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二人の兄貴

23 どうしようもない決意(終)

気がおかしくなったのかと思うような激しい、嵐のような時間が過ぎ去った後。
その薄暗く狭い部屋にあったのは、息を切らして畳の上にぐったりと横たわる若者の裸体だった。
汗ばんだ髪が張り付き、その顔を隠している。表情は見えない。
どちらかと言えば不健康的な意味で白い肌は、じっとりと嫌な汗をかき、身体は呼吸と共に上下に揺れていた。
内腿に血液が伝った跡がある。中に吐き出した白濁も、その上をなぞるように流れ出ていた。
その姿は生々しく蠱惑的で、「罪」だとしか思えない。
一度冷えた己の頭に再び熱がちらついて、定信は視線を逸らした。
顔に張り付いた髪をかき上げてやれば、髪に隠れていた視線と、目が合う。

「……死ぬかと、思った」

疲れた瞳をしているが、こちらを責めるような色はない。
開口一番に何を言われるのかと少し恐れていた定信は、それに安堵する。

先ほどまで自分達は、この薄暗い部屋で行為に及んでいた。
自分よりも薄い体を床に引き倒し、覆いかぶさるように。景伊の全てを手に入れるつもりで。
景伊は、泣き叫びはしなかった。
ただ呻いているのか喘いでいるのかよくわからない声を時折上げながら、定信の背にしがみついてきた。
向こうも必死だったのだろう。爪を立てられ、遠慮なく抉るように引っかかれた背中は、じりじりとした痛みを発している。
しかし痛みで言えば、未知の感覚を受け入れる側の彼の方がひどかったに違いない。
定信はそのまま、景伊の髪を撫でた。

「……気分は?」
「きつい。……しばらく、したくない」

そう小さく笑うと、景伊は顔をふせるように横になった。

「もう寝る。絶対寝る。今日はもう起きないからな。あとのこと、お前やれよ。俺はもう寝る」
「わかってるよ。あ、こら、畳で寝るな。体拭いてやるから」

今にも床で本気で寝ようとする景伊を定信は抱き起こすと、力が入らないのかぐにゃん、としなだれかかってきた。

「俺を女扱いしたらぶん殴る」
「……そんな気ねぇよ、俺も」

吐息と共に吐き出された言葉に、定信も返答に困りながら、そう答えた。
一度抱いたくらいでお前は俺の女だ、と言うつもりもない。
腕に納まるのはしなやかだが硬く筋張った、若い男の体。
女とは違う。
彼が今回の行為で感じていたのは、ほぼ痛みに支配されたものだろう。
こちらだって男なんて抱くのは初めてで、どうしたらもう少し楽にしてやれるのか、わからないまま抱いたのだ。
あまりに苦しげな顔をするので、何度か手で無理矢理いかせた。
冷静になってしまえば、なぜそこまで、という意味のわからない衝動に突き動かされたままだった。
熱くなり過ぎた、と少々罪悪感が沸き起こる。

「……定信」
「なんだよ」
顔を肩口に埋めたまま、景伊が消え入りそうな声でつぶやいた。
「お前はこれで、満足したのか?」
「……」

景伊の言いたい事の意味が、いまいちわかりかねた。
一度抱いたからもう満足しただろう、という事か。
自分の聞き分けがあまりにないから、抱かせてやったのだ、という事か?
わからないながらも、定信は少し考えた。
「……今この瞬間はな。また欲しくなる。多分」
満足なんて終わりはないと思う、と言いながら古い傷の走る背を撫でれば、景伊が深い息を吐いた。
「……そんなずっとお前の相手をしてたら、俺、壊れるよ」
「壊したいわけじゃない。だから、大事に抱きたい」
そう言った定信の言葉は、意識を落としかけた景伊に聞こえていたのかどうか。

「……愛しているよ」

定信は景伊の背をさすりながら、言う。
己がそんな言葉を囁く日が来るとは、思いもしなかった。
がらじゃない、と思う。少々照れもある。
だが、この腕の中の若者が「愛してほしい」と言うならば、恥など捨てて何度でも呟いてやる、と思う。
何度だろうと。
もういいからやめろ、と言われるまで。


半分すでに意識を飛ばしていた景伊の体をぬぐい、簡単に着物を着せて部屋で寝かせた頃。
意外な来客があった。
戸を叩く音に、今日は客が多い日だと思いながら戸を開けた定信は、そこに立っていた男に絶句する。

「……お前」

そこには自分と同い歳くらいの男が、相変わらず愛想笑いも浮かべぬ顔で立っていた。
長棟義成。
確かに一度くらい自分から顔を見せろよ、と思った事はあった。
しかし普段ここを訪れる事のない男が、今日に限って何故来るのだ。
間の悪い奴、と思いながら黙って男を眺めていると、義成はそんな定信を一瞥して少々あきれた顔をする。

「歓迎されてないのはわかってるんだが、せめて何か言えよ」
「……悪い。ちょっと、驚いて」
「忙しいのか?ならいいよ。邪魔したな」
さらりと言ってこちらに背を向けようとする男の腕を、定信は慌てて掴んだ。
「別に忙しくはない。お前が来るなんてよっぽどだろ。何かあったか?」
義成は少し考えるようにしながら、定信の顔を見た。

「お前達が、昨日の夜の殺人現場に行っていたと聞いたから。少し気になって」

昨日の事は、もうこの男の耳に入っているらしい。
速いな、と定信は思った。
「前の、うちの家の事と関係あるんじゃないかって、今更俺のところにも人が来ていた。いろいろほじくるように聞かれたから、景伊に飛び火しなければいい、と思って来ただけだ」

似たような事件の再発は、町の人々の記憶に、忘れていた3年前の惨殺事件の事が甦らせたらしい。
景伊は3年前の事件当時、あの家には「いなかった」事になっている。
かたちの上では、またあの事件の犯人は見つかっていない。これから先も、真犯人というものが見つかることはない。
だが現場の様子を見たのがこの義成のみとはいえ、状況から考えて景伊がそこにいた事が明るみになれば、真っ先に疑われるのは彼だろう。
この男が、そうしたように。 義成は、それを恐れている。

「あの料亭は……お前んとこの奴と同じ奴だ。……違うやつ、ではあるんだけど」

そう言えば、義成が意外そうに定信を見た。
「見たのか?」
「見た……というか。まぁいろいろあってね」
「疲れてるな」
「まぁ、ほんと、いろいろあって」
視線を落とすように言うと、義成は少し首をかしげた。
「景伊はどうした」
「今、寝てる。よく寝てるから、せっかく来たとこ悪いけど、会わせてやれねぇよ」
そう言えば、義成は「そうか」とだけ言い、深く追求してはこなかった。
「わかった。お疲れのところ悪かったな」
「上がって行かなくていいのか?茶くらい出すぞ」
「いいよ。こちらも様子を見に来ただけなんだ」
「……なぁ」
なんとなく、帰りかけた男を呼び止める。
義成が、何かとこちらを見た。

「お前は、俺を恩人だと言った。でも、後悔はしてないのか?」
「何が言いたい」

義成の眉間に皺が寄る。
「どうしようもないのに弟預けちまったとか、思わないのか」
定信の言葉に、義成がいい加減うんざりしたような顔をした。

「……何度言わせる気だ。まかせていたのに文句だけ言うつもりはない。俺は投げ出して、何もしなかった男だぞ。何か言う権利もない」

定信は、苦い思いで歯を噛みしめる。
この男は、何も知らないからそんなことを言えるのだ。
自分は優しいだけの男でいてやれなかった。求められる兄貴の役割を投げ出した。

──手を出した。

前回話したような、未遂ではない。
今、この男にそれを告げたら、どんな反応をするだろうか、と思った。
だが口を開きかけて、止める。
この男の耳に入ることを、景伊は嫌がるかもしれない。
自分が勝手に、べらべらと喋っていい事ではない。
彼は言うと決めたら、自ら兄へ話すだろう。そう思った。
だがそれも、景伊の為を思ってなのか、自分が隠したいだけなのか。
正直よくわからない。
不自然に黙る定信を、義成はじっと観察するように見ている。
この男も思う事はあるのだろう。だがあまり、自分にそれを言う事はない。
感謝はしている、と言うが。
少々気まずい沈黙の後、義成は定信を睨むように見て言った。

「お前には迷惑かけたと思っているよ。利秋さんにも。でもお前は……お前は俺にそんな事を聞いたところで、もうあいつを手放す気なんてないくせに。思ってもないことを言うなよ。俺が返せと言ったところで、お前は首を縦には振らんだろう?お前はただ、俺の許可がほしいだけだ」

「……そうかもしれないな」

珍しく素直に、義成の言葉が自分に響く。
彼に何度もこんなことを聞くのは、確かにそうなのだろう。許しがほしいのだと思う。自信がないのだと思う。
間違っているかもしれない、という思いが、確かに自分の中にある。
優しいだけの兄のような立場としてではなく、他人として、景伊を愛すると決めた。
自分としては、そうするしかなかった。それしかしたくなかった。
他の道なんて考えられなかった。
どうしても欲しかったからだ。
傷つけるかもしれない。手を離れるかもしれない。そんなこと、考えられなくなっていた。

だが、人から見れば、自分の決意は間違っているのかもしれない。これでよかったのだ、と言い切れる自信がない。
景伊にとっても、これが最善だったのか。悪影響でしかなかったら?
そう心のどこかで思っているから、誰かの許しがほしいのだと思う。
それでいいのだと言ってほしいのだと思う。
情けない、と思った。
決意しながら、どこかで他人に判断を頼る自分も。この男に見透かされている己の事も。
義成は、珍しくうつむき黙る定信の姿を黙って見ていたが、しばらくの沈黙のあと、こちらに向き直った。

「頼むよ」
「え?」

義成のさらりとした言葉に、定信は顔を上げる。
「あいつを頼むよ。今の俺の、一番大事なものなんだ」
突然の言葉に目を丸くしたまま固まる定信を見て、義成は小さく笑う。
その表情は、景伊とよく似ていた。

「俺は、後悔なんて死ぬほどしている。何もかも間違えた俺を、あいつは許した。許してくれた。何もしてやれなかった駄目な兄貴だが、そう言ってくれたあいつを、俺はもう裏切りたくはないんだよ。幸せにしてやりたいんだよ。でもあいつは、お前を一番慕ってる。俺じゃない。だから、お前に頼むしかない」
──頼むよ。
義成はもう一度、念押しするように言った。
「……」
定信は、義成の言葉を複雑な思いで聞いていた。
景伊が一番慕うのは、兄の義成だと思っている。
だから自分は2番でいいのだ、と言った。
それなのにこの男は、慕われているのは己ではない、と思っている。
それはお前だと。
なんのだこれは。
少し煮え切らない思いを感じながら、定信は重たい息を吐く。

「頼まれても、お前が望むような形どおりには、俺はできない」
「いいんだよ。あいつもお前もそれでいいというものであれば、それで」

義成は、わずかに笑みを見せた。

許されている、とは違うと思う。
この男は今、定信の心の真意など知りはしない。聡い男だが、つい先ほどまでの自分たちの情事など、知るわけがない。
知っていれば、また違った言葉を投げつけられていただろう。
だが、自分がそうなりたいと思っていた位置にいるはずの男は、弟を「頼む」と言う。
こちらの羨ましさも知りもせずに。

「ずいぶんと自信のない事だな。あいつにとって、お前は神様と一緒なのに」
「遠慮もなしに接してくれる方が嬉しいこともあるんだよ。その点、俺はお前が羨ましかった」
「……そうかよ」

この男にそう言われてもあまり嬉しくないのは、何故か。
所詮自分たちは、ないものねだりをしているのか。
しばらく考えながら、定信は絡まりはじめた思考をぶん投げた。
この男が言っていた事は、確かだ。
何を言われようが、今の状況を捨てる気はない。この目の前の男が自分から景伊を取り上げるというなら、自分は勝ち目がなかろうがなんだろうが、抵抗するだろう。
結局はそういうことなのだ。
それしかできないくせに、己はうだうだ言っている。

「……こんなはずじゃなかったんだけどなぁ」

思わず自嘲のように口をついて出た言葉は、義成に鼻で笑われた。

「誰もそうだよ」

そうだろう、とは、定信も思っている。
わかっているが、思わずにはいられないだけだ。
これから自分たちがどうなっていくのか、なんてことは、全くわからない。
ただ今は、あの少々危なっかしい若者の腕を、掴んで離さずにいよう。
それだけは、固く決意した。

二人の兄貴(終)