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兄の縁談

01 縁談話と祝い酒

「お前さー、知ってる?義成の縁談話」
「……なんですか、それ」
ある日の朝。
定信が台所を片付けていると、土間の上がり戸のところから利秋が暇そう足をぶらぶらさせながら話しかけてきた。
いきなりの事なので、定信は話がよく見えない。
「あいつ、嫁もらうんですか?」
「なんだ、お前らも知らんの?」
利秋は、定信なら知っていると思っていたらしい、だがこちらは、完全に寝耳に水状態だった。
「本人から聞いたわけじゃないんだが、そういう話を聞いてな。いきなりだったから俺も驚いてさ、景伊に聞いたら知らないって言うし。じゃあ決まったばっかりなのかもな」
ふうん、と利秋は一人納得している。
年齢的にも、そういった話が出てきてなんら不思議ではないのだが、意外、というのが定信の感想だった。
「相手は?」
「俺も知らない。お前らなら知ってるかなと思って聞いたんだが」
「……景伊が知らないなら、俺が知るわけないでしょう」
「まぁ、そりゃそうか」
お前ら今は付き合い結構あるみたいだから、知ってるのかと思ってさ、と利秋は立ち上がりながら言った。
付き合いも何も、定信からは用がなければ会う事なんてしない。向こうも同じだろう。
しかしそんな大事な話、あの男なら景伊には先に言いそうなものだが。
そう思って、定信は手を拭いた。

「そういう事らしいが。お前も聞いてないの?」
景伊の部屋を訪れてみると、景伊も「うん」と相変わらず狭い部屋の中で頷いている。
「俺は聞いてないよ。二日前にも行ったけど、何も言われてない。でもいいんじゃないのかな。めでたい事だろ?」
「まぁ、それはそうなんだが」
定信は足を崩して畳の上に座り込み、本に囲まれるようにして座っている景伊を見た。
「お前はいいのか?」
定信はそう、聞かずにはいられなかった。
この若者が己の兄に抱いている感情と言うのは、定信にも説明し難い、理解できぬものがある。
親。神。信仰のような情を、景伊は兄へ向けている。
だからこんな問題は、お前にとっては複雑ではないのか。
そんな思いで景伊を見ると、彼はそれを読み取ったのか「別に」とそっけない返事をした。
「……俺がどうこう言う問題じゃないだろ、それ。でもちょっと、意外だなって思った」
「何が?」
「あの人、前に言ってた。所帯を持つ気はない。そういうの、あまり良いものとも思えないって。縁談の話はずっとあったみたいなんだけど、断ってるって言ってた。だからよっぽど気に入った人なのか、納得するような何かがあったのかなって思う」
「ふぅん……」
あの堅物がねぇ、と思いながら、定信は相手の顔を思い浮かべた。
いつも眉間に皺を寄せた様な──だが決して他人を邪見に扱うでもなく、自分なんかよりはよっぽど人に丁寧に接する男だが、どこか近寄りがたい空気を発している。
初めて会った時から気に入らないとしか思えなかったが、今は何だかんだで交流もある。
景伊はあれから、ちょこちょこ帰って話をしているらしい。
彼らの関係が少しずつ穏やかになっているのであればそれは良い事だし、景伊が嬉しそうにしている顔を見るのは、こちらとしても嬉しい。 いろいろ嫉妬もしたが、今はその気持ちも少し落ち着いてきている。
少なくとも今は、景伊が己のもとを離れることはないと思っているからだろう。

定信にとっては、友人とはまだ言えぬ男だ。
仲が良いとは言えないし、向こうもそれは同じはず。
だが今は、自分の元々の友人よりもよっぽどまめな付き合いになっている気がするし、ほとんど歳の変わらない相手の決めた相手というのも、気にならないと言えば嘘になる。
「……じゃあ、ちょっと会って話聞いてみるか。祝いの品でも持ってってさ。お前も行くだろ?」
そう言えば、景伊は素直に頷いた。


利秋にそう話をすれば、「俺も今度行くけど、酒でも持ってってやれよ。んで飲んで来ればいいじゃないか」と金を渡された。
「……あいつ、飲めるのか?」
酒屋で祝い用に酒を買い、道中で景伊に聞けば、景伊は「さぁ」と首を傾げるだけだった。
「飲めないとは聞いてないけど、飲んでる姿も見たことがない」
「あー……酒、煙草やらないってやつか」
くそ真面目め、と悪態をつくと、景伊が「それは違う」と首を横に振る。
「煙草は吸ってるのを見たことがある。俺も吸ってみたいって言ったら、お前には早いって怒られたけど」
「あー……なんとなくわかるわ。俺もお前には吸わせたくない」
「お前もたまに吸ってるだろ? 」
「まぁね」
自分達がやることに興味は持つだろうなぁとは思っていたが、あまり体に良いと言えるものでもない。
特に景伊の場合、あまり体が丈夫とは言えなかった。
だから定信も、あまり景伊の前では吸わなかったのだが。
剣術を始めてからは多少変わったが、とにかくよく風邪を引く。
体つきもどこか貧弱なのは、成長期の間の運動不足が原因だろう。その間の筋力の発達不足の影響は、未だに残っている。
だが今はどこが悪い、というものもないし、体も若い。
欠けていたものは少しずつ取り戻しているようだが、定信としてはできれば体に悪い事はさせたくないのが本音だった。
極力酒も。しかし何から何までそう言っていては、通常の付き合いまで制限してしまう。
彼には人生経験も必要だ。
こちらとしては複雑な思いがあるのだが、それを言っても景伊にはわからないだろう。
「まぁでも、あいつが納得した相手ってのはどんな人なんだろうなぁ」
話を変えるように定信は呟く。
義成は頑固なところのある男だし、想像ができないでいた。
「どんな人でもいいよ。どんな人でも、あの人の家族になってくれるなら嬉しい」
景伊は少し笑みを浮かべて、定信の顔を見た。
意外だ、と思った。
彼はこの突然の話を、素直に喜んでいるらしい。
「……お前の神様が、お前のものだけじゃなくなるって事だがな」
その顔を見ていると、少々意地の悪い事を言いたくなってしまった。
自分は性格が悪い、と定信は内心ため息をつく。
だが景伊は、定信のそんな棘に気付かないらしい。
「別に俺のものだとか言ってるわけじゃない。俺が勝手に慕ってるだけだし、今後邪魔になるって言うならもうあの家に行かないし。とにかく、あの人には幸せになってほしいんだよ。俺のせいでしなくていい苦労、させたから」
心の底からそう思っているような声に、定信としては何とも言い難い気持ちになる。
随分ときらきらした、馬鹿正直に純粋な喜び。
腹の奥辺りにもやもやとしたものが生まれる。
嫉妬など、と思ったところでこのざまだ、と思った。
俺と義成どちらが大事なのだという愚問は、さすがにもう問う気はない。
だがこの青年を、無理矢理自分の方に向けさせてよかったのか、未だに少し考える。
抱いた身体は、血を流した。
快楽など、まるで感じていないようだった。
あのときの自分たちはどうしようもなく追いつめられていたとしても、あんな痛めつける様な行為を、今もできるのかと言われれば、したくはない。
自分の愛というのは、本当にどす黒いものだと思う。
大事に想っている事に、変わりはないはずなのに。

「あら、景伊様に、上条先生も」
相変わらずだだっ広い屋敷に着くと、出迎えたのは最近顔なじみになっていた若い女中だった。
最近この屋敷で働き始めたという女性は、景伊と変わらぬくらいの歳だろう。
随分と遠方から奉公に来たのだと言う。
一度故郷の地名を聞いたが、知らない地名だった。 異常に静かで定信に「辛気臭い」と思わせるこの屋敷の人間の中では、唯一話しやすい、と思わせてくれるような愛嬌がある女性だった。
だが今は、どこか緊張しているような面持ちをしている。
「あの、兄上は──」
「今はだめです。申し訳ありませんが、裏から入って頂けますか?」
景伊の言葉を遮って、女性は頭を下げる。
「それは別にいいんですけど、間が悪いって……?」
意味がわからず定信が問えば、女性は困ったような顔をして定信を見上げた。
「分家の方たちもいらっしゃってるんです。義成様と、今かなり険悪な状態なんですよ。もし今景伊様たちがいらっしゃったら、裏から通して会わせるなと言われています」
──険悪。
その言葉に、定信と景伊は顔を見合わせた。

部屋で待っていてください、と裏口から通されたものの、屋敷内の空気が異常に張りつめたものになっている事は肌で感じた。 静かなのはいつもの事だが、緊張感までびりびりと伝わってくる。
「なんか……祝いって雰囲気じゃねぇな」
定信は買ってきた酒を床へ置くと、部屋の隅へ押しやった。
渡せる雰囲気でもなかった。ひどく場違いの物のような気さえする。
「この家って、分家とか多いのか?」
一応景伊に聞けば、景伊は少し考えて「さぁ」と言った。
「知らない。多いんだとは思う。一時期よく来てたみたいだし。俺はほとんど話さないし接点ないから、わからない」
「まぁそうだよな。向こうはお前の事、なんか気にしたりしてるのか?」
「……気にはなってるんじゃないかな。でも兄の手前、あまり何も言ってこないよ。言いたい事はあるかもしれないけど」
「ふぅん……」
一族の複雑な関係ってやつか、と定信は思った。
景伊はもともと、この家には「いなかった」はずの人間だ。
離れの土蔵で隠し飼われていた、と言うのは昔聞いた。
それをどれだけの人間が知っていたのか、定信としても今更義成に問う気はない。
しかし兄の義成は割と普通に交流していたようだし、存在としては皆知っていて、見ないふりをしていたような状態だったのだろう。
代が変わって、義成が正式に景伊をこの家の出身だと認めた。
それに周囲がどう反応したのかはわからない。
景伊の言うとおり、「義成の手前何も言えない」のだろう。
あの男はあれで、弟を守っている。
定信は、通された客間を見渡した。
新しくはないし華美でもない、だが足を伸ばす事さえ躊躇われるような、重い空気。
(堅苦しい……)
自分の家がこんなのってどうなんだ、と定信は思う。
屋敷は大きい。景伊も初めて来たときは「城だと思った」と言っていた。
周囲には名家だと言われている。優れた人物も数人輩出している。
外から見れば、うらやむような家だと思う。
だがこの堅苦しい雰囲気は、そういった重圧が代々積み重なって、家に染みついたものなのだろう。
どこか閉鎖的で、そこだけ浮世離れした常識がまかり通るような。
少しだけ、当主の男に同情した。
あの男の不幸は、根っから「そういう事」が大嫌いな頑固な性格に生まれた事だ。
この家を己の誇りや自慢できる男なら、もっとうまくやるだろうに。
真顔で「つぶれればいい」なんて言い出す義成は、おそらく生まれる場所を間違えている。
定信は、そんな気がしている。

そんな雰囲気に、どことなく会話もし難い。
どれだけ待たす気だ、と定信は若干苛立ち始めた。
「……険悪って言ってたけど、まさか殴る蹴るになってるわけじゃないよな」
何か騒ぎになっている様子はない。
周囲にはただひたすら静寂で、時折庭に小鳥でも来るのか、鳴き声が聞こえるだけだ。
「そこまではしないだろうけど。お前じゃあるまいし」
「あのな……」
お前は俺をなんだと思っているんだ、と定信は悪態をつきたくなった。
しかし景伊は真顔で、少し考えるように言った。
「あの人は頭に来るときは一瞬だから、そうなってたらもう騒ぎになってると思うよ。どちらかと言えば、何か話振られてあの人が首を縦に振らなくて長引いてるとか、そんな感じだろ。頑固だから」
「あぁ……」
想像つくなぁ、と定信は思う。
あの男は忍耐強いが基本的に導火線は短い。瞬間的に火がつくような怒り方をする。
自覚はしているようだが。
「でも、なんか心配に……」
景伊がそう言いかけたときだった。
廊下を歩く足音が聞こえる。
足音が随分と苛立っている気がした。
あ、あいつか。 定信がそう思って身構えた瞬間、障子が派手に音をたてて開いた。

「……死ねばいいのに」

猛烈に不機嫌な顔をしたこの家の若い当主は、荒っぽく吐き捨てる。
(……随分と、トサカにきてらっしゃる……)
自分達に向けた言葉ではないのだろう。
この男が怒るところを定信も見たことがないわけではないのだが、今回の怒り方は尋常じゃなかった。
おいおい景伊が驚くだろうが、と横の若者を見ると、景伊は少し悟った顔で「あーあ」というような表情をしていた。
景伊は、案外兄の事を理解している。
もう子供じゃないんだなぁ、と少し安心しつつも、彼をを宥めるべきなのか、怒りの理由を聞くべきなのかと、定信は少し悩んだ。
確かに、少し間が悪い時に来てしまったようだった。