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町に潜む獣

01 使えるものは全て使え

「今月でもう二件目よねぇ」

町の街道には、野次馬とも言える人だかりができていた。
道を行くのは四つの棺桶。
人々の視線はそれに注がれている。
「結構あくどい事もしてるって噂があったから、恨み買ってたのかもしれないけど」
「それにしても、小さい子供まで殺す事ってないんじゃない?」
ざわざわとした中で、様々な言葉が飛び交う。
今月の初め、ある歴史ある料亭を経営していた家族が殺される事件があった。
それから半月も経たぬうちに、さほど遠くない地点で似たような手口の事件が起こったのだ。
今度は、生存者もいない。
同じように遺体は損傷が激しく、一部の遺体では内臓が抜き取られていた。
悪戯に人を殺しているかと思えば、家財をあさった形跡もある。
裕福な家ばかりを狙うため、強盗目的とも思える。

定信と景伊は、その野次馬の中に混じり、橋を渡っていく棺桶の行列を見ていた。
事件が起こったのは深夜だった。


寝静まった頃に事件の知らせを聞き、駆り出されていく利秋に自分たちも行くと伝えたが、利秋はこの男に似合わぬ、少々暗い表情を浮かべて首を横に振った。
「……たぶん、医者はいらないと思う」
それだけ言って、戸締りをきちんとするよう言って出かけて行った利秋を定信は見送ったが、聞かずとも利秋の言いたい事はわかった。
今回はそれだけ、前回に比べれば現場は凄惨で、一目見ただけで生きているとは思えない状態だったという事なのだろう。
考えるだけでも気が重くなり、戸を閉めていると、急に背後で人の気配を感じた。
びくりとして振り向くと、景伊が音もなく定信の背後に立っていたので、驚いていた定信は安堵の息を吐き出す。
「……お前かよ。声くらいかけろって」
「風向きが変わったから、やっとわかった」
「あ?」
こちらの驚きには何も言わず、景伊はよくわからない事を呟く。
「風向き?」
何のことだ、と定信は眉を寄せる。
生暖かい風が、柔らかく夜の闇の中を流れている。
「こちらが風下になったから、臭いも流れてきてる。……今気づくとか、役に立たないな、俺」
景伊はそう少し悔しそうにつぶやいて、室内に戻って行った。
(……風下、ね)
口の中でつぶやきながら、定信は景伊の後姿を見つめた。
彼が感じているのは、闇の中で暗躍していた「あれ」の匂いか、それとも現場に漂う血潮の匂いか。
「……獣じゃないんだからさ」
お前は人だろうに。
言葉にはしてみたが、何も力を持たない呟きだった。
鼻を澄ましてみたところで、定信には何も匂わない。
ただ少し湿った、雨の前のような匂いがするだけだった。



「……やっぱり」
定信が当日の夜の事を思い出していると、景伊が隣で定信の顔を見つめて呟く。
「知ってて動かないってのは、罪だと思う。被害にあってる人たちがどういう人であれ、あんな目に合う必要はないわけだし」
「……まぁ」
定信だって、そうだろうとは思っている。
罪悪感はあった。
だが、自分たちが知ることや景伊の状態をあきらかにすれば、この隣の若者を取り巻く状況がどうなるのかわからないという不安があった。
たった一人の生活を守りたいために、それ以外の多数を犠牲にしている医者。
きっと地獄に落ちるだろう、とは思っている。
自分はそれでも良かった。
だが、この若い青年は、きっと心の底からそう思いきる事はできないのだろう。
自分よりもよっぽど純粋で、まっすぐな若者には。
「──帰るか」
景伊に声をかけて、定信は歩き出した。
景伊も黙ってついてくる。

「アレ」そのものである少女は言った。
自分達は個を得て、それぞれ奪い取った人間としての一生を終えたいのだと。
だから自分たちは見過ごしてほしい。
今暴れているのは、個を得つつも食べることが我慢できない馬鹿な連中だから、そいつらをつぶすのは協力するよと。
自分勝手なものだと思う。
こちらがそれに協力してやる義理もない。
結局あの少女達だって、今ある体の持ち主を食い、居場所を奪い取っただけに過ぎない。
向こうは結局、こちらとやっかいな同種でつぶし合いをして、共倒れしてほしいと願っているに違いない。
少女の語った言葉がすべて本心だとは、定信も思ってはいなかった。

「……お前、さ」
心を切り替えるように、定信は景伊に話しかける。
「今、どこまで見えてどこまで聞こえる?どんな感じなんだ、今の感覚」
「別に普通だけど」
「だから、お前の普通はよくわからないんだよ。例えばどこまで見えるんだ」
「えっと……」
景伊は立ち止まり、指を指す。
前方にははるか遠くに、薄らと山が見える。
「あの山。頂上に一本だけ、目立つ大きな松がある。多分何かの境界で目印にしてる木なんだろうけど。あの辺りまで、見ようと思えば」
「思えば?」
「うん。見ようと思えば、それくらいまでは見えるかも。音もそう。よく聞こえるけど、聞こえすぎて最近はうるさく感じる。だから普段は聞き流してる」
「……」
定信は思わず黙ってしまった。
相変わらず理解ができないと思う。
そのはるか遠くの木とやらも、定信には全く見えない。
だが景伊は当初その「見えすぎている」「聞こえすぎている」をおかしいとも思わなかったらしい。
ごく自然に、彼は変わっていっている。
「……俺、やっぱりおかしくなってる?」
景伊は少し首を傾げた。
定信は、それに返す言葉がみつからなかった。

これらの状態は、まだ誰にも告げていない。
誰かに話すべきなのかこの半月近く迷っていた。
こんな事、誰にも信じてもらえないかもしれない。
そもそも、言うべきでないのかもしれない。
しかし自分たちの胸だけに留めておくのは、そろそろ限界になっていた。
景伊も同じ気持ちだったのだろう。
自分から「利秋さんには言っておく」と、その夜帰ってきた利秋に告げた。
利秋も景伊の言動に少し疑問もあったらしい。
茶化しもせず、それを黙って聞いていた。

「……なるほどね」
事情はわかった、と利秋は話し終えた景伊の顔を見る。
その眉間には皺が寄っている。
「まぁ、それをそっくりそのまま人に説明したところで、周りはわかってくれないだろうな。俺はまぁ、見ちまったから信じれるけど」
ふむ、と利秋は少し間を置いて考える。
「つまりお前は、あんなくそったれた事やってる連中の位置とかが、もしかしたらわかるかもしれないって事か?」
「位置までわかるとか、便利なものじゃないです。ただ近くにいるとか、それくらいならわかると思います」
「へぇ……ところで、お前の変わったところって、今んとこそれだけか?」
「……多分」
景伊はそう言われると、不安もあるのだろう。言葉を濁らせる。
「俺自身では、自分が変わったっていう自覚がないんです。俺、おかしいですか?何か変わりました?」
「うーん……見た感じ、話した感じだと別に変らん気もするし……特にそういうのは感じないが」
顔を近づけて、じろじろと景伊を眺めている利秋は、少し怯えた表情を浮かべている景伊の頬をいきなりつねった。
「……」
痛そうではあるのだが、景伊はいきなりの事で反応に困っているらしい。無言だった。
「お前さぁ、早く言えよこういう事。定信、お前もだ馬鹿」
「え」
いきなり話をふられて、定信も戸惑う。
「すみません……俺も確証が持てなかったというか」
「確証持つ前におかしいと思ったら言えよ馬鹿!」
二度も馬鹿って言われたよと思いつつ、定信は謝った。
「……すみません」
利秋は長い息を吐きながら、頭をがしがしと掻き毟る。
「悪いけど、俺にはどうもできん」
「はい」
「だから、お前の扱いも今までと変えるつもりもない。だが」
利秋は、珍しく困ったような顔をしている。
迷っているのだ、と定信は思った。
「……お前らも知っての通り、今回派手な被害がまた出てる。二回目……お前んちも合わせたら三軒目な。こっちは何の手がかりもないわけよ。お前は嫌かもしれんが、藁にでもすがりたいのが俺らの立場」
「……はい」
利秋の言いたい事はわかる。
彼らからすれば、これ以上地元で似たような惨劇が起こる事は回避したいはずだ。
そのため、少しでも解決への手がかりになるなら、景伊を利用したいと思うはず。
(……こうなると思ってたんだ)
定信は心の中でつぶやいた。
こうなると思っていた。
だから自分は、人に言いたくなかった。信頼している男であったとしても。自分と景伊と二人しか知らない事であれば、周囲の動きに彼を巻き込む事はない。
だがはたして、それでいいのか。
他人の死に目をそむけた己は、恐らく地獄に落ちる医者だ。
景伊は背負うものを半分担ぐよ、と言った。
だが、己がこの若者に見せたいものはもっと明るくて、光のようなものではなかったか。
暗闇で膝を抱えていたこの若者に、世界はそんなにひどいものばかりでもないと、そういうものを見せたかったはずなのに。
己の地獄に付き合わせる事は、やはりできないのだと思う。
「……俺でよければ、協力させて下さい。しっかり、やりますから。あいつらを見つけて殺すまで」
景伊の言葉は、はっきりとした強いものだった。
定信は息を吐き出し、目を閉じる。
こうなると思っていた。
結局ほかに、道などないのだ。
探すのだと言ったところで、そんなもの気休めでしかなかった。

利秋は、景伊にいくつか約束をさせた。
単独では動かぬ事。
何か気づけば、必ず利秋なり誰かに相談すること。
感覚が鋭すぎる事は、周囲に気づかれぬようにする事。

利秋なりに景伊を気遣っているのはわかった。
使えるものはなんでも使うという男にしては珍しいと思う。
それが数年共に過ごしている家族だからというのか、預かりものだからという事なのか、定信にはわからない。
景伊はあの後、「耳鳴りがする」と不調を訴えていた。
聞こえ過ぎて、気付かない間に体に負担がかかっているのかもしれない。
ひとまず休むように伝え、定信は利秋の部屋に向かった。

「ちょっと、いいですか?」
戸を遠慮がちに開ければ、ろうそくの明かりで本を読んでいた利秋がこちらを見た。
「どうした?……何か言い足りんか」
「別に文句言いに来たわけじゃ……文句も混じるかもしれませんが。ちょっと、久々に二人で飲むのもいいかと思って。景伊は寝てますし」
定信はそう言いながら、わきに持っていた酒を見せた。
樽には「祝い」ののしが貼ってある。
「それ、義成のところに持ってったやつ?」
「そうです。あいつの縁談がまだ先っぽいので、先に飲んでもいいかなと思って」
「いいけど、景伊除け者にしたら後で怒らんか?」
「怒るかもしれないですが、そのときは俺が怒られればいいだけです」
そう言えば、利秋が少し質の悪い笑みを浮かべた。
「……まぁいっか。最近お前と二人で飲むってのはなかったからなぁ」
入れよと言われて、定信は利秋の部屋の戸を開けた。

景伊が来る前は、この家には自分たち二人しかいなかった。
だからまれに、こうして男二人で飲むことがあった。
少々歳の離れた親類の男は、定信の目から見ても昔から変わっていたように思う。
貧乏とはいえ武家の長男のくせに、剣術にはあまり興味も持たず、女にも興味を持たず、知識欲だけは旺盛だった。
どこから知識を得たのか、定信の持っていた異国の言葉で書かれた医術書を、たどたどしくはあったが読んでいたときには驚いた。
もともと頭の良い男なのだろう。
弁も立つが、言わなくても良い事まで言ったりする。正論なのだが、それで煙たがられたりもする。
賢いのにうまく生かし切れない男なんだな、と定信は幼いころから思っていた。
定信も、自分自身少々歪んだ男だとは自覚している。
だからなのか、十以上歳が離れているくせに昔から気が合った。
一族の中、変わり者同士という事でつるみやすかったのかもしれない。
父親と気が合わず家と離れたときも、「うち来るか?部屋ならいくつか空いてるぞ、ぼろいけど」と言って呼び寄せたのはこの男だった。

「お、この酒うめぇ。さすがちょっとお高いやつだな」
「金出してくれたの貴方なんですから、しっかり飲んでくださいよ」
定信がそう言えば、利秋が笑う。あいつも早く結婚しちまえばいいんだよ堅物め、と憎まれ口をたたきながら。
結局、義成と佐知子の縁談話は、あれからいくつか波乱もあったようだが正式に決まったらしい。
しかしすぐに、とはやはりいかないようで、もう数年待っていただくかもしれない、と義成は言っていた。
佐知子はそれでもかまわないと言ったのだと言う。
あれほどまでに縁談を断っていた男がそう決めたのは、景伊の言葉も大きかったのではないか、と定信は思っている。
佐知子の事は景伊も気に入っているようだし、そこも決め手になったのではないだろうか。
景伊はすぐにでも結婚してもらって構わない、と思っているようだが、そこは義成なりのけじめなのだろうか。

「……そういえば俺も、お前に聞きたい事あったんだが」
利秋が妙に真剣な顔で、定信の顔を見る。
「お前、もしかして景伊抱いた?」
「……」
直球な言葉に、定信は杯を持ったまま言葉に詰まった。
はいともいいえとも、言い難い。事実ではあるが。
しかし利秋は、定信の固まり具合からなんとなく察したらしい。
「あー、やっぱり。そんなこったろうと思った」
「……なんで、気づいたんですか」
「俺んちの狭さと壁の薄さを考えろ馬鹿。寝てるときに何回か声聞こえてたわ。まさかとは思ったが、あいつの首に痣ついている事が何回かあったし。お前、何も知らんガキに無理強いしたわけじゃないんだよな?」
「……最初は無理したかもしれません」
「はぁ」
「でも俺は、いたずらに手出したわけでもなんでもないですよ。……言い訳かもしれませんが。義成に叩き斬られても文句言えないですけど」
薄暗い部屋に、沈黙が流れる。
あれから数度、景伊の体を抱いた。
最初は緊張と恐怖に、体をこわばらせるだけだった若者の体がほぐれていくのを見ていくさまは、たまらなかった。
挿入して、痛みに眉を寄せて呻くだけだった身体が、いつのまにか肌を桃色に染めてあられもない小さい悲鳴をもらすようになった。
自分は、愛しているから抱くのだ、と思っていた。
景伊はどうなのだろう。
愛されているという安心感を得たいから抱かれるのだろうか。
どこか性にも疎いようなところがあるから、自分は利秋の言うとおり、言葉巧みに何も知らない若者を騙くらかして、自分の好きなように欲を晴らしているだけなのか。
景伊から求めてくる事はなかった。
ただこちらが求めれば、拒絶はしなかった。

「……別に責めてねぇよ。そこはお前らの話だし、俺は首突っ込もうとも思わん。あいつもほんとに嫌だったら、黙ってやられてるような奴じゃないだろ。大人しいが咄嗟な事にはに噛みついて反撃するような奴だと、俺は思うね」
「……まぁ」
実際噛まれました、と定信は言わないでおいた。
「……すみません、なんか」
「別に迷惑じゃない。俺の方がみょうな事に首突っ込みやすいし敵も多いから、お前らに迷惑かかるんじゃないかってはらはらしてた。お前らはうまい事やってるみたいだから、安心してるけど」
利秋は苦笑いを浮かべた。
「まぁ、景伊とのあれこれは、今は義成に黙っといた方がいいかもな。あいつがブチ切れたら、俺じゃ止められんわ」
定信は苦い笑いと共に、頷いた。
知られれば、自分は間違いなく殺されるだろうな、と定信は思った。
いずれ伝わるかもしれないが。

夜は静かに過ぎていく。
時折遠くで犬の鳴き声が聞こえた。

「……言おうかどうか、迷ったんだがな」
「?」
利秋が急に思い出したように、己の後ろにある木箱をあさり始めた。
目的のものを見つけると、それを定信に手渡してくる。
利秋宛ての手紙のようだった。
「読んでみろよ」
「でもこれ、利秋さん宛てで……」
「いいよ。ほとんどお前宛てみたいなものだから」
促されて、疑問に思いながら定信は折りたたまれた手紙を開く。
「これ……」
読み始めて数行で、定信はその手紙が誰のものか理解した。
己の父親だ。
定信が迷惑をかけていないか、元気にしているのか、そういった事が書かれている。
思わず利秋の顔を見た。
利秋はただ、苦笑している。
「前から手紙は来てた。俺宛てにな。お前の話、聞いてるってさ。しっかり町のお医者様してるって」
「……何で黙ってたんですか」
「だってお前、親父殿の話したら機嫌悪くなるじゃねぇか。こっちだって気使ってたんだぞ」
「いや、だって……」
定信は思わず頭を抱えた。
何で今更こんなもの見せるのだと思った。
手紙一つ寄こさない。自分の事などとっくに失望して、忘れて、金持ちのところで医者をしているのだと思っていた。
なのに何で自分に寄こさず、利秋に手紙なんて書くのだ、あのくそ親父は。
「馬鹿だ」と、向こうから自分を切って捨てたくせに。
「……親って、いくつになっても子供の事心配なんだよ、たぶん。俺親になった事ねぇけど」
「だからって……俺の話なんて聞かないくせに。何で俺が気に入らないのか、知りもしないくせに……」
「落ち着けって……まぁ俺は部外者だけど、お前とお前の親父さんが気が合わないのは仕方ないと思う」
利秋は酒を一口含んで、杯を置いた。
「お前の親父さん……あの人は医者として大成したい男だ。もっと上に行きたいっていう人種。それはわかる。俺もそういう人間だから。だからもっと自分の能力が生かせるところ、名誉がもらえるところで生きたい。お前は、のし上がって生きていくには情が深すぎる。根本的なところが違うから、同じ仕事で生きてたらそりゃ合わんさ。仕方ない」
「……」
「俺も、お前に和解しろとかは言わんよ。でもまぁ、相手はお前の事忘れてもいないし、嫌ってもない。それくらい知っとけよ。それでいいよ」
利秋の言葉に、定信は再び、手紙に視線を落とした。
いい医者になっているようで喜ばしい、と書いてある。
悔しいのか怒りなのか嬉しいのか、全くよくわからない。
いい年こいて自分の気持ちもよくわからない。
複雑な気持ちで、定信は手紙を折りたたんで利秋に返した。
昔なら、もっと何か言い足りなくて、喚いていたかもしれない。
だが今はそんな気も起きなかった。
「いいよ。お前それ持っとけば?」
「いりません。貴方宛ての手紙ですし」
「お前も強情なやっちゃね」
利秋はやれやれと言いながら、定信の突き返してきた手紙を受け取った。
「どこにいるか知ってんだろ?手紙くらい書いてやればいい」
「嫌ですよ。……第一、俺は親父の言う良い医者なんてやれてません。今回の件だって、できれば見ないふりしていたかった」
「……どっちかって言えば、『関わらせたくなかった』だろ?」
「……」
定信は黙り込んだ。利秋はこちらの思いなど、とっくに見抜いているのだと思った。
「景伊は、あいつらを絶対に許さない。なのに、さぁ殺せと言わんばかりに、あんな状態にされてしまった。力を持てば、復讐に走るのは当然でえしょう。それにあいつ、頭の中はまだ子供です。いいように周りに使われて消耗していくのは、俺は嫌だ」
「俺も使おうとしてるぞ」
「利秋さんなら理解はしてくれると思ってた。あいつを気味悪がったりしないでしょう。でも、景伊を使おうとするのは目に見えてた。だから言いたくなかった」
「当たり前だろ。俺はそれが、最善だと思うから」
利秋は杯を置くと、まっすぐに定信を見つめてきた。
「あいつの存在は薬で、虫よけで、殺虫作用もあるわけだ。しかも事件を未然に防げるかもしれない。それだけ便利なものがどこにある?」
「……便利だとか言わないで下さいよ。貴方にとってあいつはなんですか?家族だとか、そういう情はないんですか!」
「あるよ。愛着ぐらいあるさ。ここに来て長いしな。でもほかに、方法もないのが事実だろうが。あるか?他に。今」
「……」
定信は、唇を噛む。
自分だってわかっているのだ。だが、そんな気持ちになれない。
「まぁ俺は、お前のように情深くはないからな。所詮、お前が嫌いない親父と一緒なんだよ。のし上がるためなら、身を守るなら、なんだって利用してきた。……例えば、いいとこの家の当主とつながりができた。それさえ俺は使ってる」
お前はそういうの、大嫌いだろうけど。
利秋はそう、付け加えると、杯に残っていた酒を飲み干した。
「お前も飲むだけ飲んだら寝ちまえよ。酒もまずくなってきただろ」
「利秋さん」
定信は、空になった杯を利秋の手から奪い取る。
「景伊を引きずり回すって言うなら、俺は意地でも引っ付いて回りますよ。……いざってとき、役には立ちませんけど」
利秋は少し、目を細めた。
「見た目、お前の方が強そうなのにな」
「えぇ。人生の選択間違えたかなってよく思いますよ」
「……お前がここまで他人相手に意地になる男だとは思わんかったな」
利秋は、口元で笑う。目は笑っていなかった。
「まぁいい。お前は止めても来るだろうし、好きにしろよ。あいつ足速いからな。気緩めたら、あっと言う間に走り去っちまうかもしれないし。首根っこ掴んどく奴が必要かもしれんなぁ」
「……俺は飼い主ですか」
「似たようなもんだろ?」
利秋は笑ってそう言うと、部屋を出て行った。
定信は複雑な思いで、その背を見つめていた。