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二人の兄貴

21 緋色の着物

あいつは受け入れる癖がつき過ぎているんだ、と定信は思う。
何があっても、自分が何かされても、それを飲み込んで。
周囲に当たり散らす自分よりはいいと思うが、飲み込んだものは景伊の中に蓄積していく一方なのではないか。
定信は、それが不安だった。人間の心には、容量ってものがあるはずだ。

何でも許す事ができる人間なんて、薄気味悪い。
景伊の事は大事に思っているし、家族以上の情が沸きつつある事も自覚していた。
だがその点については、「こいつはおかしい」と思っていた。
だから時折、自分に対して癇癪のようなものを起こす青年を見て、定信はどこか安心していたりする。
年下の男に怒鳴られて、突っかかられてそう思う自分も、相当「おかしい」とは思っているのだが。
だが、彼がそうするのは、自分だけ。
だから許せるのだと思う。
これが他の人間だったら、きっと売り言葉に買い言葉になっているはずだった。

──愛してほしいから、許す。自分の感情なんて、捨ててしまえる。

そのぶっ飛んだ思考を持ったまま、成長した青年。
その付き合いはもう何年にもなるが、未だにどうしてやったらいいのかはわからない。その考えを正してやると言えるほど、自分は人間ができていないと思う。

──愛しているよ。家族以上に。

「愛してほしい」と思い続ける気持ちに応えるには、自分の「愛」とやらは少々危険なものだと思う。
それでもいいのか、とは、まだ聞いていない。


血なまぐさい現場から帰ってきて、時刻は昼を回った。
定信は縁側に座って風に当たりながら、ぼんやりとしていた。ほぼ徹夜であったはずなのに、全く眠くならない。
考える事が多かったからだろうか。最近あまり夜も眠れない事が多い。
体はしんどさを訴えるのに、意識だけは眠る事を拒否している。
景伊はあれから「少し寝る」と言って部屋に戻ったし、太助はこの屋敷を発った。
つい先ほどの事だった。

「利秋が戻るまで待てばいいのに」と定信は言ったが、あの猟師は「あんまり厄介になるのも悪いから」と、いつになるかわからない利秋の帰りを待たずに去ると言う。
「じゃあ、景伊起こして来ますから」
そう言うと、太助は「いいよ」と定信を止めた。
「寝てんならいいよ、わざわざ起こさんでも。……でもこいつがいなくなったら寂しがるかなぁ」
太助の足元では、マチが大人しく座っている。
確かに物珍しさから可愛がっているようではあったが、人の犬だ。
飼い主がもう行く、というのなら、こちらとしては引きとめるつもりもないし、景伊も何も言わないだろう。

「……まぁ、何もわかんないかもしんないし、俺が何かしたところで、って言うのはあるんだけどな」
「……皆そんなものだと思いますけどね」

アレに遭遇したから、縁があったからと言って、無理にそれを関わる必要はないと思っている。
自分はこんな仕事をしているので、そう簡単には言えない事だったが。
下手に手を出すと火傷するというのはわかっているが、中途半端に知ってしまった自分達は、このまま煮え切らないままでいるわけにはいかないのかもしれない。知りたい、という好奇心は、やはりどこかにあった。
自分も含めて。

「ま、生きてたらまた会おうよ。先生もあんまり危ない事に首突っ込まないようにな」
「それは、お互い様でしょう?」
そう言えば、太助が笑った。
がめつくて頑固な男だと思っていたが、随分と親しくなってしまったものだと思う。

一人と一匹の背を見送ると、屋敷の中は静かになってしまった。
この数日、人数が多いのに慣れていたからだろうか。
しん、と静まり返った家の中に、定信はどことなく寂しいものを感じる。
寝ている景伊を一人置いて家を空けるわけにもいかない。どうせこの荒ぶった神経では寝れもしないだろう。
利秋も多分疲れで苛つきながら帰ってくるだろうし、この家の主の帰りを俺くらいは待っていようか、と煙草でも吸おうと思ったときだった。

懐をあさる為少し落とした視界の端に、何かが一瞬映った。緋色の鮮やかな色。

そちらの方に怪訝な視線をやれば、庭の端に有り得ないものがいた。

少女だ。
定信はその少女と面識があった。
数日前、この騒ぎが起こる前に虫刺されの症状を持ち、白い粉を残して姿を消した少女。
定信達の目の前で、数日の失踪から戻った少女。
それが何故か、この屋敷の庭にいる。
色鮮やかな朱色の着物を着て。

「……」

定信は、黙ってその少女を見据えた。
少女は笑みも浮かべず、ただ無垢な瞳をこちらに向けている。
自分達があの山で見たものが事の顛末だとしたら、この帰って来た少女は少女本人ではない。
アレが、化けたものだ。

「……真昼間から、何しに来たんだ」

定信の喉から出た声は、見知った少女を気づかうものではなかった。
そんな気はない。ただ、嫌悪しかない。
恐れず話しかける事ができたのは、相手がまだ幼い少女の外見をしているからだろうか。
少女は、さえずるような声で言った。

「……先生に、興味があったから」

以前と全く変わらない少女の声に、定信の心にいらりとしたのものが生まれる。
「普通に話せるんだなお前ら」
そう言えば、少女は自分の指で、己の頭を指差した。
(……知能がある、って言いたいのかよ)
何なのだこいつは。
不安と共に、今までの疑問が口からこぼれた。

「……俺を齧りに来たか?」

──考えてみれば、おかしな話だと思っていた。
自分達は以前から、「アレ」の存在に気付いている。
アレが知能を持ち、この社会で騒ぎになる事を嫌い、密かに人を食う事を選んだのであれば、あれこれ嗅ぎまわり存在を知っている自分達は邪魔なはず。自分達からまず消そうと思うのが当り前ではないか。
しかしあの山では死ぬかと思ったが、それ以外は向こうから何か来るでもなく、自分達はまだ生きている。
それは、引っ掛かっていた。
問えば、少女は少し嫌な物を目の前にしたような顔をする。

「嫌よ。貴方臭いもの。この家も臭い」

少女の物言いに、定信はまた臭いかよ、と悪態をつきたくなった。
「そりゃ悪かったよ……掃除もしてるんだけどね。そこまで不潔にしてる覚えもないが」
「違うの。あいつの臭いが充満してる」
「……あいつ?」
何の事かわからず眉を寄せると、少女は「あの、白いの」と答えた。

「あの山にいた白いもの。私達を追っかけて殺す者。あれが放つ臭いがする」

貴方やこの家に染みついてる、と少女は着物の袖で鼻を覆う仕草をした。
白いもの、とはあの山神の事か。確かにこの庭で一度見たが、それは3年も前の事だ。
だとすればその臭いの元、とは。

「……景伊か」
「そう。彼からおんなじ臭いがしてる。一緒にいる貴方達まで臭いが移ってる」
定信には、その「におい」というものがどんなものか、よくわからない。
しかし「アレ」はあの山の神が放つにおいを敏感に感じ取っているらしい。

「私たちは極力近寄りたくない臭いよ。好き好んで貴方達を齧りたいって奴、あまりいないと思う」

(……虫よけみたいになってるのか)
あまりいい例えとは思えなかったが、定信はそう思った。
あの白い山の神に何かを授けられた景伊は、血肉を毒へと変えた。
自分達にはわからないが、「彼女たち」にしてみればそれは不快なにおいを発しているらしい。
その「におい」により、共にいる自分達も「極力近寄りたくない」存在になっているようだ。

寄りたくないだけで、この少女のように来ようと思えば可能らしいが。

「じゃあ、何で臭い思いしてまで来たんだよ」
「言ったでしょ。先生とお話がしてみたかったから」
「……俺と?」
「そう。だから、できれば外でお話がしたいの。彼もこの家にいるみたいだし、私にはこの家の臭いが強過ぎて、結構きついのよ」
「何でお前らの頼み聞いてやらにゃならんのだ。……用があるならここで話せよ」

少女の可愛らしい言葉にのって、言う事を聞く必要などない。
ここが彼女たちにとって居辛く思うほどの強烈な臭いを出しているというのなら、それに自分は守られていると言う事になる。
わざわざ危険を冒して外に出る事もない。

「……近くに行かなくてもいい?ここからでも」
「どうぞ。……俺も近寄ってほしいとは思わんし」

少し残念そうな顔をする少女は、こうして見れば何も変わらない、普通の女の子だった。
ただ少々、7歳にしては大人びた喋りをするのが気になる。
声や容姿はそのままでも、話していると何か違和感を感じた。

定信としては、得体のしれないものと接したいとは思えない。
だが今アレと、振り回され続けたアレと話ができるというのなら、自分だって聞きたい事はあるのだ。

「……綺麗な着物だな」

何を言おうか考えて、しばらくして出た言葉は、そんなものだった。
朱色の鮮やかな着物の色は、寒々しい季節に彩られた、色気のないこの庭では浮いている。
その色は、定信の眼に刺激をもって突き刺さるような感じさえした。
良く見れば、少女は薄く化粧をしているようでもある。

「綺麗でしょ?七五三って言うの?あれだったのよ」

少女は少し自慢するように、くるりと回って見せる。
着物は上質な物のように見えた。
長屋裏に住まうような子供が着せてもらえるようなものではない。
きっと、行方不明になっていた娘が帰って来たのを喜んで、お祝い事に両親が奮発したのだろう、と定信は思った。

愛されているのだ。この少女は今、その家庭で。

定信はその家庭とも顔見知りだった。師の楠の家の近くに住んでいる人だから、よく知っている。
その両親に向かって、「お宅の娘さんは偽物ですよ。とっくに娘さんに化けてるものに食われて死んでいるんですよ」なんて言えるわけがない。
頭がおかしいと思われるだろうし、己の心情的にも言いたい事ではない。
知りながら隠している事は、やはり罪なのだろうけど。

「そんな綺麗な着物引き摺ってうちに来たのかよ。一人で?」
「そうよ。先生にも見せたいからって言って来た。神社、近いしね。帰りは先生に送ってもらうから大丈夫って言って」
「……おいおい誰がお前を送るんだよ」
「だから先生よ。お母さんも先生と一緒に帰るんだったら、一人で行ってもいいって言ってた。随分町の人から信用されてるのね、貴方」
「……」

定信は、深いため息をついた。
腹が立った。
昔の少女を知っている分、少女のふりをして自分に甘えるこの化け物に、腹が立った。

「俺なんかと話して、何かいい事あるかよ」
「あるよ。先生は私たちの事、知りたいでしょう?私たちだって、人が何考えてるのか知りたいもの。先生となら、私たちが何か理解してもらえた上で、お話ができるから」

少女は笑う。

「私は、3年前の、この町の事件の事も知ってる。この屋敷で貴方達と会った事も。この間、貴方が山に来てた事も知ってるから」
定信は眉を寄せた。
それらは全て、時系列がばらばらの事だ。現に3年前の事件の原因を作ったアレは、山で白い山神に殺されたはず。
少女は再び、自分の人差し指で自分の頭を指差した。

「私たちは、意識をある程度共有できるの。種全体の歴史として。だから別のものが過去に見た貴方達の事も、私は自分の記憶として知っている」

つまりこの少女の姿をしたものは、過去から今現在に至るまで、この種が経験した事を全て知っていると言う事らしい。

「……わけわかんなくなりそうだな」
「そう。わけがわからない。どこからどこまでが自身が体験した記憶なのか。だから、「自分」が欲しかった」

私を含めてね、と少女は言う。
3年前にこの町にやってきた個体が、記憶した人々の暮らしの映像。それは山の中に籠るもの達にとっては、かなりの刺激だったのだろう。
一つの塊のように存在していた彼らは、「個」に憧れた。

「……そんな、お前たちの言い分聞かされてもな。お前らは、どうせまた人間食うんだろ。ほとぼり冷めたら、またどっか別の人間に潜り込んで成り済ますんだろ」
「もう食べないわよ。私はこの子の人生を手に入れた。この体で一生を終えたい。個として」
「……そんなの信用出来るか」
「信用できないならしなくてもいい。だけど、町に出てきた者達は大体、そういう意識を持ってるわ。……今までは山に入ってきた人間を食べるだけだった。暮らしも社会も知らなかった。ただの餌と思っていたもの惹かれるなんて、思いもしなかったけどね」
「……だったら、勝手に人に化けて暮らして死ねよ。誰かを食うな」
「それは無理だと思うな。一瞬の姿形を変えるのは得意だし、獲物を誘う為に意識も読むわ。でも私たちがこの「個」としての体を保つには、元の素材はどうしても必要だもの」

その言葉に、定信は鼻で笑いを飛ばした。
この化け物達は、体内に寄生して中から素材となる血肉を食い荒らし、人になり変わろうとしている。
それを、元々は餌でしかなかった人に対して、憧れた末に編みだした素晴らしい技術だと思っている。
どんなに人に惹かれただの、言葉を並べたところで、彼女らにとって人とは、ただ何をしてもよいという獲物だというのは変わっていない。
やはり彼らは、人間にとってただの化物だ。
理解などできるわけがない。

「……お前らは自分達だけでは何も生み出せないんだな。今得た「個」とやらも、お前らが勝手に奪ったものだろう?どんなに頭が良かろうが、くだらないよ。居場所もなにも、お前らだけじゃ作れない癖に。お前らのそれは、ごっこ遊びだ」

吐き捨てる様に言った言葉に、少女は何も言い返してこなかった。
見つめ合ったまま、沈黙が生まれる。
少女はこちらへ寄ろうとはしない。
庭の端に突っ立ったままだ。
話をしに来ただけ、と言うのは本当なのかもしれない。
だけどそれを信じる義理もない。

「……あんたが、3年前の事も記憶として持ってる、って言うなら教えてくれ」

定信は座ったまま、少女を真っ直ぐ見据えた。

「なんで景伊だった?この町、そこそこ他にも人間いただろ。山から出て来て町に出て、はしゃいじまったとしても。何であいつだった?理由はあるのか」
そう問えば、少女は少し考える様な仕草をして、語る。
「……きっかけ、って言うのはないわね。ただ本当に目についた。始まりはただそれだけだったみたい」

そのときの記憶は私たちにとっても印象深かったからよく覚えている、と少女は言った。

「追手が来るってわかってた。あの白いのは、山を出てでも私達を追っかけて殺しに来る。それがわかってた。どこかに隠れなきゃと思ってても、あいつは犬みたいに私たちの臭いを嗅ぎつけてくる。だから人の中に潜り込もうとした。ここは、人はたくさんいるから。人の臭いで、あいつを欺こうとしたのよ」

薄暗い山の中とは勝手が違ったのか驚いたのか。
今まで山の中に迷い込んできた人間を捕食していた彼らにとって、人の住む町というのは、新鮮な驚きだったに違いない。

「……でも、うまくいかなかった?」
「そう。初めての事だったし、うまくいかなくて……苛立った。でもそいつは、彼の体には入れるんじゃないかと思ってたみたい」
「……何故?」
「からっぽだと感じた」
少女はひどく、抽象的な物言いをした。
「……意識を読んだ時、彼の心をからっぽだったと感じた。他の人より隙間が多い様な。……うまく言えないけど、感覚としてね。だから入れると思った。何日も密かに隠れて隙を狙って、暮らしを観察しながら。……だけどそのうち、親近感感じちゃったのね。山を出て一人逃げて来て、いつ殺されるかわからない私。暗闇で孤独なあの子。意思の疎通もできないくせに、勝手に親近感覚えたの。だから」

数年前に死んだ仲間の記憶を語る少女の言葉は、いつしか自分の事を語るような熱を帯びていた。
定信は、少女の語る言葉に、嫌な予感しかしない。
景伊の意識を読みとっていたアレ。それに勝手に親近感を覚えた、というアレ。

「……だから、あの家の人間を殺した?」

定信の言葉に、少女は頷いた。

「喜んでくれると思ったみたい。事実、あの子のお兄さんだけは殺さなかった。その人だけは好いてるのがわかってたからね。 ……だけど、あんな事になってしまって。だから死にかけの体を、必死に外へ逃したのね。純粋に助けたくて、屋敷の外に引きずり出して。でも先生に拾われて、あの子はまた人の手の中に落ちたわ。嫉妬してた。周りの人間、全て殺してやろうと思った。でもあの子が悲しむのは見たくなかったみたい。まるで恋よね」
「傍迷惑な、な」
「そうかもしれない。でも一度貴方達の前に姿を見せた後、彼は姿を見せなかったでしょう?……本当はずっと近くにいたのよね。私たちは当たり前のように人を食べてたけど、悲しいとか、そんな感情を目の当たりにしたのは初めてだった。まるで恋の様に焦がれるものに初めて出会えたのに、彼が喜ぶと思ってやった事なのに。恨まれて、どうしたらいいのかわからなくなってた」

そんなふうに思うのも初めてだった、と少女は俯きがちに語る。

「……そいつはその後、山の神に討たれたわ。でもそいつが残した記憶は、私達を動かした。豊かな感情、見知らぬ人々の暮らし、餌だけではない人の一面。それは、私たちも感情を持っていたからこそ共感したのもの」

定信は唇を噛む。
3年前の事件は、自分達だけでなく、彼らにとっても大きな転機だったらしい。
だが景伊をよく知るものとして、家族のように思うものとして、そんな一方的な恋物語を聞かせられても、苛立ちしか生まれない。彼らに同情する気は全く起きなかった。
彼らは人の記憶にある姿に化けて、油断させたところを襲う。
そのために、ある程度の相手の思考や記憶は読めるのだろう。
そこであの化物が読み取った景伊の思い。
「周りの人間すべて殺せば、喜ぶと思った」という言葉。
今の彼を知るだけに、考えたくなかった。あの土蔵の中の7年で、彼が心の内に育てていた憎悪の存在なんて。

「私たちは、そいつが得たかった人間を、自分の血で汚した山神が許せなかった。強い臭いをつけられて、しばらく近寄れなかった。でも、あいつは卑怯な奴よ。臭いが薄れた頃に、もし彼を私たちが食べようとしたら、その瞬間に発動する罠をしかけてた。……どうしたらあんな陰湿な手が思いつくのか疑問よ」

賛同などしたくはなかった。
どちらにも。
定信は苛々とする心を落ち着けるように目をつぶる。

景伊の感覚。目や鼻、耳が異常に良いと気付いたのは昨日の事だ。
それまでは特に異常に気がつかなかった。
きっかけは、義成に首を噛まれた事なのだろうか。
あの白い山神の、高笑いが聞こえてくるようだった。

もし、この化け物たちが景伊に再度手を出す事があれば、その瞬間血肉は化け物を殺す毒となる。
この化物の天敵は、相手の執念深さと執着心を痛いほど理解していた。
それを見越しての、罠。

数日前、眠っていたその罠は発動した。
その瞬間から、彼の中で変化が始まっていたのだろう。それまで何もなかったのはそのせいだ。

「だから、私は貴方と話をしたかったのよ、先生」

少女が顔を上げ、離れた場所からじっと定信の顔を見つめている。

「あの子に白い奴とおんなじ毒があるのなら、それは私たちにとって脅威。でも人の身で血肉を削るなんて苦しい事でしょう。できれば、そんなもの使わない方が彼の為」
「……何が言いたいんだよ」
「協定を結びたいのよ。互いの身の為に」
少女の言いだした事に、定信は顔をしかめる。
「……何都合のいい事言ってるんだよ。今までやりたい放題して食いまくってた癖に」
「3年前みたいに、大事にしてしまったのは謝るわ。でも山を出た私たちはそんなに多くない。それぞれ、一人。それ以外は必要としないと、約束するわ」
「だからそれが問題だって言ってんじゃねえか!」
「無作為に人殺して食べる奴と、どっちが問題かしら。例えば、昨日の料亭の事件。先生行ったでしょ?」
記憶を読まれているのだろうか、と定信は思わず身構えた。
「手首とか腕とか。一部見つからなかったんじゃないの?」

どきりとした。
まさか、という思いが胸の奥から染み出してくる。

「……食ったのか」
「食べてるわね。人として襲って、金品強奪は偽装。本来の目的は食糧調達。でも行方不明者が出ると騒ぎになるから、欠片だけ頂いちゃおうって事。でもそんなんじゃ満足できないから、多分またやるわよ」
「……それぞれ一人しか食わないって言った癖に」
「……はしゃいじゃってる連中がいるのよ。私たちは、大人しく人に紛れたい、ただ個に憧れた者。あいつらは個を手に入れた上で、それでも食べる事が我慢できない奴。食べ放題の現状を天国と思ってるような、馬鹿な連中」
「……」
定信は、言葉を失う。
あの料亭も、こいつらがやったのか。
そう思うと、体中の毛が逆立ちそうな感覚がした。
「でも、できれば一緒になんてしてほしくない。あんな風に派手に荒らし回れば、密かに生きるなんてできるわけがない。だから私は、今日先生と話しに来たの。あいつらと私達は違うって、わかってほしくて」
「俺らに区別なんてつくか。仲間の不始末だってんならてめぇらで何とかしてくれ。大体、お前らは自分達の主張ばっかりじゃねぇか!そんなの話し合いとも呼べるか!」

そう叫んだ瞬間、少女が定信の背後に向かって視線を動かした。
何を見ていると思った瞬間、背後に人の気配を感じた。思わずどくりと心臓が跳ねて、定信は背後振り向く。

「……景伊」

景伊が音もなく、定信の後ろに立っていた。
だらりと下げた手には太刀を握っている。
ひどく冷めた顔でこちらを見下ろす景伊に、定信は眉を寄せる。

「お前、起きたのか」
「……あれだけでかい声で話してれば、目も覚めるよ」

そりゃそうだ、と思った。
自分たちは声を潜めて話していたわけでもないし、感覚が鋭くなっている景伊なら、それでなくても目を覚ますだろう。

「……臭い奴も紛れ込んでるみたいだし。定信お前、なに普通に話してるんだよ」

景伊はそう言うと、少女向かって視線を投げる。
その視線は子供に向けるようなものではなかった。
憎悪の混じったような目だった。

「騙すことは、お前らの得意な事だもんな。そうやって人に取り入って、騙して殺すんだ。詭弁ばっかり並べて。子供の姿なんかしてても騙されない」

景伊は素足のまま、庭に降りた。鞘に入ったままの刀を左手に握りしめている。
定信の前に立ち、前方の少女をじっと睨みつけている。
きっと彼は、いつでも抜刀できる。

「俺の家族を、また殺しに来たのか」
「違う」
僅かに後ずさる少女を追うように、景伊が一歩踏み込んだ。
「嘘をつくな。お前たちの言うことなんか信じられるもんか。何もかも……俺から奪っていくくせに!」
「……やめろ景伊」
今にも斬りかかりそうな景伊の腕を掴んで、定信は止めた。
こちらを振り向く景伊の目には、いつもの穏やかさは全くない。
何で止める、と目が言っている。
そこには、目の前にいる少女の形をしているものに対してへの、あきらかな殺意があった。

「あれでも、今はあの子を可愛がってる親がいるんだよ。お前はその恨みまで背負えるか?無理だろう。お前は確かにあれを殺してしまえるけど、今は駄目だ」

今はこいつを止めなければ駄目だ、と思った。
こんな殺意と恨みに満ちた目をする者も、確かに景伊だ。
少女が言っていた、彼の心の奥底にあった希望。それが真実だとしても、自分はこいつを好いている。
危うく道を簡単に踏み外しそうなこの若者を、心はまだあの暗く寒い土蔵とあの夜に囚われているこの若者を、自分は離したくないのだ。

「──悪いけど、今日は送って帰ってやれないよ。話に来てくれて悪いけど。……あんたらにも思うところがあるってのはわかったけど、理解はできない。俺たちはやっぱりあんたらが怖いし、嫌いだから」

定信は景伊の腕を掴んだまま、少女に向かって言い放つ。

「……話を聞いてもらえただけでも、有難かったわ。……最後にひとつだけ、答えて」

少女は僅かに視線を落とし、残念そうな顔で言った。

「景伊さん。あなたは、この町の白い奴になってしまうの?あいつが貴方にどんな事をしたのかわからないから、あなたの身がこれからどうなるのか、それは私にもわからない。貴方はあいつみたいに私達を狩るようになるのかしら。鬼みたいになるのかしら。だとしたら、貴方は私たちの天敵よ。私たちだって死にたくないから、貴方を排除しようとすると思う。どうなの?」
「……お前達は元々、敵じゃないか。今更言うことじゃない。……でも」

一瞬、言葉を切った景伊は、定信を見た。
そこにあるのは、殺意まみれの瞳ではない。

「あんなふうにも、俺はなりたくない。血塗れでお前たちを追い回す狂人にはなりたくない。まだ、人でいたい」

表情は硬かった。だが、口調はそれに反して穏やかだった。
少女はそんな景伊をしばらく黙って見つめていたが、こくり、と小さく頷く。
「……私も、それを願ってる。一部の馬鹿が迷惑かけるかもだけど。私を通じて、貴方の決意は今皆が聞いたわ。「個」を選んだ者たちは、人として一生を終えることを誓いましょう」
少女は僅かにほほ笑んだ。
「あと……貴方に災厄を与えた者の、貴方への思いを伝えてもいい?貴方にとっては、いい思い出ではないと思うけど」
少女は、ゆっくり景伊に近づいてくる。三歩ほど手前で止まり、少女は景伊の顔を見上げた。

「彼はあなたに、愛を与えたかったのよ。方法は間違っていたとしてもね」