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二人の兄貴

20 愛してほしい

時刻は深夜を回る。
景伊はそれからも、しがみついて離さない子供に、必死で語りかけていた。
「大丈夫だ」と。
暗闇でたった一人、助けを呼ぶ事もせず、声を殺して泣いていた子供。
井戸の底から助け出された子供が正気を取り戻すのには、かなりの時間が必要だった。

この幼子は事件の一部始終を見ているらしい。
ようやく断片的に言葉を返すようになった子供に、大人達は何を見たのか尋ねる。

「覆面の、男のひと」

清太郎、と呼ばれたその幼児はそう答えた。
だが5歳程度の子供に、その目撃全てを整理して伝える事などできるはずがない。
目撃証言はあいまいだった。
黒っぽい着物を着ていた、とか。人がたくさんいたような気がする、とか。
「何故井戸の中に?」と定信が聞けば、少年は「……お母さんが」と、瞳を不安げに揺らして答え、俯いてしまった。
どうやら母親が子供だけは、と咄嗟に井戸の中へ隠したらしい。
何もそんなところへとは思ったが、見つからず手出しが容易ではない場所、と咄嗟に目についたのがそこだったのだろう。責める事はできないと思った。


子供が見つかり、料亭の現場検証も進んだ。 部屋は荒らされ金目の物がいくつか奪われていたらしい。
「アレ」が襲ったのであれば、そんな物に手を出すはずはない。
事件は人間による強盗目的のものとされ、捜査が進むようだった。

しかしどうしても、遺体の欠損部分が見つからなかった。

被害者の腕や手首。現場となった室内にも落ちてはいない。利秋の言う通り、そんなものが後で見つかるのも問題だった。 その場にいる人間たち総出で探したのだが、どうしても見つからなかった。
隠されたのか持ち去られたのかわからなかったが、遺体をそのままにしておくわけにもいかない。
遺体はひとまず運び出されることになった。
定信は検死の済んだ遺体の裂傷を縫う。人を助ける為に呼ばれたはずだが、今回は全く役に立たなかった。
どうにもならない事だったと思ったとしても、悔しい。
あの子供が遺体に対面する事があるのかはわからない。
それでもできれば綺麗な状態にしてやりたい。治療の為に持ってきた道具を、その為に使った。
その側には、景伊がいる。 子守を終えた景伊は、定信の助手として遺体の処理を手伝っていた。


「お前ら、もう帰っていいぞ」

利秋にそう声をかけられたのは、空が白み始めた頃だった。
夜通し作業を続けていた利秋の顔は、少々疲れが見える。
「後はこっちでやる。客、家に置いて来てんだろうが。さっさと帰れ」
あ、と定信は声を上げた。
……そう言えば、太助に留守番を頼んだままだった。 確か今日発つと言っていたが、まだ家にいるだろうか。あれで案外気にする男なので、自分達が帰るまではいるかもしれないが。

「……わかりました。景伊、帰ろう」

後ろで、荒れた室内の片づけを手伝っていた景伊に声をかける。
「……あの子は?」
「怪我らしいものはなかったし、今は寝てんだろ。身内もいるみたいだし、後はまかせるしかねぇよ。気になるならまた、様子見に来りゃいい」
「……そうだね」

景伊はあの子供の事が気になる様だった。
恐らく、過去の自分を重ねている。
あの子供はこいつのように、何年たってもこの夜の事を思い出すのだろうか。 それに苦しめられて、夢の中で何度も同じ場面を見て、泣き喚くようになるのか。
そう思うと、気が重い。

心に引っ掛かる事は山のようにある。
周囲の人々に挨拶をして、定信はひとまず景伊を連れて料亭を後にした。


現場の周囲はまだいくらか野次馬がいたりで騒がしかったが、夜ほどではない。
その場を離れると、道は早朝らしい静けさに包まれていた。 まだ日が昇りきっていない周囲は薄暗く、肌寒い。定信は、自分の半歩後ろを付いてくる景伊を見る。
……心に引っ掛かる事。
それはこの事件の内容であったり様々だったが、定信の胸の中で今一番腑に落ちないのは、後ろを歩く青年の事だった。

こいつは何を感じていたのか。何を見ていたのか。

定信も利秋も、周囲の男達も。
においはともかく、あの井戸の中で幼子の押し殺した嗚咽なんて聴き取る事はできなかった。
暗く狭い井戸の中で水面がどれだけあるとか、そんなものも見えなかった。
潮津は景伊の事を「目が良い」と褒めていたが、それは恐らく動体視力的な意味でだろう。

これは何か、違う。

「……お前、昨日言ってた変なにおいって、まだしてるのか」

それまでうつむいて歩いていた景伊が、定信の言葉に視線を上げる。
少し間を置いて、景伊は微かに首を縦に振った。

「……少しだけ」
「何のにおいなんだ?わかったのか」
「……」

景伊は唇を噛む。あまり言いたくない、というような意志が、視線からわかった。
「……死臭だ。覚えがある。あのときと同じ……」
そこまで言うと、景伊はぐっとえづいて口元を押さえ、道の脇に吐いた。
「おま……大丈夫かよ……」
定信は慌ててその背をさする。 夜からろくに食べていないから、吐いても胃液くらいしか出て来ない。
それでも何度か繰り返し、その場で嘔吐する。
 ──平気そうに見えていたが、こらえていたのかもしれない。死臭漂うあの中を出た事で、張り詰めていたものが切れたのかもしれない。
やっぱり連れて来なきゃ良かった、と定信は後悔した。
あの現場の光景は、景伊の中の「あの日」を刺激してしまったのか。
定信の心に後悔が浮かぶ。
「……悪かった。配慮が足りなかったな。来るなって言えば良かった」
 景伊は、首を横に振る。
「……大丈夫。ごめん。……俺も、もう平気だと思ってたから」
吐くだけ吐いた景伊は、汚れた口元を手で拭う。
「馬鹿、手で拭くな」と、定信は手拭いを取り出して手と口元をごしごし拭いてやる。

 ──精神的なものは、なかなか完治が難しい。

自分はわかっていたはずだったが。わかっていた、はずだったのに。
こいつはもう俺がいなくてもいいんだろう。そう思っていた。
気ばかり焦って、それでこいつを傷つけるような真似をして。
景伊が不安そうな素振りを見せないから、勝手に大丈夫なのだと思って。
勝手にこいつの兄貴に嫉妬して、どちらか選べなんて無茶を言って、自分だけを見てほしいなんて子供じみた癇癪を起こし、無理矢理抱こうとして。

(一番不安なのはこいつ自身じゃないか)

己の体の事も含めて全部。
……何故そこを見逃した。
自分がやるべき事ばかり考えて、俺は。
黙って口元を拭かれていた景伊が、わずかに視線を動かす。
見ているのは、自分達の住む屋敷の方向だ。

「……マチが鳴いてる。まだ太助さん達、いるよ」

犬の鳴き声を、景伊は聞いたのだろうか。
可愛がっている犬の声を聞いて、少し景伊は表情を和らげるが、定信には全く聞こえない。
恐らく景伊は、当然のように聞こえる音だと思っている。
周囲が、それを聞き取れていない事に全く気付いていない。

──いつからだ。こいつはいつからこうなっていた?

「わかった。景伊、早く帰ろう」

定信は景伊の腕を持ち立ち上がらせると、そのまま早足で歩き出す。

「ちょ、定信……痛いって」

引っ張るように歩く定信に景伊が抗議の声を上げるが、定信は答えなかった。
早く連れて帰らねば。
それしか考えられなかった。


「おかえりさん」

屋敷まで戻ると、太助が出迎えた。
山で会ったときの猟師の服装に戻っているので、恐らく自分達が戻り次第ここを発つつもりだったのだろう。

「すみません、留守番なんて頼んで」
「いいよ別に。あんたらも大変だったね。利秋の旦那は?」
「あの人はまだかかると思います」
「そっかぁ……家主様に挨拶なしじゃ悪いからなぁ……もうちょい待つか」
「気にしないとは思うんですけど……後でうるさいかもしれないんで、急がなければそうしてもらえますか?」
「いいけど……先生は何してんの?」

太助の視線は、定信が引きずる景伊に向けられている。

「……俺はこいつをちょっと診ます」
「え」

景伊が驚いたような声を上げた。

「何だ坊主、どっか具合悪いのか?」
「え、別に……」
「いいからお前、俺の部屋に来い」

そう言えば、景伊が少し不安げな表情を見せた。
……当たり前だ。あの夜から、そう日は経っていない。
悪ふざけと言うにしても度が過ぎた事だった。そんな景伊の表情を見て、定信の胸に苦いものが広がる。
だが、してしまった事はもうどうにもできない。
定信は景伊の両肩を掴んだ。

「おかしな事はしねぇよ。もうしない。約束するから」

言い聞かせるように言えば、景伊は怪訝な顔をしながらも僅かに頷いた。
「……吐いたのはもう、大丈夫だけど……」
「それもあるけど、ちょっとな。……俺が過保護なだけだ。お前は心配すんな」
そうは言っても、本人に自覚が無いのに医者が「ちょっと気になるから診せろ」なんて言ったら、患者は不安になるに決まっている。
何か気の利いた事を言おうにも、今自分には余裕がなかった。
「首の傷もちょっと気になるし」と言いながら、定信は景伊を自室に押し込んだ。


「そこ座れ」

部屋に入って景伊を部屋の中央に正座させると、定信は先に景伊の首を診る。
化膿しない様に注意してまめに治療していたから、今のところは順調に治ってきている。
もう少しで包帯も取れるだろう。傷も思ったより残らないかもしれない。
「首は、もうほとんど治ってきてるな。治りが意外に早くて良かった」
次に定信は、景伊の目を診る。

「見え方とか何か変わってないか?」

下まつ毛の部分を下に引っ張って目の下も診るが、特に変わった様子はない。ただ目の下が少し白いので、貧血の気はあるかもしれないな、と思った。
「……見えにくいとかはないよ。俺多分、目はいいと思う」
「だろうな。耳は?」
「え……そんないいとか悪いとかわからないよ。でも聞き取りづらいとかないから、大丈夫だと思うけど……」
景伊は少し戸惑っているようだった。今まで外科的な治療、診察は定信に任せていたが、目や耳の事までそう気にした事はなく、定信も見せろと言った事がなかったはずだから、当然だと思う。

「……どうしたんだよいきなり。俺、何かおかしい?」
「……いや」

これを言って良いのか。
自覚のない相手に気付かせていいのか。

「……お前の」

定信はうつむいて、言葉を絞り出す。
ただ冷静に事実を告げようとしても、声が震える。

「お前の見てるもの、聞こえてるもの。どれもが俺らにはわからなかった」

そう呟けば、景伊はしばらく何の事かわからず、ぽかんとしていた。
当り前だろう。意味がわからないに決まっている。

「お前昨日、俺のところに妙なにおいがするとか言って来ただろう。俺にはわからなかった。臭いも騒がしさも。その後の事も……誰にもあの子供の泣き声なんて聞こえてなかった。あの井戸の底がどうなってるのか、俺らには全く見えなかった。……見えてたのは」

お前だけだ。

部屋は、沈黙に包まれる。
景伊は相変わらず、わけがわからないといった顔をしていた。
目が良い。耳が良い。
それは決して、困る事ではない。それ自体は異常ではないと思う。
しかしそれは、景伊の体に元々あったものなのか。
それともあの山神がもたらした「毒」により、何かしらの影響が出始めているのか。
そうなってくると、話は変わってくる。

「いつからだ」
「……知らない、そんなの」

景伊にも、定信の言わんとしている事はわかったのだろう。
首を微かに、横に振った。
「……確かに、俺は目も耳もいいと思ってた。夜空の星座も、人よりよく見える。戸を隔てた囁き声だって聞こえる。でも、それは──」

恐る恐る、定信の反応を恐れる様にゆっくりと視線を上げた景伊と目が合う。

「俺も、責めてる訳じゃねぇ。お前の事が心配なだけだ。お前が変わってないならいいんだよ。お前自身に変わりがなければ、俺はそれでいい」
「……定信」

名を呼ぶと、景伊は視線を己の手に移す。
正座した膝の上で握られた、拳。
握りしめた拳は、白くなっている。
己の手に爪が食いこみそうなくらい、ぎゅっと握りしめられた拳。
定信は無言で、その拳に触れた。
景伊が視線を上げる。
その場にそぐわないような、少し戸惑った様な笑みを浮かべていた。

「どうせなら……どうせ影響でるなら、もうちょっと違うところが伸びてほしいって思ったけど。やっぱり都合良くはいかないんだな、こういうの。もうちょっと頭良くなるとか、剣術で強くなれるとか。そっちの方が俺としては、嬉しかったのに」
「それじゃ駄目だ。お前じゃなくなる」
「……定信だって、手焼いてた癖に。面倒くさいと思ってたんだろ、俺の世話。賢い奴の方がいいだろ」
「手ぇ焼かせないのなんて、お前じゃねえよ。全部俺が好きでやってんだよ。医者の仕事も掃除も飯作るのも、お前の相手も。好きじゃないと思ったらやるか、そんな事」
「……お前、そういう奴だもんな」
「できた奴じゃないんだよ俺は。嫌な事は、極力したくない」

そう定信が吐き捨てると、景伊は仕方ない奴だなぁ、というような苦い笑みを浮かべる。
少々気性の荒いところのある定信に対し、呆れているときに浮かべる顔だった。

「定信は俺の事、どうしたいんだろう」
「……何がだよ」
「口悪いけどさ。基本面倒見良いじゃないか。ほっとけない男だろ?だから今の状況、辛いんじゃないかなって思う」
「お前は人の心配する前に、自分の心配してくれ頼むから」
「お前らしくないお前を見てるのも、俺としては結構辛いんだけど」
「……」

景伊の言葉に、定信は黙った。
──だからって、お前はどうしろと言うんだ俺に。
思わず睨みつけるような視線で、目の前の青年を見た。

「……俺はお前をどうするとかはねぇよ。変わらない。変えるつもりもねぇ。お前はお前、俺は俺だ」
「……見殺しに、するの?」

アレが、が体内に潜んでいる人々を。
医者のお前が?
そういう目で、景伊は定信を見ている。

「……あぁ」
「馬鹿だ。お前は馬鹿だよ定信」
「好きに言えよガキが。お前は確かに妙なもんをしこまれちまった。でも何かが変えられるとか、自分が特別だとかそんなくだらない事思ってんじゃねぇよ。……世の中のどれだけがお前の言う事なんか信じるんだ。お前には世間を納得させる力も守ってもらえる信頼もないくせに。いいように利用されて終わるだけだ」
「……今更。もともとそんなもんじゃないか、俺は」

冷めた口調でさも当たり前のように言われ、定信の心に嫌悪感が生まれる。
ざわざわと、不快な方向に心が波打った。
定信の言葉に、景伊は感情的になる事はなかった。

「ただ今まで、周囲に恵まれてただけだ。今だって他人に面倒見てもらって良い夢見させてもらってるだけだ。俺はお前達に何かできた?助けてもらってるだけで、俺は消費しているだけだ。何か返せた?何もできてないじゃないか。俺がいて皆困ってるってのは昔からわかってるんだよ。だったら人の為になる何かが欲しいじゃないか。……その為なら死んでも」
頭に血が上った。
景伊がそう言い切るより前に、定信の拳が景伊の頬を殴り飛ばしていた。
鈍い音が室内に響く。
加減ができなかった。
思い切り、衝動で殴りつけられた景伊は畳の上で姿勢を崩し、こちらを睨みつける。
定信も上から、殴った青年を見下ろしていた。
殴りたいのか殺したいのか大事にしたいのか何なのか、もはやよくわからないでいた。

「……お前じゃなかったら俺は土下座してでも協力してもらってたよ。お前だから俺は使いたくないんだよ。……何でわかんないんだこの馬鹿!お前をゴミ屑扱いした連中と俺を一緒にしてんじゃねぇぞこの野郎!」

怒鳴り声は室内にこだました。
酸欠になるほど一息で叫んで、胸が苦しい。
荒い息で、今までになく激しく怒鳴りつける定信を、景伊は少し苛立ちのある目で見ていた。

「……お前は俺が気に入らない事したら、そうやって怒鳴るだけだ。俺の話なんて全然聞かない癖に」
「俺がいつ、お前の話を聞かなかったんだ」
「聞いたって、認めてなんてくれない。俺だって、俺の意思があって、いろいろ考えてるのに若いとか馬鹿だとか無理だとか、そうやって全部否定する。前だってそうだ!俺はお前の事だって大事だって言ったのに、信じてなんかくれなかった。……お前も一緒だ」

何と、とは景伊は言わなかった。
景伊を信じなかった者。
彼の言葉を信じなかった者。
それは、一人しか思いつかない。

「……大事だから。だから間違った方向行こうとしたら殴ってでも俺は連れ戻したい。俺はそう思ってきた」

殺意さえ込められた様な景伊の視線を受けとめながら、定信は静かに答える。
「俺も短気なところあるから、確かにお前の話、満足に聞いてやれてなかったところはあると思う。そこは謝る。……だから、教えてくれ。……何でお前、そんなに他人の役に立ちたいって思うんだ?俺もお前の兄貴も、お前にどうかしろとは言ってない。どうしてそんな、自分が痛い目見てでもそうしたいって思うんだ?」

定信は、景伊の黒い瞳を真正面から見つめながら言う。
──太助は、この難しい年頃の若者を、真正面から相手してやる事はない、と言った。
だがこいつ相手ではそれは駄目だ、と思う。
人をよく見ている彼は、きっとそんな取り繕った様な、適当な言葉なんて欲しがらない。
自分は相手にされていない、と失望し軽蔑してくるだろう。
きちんと向き合わなくては駄目だ。取り返しのつかない事になる。
散々逃げ回ったこの数日だが、定信は今はそう確信していた。

こいつが大事だ。
だからこそ。真正面から自分は彼と向き合う。
景伊は問われて、迷っている様だった。
少し考える様にしながら、ぽつりと口にする。

「……愛されたいんだと思う」

景伊も、今はおどおどしたような様子は見せなかった。
定信の目をまっすぐ見て、答える。

「いつだってそうだった。母が死んで、俺はあの家に連れて行かれた。命は保証するとは言われたけど、結局はあの家の人達に俺を殺す度胸がなかっただけで、隠すように飼われてただけだった。離れにいたけど、泣き喚いても良かった。でもしなかった。無駄だろうっていうのもあったし、うるさいからやっぱり殺そうと思われても嫌だったし。でも、多分」

景伊は少し、視線を落とした。己の心の奥底を見る様に。

「──どこかで、良い子にしてたらいつか認めてもらえるかもしれないって、思ってたんだと思う。兄上が俺をかまってくれるようになってからは必死だった。あの人に呆れられるのが怖くて、褒めてもらおうと必死だった。あの人が向けてくれる興味を、逃したくなくて必死だった。だから、俺は褒められるような良い子を演じていた。外の思惑も何言われてるかも知ってたけど、気付かない振りして。……本当は、死ぬほど怖かったのに。あの夜の事だって、未だに怖いのに。でもあの人を恨んでないって言った。それは本当だけど、あの人が俺から離れていくのが怖かったから。どす黒い思いぶつけてあの人が俺から離れていくくらいなら、俺は許すって言う。そんなのいいって言う。嫌われるくらいなら、俺の気持ちなんて捨ててしまえる」

景伊は軽く頭を振った。

「役に立ちたいんだ。俺は必要とされたいんだ。足手まといになりたくてなってるわけじゃない。神様が俺に何を求めてたのかは知らない。でもそれで誰か助かるなら、俺がいてよかったって思えるなら、俺はそうしたいんだ。……誰かの為じゃない。俺の、為に」

うつむいていた景伊が、顔を上げる。その拍子に、頬を一筋、涙が滑り落ちる。

「定信……お前を馬鹿だと言える資格なんて、なかった」
──自分の事しか、俺だって考えていない。
景伊の絞り出したような声を共に、涙がぽたぽたと畳に吸い込まれて行く。
嗚咽もない。ただ、涙だけが流れている。

「……お前は」

定信は、目の前の青年に手を伸ばすと、肩を掴んで自分の元へ抱きよせた。
「馬鹿だなぁ、やっぱり」
あぁこれが、自分が「綺麗なもの」だと思う青年の心の闇なのだ、と定信は思った。
綺麗過ぎて直視できなかったものを、今ようやく真正面から見る事ができたような、そんな思いだった。
こいつは神様でも仏様でもない。
自分と同じ、人間だ。打算だって、どす黒い一面だって持っている。
綺麗過ぎるものほど、信じられないものもない。

「……神様から押しつけられたもんで役に立とうなんて思うんじゃない。お前は自分の力で立ちたいと思ってるんだろう?だったら自分で力をつけて、余裕を持って自分の力でそうしろ。そんなもん、使うべきものじゃないんだよ」
「でも、俺に何があるっていうんだ」
「お前は何そんなに焦ってるんだよ。お前と同じ年頃で、そんな立派な人間いるものか。……稀に神童みたいな奴もいるけど、俺はそんなもの好きじゃない。泥臭くてなんぼだ。年齢重ねたからって、俺だって完璧じゃない。わかるだろ?お前の兄貴だって、出来る奴だとは思うけど、非の打ちどころのない奴ってわけでもない。俺もお前も、出来すぎる部類の人間じゃないんだ。人にはそれぞれ自分の進み方ってもんがあるんじゃないかな」

景伊は黙って、首を横に振る。
愛されたい、という彼の思いが、理解できないわけではない。
景伊の境遇を思えば、仕方のない事だと思う。

「……お前、俺と会った頃に比べたら大人にはなったよ。随分しっかりしてきた。お前の成長を見れるのは、俺嬉しかったし楽しんでたよ。弟ができたみたいでな。お前はなかなか、気難しいところのある奴だけど。俺は精一杯、愛してたつもりだった。お前には伝わらなかったか?」

そう言えば、景伊が顔を上げる。
再度、首を横に振った。

「お前の中では、兄貴が一番で俺が二番かもしれないけど。俺はこの世の中で一番。俺の中ではお前が一番だ、景伊。……俺はお前が、俺に見切りをつけて兄貴のところに帰るのを一番恐れてる。俺だって、お前に捨てられるのは怖いよ」
「……捨てるわけ、ないじゃないか」
「そうか」
「俺は言った。あの人はあの人。お前はお前」
「うん」
「お前は我儘だって言ったけど」
「……そうだな。あのときは俺も我儘だった。ごめんな?「自分を一番好きでいてくれないと嫌だ」なんて、どんだけガキかと思うよな。……悪い」
景伊は手の甲で涙をぬぐうと、首を横に振った。
子供のような反応を見せるなあ、と思いながら、殴った頬を撫でる。

「俺の気持ちをわかれ、とは言えねぇよ。でもだから、俺は他の人間助ける為だからって、お前に痛い目見てほしくないんだよ。今回はお前大丈夫だったけど、患者が何人いるかもわからないのに血肉削ってたら、細っこいお前はすぐ弱って死んじまう。そんなの、駄目だ」
「……お前はそれで、いいの?」
「二つも三つも、同時に選べやしないよ。……大事なものから選んだ結果だ」

定信は景伊に向けて笑みを見せる。
自分は恐らく、地獄に落ちるだろう。
いずれ死ぬとわかっている人間に対し見て見ぬふりする事は、己を内面から削り取っていくかもしれない。
「……クソ医者だ。ヤブよりひどいな」
「医者、辞めるとか言い出さないよな?」
「……いや」
辞めるかもしれない、とは義成と話をしていた。
新規の患者は取らず、ゆっくりと辞めていこうと思っていた。
しかしこの道を選んだ事で安易に辞めて逃げるなど、できるとは思えなくなっていた。
罪悪感を感じながら人の死と付き合っていく。
そちらの方がよっぽど困難な道だ。
自分は逃げない。逃げる事は許されない。

「……お前なしで事態の収拾はできないのか、探るつもりではいるけど」
「じゃあ、俺も手伝うから」
「いや、お前は」

お前はやめとけ、と言おうとしたが、その瞬間景伊が定信の首に手を回し、すがりついて来た。
定信は言葉を失う。

「……お前だけに背負わせるつもりはない。お前が背負うものは、俺も半分担ぐ。地獄なんて怖くない。この世の方が、俺にとってはよっぽど苦痛だった。本当はあのとき、死んだって良いと思ってたのに」
──お前が、俺を助けてしまったから。
景伊のその言葉に、定信は泣いていいのか笑っていいのか、よくわからない気持ちになった。

「……何だよ。俺が悪いのかよそれ」
「いや。でもあのとき死んでたら、何もかもどうでもよくなった気持ちで終わってたんだ。……それは悲しい。でもお前が助けてくれたから、兄上ともまた話せるようになったし、いろんな事を知れた。……お前で良かった。俺を愛してくれる、お前で良かった」
「……泣かせんな馬鹿」
「……泣く事か?」
「いいだろうがもう!お前も部屋帰って寝ろ!ゲロゲロ吐きまくってた癖に!」
定信は景伊を引きはがすと、無理矢理部屋の外へ出し、ぴしゃりと戸を閉めた。
「ちょ……今はもう吐いてないだろ!」
廊下で景伊が抗議の声を上げたが、今己の顔を見られたくはなかった。

───ちょっと本気で、泣きかけていたからだ。