の言葉に、定信は何の事かわからず聞き返した。
「俺の元村の住民。あちこち散っちまったから、どこにいるのか正確には知らないんだけど」
「何でまた」
「アレの事、俺は元あの村の住民だけどよく知らないし。爺どもは多分何か知ってて、俺がもうちょっと歳いったらそういう話もされてたのかもしんないんだけど。聞かないまま散り散りだろ?なんかそいつらしか知らない様な事、知っといた方がいいんじゃないかと思ってさ」
「……珍しい。あんま関わりたくないとか言ってたのに」
「それは変わんないんだけど、一応地元だろ?知りません何も知りませんじゃ、何か悪い気もしてね」
「……そうですか」
「うん」

縁側の二人は黙って煙草を吸う。
この男も何だかんだで真面目な男だと思った。
彼を動かすものが何なのかはわからない。故郷が発端である事への責任なのか、何なのか。
太助でさえ動こうとしているのに、まだ何もできていない自分が嫌になる。

この男が大切な物は何なのだろうか。
何を求めて、動こうというのか。
自分はどうするべきか。

「だらだら居たけどさ、明日には発つよ。長い事世話になっちまって、悪かった」
「そんなだらだらって言っても、四日ですよ。飯の作りがいがあって、俺は楽しかったですけどね」
「そうか?」
「うちにいるのは偏食の家主に食の細い育ちざかりだけでしょう?気持ち良く食べてくれる人がいると嬉しいんですよ、こっちも」
そう言えば「なら良かった」と太助が笑った。

この荒っぽいが、時折妙に気を使う猟師とまたしばらく会えなくなるのは、少し寂しい様な気がする。
しかしこの男も足元の犬も、家でだらりと寝て過ごすよりは、山を駆ける方が真価を発揮する男たちだ。
その方がいいのかもしれない。
そういった思いで足元に寄って来た犬に手を伸ばすが、犬はさらりと身を交わして地面で丸まった。

「……」
「先生。……犬嫌いってばれてんだよ」
「嫌いじゃなくて苦手なだけですよ……」

可愛いとは思っているのだ、一応。昔噛まれた思い出が邪魔をするだけ。
俺は犬にまでそっけなくされるのかと、定信は寄りかかった壁に体を預けて廊下の天井を見上げる。
持ち直した気持ちが、少し落ち込んだ。

客人が明日帰るのであれば、今日の晩飯はそれなりに頑張ねばなるまい。
……あまり周囲に気を使わせるのも良くないし、景伊と気まずいままでいるわけにもいかない。
だからと言ってどうしたらいいのかわからないが、このままうやむやにするべきではないだろうと思った。
この気まずい空気は、己のした事の結果だ。
何もかもがわからなくなって、あの言葉でぷつんと切れてしまった結果。

定信は吸い終えた煙管から煙草の灰を出すと、立ち上がる。
あれこれ考え過ぎてしまうのは良くない癖だ。
悩んでそれで、大事な人間を傷つけていては意味が無い。
今は少し頭を冷やして、自分のするべきことを見なおそう。
そう思っていた。

だが、突然起きた見覚えのある事件に、その日の晩はそれどころではなくなってしまった。


それは、日が落ちてからの事だった。
定信が何を作ろうかと台所で野菜の残りを漁っていると、景伊がするりと中に入って来る。

「……どうした?」

今日はあんなに自分に対してそっけなかったのに、自分から寄ってくるなんて珍しい。
何を言われるのかと、顔は冷静を装いながらも心臓は飛び跳ねる思いだった。
そんな思いで視線をやれば、景伊は妙に真剣な顔をしている。

「……なんか、外が騒がしい。変なにおいがする」
「におい?」

景伊の顔にあるのは少しの不安と、嫌悪感のようだった。
疑問に思いながらも手を拭いて、台所を出る。土間から戸を開けて外に顔を出してみたが、景伊の言う騒がしさも変わった臭いというのも、定信にはわからない。

「……臭いって、どんな?」
「わからない。わからないけど、すごく臭い」

定信は首を傾げるが、景伊は本気でそう思っているようだった。
景伊の言う、すごく臭いもの。
それが理解できず何と答えようか迷っていたとき、庭でマチが激しく吠えたてる。
知らない人間が来たような吠え方だった。
同時に屋敷の門を激しく叩く音がする。

「お医者様はいらっしゃいますか!」

外から男が強く叫ぶ声に、定信と景伊は顔を見合わせた。


戸を開けて出て見れば、武装した数人の侍達が門の前に群がっていた。
「……何事ですか」
驚いて問うと、男たちはどこか固い表情をしている。
「……この近くで、強盗がありまして」
「強盗?」
物騒な言葉に、定信は聞き返す。

「いや、正確には強盗かもまだよくわからないんですが、死傷者もいるようなのでご協力願います」
「……わかりました。すぐ伺います」
「まだ犯人は捕まっていないので、戸締りにはお気をつけて」

頷いて、定信は準備をすべく室内に戻った。

「何事よ先生」
まだ吠えるマチを宥めながら、太助が問う。
「なんか近所で強盗か何かあったみたいで。怪我人だか死人だか、出てるみたいなんですよ」
「はぁー…物騒な」
「俺はちょっと行ってきます。利秋さん帰ってくるかもしれないんで、留守番頼めますか?多分あの人も狩りだされてるとは思うんですけど」
「わかった。先生も次から次へと、難儀だね」
「仕事ですから」
答えて慌ただしく支度を終え外に出ようとすると、玄関で景伊が待っていた。

「……まだ犯人捕まってないんだろ?夜道一人じゃ危ないから、俺も行く」
「いいけどお前、大丈夫なのか」

状況はまだよくわからないにしても、寒くなってきたこの時期の夜に、猟奇的な事件。
景伊と出会うきっかけになった事件と、始まりが良く似ている気がする。
そんなものに付き合わせて大丈夫なのか、と定信は思った。
しかし定信の「大丈夫か」は景伊に伝わったのか伝わっていないのか、景伊は少しだけ笑みを見せた。

「……大丈夫。ひよっこの護衛だけど、ないよりはマシだと思って。手伝いも少しはできるとは思うから」

確かに、昔からよく往診に付いて来ていたので、定信の補助くらいなら景伊はできる。
見知らぬ人間に頼むよりは、その方が自分にとっても効率的だと思った。

「……わかった。頼むぞ助手兼護衛」

定信が肩を叩けば、景伊は無言で頷いた。



それから二人で走って現場まで駆けつけたが、被害にあったという建物の周りは野次馬含め、周囲を多くの人が取り巻いていた。 なんとかそこを通してもらい、建物内に入る。

場所は住宅地を抜けた、少し静かな場所にある老舗の料亭だった。
その場にいた人達に案内され、すぐに怪我人が寝かされているという部屋に入ったが、定信は部屋に入った瞬間、顔を強張らせた。
部屋には数人が並んで寝かされていたが、その誰もが血塗れで、ぴくりとも動かない。
あちこち血塗れになった人の手を、定信は取る。
脈はない。呼吸を確かめる。それもない。
「……」
その部屋に寝かされていたのは4人。料亭を経営していた家族だという。

定信は、無言で床を拳で殴り付ける。そのにぶい音は、周囲の慌ただしいざわめきにかき消された。

一瞬遅れて、じん、とした痛みが拳を伝わる。
腕が震える。自分にはどうしようもない事だとわかっていても、悔しかった。
景伊は後ろで、ただ血塗れで横たわる人々を見ていた。


開け放たれた部屋の向こうでは、現場検証が行われている。
多くの人が集まってきているのか、慌ただしく行き交う声が聞こえてくる。

「……先生」

この部屋まで自分達を案内したのは、この料亭の者のようだった。
血縁関係があるのかは知らない。中年の、頬の扱けたような青い顔をした、細い男だった。
視線に、定信が首を横に振ると、男が微かに肩を落とすのがわかった。
あちこちを斬られて血塗れのこの家族が、「もう駄目だろう」というのは素人目にもわかる事だったのだろうか。
そこには諦めが見えた。

「……怪我人は、この方達だけですか?」
「はい。……怪我人は……はい」
男の言葉はどこか煮え切らない。

「一人まだ探していますが……いろいろ、探しているんですが」

男の視線は、遺体に向けられる。
手首であったり、足首であったり。一部が欠損しているものが多い。
(刃物だよな……これは)
定信は改めて傷口を見る。ここまで斬る必要があるのか、と思うほどだ。
顔も何もかもが血に染まっている。
まだ着物の下までしっかりと見ているわけではないが、「獣に食われたような」痕は見当たらない。
三年前のあの事件とは違う。
これは完全に、人間の犯行だ。

「その……切断された部分は、まだ見つかっていないんでしょうか?」

言い難さを感じながらも定信が問えば、部屋の隅で青い顔をした男は「えぇ、まぁ」と答える。
あまり明確な答えが返ってこない。この男もかなりの動揺をしているようだった。
「私もあまり詳しい事は、……」
男はそれだけ言うと、口元を押さえて部屋を飛び出して行ってしまう。
「……」
その反応があまりにも普通の事のように見えて、こんな部屋の中で嫌に冷静になっている自分が異常のように見える、と定信は思う。そのまま景伊に目をやれば、後ろに何も言わず立っていた景伊は、ゆっくりこちらに寄ってきた。

「……この人達の傷、縫ってやらないの?」

景伊は目の前の遺体達に怯える事もなく、定信の隣に座る。

「手とかまだ探してるって言ってたから、全部見つかったら縫うよ。できるだけ綺麗にはしてやりたいし」
「……定信はこういうの、慣れてる?」
「どうかね……俺もこんな激しい現場来るのは初めてだけど」
「お前は怖くはないの?」
「遺体がか?……さっきまで生きてた人だぞ、お前」

定信はそのまま立ち上がると、景伊にも立つよう促した。

「俺らも何か手伝い行こう。お前も吐きたいなら吐いてすっきりして来い」
「……吐きたいわけじゃない、けど」
景伊は何か思うところのあるような顔をして、立ち上がる。

「なんだろう。何か、誰か……泣いてるみたいな声がする」
「声?」

言われて定信は耳を澄ましてみるが、聞こえるのは現場検証をしている男たちの騒がしい足音と、その声くらいだ。
「そりゃ、泣きもするだろうよこんな状況じゃ」
「……だろうね」
景伊はしばらく耳に手を当て考え込んでいたが、そう思う事にしたのだろうか。
「わかった。早く手伝いに行こう」
そう言って景伊は自分から部屋の外へ向かって歩き始めた。
その後ろを歩きながら、定信は景伊の背を見つめる。

(……どうしたんだ、こいつ)

ここに来る前も、何か妙な事を言っていた。
──何かくさい。外が騒がしい。今もそうだ。泣き声が聞こえる、なんて。

どれも、近くにいる自分には全く感じ取る事ができない。耳がおかしくなってんのか俺は、と定信は耳に手をやる。
しかし声が聞き取りづらいという事もないし、今この部屋も血なまぐさいと感じる。
自分の耳や鼻がおかしくなっているというわけではなさそうだ。

「あ。お前らも来てたのか」

部屋の外に出れば、利秋とばったり出くわした。

「やっぱり呼ばれてたんですか……」

定信は、利秋に同情めいた視線を送る。下っ端役人で仕事は出来る癖に、こういった厄介な仕事の処理に回される男。
本人はそれをもはや楽しんでいるようでもあるが。
来るだろうとは思っていたが、やはり指示があったのだろうか。

「まぁ今来たばっかなんだけどね俺も。詳しい事よく知らんのだけど、お前ら聞いてる?」
「いや、俺らも治療に呼ばれて来ただけなんで、そこまで詳しくは」

定信がそう答えると、そっかぁ、と言いながら利秋は通りかかった別の若い役人をひっ捕まえ、説明を求めた。


この老舗の料亭に賊らしきものが入ったのは、日が落ちてしばらくしての事だったという。
被害は経営者の家族が暮らす、別棟の住居の方だった。
誰も侵入したところを見たわけではないが、悲鳴の後、覆面をした男たち数人が逃走するのを店の客や近所の人間が目撃している。
部屋が荒らされていた事から物盗りではないか、と見られているようだ。
殺されたのは4名。いずれも刀で執拗に斬られ殺されている。

「あとですね、子供が一人行方不明になってるらしいんですよ」

利秋に突然ひっ捕まえられ説明を求められた若い役人は、少々怯えながら説明する。
「連れ去られたのか何なのか、今探しているんですけどね……」
そういえば先ほど部屋にいた男が、「一人まだ探している」と言っていた。
それでか、と定信は周囲を見回した。
どこから入ったのか、何か手掛かりは、と庭まで探す男たちは、子供がどこかに隠れていないかも探しているらしい。

「まぁこんな状況ですから、どこかで殺されてる可能性が高いでしょうね。生きてたら隠れてたとしても、我々が来た段階で出てくるでしょうから」

若い役人の言葉に、うーん、と利秋が唸っている。
「……怯え過ぎちまって声も出ず動けない、って事もあるだろうから、まあ一応ちゃんと探さにゃね。しっかし何だここは。迷路みたいだしだだっ広いし」
「店が大きくなる度に改築重ねて、こうなってしまったらしいです。お偉方の密談にも使うようなところですからね。何かあったときの裏道とかも造ってあったりするって噂でしたけど、この様子だと本当みたいです」

へぇ、と定信は感心したような呟きをもらした。
でかくて有名な料亭なので名前は知っていたが、個人で庶民が出入りする様な場所ではないと思っていた。
高い飯にもお座敷遊びも、縁が無い。
錦鯉の泳ぐ池や松の木が植えられた中庭は美しいが、今そこは必死に手首やら子供やら遺留品を探す人々によって踏み荒らされている。

「しかし日が落ちてからって言ったって、まだ通りは人通りがある時間だったわけだろ?この短時間で入って4人殺して部屋あさって逃げのびるってのは、手慣れた感じだね」
「以前も何かあったでしょう?何年か前に。あれは長棟様の御宅だったと思いますが、あれと同一犯なのでは、なんて言ってる人間もいますから……」

若い役人が言い終える前に、利秋がむにょん、とその役人の下あごを片手で掴む。
「わかった、ありがとう。事情は把握した」
「は、はい……」
呆気にとられる役人は、利秋が手を離すと逃げだすようにその場を離れていく。
「だ、そうだ」
「毎度の事ながら、乱暴な聞き方しますねぇ……」
定信はため息交じりに言う。今更の事なのだが。

「……これは、うちの事と関係あるんでしょうか」

それまで黙っていた景伊が、少々聞き辛そうに言う。定信は少し苦い顔をして景伊の顔を見た。
「人、だろこれは。目撃証言もあるわけだし」
「正直わからんだろ。あれ、が人に化けてたら?」
利秋の言葉に、定信は顔をしかめた。
「……嫌な事言わないで下さいよ」
「可能性はあるって事だよ。あいつら日に日に賢くなってんだろうが。全く無関係とも決まってないわけだし。まぁ犯人が人間だったら、とっ捕まえて汚ねぇ牢屋にぶち込んでやるだけだが」
ぱん、と泥を落とすように、利秋は両の掌を打ちつける。
「とりあえず、俺は子供の捜索と現場の事やっから定信、お前遺体の方手伝えよ」
「はい。でも、遺体の欠損部分がまだ見つかってないんで、それも探さなきゃと思うんですが」
「あー…後から見つかるような事があってもやべぇしなぁ……って、景伊どうした」

利秋の言葉に振り向けば、景伊が建物の裏の方に回ろうとしている。
景伊は利秋の声に立ち止り、振り向いた。

「……声がします。子供の」
「本当か?!どこから」
「……こっちです」
景伊は迷いなく建物の裏へ回り込む。後を追う利秋に続くが、定信は妙な違和感を感じていた。

(まただ、こいつ)

さっきもそうだった。こいつは、何かを感じている。

「……利秋さんは、声聞こえますか」
「え?いや」
「聞こえてないの、俺だけじゃないですよね」
「……何か、あった?」
「それが……」
言い終える前に、景伊に追いついた。

景伊は家の裏の、庭木に埋もれる様に存在する古井戸の前にいる。

今はもう使っていないのか、井戸には古めいた板で蓋がしてあり、その上に大きな漬物石のような石が置いてあった。
「動かしていいですか、これ」
言うより前に、景伊が石を下ろす。定信も手伝って厚い木の板を外し、中を覗きこんだ。
外は既に日が落ちて真っ暗で、暗い井戸の中は何も見えない。
だかよくよく耳を澄ませば、かすかに何か、嗚咽のような声が聞こえた。

「おい、明かり持ってる奴ちょっと来い!」

後ろで利秋が叫ぶと、近くにいた提灯や松明を持った者達が即座に集まってくる。
「いるのか?誰かそこにいるのか!」
明かりを照らし利秋が叫ぶが、声は返ってこない。井戸の中に反響した小さな嗚咽は、井戸の中に首を突っ込まねばわからないくらいに小さなものだ。
井戸は狭く小さいものだが、深いらしく松明で照らしても底までは見えない。
水がどれくらいあるのか、深さがどの程度あるのかもよく見えない。

「いい、俺が入る……って、結構狭いなこの井戸……」
利秋が中を覗きながら舌打ちする。随分昔に掘られ、今は使用されていないらしい古井戸の口はかなり小さく、狭い。
大人が潜るには少々きつそうだった。
「俺が入ります。多分この中で一番入りやすいのは俺だと思うので」
景伊が手を上げる。確かに、彼は今近くにいる男たちの中では一番細い。
「……まぁお前が一番適役かもな。でも気をつけろよ、中どうなってんのかわからねぇから」
「水は、もうあまりないですよ。深さは結構ありますけど……」
井戸を覗く景伊に、利秋が目を丸くした。

「何お前、中見えるの?」
「……え?」

利秋の言葉に、景伊も目を丸くする。
二人の間によくわからない空気が一瞬流れた。

「……まぁいい、とりあえず命綱つけろ。子供いたら呼べ」
はい、と頷きながら景伊は腰に用意された縄を結ぶ。
「定信、これ預かっておいて」
景伊は腰に差していた大小の刀を鞘ごと抜くと、定信に渡してきた。
武士の命とか言われているのに、こいつはそれをあっさり他人に渡しやがる、と定信はため息をつきたくなった。
しかし景伊がそんな事に執着していない事はわかりきっている事なので、何も言わずに受け取る。

「……古い井戸の中って、悪い空気が溜まってる事あるから気をつけろ。気分悪くなったらいいから出ろ」
「わかった」

忠告に頷くと、景伊はするり、と井戸の中に降りて行く。
「見つけたら言え!こっちが呼んでも返事なかったら、引っ張り上げるからな!」
利秋が叫べば、はい、と声が中から響く。
するりするりと縄が井戸の中に引かれて行く。
持って来られた縄はかなり長い物だった気がするが、どこまで短くなるのか。
「……景伊、まだか!」
不安になって定信は声をかけるが、中から聞こえてくるのは「まだ、ちょっと待って」という声のみだ。
恐らく足場も悪いだろうし、底まで降りるとしたら大変な事かもしれないが。
はらはらしながら待っていると、井戸の底からぱしゃん、と水を踏むような音がした。

「……いました。連れて上がります」

水音は、底に降り立った音だろうか。

「わかった、こっちからも引っ張り上げるから、子供しっかり抱いとけよ!」
利秋が叫んで、その場にいる人間で縄を引く。
狭い空間を体を擦りながら抜け出るというのは楽ではないようで、男数人で引っ張り上げたが、景伊が井戸から抜け出て来るのには少々時間がかかった。

しばらくして井戸から這い出してきた景伊は、小さな男の子を連れていた。
歳の頃は5、6歳といったところだろうか。
ぱっちりとした目の、可愛らしい少年。顔にはいくつか擦り傷があり、着物は裾が少し濡れている。
「……よくこんなとこに隠れてたなぁ。怪我ないか?」
定信が井戸から出てくる景伊から子供を受け取ろうとするが、子供は景伊の着物を掴んで離さない。

「……何聞いても話してくれないんだ、この子」

景伊は子供を抱いたまま、井戸を出る。彼もあちこち体を磨り付けたのか汚れてはいるが、怪我はなさそうだった。
「……清太郎!」
子供がいた、という報を聞いたのか、先ほど定信達を案内した男が転げるようにこちらへやってきた。
「よかった、よく無事だったな!」
男は喜びの声をかけるが、清太郎、と呼ばれた少年は、全く何も反応しない。
身内らしい男が話しかけても無反応。黙って景伊の着物を両手で固く掴み、震えているような様子だった。
目が赤く腫れている。
どういう経緯でこんな井戸の中にいたのかはまだわからないが、相当怖い目にあったのだろう。

「……大丈夫だよ、もう」

景伊は子供を抱いたまま、静かに繰り返し語りかける。

「怖い事なんてない。もう大丈夫。大丈夫だから」

あやすように優しく言葉をかけるが、子供に反応はない。
定信はその様子を、少し複雑な思いで見ていた。
景伊にはきっと、あの子供の気持ちがわかるのだろう。
状況は少し違うが、目の前で似たような地獄を見た者同士だ。
子供もそれがわかるから、景伊の着物を離さないのか。たまたま助けに来た若者にすがりついて動けなくなっているだけなのか。
それはきっと、子供本人にしかわからない感情なのだろうけど。

嫌がりもせず子供を抱いたまま、景伊は子供を安心させるように声をかけ続ける。
──大丈夫。
その言葉は定信も、景伊と出会ったあの日に一晩中、語りかける様に言っていた気がする。