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兄の縁談

03 賊の手口とお姫様(終)

まさか大胆にも、白昼堂々泥棒さながらに人の家の塀を越えようとしている女が、義成の元許嫁だとは思わず。
この女性をこの屋敷に入れていいものか。
定信は少し考えたのだが、怪我もしている女性を放置しているわけにもいくまい、と思った。
義成もそこまで非情ではないだろう。
侵入用の小道具しか持っていないようだし、縁談を断られた恨みで凶行とか、そういった話ではないように見えた。
それ以前に思い切りの良すぎる行動に、定信は若干引いてはいたが。

女性の身体を支えながら裏口から中に入ると、庭には松の大木に引っかかった麻縄を下から眺めている兄弟がいた。
縄の端には石が結び付けられていて、それを重しに、枝に巻きつけるような形で引っかけていたらしい。
どこの賊の手口だこれ、と定信は思う。
いいところの「お姫さま」がやるような事ではない。

「へぇ……うまいことやったなこれ……」
木の下で義成がそれを感心したような目で見ていた。
縄は大人でも、手の届かないような高さの枝に絡んでいる。
「どうします?外すなら、俺上りますけど」
「いや、お前は上らんでいい。危ないし。まぁでも、外に縄垂らしとくわけにもいかんから、植木屋でも……」
二人の兄弟は、自宅に他人が侵入しようとしていた事より、手口に感心しているようだった。
(やっぱ、どっか似てるんだよなぁこいつら……)
もうちょっと別のところ気にしてくれよ、と思う。
定信は急に疲れてきて、息を吐き出した。
「いいから。怪我人いるんだから手伝えお前ら」
定信の声に、二人がこちらを向く。
義成の視線が、定信の肩に担がれている女性に移った。
その視線の様子は、顔を知っている相手、という感じではなかった。
(そういえば、こいつらあまり会ってなかったんだっけ)
俺から説明はいるのか、と定信が思った瞬間、担いでいた女性がいきなり定信の手を離れ、がばりと土下座した。
「あの……申し訳ありませんでした!」
「え……ちょっと」
定信が声を挟む間もない。
「直接、貴方様とどうしてもお話がしたくて……こんな馬鹿な事をしましたが、気に障りましたら斬り捨てて頂いてかまいません!」
真昼間の、のどかな天気の中でその物騒な台詞。
一瞬、庭の空気がしん、と静まる。
女性の勢いに、景伊がぽかんとした顔をしていた。
賊かと思うような手口で屋敷に侵入しようとしていた女が、兄の顔を見るなり土下座だ。
驚くのも無理はないと思う。当の義成は……何か察したようだった。
無言で歩み寄ると、女性の前で膝を落とす。
「……顔を上げてください。土下座なんてしないで。着物が汚れます」
「落ちた時に、もう汚れてます」
女性はそういうと、顔を上げた。
視線は不安の中にも、意志の強さがあった。
威張れることはないにしても。
「……先に怪我の手当てをしてからにしましょう。事情は後程お聞きします」
「あ……ありがとうございます!」
女性は再び、地面に頭をつけるような勢いで頭を下げた。


女性の名前は小松佐知子と言うらしい。
家は近所ではなく、川を挟んで向こう岸という、少し離れた町に住む武家の女性だった。
共も連れず、小道具片手にここまで来たらしい。
覚悟は認めるが、定信は「なんだかなぁ」という思いだった。

屋敷内に用意された部屋で、定信は女性の傷を見る。
聞けば、塀に上がった後、うっかり転げ落ちたらしい。
それで怪我が頭のたんこぶと足首をひねっただけだというのだから、運が良かったと言えるだろう。
打ち所が悪ければもっとひどい事になっていたはずだった。

「折れてるとかはないと思うんですが、しばらく冷やして安静にしておいてくださいね。迎え、どうしましょうか。義成が家まで伝えて来ましょうかって言ってましたが」
「いえ」
佐知子は申し訳なさそうに、首を横に振る。
「家に知れたら、速攻で連れ戻されてしまいます。そうなったら、お話どころではありません」
「……でしょうねぇ」
女性がここまでするのだから、相当の覚悟はあったのだろう、と思う。
あの男に会いたい一心で?
この柔らかそうな、小柄の女性のどこにそんな力があるのか、定信は首を捻った。
「……下品な質問で、申し訳ないんですが」
定信は目の前の、白い肌の女性に問いかける。
「貴方はあの男が、好きなんですか?」
「えぇ」
返事は、即答で帰ってきた。
「……なんというか、別に悪く言うつもりはないですが、その。……どこが?」
そう言えば、佐知子が笑った。
品の良い笑い方をする。
「先生は、義成様とお友達なのですね」
「友達と言うほどでは……」
「いえ、とても仲がよさそうに見えます。弟様とも仲がよろしいのですね。顔が良く似ていらしたので、うっかり見間違えてしまいました」
「まぁ、弟の方とはそうですけどね……」
定信はどこか気の抜けた気分になってきた。
この女性、それなりの家の女性らしいが、全くツンツンしたところがない。
話しやすい性格をしている。
白く丸顔で、童顔なのが人を安心させるのかもしれないが。

──会ったのは二度。子供のときだけ。

義成は先ほど、そう言っていた。
随分昔から決まっていた許嫁だったという。
それで「この人でなければ嫁がない」と言える思いというのは、いったい何なのだろうと思う。
いろいろ聞きたい事はあったが、自分が聞くべきことではない。
話を聞くべきは義成で、彼女が話したいのも義成だろう。
そう思って、定信は、障子を開けた。
隣の部屋には、景伊と義成がいる。女性の手当てでもあるので、一応外に出てもらっていた。

「おい義成。手当て終わったから来い。あとはお前らで……」
そう言って出て行こうとすると、室内に押し戻された。
「別にお前らに出てけとは言わんよ」
「……あのな。普通こういうのって、二人きりで話したいってもんだろ女心ってのは」
「私は別に、かまいませんけど」
佐知子が花のような笑顔で、こちらを見て微笑む。
毒気のない笑みだなと思う。
二人してその顔を見た後、義成は何やら渋い顔をした。
「……二人きりだと、何話していいのか正直わからん」
定信の耳に、義成が小声で囁いた。
頼む、と。
「……」
定信は、なんとなく納得した。
元許嫁としても、会ったのは子供の時に二回だけ。
義成は今の彼女を見てもすぐに本人だとはわからなかったようだし、少々天然の雰囲気漂う女性と、話すネタもないだろう。
一度は破談になった縁談。
しかも向こうから再度あった縁談の申し入れを、この男は断っている。
気まずいなんてものではないだろう。
(……仕方ない、か)
この男に頼むとまで言われれば、放置して帰るのも気が引ける。
景伊に視線をやれば、景伊も無言で頷いていた。
兄の囁きは耳の良い景伊には当然聞こえているだろうし、経緯が気にならないわけではない。
付き合うか、と定信も景伊に向けて頷いた。


日差しが少し柔らかく差し込む、けだるい午後。
室内には、畳の上に男女が向かい合って正座している。
姿だけ見れば見合いのようでもあったが、そこに両親はいない。
女性の着物も、ところどころ汚れていた。

「まずは、こんな事をしてしまった事をお許しください」
佐知子は、再度頭を下げる。
「庭木まで傷つけてしまって。怪我の手当てまで……」
「それは気にしないで下さい。私はあまり庭にも興味のない男ですし、何より貴方に大きな怪我がなくてよかったと思っていますよ」
──私。
義成の一人称に違和感を覚えながらも、定信と景伊は義成の後ろで、並んで二人を見守ることにしている。
こいつ多分緊張してんなぁ、と定信は思った。顔には出ていないが。
義成は歳の割に落ち着いているが、案外毒も吐く。
だが人前や公の場では、「真面目でそつがない優秀な男」を演じることができる。
もともと要領の良い男のようだが、基本的にはしきたりだのメンツだの、そういったものを馬鹿にしている男だ。
それ自体は別にいい。
ただ、物事を一歩引いた、冷めた視線で見ている。
恐らく自分は、そこが気に入らないのだ、と定信は思った。

隣に座る景伊を見れば、まるで自分の事のようにがちがちに緊張しているのが丸わかりだったので、後ろから手を回して背中を小突いた。
「お前が緊張してどうするんだよ」
「……だって」
小声で言えば、景伊が戸惑ったような顔をこちらに向ける。
「こういうの初めてで、どうしたらいいのかわからない」
「お前は何もせんでいいから座っとけ」
景伊はどうやら、女性が少々苦手らしい。
母親も幼い時に亡くしているし、それから人と触れ合う機会もなく、今は男所帯だ。
兄が嫁を貰うのは嬉しいが、女性が同じ空間にいるとどうしていいのかわからない、という複雑な感情を持っているらしい。
「こりゃ、もうちょっとあちこち引っ張りまわさにゃ駄目だな」と思いながら、定信は目の前の男女に目をやる。
こちらの浮ついた感じとは真逆で、そちらには何とも言い難い真剣な空気が流れていた。

「怪我がなくて良かったですが、行動自体はあまり褒められたものではないですよ。私は気にしませんが、何が貴方をそこまでさせたのですか」
義成の口調に、責めるものはなかった。
咎めるつもりも親元に突き返す気もないらしい。
ただ純粋に、動機が理解できない、という顔をしていた。
佐知子は少しうつむき気味に恐る恐る、言葉を発する。
「……どうしても直接お会いして、話がしたかったのです。訪ねて行っても、私と会ってくださらなかったじゃないですか。嫌がられているのは知っています、でも」
「別に、嫌がってるとかそういうわけではなくて……」
沈黙が流れている。
どことなく、互いに気まずそうだった。
控え目ながら大人しく引く様子もない佐知子の様子に、義成は少し困っているようでもある。
「別に、貴方が嫌いだとか、そういうわけで断ったわけではないんですよ」
「……私が原因でなければ、なんですか?」
佐知子は不安げな色を瞳に浮かべて、義成をまっすぐに見ている。
「……前に、お断りを申し出たのはうちの家からだと聞いています。『血塗れ屋敷に娘はやりたくない』と父が言ったそうですね。それが原因ですか?それが貴方を傷つけたから、私を避けるのですか?」

話がだんだんと修羅場めいてきたな、と定信は思った。
どうやら佐知子は、以前の縁談が破談になったやり取りの際にあった出来事が、義成を傷つけたと思っているらしい。それが原因で避けられ、断られていると。
破談自体は、彼女の意志ではなかったらしい。

「そう思う事は、親であれば当たり前だと思いますよ。誰だって気持ちの良いものではないでしょう。それ自体は事実ですし、それに傷つくという事もあり得ない。……先日、貴方の父上からも謝罪されました。あのときは悪かったと。そのときも私はそう言っています。それが原因ではない」
「では、何故ですか」
どこまでも、佐知子は食い下がる。
義成は黙った。
本人を前にして、「だからあなたとは結婚できない」と言うのは、なかなか労力のいることだろうと思う。
彼女はそう簡単にあきらめてくれるような様子ではない。
話して簡単に納得するのであれば、危険を冒してまで屋敷内に侵入しようだなんて事にはならなかったはずだ。

「……自信がないのだ、と先ほどこいつらにも言いました。私と一緒になってくれた人間を、幸せにしてやれる自信がない、という意味です」
茶を一口飲むと、義成は少しだけ表情を和らげた。
「何度も言いますが、貴方の事が嫌いではないんです。縁談自体は幼いころから決まっていましたし、それは嫌ではありませんでした。そういうものだと思っていましたし、顔も知らない相手というわけでもなかったですからね。ただ当たり前にそうなるだろう、という考えが変わったのが、あのときだったというだけです」
開け放った縁側から、庭が見える。
スズメが群れで飛び立った。
外の様子を一瞥して、義成は佐知子に向き直った。
「恥ずかしい事ですが、あまりうちの家庭は中でうまくいってなくて……外面は良かったので、わからなかったかもしれませんが、小さい時からそれが本当に嫌で。自分の代ではそうならないようにしようと思っていた。自分は親父たちとは違うと、思っていたんでしょうね。でも人間、本性がわかるのは思わぬ出来事のときです」
自分がどうしようもない人間だと、初めて自覚しました、と義成は告げる。
「だから貴方気にされている事、それは間違いなんです。お断りしているのは、私の問題なのですから」
「……」
気まずい沈黙が流れた。
(居辛い)
俺らいらねぇじゃねぇか。やっぱり帰ればよかった、と定信は思っていた。
こんな事を部外者が口をはさめるわけがないのだ。
景伊を見れば、ひどく考え込んだような顔をしている。
「……兄上」
景伊が顔を上げて、言葉を発した。
二人が景伊に視線を向ける。
余計なこと言うなよ、と定信は景伊を見たが、彼は今までの話を聞いて、思うところあるのだろう。
しかし言うべきか、少し迷っているようだった。

「それではあなた自身は、いつになったら幸せになれるんですか?あなたは父上とは違う。そうやって自分を殺すことが、あなたにとっても周りにとっても良い事だとは、俺は思いません」

義成が、景伊を見る。
だが景伊は怯む様子も見せなかった。
ただじっと、兄の瞳を見返している。
互いに、相手に思うとこはあるはずだ。
しかしその間に、言葉はない。
しばらくの見つめ合いの後、根負けしたのは義成の方だった。
義成は息を吸うと、「こちらにおいで」と景伊を呼ぶ。
景伊を隣に座らせると、義成は佐知子の方へ向き直る。

「弟の景伊です。貴方はご存じないかもしれない」
佐知子が黙って頭を下げる。景伊もつられて頭を下げた。
「今はわけあって、うちとは違うところで暮らしています。この子には、ずいぶん辛い思いをさせました。痛い思いも。これはすべて、私の責任です」
「……兄上」
景伊の反論するような声に小さく口元笑って応え、義成は言った。
「私は、この子が大事なんですよ。たった一人の家族です。兄らしいことも満足にしてやれていません。だからせめて、この子が一人前になるまで。それまでは、私はこの子を何よりも優先してやりたい。一番に愛してやりたいんです。それまでは自分の事など考えられない。それまでは、誰かを一番に大事になんてできない。だから私は、今は誰とも一緒になれない」
一番に愛せないなら、共にいても貴方を不幸にするだけですから。
義成は小さく、付け加えた。
「貴方を何年も待たせてしまって、本当に申し訳ないと思っています。もっと早くにお話できれいれば、こんなにお待たせすることはなかったかもしれない。私の事など忘れてください。貴方ならば、もっといい縁があるはずです」
「いいえ」
佐知子はきっぱりと、義成の柔らかい言葉をはねのけた。
「私はお待ちします。貴方が今は無理だと言うのなら、何年でも何十年でもお待ちします。今までだって、私は十年近くお待ちしていたのです。今更、変わることではありません」
「しかし、それでは」
義成の言葉に、佐知子は柔らかく微笑んだ。
「私は貴方様と一緒になることだけを夢見てきました。私は一番でなくてもよいのです。二番でも三番でも、私を見てくださるときが来るなら、私はそれでよいのです。……今日はお話できてよかった。貴方の心が知れて、ほっとしました」
佐知子は小さく笑った。
「……」
義成はまだ、何か言いたいような顔をしていた。
佐知子の言葉に反論したかったのかもしれない。
だが佐知子は満足げな、だが穏やかな微笑を浮かべていて、きっとこれ以上何を言っても彼女は揺るがないだろう、というのは定信にもわかった。



互いの話は終えたが、佐知子の足はまだ距離を歩ける状態ではない。
義成は直接小松家に出向いて理由を話してくる、と言って屋敷を出た。
使いをやればいいと定信は言ったのだが、「俺から理由を話した方が早い」とそのまま出かけて行ってしまった。
くそまじめだ、と定信は思う。

義成が発った後、景伊は佐知子に謝っていた。
佐知子は謝る必要なんてないです、と笑っていたが、景伊は気にしたのだろう。
兄からそう言われるのはうれしい。
だが自分を理由に今は一緒になれないと言うのだから、景伊が気にするのも仕方がないと思う。


景伊は今は茶を入れに部屋を立ってしまったので、客間には定信と佐知子の二人だけとなった。
佐知子は大人しく部屋に座っている。
なんとなしに見ていると、目が合った。柔らかく微笑まれて、定信は居心地が悪くなり頭を掻く。
「……二番でも三番でもいい、って先ほど言われてましたね」
佐知子の先ほどの言葉を思い出して問うと、佐知子が少しだけ目を丸くした。
「はい」
「それ、俺も似たような事、言ったことがあります」
「……?」
「本当は、一番がよかった。誰だって自分が一番大事だと思う人間に、一番に見てほしいと思うのが当然です。でも相手に勝ち目がなかった。諦めるなんて選択肢、なかったんです。だから二番でいいって言いました。嫌でもこちらに向けさせたくて、卑怯な手も使いました」
「……私は、泥棒まがいの事もしましたよ?」
佐知子は悪戯をしたような子供のような顔で笑った。
それを見て、定信も苦笑する。
「どうしてあの男なんですか?確かにいい男ですけど、性格は少々ひん曲がってますよ。堅物ですし」
「それが良いのです。惚れた弱み、というものかもしれませんが」
「わけを聞いても?」
そう言えば、佐知子は少し照れくさそうに頷いた。
「……うちの両親と義成様のご両親が仲が良かったのです。家は少し離れてますから、近所の子供同士というわけではなかった。でも一度父親に連れられて初めてお会いしたとき……本当に活発な、頭の良い方で、喧嘩も強くて。恥ずかしい話、ひとめぼれしてしまいまして」
きっと自分にないものばかりお持ちだったから惹かれたのでしょう、と佐知子は笑った。
それから親に何度もお願いをしたのだという。
あの方に嫁ぎたいと。
「家同士のお付き合いもありましたし歳も近くて、お話はとんとん進みました。でも私はこの通り、どんくさい女です。とろくて……当時よく、苛められていました」
佐知子は少し、遠い目をした。
しかし定信を見て「今は全然気にしていないんですよ?」少し頬を赤らめる。
「あるとき遠出していたとき、友達に草履を隠されて、私は泣きながら裸足で歩いて帰っていたんです。そしたら本当にたまたま、義成様と出会いました。泣いてる私を見て何も言わず、家までおぶって帰ってくださりました。もう許嫁って事は決まっていた後ですから、お互い恥ずかしくてほとんど話はできなかったんですが……。少々ひん曲がっていようが、あの方は優しい方なんです。今日お会いして、実感しました。あの方は優しいままです」
破談になったときは、三か月くらい泣いて過ごしました、と佐知子は言う。
「あの方も大変なときだとはわかっていましたし、時期がくればまたと思っていました。でも、義成様は断られた。父が以前そんな風に言ってお断りしていたと今日知って、その場で父を殴ってしまいました。その勢いで出てきてしまったので……たぶん、今家は大変な事になってます。私も叱られるでしょうね。義成様にご迷惑がかからなければよいのですが」
「はは……」
激しいなこの人、と定信は苦笑いしていると、背後の襖が開いた。
「あの、お茶どうぞ」
景伊が言いづらそうに部屋に入ってくる。
「あ……ごめんなさい、あなたにそんなことまで……!」
佐知子が慌てて立ち上がりかけるが、その様子を見て景伊が動揺している。
「あ、いえ、いいんです。俺がすることないだけなんで、あの、お客様ですし……」
「落ち着け景伊」
お盆に乗せた茶を持ちながら慌てる景伊を、定信は制した。
「……」
景伊は少し言う事に困ったような顔をしていたが、無言で茶を二人に配ると、不安げに佐知子の顔を見上げた。
「あの……俺からもお願いします。兄を、お願いします」
「景伊さん」
「……おっしゃるとおり、とても優しい人なんです。ただ少し、思いつめるところがあるので……」
「そりゃお前も一緒だろ」
定信が口をはさめば、景伊が少しむっとした顔をしてこちらを見る。
「……お前は黙ってろよ」
「へいへい」
「俺もその……こんな、男なので。兄の言う一人前になんて、いつなれるのかもわかりません。なるべく早くそうなりたいとは思ってますが……俺と兄では、差があり過ぎて。迷惑かけ通しなんです。あなたにまで、迷惑かけてしまって……」
「迷惑だなんて思っていませんよ。義成様もそんな事思ってらっしゃらないはずです。あの方も、もう少しあなたのお兄さんでいたいのだと思いますよ。だから気にしないで。私も待つのだけは慣れていますから。こう見えて、しつこいんです、私。嫌われていないとわかっただけでも、今日は収穫です」
佐知子は優しく、景伊に笑いかけた。
景伊は言葉に詰まりながらも、小さく頷いていた。


その日の夕暮れ。
あれから義成と小松家の人間が一緒に帰ってきて、一悶着あった。
こちらは別室にいたので詳しい事はわからないが、様子からするとかなり激しい言い合いが父と娘の間であったようだった。
親としては、佐知子の今日の行動は叱るだろう。
しかし彼女も譲れないものがある。
彼女はおっとしているようで、実際かなり気が強い。
立ち会った義成がげんなりするほど激しい親子喧嘩をした後、親子そろって義成に頭を深々と下げ、帰っていった。
直接会って話をした事で、義成も今まで通りむげに断り続けるわけにもいかなくなったようで、しばらく話し合いがされることになったようだった。
定信はなんとなく、話がまとまればいいのに、と思っていたりもする。
彼女と義成は合いそうな感じがしていた。
それを景伊も思ったから、お願いしますなんて言ったのだろう。

「……あれが本当の、好きって事?」

結局使いどころのなかった祝い酒を持ちながら帰り道を歩いていると、景伊が唐突に呟いた。
「……何が?」
景伊の言いたい意味がよくわからず問えば、景伊は少し難しい事を考える様な顔をしていた。
「佐知子さん。兄上の事が本当に好きだから、ああまでして話したかったんだなって。行動力がすごいなって」
「……お前、あれは極端な例だからな。あんまり褒められた事じゃないんだぞ」
「うん。でも、すごいなって。本当に欲しいなら、あれくらいしなきゃ駄目なのかな、とか」
「いやいや変な影響受けんなよお前」
景伊が心の底から感心したような口調で言うので、定信は慌てた。
自分も褒めらた大人ではないが、変わった人間たちばかりを見て、それを普通だと思ってはほしくない。
「俺だって、それはわかってるよ。ただ俺にはできないだろうから、すごいなって思ってるだけで」
景伊は、定信の方を見て笑っている。
「……俺、流されてばかりで。自分から決めて動くことってあまりないからさ」
「流されて俺と寝たのか」
そう言えば、気まずそうな顔をする景伊と目が合った。
「そういうわけじゃ、ない」
「ならいいじゃねぇか」
「まぁ。……そうなんだろうけど」
景伊は呟きながら、空を見上げる。
日は少し落ちて、空にはきれいな夕焼けが広がっていた。
「俺、ちゃんとお前らの事好きだって伝わってる?なんていうかしゃべるのも下手で、伝えるのも下手だから。ときどき心配になる」
「昔よりは多少わかりやすくなったな。……昔は正直、何言ってんのかわからんときあったし」
「なんだよそれ。……どうせ俺は、どもってばっかりだよ」
「怒んなよ。ちゃんとましになってきてるから、心配すんな」
笑いながら言ってやれば、景伊はなんとも言えない不満そうな顔をこちらに向けてきた。
こういった表情は、景伊は兄には向けない。
ぐちぐちした一面を向けるのも自分だけだ。そう思うと、二番でもいいな、と思ったりもする。
景伊は一番とか二番とか、そんなこと言うなと怒るのだろうが。
「お前、そういやどうすんだ。義成の力になりたいって言ってたな」
「……」
「別に帰ってもいい。って言うか、帰るなって言う方が無理なんだよな。何だかんだであそこ、お前の家だし」
定信の言葉に、景伊が意外そうな顔をした。
「どうしたその顔」
「いやだって。帰るって言ったらお前、いつもすごい不機嫌になるくせに」
「そりゃ不機嫌にもなるさ。俺あいつ嫌いだし、お前があいつにごろごろ懐いているの見るとイライラするし」
「小さい男だな」
「まーね。心の狭さは自覚してるわ。ただ、あいつの話聞いたら、あいつはちゃんと兄貴してるな、と思って」
「……で?」
「……負けたくなくなった」
ぶは、と景伊が笑った。
自分でも情けないと定信は思う。
でもそう思ったのだから仕方あるまい。
「で、お前はどうするんだ」
「うん。……まだ帰らない、かな」
景伊は少し考えるように呟いた。
「帰ろうかとも思ったんだけど、やっぱり一緒にいたら、俺はあの人に甘えると思う。俺がこんなだからあの人が自分の人生選べないなら、意味がない。……俺も、誰に認めてほしいのかって言われたら、やっぱりあの人に認めてほしいんだ。……だからって、お前らに甘えてたら、意味ないんだけど」
「俺らは別に甘やかしてるつもりはねぇけどな。まぁぐだぐだ言わずに飯食う事と、女に慣れるこった。見てて恥ずかしいくらいにあわあわしてたからなお前」
「言うなよ……」
景伊は恥ずかしそうにそっぽを向いた。
自覚はあるらしいが、年ごろでもある。
もう少々年齢を重ねれば変わってくるのかもしれない。
「でも俺、佐知子さんは好きだよ。優しそうで」
「お前はあんな感じが好きなのか。俺はもう少し、きつげな美人の方がいい」
「……お前とは、多分趣味合わない」
景伊の馬鹿にしたような声に、定信はただ笑って返した。
まだもう少し、自分たちはともにいることができるようだ。
彼に大人になれ、というだけではだめだなと思った。
己も景伊を導いてやれるほど、できた大人ではない。
おかしな道に行きそうになれば頭をはたいてやる事はできるが、基本知らない山道を歩いているようなものだ。
それでも、一緒に道に迷ってやることはできる。
一人で迷うよりも心強かろう。それくらいの思いだった。
手にした祝い酒が、たぷんと音をたてる。
「景伊」
呼べば、少し先を行く景伊が振り向いた。
「祝いってのは、もう少し後になりそうだからさ。今度また、義成んとこ行って飲もう。できれば、利秋さんも連れてな」
「……飲めるのか、兄上に聞いとくよ」
景伊は素直に笑った。
こちらがほっとするような、若者らしい笑顔だった。

兄の縁談(終)