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町に潜む獣

02 枕との会話

利秋のそこに悪意はないのだと、定信だってわかっていた。
己はどうにもならないことに、ただ噛みついて文句だけ言っているような。
その傾向は、以前から全く変わっていない。
(……俺はガキか)
現実を一番受け入れる事ができないのは誰だろう。
そう思うと、己の小ささが浮き彫りになるようで、定信は胸の奥が重たくなるのを感じた。

利秋の部屋から戻る際、景伊の部屋の前を通りかかる。
耳鳴りがする、と言っていた若者はもう寝ているだろうか。
辺りは静かだった。
別に寝ているところを無理矢理起こそうとか、ちょっかい出そうというような気持ちがあったわけではない。
少し体調不良を訴えていたから、様子を見たかった。
そういう思いで、乾いた障子を開けた。

部屋の中は暗い。
しかし見知った空間の中で、景伊がどこで寝ているのか、どこに障害物があるのかはわかっていた。
そこらに積んである本を崩さないように傍に寄ると、足元の布団がもそりと動く。
「……酒臭い」
足元から、少しかすれた声がする。
「……なんだ、起きてんのかよ」
「そんなに飲んでねぇよ」と言いながら見下ろせば、布団から少し顔がのぞいているのが見えた。
「……戸、開けたくらいで目が覚めたよ。何?」
「用は特にない」
定信がそう呟けば、小さく笑う声がした。ごろりと寝転がったまま、景伊は定信を見上げている。
「耳、もう大丈夫か?」
「それは平気。寝てるうちに治った。利秋さんと飲んでた?」
「あぁ。よくわかったな」
「お前、一人じゃ飲まないし。……あんまり利秋さんに噛みつくなよ」
ふいに発せられた言葉に、冷や水を浴びせられた気分になった。
「……聞こえてた?」
「いや、寝てたからしらない。でもお前、やりそうだなって思って」
景伊にも見透かされていたのか、と定信はため息を吐いて、布団の傍に座った。
己は単純なのだろう。そうではないと、自分では思っていたが。
少しの沈黙の後、闇に慣れてきた目で定信は室内を見渡す。
「お前の部屋は相変わらず物が多いな。ほとんどお前のものじゃねぇだろこれ。どうせあの人も使わないんだから、売るなり捨てろって言えばいいのに」
なんとなく、話を変えたかった。
部屋の中には、定信の目には「がらくた」としか映らないようなものが雑多に箱に詰めて積まれていたりする。
もともとここは、物置に使われていた部屋だから仕方ない。
しかし景伊はそれに文句を言う事もなかった。
「いい。狭いのが俺は好きだから。がらんとしたの、嫌い」
そう言いながら、景伊は定信の座る方へ寝返りをうつ。
景伊はまだ眠いらしい。眠いときの彼は、ぐにゃぐにゃした猫のようになる。
眠そうな視線で、こちらを見上げているのがわかった。
「……寝るなら、自分の部屋行って寝てくれ。今日はお前の相手するの、だるい。眠い」
「……さようで」
そんなに面倒そうに言わなくてもいいだろうと思いながら、定信はため息を吐いた。
「別に、俺も寝てるところ叩き起こしてまで相手してくれって言いに来たわけじゃねぇし」
「じゃあ、何で来た?」
「調子悪そうにしてたからだよ馬鹿。……平気なら、俺も戻って寝るぞ」
そう言って立ち上がろうとすると、定信の手首を布団から出てきた手がのそり、と掴んだ。
見れば、まだまどろみの中にいるような景伊の目が、こちらを見ていた。
「……なぁ、定信。俺は嫌じゃないんだよ」
「何が?」
浮かしかけた腰を再び畳に落とし、問う。
「利秋さんは犯人を捕まえたいから、できれば俺に協力してくれって言った。……俺も役に立てるのかは、正直よくわからない。万能ではないわけだし。でも少しでも人の役に立つなら、俺はやりたいって思う」
「まぁ……お前はそういう奴だよな」
定信は景伊が以前言っていた事を思い出した。
彼は人の為になりたいと思って日々生きている。
それは心からの善意と言うよりは、人に認められたいという思いの方が強いからなのだと。
もう彼を「いらない」扱いをする人々はいないのに、未だにそんな風に思っている。
景伊も定信に以前言ったことを思い出しているらしい。
少し、沈黙があった。
「定信。お前さ、覚えてる?料亭が襲われたとき、井戸の中にいた子供の事」
「あぁ。お前が井戸まで潜って抱えて出てきた子だろ?」
「うん。あれから少し気になってたから、何日か前に様子見に行ったんだ」
「……一人で?」
「うん」
意外だ、と定信は思った。
景伊はあまり社交的な性格ではないので、あまり自分たち以外に付き合いはない。
道場でも同年代の若者たちと付き合いがないわけではないようなのだが、個人的な付き合いというのはあまりないのだ、と以前言っていた。
「もう少し人付き合いを頑張れよ」と言っても、「俺と話しても面白くないだろうし」と言うようなところがあった。
一人で出かけると言えば実家に戻るくらいの事なので、他人の家を一人で訪ねる、というのが意外だったのだ。
よほどあの子供の事が気になっていたのだろう。
定信のそんな思いをよそに、景伊は横になったまま、思い出すように呟く。
「怪我とかはなくて、体は元気らしいんだけど。……全然笑わないんだって言ってた。表情がどこかへ行ってしまったような。元々元気な子だったらしいんだけどね。無理もないって、周りは言ってた。……俺、ちょっとだけその子の気持ちもわかるような気がして。比べていいのか、わからないんだけど」
景伊が、定信を見上げる。
真顔になってしまっているこちらを見て、景伊は少しだけ笑った。
「多分あの子も、どうしていいかわからないんだろうと思う。すごく悲しいんだけど、悲しくて感覚も麻痺してて、普通に振る舞うって事がまるでできなくなってるんだ。少なくとも俺はそうだった。……俺には兄しかいなかったけど、その人に全否定されて、お前の何が信じれるんだって言われて。……なのに体は生きてて、生き延びて。俺の人生に何の意味があったのかって思った。何もわからなくなってて。……お前には、相当迷惑かけたんじゃないかって思うよ。ごめん」
いきなり謝られたので、定信はどういう顔をしていいのかわからなくなった。
こんな暗闇の中でも、景伊はこちらの表情ははっきりと見えているだろう。
「……正直、大変だったな。何するかわかんなくて、目が離せなくて。でも今も昔も、迷惑だとは思ってない。……今更だろ?」
わしわしと、艶のある黒髪を撫でる。
「ありがとう」と景伊がくすぐったそうにしながらつぶやいた。
「でも、だからそう思えたのかな。俺は今まで、自分の事しか考えてなくて。人に認めてほしいってそればっかりだった。でもあの子を見て、あの子も俺と同じなのかもしれない、そう思ったら、もうあんな目に合う子を出したくないなって思った。あいつらはきっと同じこと、何度もやる気だ。それを少しでも止めれるなら、俺はやりたいって思うんだよ。お前はそれでも、反対する?」
「……反対はもうしてねぇ。文句は言うけど」
「たち悪いな」
「自分でもそれは思ってる。……お前にガキガキ言ってきたけど、俺が一番ガキなのかもしれんなぁ……」
「三十手前なのに?」
やかましい、と体の上にのしかかると、下で景伊が「重い!」と文句を言って暴れる。
景伊を下敷きに、掛け布団の上に転がった。
人の上に寝転がると、ほどよい枕のようなふくらみもあって、少しだけ眠気がやってくる。
「……まあそれしかないんだって、俺だってわかってるよ」
定信は暗闇の中、顔のようにも見える天井の染みを見上げる。
「ただ俺はお前にはそんな、きな臭い事してほしくなかっただけだ。ほかの人生があっただろうって」
「……俺のどこにそんな他の人生があったんだ」
「例えば、だよ馬鹿。お前は性格的にも剣客には向いてねぇし……素質はあるのかもしれねぇけどさ。わかるだろう」
「……まぁ、それは俺も思うけど」
重たいと言いながらじたばたしていた景伊は、定信がどく気がないのだとわかったらしく、暴れるのをやめた。
「潮津さんにも言われてる。お前はどうしても勝ちたいっていうのがないから、上に上りきれないって」
「勝ち譲ってんのか?」
「そういうつもりはない。試合は勝ちたいし。……ただ竹刀持って対面したとき。どうしても相手を倒すとか、そういう覇気向けられると、『俺はこの人より勝ちたいって思ってないんだな』って思う時がある。そう思うと、すっと熱が引く。みんな俺の事を変わってるって言うけど、どこが問題なのか自分でもよくわかってないから、多分駄目なんだと思う」
「気持ち、ねぇ」
定信は自分の下にある若者を想う。
確かに景伊は、貪欲に勝利を目指すとか、そういった熱い若者らしさといったものをあまり持っていない気がする。
強くなりたいとは思っているし負けず嫌いではあるのだが、人を蹴倒してまで勝ち上がりたいという人種ではない。
潮津の言う上に上りきれないというのは、そういう事なのかもしれない。
もし景伊が子供時代を人並に過ごしているのだとしても、こういった性質的なところはあまり変わっていなかっただろうと定信は思っている。
大人しくて物静かで人見知り。
しかし人間関係を築く事は今よりうまかったのかもしれない、と思うとやり切れなくなった。
子供時代の代償というものは大きい。
「……でも、これが俺の人生なんだよ、定信。後悔しないとかはない。そこまで思いきれないから、ずっと悩んでるし後悔し通しだよ。でもこれが俺の人生なんだ。諦めてるわけじゃないよ。俺なりに必死でやってきたものでもある。お前のせいでもないし、兄上のせいでもないんだよ」
「……若いのに悟った奴なんて、気味が悪い」
「気味悪い……?」
「俺がそう思うだけだけど。おんなじ年頃の連中から見たらお前はずいぶん変わってるだろうな」
「ふうん……」
景伊は特に興味もなさそうだった。
周囲とうまくやれない事を、特に気にしている様子もないらしい。
「俺は、お前らがいればいい」
布団の中から、静かにそう呟く声がした。
それになんと返そうか少し考えているうちに、枕にしている布団の下から、寝息が聞こえてくる。
(寝るの、早ぇよ……)
思わず苦笑いが浮かんだが、気持ちよく寝ているところを起こしてしまったのはこちらなので、そうも言えない。
お前らがいればいい、とは自分も一緒だ。
俺も、お前がいればいい。
定信はそう思う。
昔はこの右も左もわからないような危なっかしい若者を見て、自分がついていてやらねば駄目だと思ったのだ。
ただ、今は違うような気がしている。
自分の方が、景伊がいないと駄目になりそうになっていると思う。
女々しいが、それをそろそろ認めねばならないのかもしれない。
「……お前が危ない事に足突っ込むなら、俺も一応着いていくからな」
自分が枕にしている若者に向けて、定信は呟いた。
返事が返ってくる事を期待はしていない。
戦闘になったら、役に立たないかもしれない。医者なんて有事の際にうろうろすべきではないとはわかっている。
だが自分の目の前から消えられたときの思いは、二度と感じたくなかった。