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兄の縁談

02 死ねばいいのに

自分達は義成の縁談の話を聞いたので、祝いに来たはずだった。
景伊は純粋に喜んでいたようだが、定信は祝いの気持ち半分、相手に興味があるのが半分だった。
しかし訪れてみれば、屋敷の中は緊張感でいっぱいで、縁談が決まったはずの男は別室で分家の人間たちと殺気立っている。
長い話が終わったのか、定信達の前にやっと現れたときも、不機嫌を隠そうともしなかった。
「死ねばいいのに」とは尋常ではない。

「で、お前は何でそんなに怒ってるんだ」

聞いてた話と違うぞ、と定信は入口で立ったままの男を見上げる。
定信としては面倒で、あまり聞きたくもないのだが、この場で聞かないわけにもいかないだろうと思った。
義成は荒っぽく開けた障子の戸を静かに閉めると、ため息とも違う、深い息を吐いて畳の上に腰を下ろした。
「……勝手に話を進められてる」
「縁談の、ですか?」
景伊の問いに、義成が視線を上げた。
「なんだ。お前らの耳にまで入ってるのか」
「だから俺らは祝った方がいいのかと思って、酒まで買って来たんだよ」
定信の指差す方には、完全に空気を読めていない祝い用の酒がある。
それを見て、義成はため息をついた。

この男は「勝手に話を進められている」と言っていた。
この縁談話は義成の本意ではない、という事なのだろうか?
定信はそう考えながら、目の前に座った義成を見た。

「俺らは利秋さんから聞いたんだよ。あの人も、詳しく事情はわからないみたいだったから、俺らに酒でも持って祝って来いって言ってた。あの人が知ってるってことは、周りの人間も知ってるって事だろ?なんでお前そんなキレ方してんだよ」
「……俺は断ってたんだよ。縁談話があるのは事実だが。それを、勝手に噂流して、俺が断れない状況に持っていってる。やってるのはうちの身内だ。怒らない方がおかしいだろう。俺が文句言っても、もう言ってしまったんだから仕方がないとかぬかしやがる。他人ごとだと思って、丸く収めようとしてるところに腹が立つ」
「はぁん……」
なるほどね、と定信は納得する。
広まっているのはあくまで噂。まだ決まってはいないようだが。
「……でもそれ、周りの連中もお前の事気遣ってやったんじゃないか?いい年こいて、一人でふらふらしてる一族の当主様とか、かっこつかないからだろう?」
「いい年こいてふらふらしてるのはお前も一緒だろう医者」
「俺とお前じゃ立場が違いすぎるだろうが」
こっちは居候の上に稼げてねぇよ、とイラついた声で言えば、景伊が無言で着物の袖を引っ張ってきた。
「……お前まで怒ってどうするんだよ。収拾つかなくなるからやめろ」
「……」
景伊の落ち着いた顔を見ると、頭に上りかけた血が止まる。
それもそうだ、と定信は少し苦い顔をして、己を静めることにする。
一番歳の若い男が一番冷静な顔をしている。
少々情けなくなって、定信は座り直した。
景伊は姿勢を崩さず正座したまま、少し怒りも落ち着いてきたらしい兄の方を見る。
「その相手っていうのは、兄上もご存じの方なんですか?」
「二度ほど会ったこともある。子供の頃の話だが」
「今は会ってないんですか?」
「……まぁ。いろいろあってな」
義成は少し考えるようにうつむくが、この場で隠すのもどうかと思ったのだろう。詳しい事情を説明する気にはなったらしい。
景伊の方を見て、小さく笑った。
「お前は知らんだろうが。俺には、許嫁がいたんだ。ガキの頃から決まってた。何もなければ、とっくに嫁を貰ってたはずだ」
「なにもなければ……?」
「三年前の事。家の中で家族が三人も血を流して死んだんだ。そんな「不幸」があれば、互いに縁談どころじゃなくなる」
景伊の表情が、少しだけ硬くなる。
義成も、それには気づいているようだった。少し気遣うような目で景伊を見ている。
「……そんな顔するなよ。お前には関係のない事だ」
「いつ、の予定だったんですか」
「その年の、春になったらすぐの予定だったかな。……最初は延期っていう話だったんだが、俺もそんな気じゃなくなっていたし、向こうの親もそんな事件の直後の家に、娘をやりたいとは思わないだろう?話し合って、破談になった。それで終わったと思っていた。だが、相手の中では終わっていなくて」
「相手って……向こうの娘さん?」
定信の言葉に、義成が目をふせて頷いた。
「俺と歳はさほど変わらん。適齢期なんて過ぎてる。なのに、他の縁談話を絶対に受け入れないらしい。俺のところにしか、嫁に行かないと……相手の家からも、最近また申し入れはあったんだよ。一度は破談になったけど、もう年月も経っているから、事件の事は気にしないと。侘びまで入れてくれた。でも俺が断ったんだ。だけど、彼女はうちでなければ嫌だと。向こうの親御さんも、娘の頑固さに困ってな。俺が首を縦に振らんから、うちの親戚に相談でもしたんだろ。それで、このざまだ」
「このざまってなぁ……お前」
定信は少しあきれたように義成を見た。
「お前と許嫁だったってことは、それなりの武家のお姫様だろうが。そんなのがお前がいいって、何年も待ってんだろ?知らない相手じゃないんだし、悪い話じゃないだろうが。かわいそうな事してやるなよ」
「……悪い事をしてるという、自覚はあるよ。俺なんかを待ってくれたというなら、応えなければならないだろうというのも。……でも、今は無理だ」
「なんで」
定信の問いに、義成は黙った。
この男も、根は真面目で誠実な男だ。少々頑固なところもあるのだが。
心に、未だに重たいものを抱えているというのもある程度理解している。
定信は隣の景伊を見た。
景伊はあれから、言葉を発しない。
淡々と義成を気遣うような視線で、自分達の会話を聞いている。
恐らく、自分の事がなければ、と気にしている。
景伊は未だに当時の事を気に病んでいるが、それは兄の義成も同じだ。
あの夜の出来事が、前に進もうとするこの兄弟の肩を、後ろから掴む。
「……自信がないんだ。相手を幸せにしてやれる自信が」
義成はそう、小さく呟いた。
そう言われては、定信も何も言い返せなかった。


酒は持ち帰ってお前らで飲め、と言われて返された。
結局、義成はこの縁談話を受け入れるつもりはないらしい。
しかし話は広まってしまっているので、当面両家で話はされるのだろう。

「なぁ、景伊」
屋敷を出たところで、定信は黙ってついてくる景伊に話しかけた。
「お前は気にすることじゃない。あいつも、お前のせいにしてるわけじゃないんだからさ」
「……」
景伊は黙って、視線を上げて定信を見る。
少し、曇った表情をしている。
だが心底落ち込んでいるという様子でもなかった。
「気には、してない。でもあの人は、俺以上にいろいろ抱えてるんだなって思って」
そう言うと、景伊は出てきたばかりの屋敷を見上げた。
何度見ても大きいと思う、白壁の屋敷。
「家の事、親類の付き合い、職務、俺の事。全部一人で抱えてるんだ。俺は何もしてない。力にすらなれてない。一人外で、好きなようにさせてくれてる。俺、何もしてないだろう?……いいんだろうかって思うんだ」
振り向くと、景伊はもう一度、定信を見る。
「俺が今こうしてるのは、定信たちがいてくれるのもある。好きだよ、お前たちと一緒にいるの。でもあの人が随分いろんなところに手を回して、話をつけてくれてるから、俺は普通に外に出れて、名を名乗れてる。……このままでいいのかな。全部、何もかも押し付けて。俺だけしたいことしてて……」

景伊は多分、今思っている。
帰って、兄の手助けをするべきなのではないかと。

定信としては、帰らせたくない。
景伊も、あの家は嫌いだから帰りたくないとは言っていた。
しかしあの家自体は嫌っていても、兄の事は好いている景伊が、兄の力になりたいと思うのは自然なことだ。
年齢も重ねて、少しずつ視野の広がってきた若者は、いろんな事情を察しながらも、兄の事を心配している。
(俺は、なんと言ってやるべきなのか)
定信には、言葉が出てこない。
定信が景伊にしてやれるのは、景伊が欲する「愛」を与えてやることだけだった。
愛されたいと願う若者に、美しくはない、執着にも似た自分勝手なものだが、一応「愛」と言えるものを与えてやること。
それしかできない。互いにすがりつくような、いびつな関係ではある。
景伊が兄の力になりたいと言うのなら、それは止めるべきではないのだ。
本気で、この若者を想うなら。
でも。
それを許せば、この若者が自分のもとを離れていく気がする。
それは嫌なのだ。
景伊も、家に帰る気はないのだろう。
でも、どうしたらいいのか悩んでいる。
定信に意見を求めている。
それはわかるのだが、返答に困った。
自分の本音と、様々な事情が絡み合う。
「……お前は──」

定信が言いかけた、そのとき。
景伊が突然、何かの音に反応したように背後を振り向いた。
「……どうした?」
「なんだろう……泥棒?」
「は?」
なんだそれ、と聞こうとしたころで思い出した。
景伊は今、以上に目や耳、鼻が異常に良い。
犬のように離れた場所の血のにおいを感じ取り、猫のように暗闇にものを見る。
だから定信が今聞き取れない音でも、景伊は普通に聞き分けることができていた。
山の獣のような五感になっている。
「裏だ」
「ちょっと待て。お前何が聞こえてる?」
走り出そうとした景伊の肩を、定信は慌てて掴んだ。
「何が聞こえた?俺にも説明してからにしろ」
「猫が落ちたみたいな音」
「は?」
景伊の説明に、定信は目を丸くした。
「ものとかじゃなくて、生身の動物が落ちたみたいな音と声」
「……」
そう言うと、景伊は走って家の裏に回っていった。
(あいつ、そんなところまでわかるのか……)
わかってはいたが、改めて現在の景伊の状態を思い知る。
塀、と言われて定信は周囲を延々と囲むこの屋敷の白壁を見た。
結構高さもある。
猫が落ちたみたいな音?
ますますわけがわからない、と思いながら、定信は景伊の後を追った。


この屋敷に来たとき、裏から入ってくれ、と女中に言われた。
その裏口の手前辺り。
定信が走って裏に回ると、女性が一人、地面にうずくまっていた。
怪我でもしているのだろうか。
景伊がそばでしゃがんで、声をかけている様子だった。
「大丈夫ですか?」
定信も慌てて駆け寄り、声をかける。
「医者です、どうしました」
女性は若く、身なりから武家の女性のようだった。
周囲は武家屋敷も多いし、この辺りの人間だろうか。
倒れたのか、気を失っているらしい。
「景伊、この人どうしたんだ」
「わからない。俺が来たときはもうこの状態だった。多分……この塀の上から、落ちた」
「……落ちたぁ?」
この、きれいな身なりの女性がお前んちの塀の上で何してたんだよ、と定信は思いながら白壁を見上げる。
すると、塀の向こうの庭木に引っかかった、太い麻紐が塀のこちらに垂れ下がっている。
この紐を使って、白壁を越えようとしたというのか?
「……まさか本当に塀から落ちたのかよこれ……」
呆れながら女性を見れば、頭を少し打っている様子もある。
周囲を見渡しても、目撃者らしき人もいない。この辺りの路地は表の通りとは離れているから、人通りはあまりない。
とりあえず意識がないのだから、介抱せねばならない。
道端では何もできないし、義成に屋敷を借りるか、と思った時だった。
女性が薄目を開けている。
意識を取り戻したらしい。
「大丈夫ですか?名前、わかりますか?」
定信が再度問いかける。
女性は少しぼんやりとして口を開きかける。が、視線が動き、景伊の方を見た瞬間、女性の目が丸く開いた。
「……義成様?」
視線ははっきりと、景伊を見ていた。そう呼ぶ声は、少し動揺している。
「……え」
突然兄の名で呼びかけられて、景伊が固まっている。
女性も驚いているのか、名を呼んだまま固まっていた。
「あの……義成は兄の名ですが。お知り合いですか?」
「え」
「あ……えっと……」
景伊が助けを求めるように、定信を見る。
はぁ、と定信は頭をがしがしかきむしった。
「あのなぁ、お前にまかしといたら話が進まんわ。……大丈夫ですか?意識はしっかりしてますか?痛いところは?」
女性は、定信の問いかけに少し驚きながらも、あちこち体を触ってみている。
「頭にたんこぶが……あと、足……」
「少しひねってるみたいですね。後から腫れてきそうだ。景伊、義成に部屋貸せって言ってきてくれ」
「わかった」
立ち上がって走っていく景伊を見て、女性が少し不安げに定信を見る。
「……これでも一応医者ですから、ご心配なく」
「あ、いえ疑ってるわけではなくて……あの、ばれちゃいましたよね?私がこのお屋敷に勝手に入ろうとしてたこと……」
女性の視線には、ぶら下がって風に揺れる麻紐がある。
「……白昼堂々とした侵入の仕方ですね」
「あの、やましい気持ちがあったわけじゃないんです。泥棒しようとか、そんなわけではなくて……」
「俺は怪我の手当てしかできません。判断は、この家の人間がしますよ」
「そう……ですよね」
恥ずかしい、と女性は赤面して、手で顔を覆う。
色の白い、少しふっくらとした体系の女性は、美人というよりは可愛らしい顔つきをしていた。
童顔なので、年齢はよくわからない。
少女のようでもあるし、定信とさほど変わらないような気もした。
素なのか頭を打っている影響なのか、この女性には少しすっとぼけたところがある。
身なりからして良いところの御嬢さんではあるようだが、それにしても大胆な事をする、と思った。
「定信、入っていいって」
そんな女性の扱いに困っていると、裏口から景伊が顔をのぞかせた。
「おう。……立てますか?肩掴まっていいですから」
定信はそう言いながら、女性を立たせる。
「泥棒じゃないなら、表から入れてもらえばよかったでしょうに」
「……私が訪ねて言ったところで、入れてはもらえませんから」
その女性の言ったことに、定信は怪訝な顔をする。
「お医者様は、義成様のご友人ですか?」
「……いえ、知人です」
そう答えれば、女性が少し笑った。
景伊を見て義成の名を呼んだ女性。
あの兄弟は、確かに少し顔つきが似ている。いつもどちらの顔も良く見る自分からしてみれば違うなと思うのだが、角度によっては嫌になるくらい似ていたりする。
「そういえば、名を呼ばれてましたね。ご存じなんですか?」
「私は、良く知っています。一方的なものかもしれませんが」
女性は少し悲しそうな笑みを浮かべた。
「実は私、あの方の元許嫁なのです」

その言葉を聞いた瞬間、定信は顎が外れるかと思った。