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町に潜む獣

03 医者の性分

次の日、利秋には一応謝った。
朝、井戸の前で顔を洗っていた利秋に手拭いを手渡しながら、「昨日は突っかかってすみませんでした」と謝れば、顔を上げた利秋は、こちらを少々意地悪な視線で見つめていた。
「別に。お前は静かな方が不気味だからなぁ。文句言ってこそのお前、みたいな」
そう笑いながら、利秋は定信の手から手拭いを取る。

今日はどことなく暖かい。
空は綺麗な青空が広がっている。
定信は突っ立ったまま、顔を拭く目の前の遠縁の男を見ていた。
この男とあまり「喧嘩」をした記憶はない。
仲は良くても自分が居候だという自覚もあるし、口が達者なこの目の前の男と、口論したところで丸め込まれれるのはわかっていた。

「……こんな朝っぱらから聞くの、何なんだけどさ」
顔を拭きながら、利秋は定信の思いをよそに声をかけてくる。
「お前ってさ。あいつの事、やっぱ好いてるわけだよな?」
「……好いてなきゃ、男なんて抱きませんよ俺は」
確かに朝っぱらからする会話ではないなと思いながら、定信は顔をしかめた。
その様子を見て、利秋は面白そうに喉を鳴らして笑っている。
「いいね、お前のそういう正直なところ。俺はやっぱ、お前のそういうところは嫌いじゃないんだわ」
「……」

定信は、複雑な胸中で目の前の笑う遠縁の男を見ていた。
定信も、利秋の事は嫌いではない。
放任主義ではあるが、面倒なことでも何だかんだで引き受けてくれる。
頼りになる、自分の理解者だと思っている。
だから今まで、「貴方は薄情だ」と言わんばかりの口調で、この人に噛みついた事はなかった。

「でもお前、自分が納得してないんだったら別に謝らなくてもいいんだが」
「納得はしてますよ。それしかないのはやっぱりわかってますし、景伊もやる気です。俺に止めれる理由はありません。……だからこそ、俺もついて行こうと改めて思いました。だから貴方を責めた事は、やはり謝っておこうとかと思って」
「……走るあいつの襟首掴むために?」
「あいつは猫みたいなものなんで、掴もうとしたところでぬるっと逃げます。猫に鎖つけるわけにもいきません。目を離したくないのは山々ですけど。……俺が付いていきたいって思うのは、もし相手と遭遇して、戦闘になるような事があった場合の事ですよ」
「……血か?」
利秋の言葉に、定信は頷いた。
「アレ」と言葉を交わしたところで、戦闘を回避できるとも思えない。
「あいつらを殺せるのは景伊の持ってる毒だけです。俺もいろいろ実験したわけじゃないので量まではわかりませんが、相手を殺すのだとしたら、あいつは必ず血を流さないといけない。景伊もそれはわかってるし、必然的にあいつは怪我するわけです。無傷ってわけには絶対にいかない」
下手すれば命に関わる。
あの山神のように、「人ではない何か」ではない。
景伊は少々変わりつつあっても、まだ人だ。
「だから医者がいる。俺は自分のいないところであいつに死なれたら、自分を許せません」

嫌だ嫌だと文句を言う事は簡単だ。
でも周囲はそれを望んでいて、本人もそれを望んでいて、それしか策はなくて。
わかってはいてもやはり文句を言わずにはいられない自分は、きっと自己中心的な嫌な奴なのだろうと思う。
他に何か、良い案が浮かぶわけでもないのに。
お前はよくても、俺が嫌なのだと言ったところで、説得力などないのに。

「……まぁ、怪我人出ることは間違いないだろうから、医者が一緒ってのは助かるけどね」
利秋は少し、考えているようだった。
「なぁ、定信。俺はお前の事、別にひどい奴だとか馬鹿だとか、思ってはないわけよ」
顔を拭き終えた手拭いを、利秋は定信に向けて放り投げた。
「お前は昔っから……それこそ最初から、景伊の面倒よく見てたし、可愛がってるの知ってたよ。多分俺一人だったら、あいつをとっくに家に帰してただろう。お前がしっかり面倒見るし、景伊も懐いてたから、預かってもいいって義成に言ったわけだ」
結果、どうするのが一番良かったのか時々悩むけどね、と利秋は付け加える。
「好いてる人間の身に良からぬ事が起こるなら、それを防ぎたいし止めたいって気持ちはおかしいもんじゃない」
「でも被害は最小に抑えたいって気持ちも、俺だってわかってるんですよ。だから貴方を薄情扱いしたことは、謝らなければいけなかった」
定信はそう吐き出して、目の前の男を見る。
誰だって、この男のような選択をしたと思う。
アレと事件の関係性、景伊の状況。
それを知れば誰だってそうする。
自分だって、景伊が己の執着する人間ではなかったら、それが最善だと言っていたに違いない。
「……医者としては失格ですがね。他の人間の事が見えなくなってる」
「医者だって人間さ。世の中の人間平等に愛してやれるなんて、そんなの人間止めないと無理だね」
まぁお前は真面目だからなぁ、と利秋は笑う。
「お前はそれでいいと思うよ。板挟みになってしんどいだろうが。あとは……そうだな。問題は……」
利秋は少し困ったように頭をかく。
「あいつの兄貴にどう説明するかだ。説明もなしに勝手に弟使えんよ」
「まだ話してないんですか」
「……まぁね。お前と一緒で、大事な事は何も説明できてない状態」
今日くらいにちょっと会いに行ってみるわ、と告げると、利秋はそのまま室内に戻って行った。
その背を見ながら、定信は返された手拭いを握りしめる。
(そういえば、あいつに言ってない事は山ほどあるんだよな……)
景伊の状態。
自分と景伊の関係。
今回の事件に絡む予定の自分たちの事。
あの男はどうするのだろう。
定信はいつも眉間に皺の寄った、不機嫌そうな男の顔を思い浮かべる。
「案外、ほかの人間はどうでもいいと思ってる」と言っていた男。
断りもなしに話が進んでいる事を、あの男は怒るだろうか。
自分が弟に手を出した事を知れば、どうするのだろうか。
考えていると少し面倒くさくなってきた。
考えたい事はたくさんあったし、もやもやとした悩みもあった。
だが、今己がそんなものに足を取られて遅れをとるわけにはいかないのだ。
自分は、あの猫を今度こそ見失わないようにしなければいけない。
なかなか懐きにくい、気難しい痩せた猫。二つの家を行き来する猫──。


「……先生、どうしました?」

呼びかける声に、定信ははっと我に返った。
顔を上げれば、目の前にはいかつくて四角い男の顔がある。
「……あ、すみません。ちょっと最近、考え事が多くて」
定信は目の前で正座する男に謝った。
少しの間、今日の朝の事を思い出していたらしい。

目の前にいるのは道場の塾頭である潮津だ。
そろそろ定期的に様子を見に行く時期だったのもあって、景伊と共に訪れていた。
景伊は今、竹刀片手に塾生の中に混じっているので、診察を終えたこの小さな部屋にいるのは、定信と潮津だけだった。
隣の道場からは、若い男たちの稽古の声が響いている。
「先生もきっと大変なのでしょうね。近頃物騒ですから」
潮津が空いた定信の湯飲みに茶を注ぐ。
「俺はそれほどでもないですよ。医者がほとんどいらない状況でしたから」
「あぁ……」
定信の言葉に、潮津は察したらしく言葉を濁した。
少しだけ、部屋に沈黙が流れる。
この辺りの人間であれば、きっと今回の二件続けて起きた殺人事件は記憶に鮮明だろう。
今日ここまで歩いてきたが、昼間だというのに町の人間がぴりぴりしているのがわかった。
特に裕福な家が狙われているので、店をやっているところなどは夕方になると早々と店じまいしてしまうところも目に付く。
「……そういえば」
潮津が湯飲みを置いて、定信を見た。
「景伊が言っていました。しばらく来れなくなるかもしれないと。辞めるのかと聞いたら、そのつもりはないと言っていました。剣術自体は好きでやっている印象がありましたし、深くは時間がなくて聞けなかったのですが……家庭の事情か何かですか?」
「……まぁ、そんなとこだと思います」
相変わらず誤魔化すのがへたくそな奴だなと内心思いながら、定信は素知らぬ顔で茶を飲んだ。
適当に理由を付けて言っておけばいいのに。景伊は正直に話したがる。

今日の朝──定信が利秋と話した後。
「ちょっとお前の時間、わけてくれな」と利秋は景伊に言っていた。
相手が事を起こすのは夕方から夜。
日中も警戒を強めてはいるらしいが、向こうも昼中はうまく人間に紛れている様子がある。
そこで主に夜、いくつか見回りの隊が組むので、その際景伊も同行してくれという事だった。
利秋が直接面倒を見るし、連れている理由としては今こちらの家にいるのだから、人手も足りないし手伝ってもらっていると周囲には説明してあるらしい。
確かに昼も夜も警戒を続けるのであれば、人も足りないのだろう。
少しでも相手の気配や動きを掴め、何か気づけば報告しろ、と利秋は景伊に言い聞かせていた。
景伊も夜の方が匂いがわかりやすいと言っていた。

利秋はとにかく、「どういうものが犯行を重ねているのか」をほかの人間にも見せたいらしい。
だから実際の現場を押さえたいのだと。
見た結果、それがどういうものか知れ渡って混乱が起きたらどうするのだと定信は言ったが、相手を正確に知らずして対応などできるわけがないと利秋は言った。
対応するのは俺たちだけじゃない。
山に籠ってときどき人間を襲う程度の化物をやっているのであれば、人がそこに近づかなければいい。
しかし人の暮らす町という領域で、山と同じような事を繰り返す。
しかも人に紛れ暮らす為なのか、金品まで奪う。
そんな奴には、人間の力で対抗しなきゃ駄目だ。
これはある意味生存競争で、周囲の理解と協力がいると。
確かに、それは病に対する対応でも同じことだ。
どういう病なのか。
どうすれば人にうつるのか。
うつらない為に、人はどうすればいいのか。
それを人は知るべきなのだ。
確かにそれは同じ事。理解はできる。しかし相手はどう考えても化物だ。
撃っても斬っても簡単には死なない。
天敵の持つ毒でなくては死なない。
「俺は、景伊の感覚は頼りにしたいんだが、戦闘になるのはできるだけ回避したいわけよ」
利秋は腕を組み、景伊の顔を見ながら考えていた。
「まぁ向こうさんは同胞の話も聞きゃしない、はみ出し者だ。こっちの話も聞きゃしないだろうし、向こうが逃げなきゃ戦闘になるのは防げないだろう。でもそうなった場合、周りに被害が出る可能性が高い。こちらも万全ってわけじゃない。被害出そうなところを追い払えればいいってところだな」
お前を無駄に消耗させるわけにもいかんからね、と利秋は景伊に笑いかけていた。


「……そういえば義成の奴、婚約したそうですね。その関係ですか」
「え」
潮津の口から出てきたのは全く逆方向の事だったので、定信は思わず顔を上げた。
彼の中で「家庭の事情」とは、義成がらみのことなのだと思ったらしい。
「……あぁ、そうですね。やっとというか……ようやくというか」
定信の濁した言葉に、潮津が笑う。
「ようやく、でいいと思いますよ。お相手、昔から許嫁だった方でしょう?」
「ご存じなんですか」
「まぁ、私たちも子供の頃に散々からかって知ってますから。仲間内で子供の頃からそんなことになっているのはあいつだけでしたのでね」
懐かしい話ですよ、と潮津は思い出すように笑っていた。
「では景伊も、家に戻るのですか?先生も寂しくなりますね」
「いや、まだ帰らない……」
「そうなんですか?しかし各務さんのところへ養子に入ってるわけでもないんでしょう?」
「あー……まぁそうなんですけど、そこはなんていうか……」
俺は絡んでない、両家の事ですので、と定信は笑って濁した。
「気になるなら、潮津さんも義成のところにたまには顔見せたらいいんですよ。俺らはこの間祝いに行ってきました。ちょっと先走り過ぎたんですけど」
そう言えば、潮津は少し困ったような顔をして笑った。
「……正直気にはなってるんですけどね。ただ会ってない期間が長すぎて、今更会いづらくなってるんですよ」
「あの男はそこまで、細かい事気にしないと思いますけど」
「でしょうね。あいつは気にしない。昔から若いのにどんと構えているところがあって、何言われようが全く。……気にしているのは、きっと私の方ですね」
潮津は笑いながら、茶を一口飲んだ。
「先生は、あいつ……義成の事をどう思いますか?」
「どうって……」
正直に答えていいものかどうか悩みつつ、定信は苦笑いを浮かべた。
「いい意味でも悪い意味でも、全く俺と真逆な男だと思います。俺は言わずにはいられないし頭に血が上りやすい、感情的な方です。あいつは淡々としているところがありますね。冷めてるっていうのか……落ち着いてる男なんですけど、急にキレたり。つかみどころがなくて、俺は結構苦手にしてたんですけど。まぁそれは向こうも同じでしょうね。俺に良い印象なんてないでしょうし」
「今は、どうなのですか?先生は結構親しくされてる印象がありますが」
「そうなんですかね?」
質問に疑問で答えてどうするのだと自分で思いながら、定信は首を傾げた。
「まぁ互いに言いたい事言ってますから、摩擦がないのかもしれないですね。仲が良いとは違いますよ」
そう言えば、潮津は穏やかに笑った。
「そういうのを友人と呼ぶのではないですか?」
「友人と呼ぶには、少し複雑な相手なんです」
定信も少し困ったような顔を浮かべて笑った。 この男は人が良い男なのだが、少々踏み込んで来過ぎる。

潮津も道場に戻り、定信は一人先ほどの部屋で、練習が終わるのを待っていた。
前に来たときは景伊を残して帰ったが、今は共に帰るつもりでいた。
潮津は「景伊に先生が待ってるって言っておきましょうか?」と言ったが、あまり来れなくなるのであれば、好きでやっている剣術くらいはゆっくりさせてやりたい。
「最近忙しかったので、のんびり待たせて頂きますよ」と言えば、潮津は笑って戻って行った。
最近出入りして思ったのだが、この道場では景伊よりも年下の少年の姿もちらほら見かける。
子供子供と思っていたが、景伊も今年で十七。来年十八になるのだから、道場に年下がいるのも当たり前だ。
町の道場なので、十歳前後から通う子供もいるようだ。
あれくらいから剣術を学んでいれば、景伊は今よりもう少し上にいたのだろうか。
そんなもの思いにふけっていると、木の引き戸の向こうから「失礼します」と声をかけられた。
「……はい?」
柱にもたれて座っていた定信は、何事かと姿勢を正す。
「上条先生、いらっしゃいますか?今お時間よろしいですか?」
「大丈夫ですけど……」
戸の向こうの声は、若い少年のものだった。知らない声。
疑問に思って戸を開ければ、そこには先ほど考えていたような十歳くらいの少年が、少し緊張した様子で立っている。
「あの……怪我人が、いて」
「今ここにいる?」
「いえ、外で……」
少年は口を閉ざしてうつむく。
不審に思って聞けば、帰りに竹刀でじゃれ合っていて、振った竹刀が目に当たったらしい。
慌てて引き返してきたのだと言う。
「わかった、すぐ行くよ。近いのか?」
慌ててまとめてあった道具箱を掴めば、少年は頷いた。
「先に外出て待っててくれ」
泣きそうな顔で出ていく少年を見送って、定信は手持ちの紙にすぐ戻る旨を書き残し、外へ出た。

「こっちです」
少年は定信を呼びながら、走っていく。
「……ちょっと待て、落ち着け!」
子供はさすがにすばしっこいなと思いながら後を追うと、少年が入って行ったのは道場から少し離れた場所にある、大きな空家だった。
「こんなところにいるのか?」
「遊び場にしていたんです。そこ、その蔵の中……」
定信は言われて、その蔵を見上げた。
空家になって長いのだろうか。
母屋は歪んで屋根に草が生えているし、蔵は漆喰がはがれて中の土が露わになっていた。
「あのな、危ないからこんなとこで遊ぶなよ……」
ため息を吐きながら蔵の戸に手をかけた。
鍵は開いている。
「おい、大丈夫か?」
そう声をかけて中を覗き込んだが、返事はない。
蔵の中は暗い。目がまだ暗闇に慣れず、中の様子はよくわからない。
中に入ろうと半身を滑り込ませたときだった。
どん、と、背中がふいに強い力で押された。
「……っ!」
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
定信は無様に蔵の中へ転がる。
背中には手のひらの感覚が残った。
「おい、お前……!」
何しやがるこのクソガキが、と思いながら入り口を振り返ると、先ほどまで見た泣きそうだった少年の顔は、笑っていた。
「お前なんて、臭くて食えない」
にんまりと、口が三日月のように弧を描く。
「お前……!」
すぅっと自分の顔から、血の気が引いていくのがわかった。
己が騙されたのだ、とようやく気が付く。
目の前の少年が、何なのかも。
「干からびて死ね」
少年の声で残酷な言葉を言い放ったそれは、こちらが立ち上がる間もなく扉を閉めると、外鍵を閉めた。
かしゃん、という硬い音が鋼鉄の扉の向こうで響く。
──やられた。
扉に触れてみるが、びくともしない。
窓ははるか上にある鉄格子のはまった小さなものしかない。

──閉じ込められた。