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二人の兄貴

22 わかってないのはお前だけ

少女が去った後、景伊は黙って室内に戻ろうとした。
「景伊」
声をかけたが、返事はない。振り向きもしない。
廊下を歩く景伊の後を、定信も追う。
普段なら庭に素足で降りて、そのまま廊下へ上がった青年に「足拭け馬鹿」とでも言っただろう。
だがそんな軽口をたたける気分には、今はならなかった。
前を歩く景伊の薄い背は、静かに「ついて来るな」と言っているようでもあった。

アレの言ったことに、心乱されなければいい。
だが無理だろう。

「……おい」

無視をするな。
こっちを向け。
俺の話を聞けよ。

そんな思いで声をかけるが、景伊は何も言わないままだった。
どういう顔をしているのか、背後からは見えない。

やがて短い廊下を抜け、景伊は自室の前に立つ。
引き戸に手をかけたときようやく、景伊がこちらを振り向いた。
だがも何も言わない。
部屋に入ることを、拒絶はされていないらしい。

──入るなら、入れば?

彼の冷えた目は、そう言っている。
部屋に入ると、彼の狭い部屋には布団があった。
先ほどまで仮眠していたのは事実のようだが、景伊はそれを無言で畳む。
その様子を部屋の入り口で立ち尽くしながら見ていた定信は、なかなか声をかけることができないでいた。

──先ほど。
定信は自分の部屋で、自分はこの青年に愛している、と言った。
愛されたいのだ、だから自分を犠牲にしてでも人の役に立ちたいのだ、と語った若者。
だから告げた。
自分はどうしようもないこんな男だが、愛している、と。お前が一番大事なんだと。
そう告げたときに一瞬見せた、景伊の穏やかな顔はどこへ行ったのか。
今は戦にでも出向く前の男のような顔をしている。
この若者は、こんなに険しい顔をすることができたのだと、3年共に生きた定信は初めて知った思いだった。
景伊の中から幼さが消えていく。この数日間で、急速に。

わからなかった。
景伊が今、何を考えているのか。

彼の事をわかっている、という自信はあった。歳の割にどこか精神的に未熟な部分のあった青年の考える事というのは、自分から見れば浅はかで、甘いものであった。
今、無言で部屋を片付け始めるこの若者が何を考えているのか、まったく想像できない。
その仕草はまるで、荷物を整理しているかのように見えた。

「……出て行く気か」

そう突っ立ったまま告げると、景伊が動きを止めて、ちらりとこちらを見た。
だが見ただけで、何も言わない。物を片付ける手を止めようとはしなかった。
部屋はそんなに散らかっているわけではない。
ただ彼が好んでよく読む本達が乱雑に置かれているだけで、景伊はそれを丁寧にまとめて、並べ始めた。

「……勝手に出て行くとか。俺は許さねぇぞ」

そう言えば、景伊は冷ややかな視線をこちらに向ける。

「それは、お前の決める事じゃない。お前が許す許さないは、まったく関係ない」
「義成のところへ戻る気か」
「……兄は関係ない。あそこへ戻る気もない」
「じゃあ、どこへ行く気だ」

定信の問いに、景伊は何も答えなかった。
お前がほかに行くところなんてあるわけないだろう、という言葉は飲み込んだ。

「理由もあてもない家出なんて、目の前でされてたまるか」

部屋の入り口をふさぐように立つ定信を、景伊は笑みもない顔で見つめる。

「……理由はある。事の元凶がなんだったのか、わかってしまったから」
「あいつが言ったことか。……本気でとるなよ。誰でも思うことだろ、そんなの」

景伊の言う、元凶。
それは恐らく、景伊が自分を閉じ込めていた長棟家の人間に対して、密かに年月をかけて育てていた憎悪の事だろう。
家の体裁の問題で、彼は存在を認められなかった。
生かされながら、幽閉に近い暮らしを7年も続けた。
7歳から14歳までの貴重な期間の事だった。
その彼に唯一関心を示し、「可愛がった」のは兄の義成。
景伊は、兄にすがるように生きていた。今も彼にとって兄とは「親」の代わりであり、景伊の中では絶対的な存在である事は変わっていない。
自分をやっかみ、邪魔だとし、心無い言葉をぶつける他の人間たち。
それを憎んだ事は罪か。

「それが罪だっていうなら、俺は何回裁かれたかわからねえよ。嫉妬はするし、俺だって頭の中で、何度自分の親父を殴ったか。こいつ死ねばいいのに、とも思ったこともあるさ。所詮俗物だからな。皆そうだよ。人間そんなものだよ。それは、お前だけが特別じゃない」

「でも、それが本当になってしまったら?俺がそう思っているのを知ってて、それを叶えるためにあいつらがやったんだとしたら。 ……元凶を作った俺は、恨まれて仕方ない存在だろう?兄上に何て言ったらいいんだ。優しくしてもらったくせに、俺は!……あの人達の事、好きじゃなかった。嫌いだったよ。いつか見返してやるって思ってた。でも、俺はいなくなれ、殺してやりたいなんて願ってたつもりはなかったんだよ!」

───だって、それでもあの人たちは、兄の家族だったんだから。

景伊は吐き出すように叫んだ。
叫んだ拍子に、部屋の隅に積まれていた箱が崩れ、中のガラクタが畳の上に散らばった。
景伊は舌打ちするように苦い顔をして、それを拾う。

「……でも、俺は悪くないんだなんて言うつもりはない。兄が俺を信じてくれなかったのは、俺にも原因があるんだろう。こいつはいつかこういう事、やるかもしれないって思われてたのかもしれない。俺なんて所詮その程度だったって事なんだろうよ。勝手に好かれてると思ってた俺が馬鹿なだけだ。あの人は優しいから、責任感じて。俺の事知らんふりできないだけだ」
「……あいつはそんなこと、思ってないだろうよ。今更責めるとは思わないが」
「お前に何がわかる!」
「……わかるんだよ。つい昨日……かな。二人で話す機会があった。あいつもどうしようもなく、不器用な男ではあるな。流石にお前の兄貴だと思った。お前が黙っていなくなってみろ。いろんなもん放り出す勢いで、お前の事探すだろうよ。もちろん責任も感じていると思う。だけどお前の事、あいつは可愛がってる。自分の事なんざ放棄して、お前を探し出すだろう。目に見えてるよ。わかってないのはお前だけじゃないか。兄貴の事が大事なら、これ以上負担かけてやるな。寿命縮めるような真似はやめてやれ。もちろん、俺もそんな真似は許さない。お前が消えたら、一発ぶん殴るまで探す。人生かけてでも探す。もうしないって誓わせるまで」
定信の言葉に、景伊は自嘲的な笑みを浮かべた。
「……馬鹿だな、お前も」
「馬鹿だろうな」
定信は頷く。
「馬鹿なのはわかってる。でも俺以上に馬鹿なお前になんて言ったら通じるのか、これでも考えてるんだ。愛してほしいくせに、人の気持を信じれない、歪んだお前。どうしたら正せるのかって。ない頭で、これでも必死に」
「……!」
ぎり、とこちらを睨みつけこぶしを握った景伊の腕を、定信は掴む。
目が合った。
「……離せ」
「俺を殴るか、景伊」
景伊が手を振りほどこうとするが、単純に力だけであれば、上背のあるこちらの方が強い。
殴られたって良かった。だが今、こちらの言うことになど聞く耳を持たない若者に、言いたい放題言わせて好きなようにさせるほど、自分に忍耐はない。

「やるならお前、本気でやれよ。お前の腰に、俺を殺せるものがあるだろう。喧嘩なら俺の方が多分強い。でも、殺し合いなら、お前の方がずっと強い」

抜け、と定信は顎で促した。その仕草に、景伊は目を見開いた。
「なに、を」
「刀。お前が本気でここ出ていくって言うなら、俺は本気でここをどかない。世間知らずのお前に家出なんて大層な事できるのか、見極めてやるから。俺をここで斬り捨てていく覚悟があるなら、認めてやる。それもできないようなお前には、そんなことできるわけがない」
「お前……頭おかしい」
景伊が顔をゆがめた。
だがその顔を見つめる自分は、ひどく冷えた顔になってきているのがわかった。

「とっくに頭なんてイってるさ。ろくな人間じゃないってのは、お前も知ってるくせに。俺は武芸のたしなみなんてない、体だけでかいただの町医者。お前は剣術の才能を期待されてる名家の次男坊。できない事はないよな?鍛えてるんだからさ」
定信は握ったままの景伊の腕を無理やり、自分の胸元へあてる。

「狙うなら、確実にやれ。無様に半端な真似をされるのは御免だ」
そう言えば、己の胸に当てさせた景伊の手のひらが、ひくりと震えるように動く。

「ここが心臓。ずれても……肺に当たるから駄目だな。血管多いところだから、苦しむがいずれ死ぬ。腹は斬り易いが、自分の内臓ぶちまけてるのを見るのは気分が良くない。死ぬのに時間かかるしな」
順に、急所を教えるように、定信は景伊の手を己の体に当てていく。
「首。ここに、太い血管が通ってる。脈打ってるだろ?」
「……定信」
景伊が眉をしかめた。だが変わらず、続ける。
「お前にその技量があるか?俺の首飛ばして行くだけの覚悟と度胸が」
「定信!」
耳元に囁いた瞬間、景伊が腕を振りほどいた。
理解できない、という顔をしている。
「お前……死にたいのか」
「死にたくはないな。痛いのは嫌だし。ただ、お前の言うちんけな覚悟、本気。そんなものより俺の方がまだ本気だって事、それくらいしなきゃわからんだろう、あほなお前には」
言いながら、景伊の胸ぐらを掴んだ。
そのまま勢いで、景伊を傍の壁に押し付ける。
「……!」
軽く首が絞まって、景伊が苦しそうにこちらを見上げた。
見上げる景伊を無表情に見下ろしながら、定信は語る。

「……愛してるよ。愛してるから、お前をどこへもやりたくはないよ」

こんな状況で愛を語るなどふざけていると自覚はあった。

「どこへだろうと、相手が誰であろうと。それがお前の信仰する兄貴でも、俺はお前を誰にもやりたくはない。俺はこんな男だ、景伊。お前がどうなろうが、少々感覚が変わろうが、毒の血を流そうが。いいんだよそんな。些細な事だ。お前が俺の目の前から消えるよりも、よっぽど小さなことだ。お前が変わらずここにいるなら、俺はいいんだ。お前がどれだけ腹黒かろうが、卑屈だろうが阿呆だろうが、優しかろうが、ガキだろうが。いいんだよもう。そんなことはもういいんだよ。お前が俺の隣にいてくれれば、それでいいんだよ。他は何もいらねぇ。名誉も何も。一生無名の、貧乏な医者で終わるのも構わない。おかしいだろ?とうに頭なんておかしいよ。まともじゃないよ。俺だってこんな俺が信じられねぇよ。でもお前がいなくなるくらいなら、って思うんだよ俺は!綺麗な事なんて言えるか!」

病気だ、という自覚があった。
まともな愛じゃない。
美しいものでもない。ただ、自分本位なそれだ。
景伊は苦しげに、こちらを見上げている。少し、口元が笑った。歪んだ、の見間違えかもしれないが。

「……お前、なんで俺なんかがいいんだろう。ほかにいい人、いただろうに」
「また『俺なんか』か。自信のない奴」
「……だって、そうだろう?性格がいいとも言えないし、卑屈で阿呆でガキで、抱きがいがない体で。……情けなくって。人じゃなくなってく俺を、一番に愛すなんて。そんな奴が存在してるなんて、俺は思いもしなかった」
「いるだろうが、ここに。その頭のおかしい奴が」

定信がそう言い放てば、景伊は少し諦めたような、そんな顔をした。
胸ぐらを掴みあげる定信の腕から手を離し、だらんと下げる。

「家出は、止めか?」
「……俺はお前を斬りたくない。お前は言い出したら聞かない奴だから、冗談でもなんでもないんだろう。黙って出たところで、お前はきっと俺の事なんて簡単に見つけてしまうんだろうな。それに鉄拳制裁がついてくるんだろ?」
景伊はため息のような息を吐いた。
「……俺の負けだ、定信。好きにしてくれ。お前の思うように、俺を好きにしてくれ。一番愛してくれるというなら、まず証拠を見せろ。俺が歪んだ、疑り深い性格なのは知ってるだろ?お前が一番」
「……あぁ。知ってる。一度や二度囁いてやったところで、お前は信じない。若いくせに偏屈。卑屈で臆病。そのくせ、前に進みたがる。矛盾した奴だ」
景伊の細い顎を掴む。
つられてこちらを見る黒い瞳に、以前抱こうとした時のような恐れはなかった。
どこか挑発的にも見える視線で、こちらを見る。
「お前……」
「あ?」
景伊は息が届くほどの近い距離で、こちらの顔をじっと見上げてきた。
「町の、お前を無害な優しいお医者様だと信じ切ってる人たちに聞かせたい。こいつは無害じゃない。優秀な医者の皮をかぶった雄のけだものだって。……信じないんだろうな、誰も。痩せたまずそうなガキに欲情するような男ですって言ったって。見た目は強面なのに、優しいお医者様で通ってるもんな、お前」
それが悔しい。でもうれしい、と景伊は定信の首に手を回した。
こんな、自分から甘えるように景伊が触れてくるのは珍しい。
「何が嬉しい?」
意外に思いながら聞けば、景伊は少し笑った。今まであまり見たことのない、少しだけ熱のこもった目で。

「お前は俺のものだ。お前の気が狂いそうな愛情だけは俺のものだ。俺だけが知ってるんだ。俺だけが独占できる、ほかの誰にも見せないお前……俺の、」

言いかけた唇から言葉を奪うように口づける。
性に未熟な一面を持つ若者の返しは、決してうまくはない。
だが景伊がこんな行為を許すのも、また自分のみ。
そう思うと、止まらなかった。

「……あ、…」

手は、着物の中へと滑り込む。
若い身体は、刺激に面白いほどに素直に反応を返す。
ゆっくりと、若者の体を傷つけないように床へと倒した。
「今度は、噛んでくれるな」
伸し掛かるようにしてそう言えば、胸をはだけさせた景伊は、不安と熱を視線にのせてこちらを見上げると、小さく笑った。
「……お前が俺を裏切ったときは、噛み殺してやる。許してなんかやらない」
「──あぁ、それでいいよ」
答えながら、指を絡め、もう一度若者に口づけた。


この疑り深い若者に、己の気持ちを証明するために。