早朝から家を出た定信から遅れる事、数時間。
景伊は昨日定信に言われた事を思い出しながら、町を歩いていた。
後悔をするな、と定信は言った。
自分に様に人生に引っかかりを残して生きるなと。
(そんなの無理だ)
景伊は唇を噛む。
定信があんな事を言ったのは、義成の、兄の身がどうなるかまだわからないから。
だから何かあったとき後悔しないように、会ってきちんと言いそびれた事を言っておけ、と言ったのだろう。
何が起こるのか。
脳裏に「死」の文字がちらつく。
だがそれを追い払うように、景伊は頭を横に振った。
死ぬとは決まっていない。
「消えた」と言われた人たちは自分から家に帰って来ている。
それ以上の事は、まだわからないが。
(俺が見舞う事を、あの人は望むのだろうか)
余計に疲れさせたりしないだろうか。
この3年間、景伊があの屋敷を訪れる事はなかった。
誤解自体は解けたし、全く会話にならないわけでもない。
義成はいつでも来ていい、と景伊に言った。
だが景伊は兄の元を訪れる気にならなかった。
自分を見て、いつも申し訳なさそうにする兄の顔を見たくなかった。
この人は悪くないと頭では理解しているのに、身構えてしまう自分の事も嫌だった。
会えば会うほど溝をはっきりと自覚して、子供だった自分はそれを埋める事は無理だ、と思った。
結局自分は兄から逃げたのだ、と景伊は思う。
定信や利秋は自分に居場所をくれた。だが一番最初に自分にそうしてくれたのは義成だ。
恩を感じていないわけではない。今以上に何も知らなかった自分に、読み書きであったり、礼儀であったり、とにかく様々な事を教えてくれた人だ。あの家で唯一、自分にかまってくれた人なのだ。
三年前、自分は定信達と共にいることを選んだが、どちらが大事かなんて、選ぶ事はできないと思っていた。
比べる事なんてできない。
屋敷に着き出迎えた使用人に名を告げると、「どうぞご自由にお入りください」と言われた。
聞けば、自由に出入りして構わないと義成から告げられていたらしい。
景伊も見た事のない、顔の造りの薄い女性だった。
自分が来る事は事前に伝えられていたのだろう。定信も「言っておく」と言っていたし、この様子なら義成も自分が来る事を了承しているはず。
少なくとも拒絶はされていない。
(何を話せばいいんだ…)
昨日会ったときは、最近どうかと言う事と、体調の事を聞いた。
嘘をついているとわかったのに、問いつめる事はできなかった。
そんな事務的な会話しかしていない。
一人で兄と向かい合ってこの屋敷にいる事に耐えられなくなり、早々に帰って来てしまった。
今でも背筋にじわじわと嫌悪感が蠢いている。
俺はどうしたいのか。
景伊は長い廊下を歩きながら考えた。
汚れ一つなく磨き上げられた板張りの床から、ひんやりとしたものが伝わってくる。
憎いわけじゃないのだ、と思う。
でなければ定信に何を言われようが、景伊はこの家に来ていないと思った。
この家に未練はない。
この家がどんなに大きくどれだけ財産を持っていようが、結局のところ自分は部外者だという思いしかない。
父と言われた男とも、ほとんど話した事もない。
考えてみれば実際に自分が父の子なのか、この家の関係者であるかどうか、証明する物は何もない。
ただ父が愛した女の子供が、自分であったというだけ。
この家に連れて来られたのは、自分に対する愛情からなどではない。
野放しにするよりもこの屋敷に連れて来た方が後々面倒にならない、と判断されたからだろう。
恐らく父が恐れたのは、社会での己と家の評判を落とす事。
母の事はもうあまり思い出せないし、父を父だと思った事がない。
宙に浮いた自分とこの家との接点は、兄しかなかった。
兄がもしこの家からいなくなれば、ここに訪れる事はもうないだろう。
「…本当に来たんだな」
突然、廊下に面した障子が声と共に開いた。
思考の海に沈んでいた景伊がびくりとしながら立ち止まると、開いた障子の間から義成がこちらを見ている。
目を見開いて固まる景伊を見て、義成は眉を寄せた。
「…すまん。驚かせるつもりはなかったんだが」
そう苦笑いしながら言う義成がいる部屋は、彼の自室ではない。
部屋数も多く、数えるほどしか本宅へ入った事のない景伊には何の部屋なのかわからない。
中を覗いて驚いた。
部屋を埋め尽くすように床に平積みされているのは、様々な書物だった。
「ここは…?」
「物置と言うか書斎と言うか。気になるものがあったら持って行っていいぞ」
「そうじゃなくて。…貴方はここで何してるんですか」
「見ての通り整理中だが」
「…寝てなくていいんですか?」
「そんなに一日中寝てられるか。…熱もそんなに出ているわけではないし、お前もあの医者も大げさに騒ぎ過ぎなんだよ」
「……」
そう言う義成の顔色は、直射日光の差し込まない部屋の中なのではっきりとはわからないが、病人じみたものではなかった。
こうしてみると何か変化があるようには見えない。
「せっかく来たんだ。どっか座ってろよ。朝飯は食って来たか?」
「食べました。…掃除、お手伝いします」
そう言うと、義成が意外そうな目で景伊を見た。
「わざわざ来たのに。物好きな奴だなお前も」
聞けば、兄は暇つぶしで読みたい本を探していたらしい。
前々から散らかっているのが気になってはいたんだが、と言いながら書物を分類している兄を見て、ああそう言えば、この人も本好きだったなと思い出した。
「最初は掃除をするつもりはなかったが、本を探していろいろ引っぱり出していたらえらい事になった」と義成は苦笑いしている。
まさかここに来て掃除を手伝うはめになるとは思わなかったが、掃除は定信に随分しこまれたので苦手ではない。
指示に従いながらも、床に積まれた本を拾い、棚に収めた。
本ばかり置きっぱなしになっていたからだろうか。少々部屋はほこりっぽい。
「使用人、減らしたんですか?」
同じく書物を分類しながら本棚に収めていた義成が、景伊の言葉に振り向く。
「どうしてそう思う?」
「…屋敷内、すごく静かだと思ったので」
理由はそれだけではない。自分はともかく、跡取りである義成にこんな事をさせるような家ではなかった。
人出が足りないのか、と思ったのだ。
「実際減らした。半分以上暇を出したよ。家の人間が俺しかいないのに大勢いてもな」
「でもこの家、広いのに」
「使わない部屋はそれほど汚れないし、少ない人数でもしっかりやってくれているから助かってる。まぁ俺が切ったというよりも、あの件で辞めたいって言って来た人間の方が多かったんだがな」
「……」
義成の言葉に景伊は何も言わなかった。
三年前、あちこち血まみれになり死者も出たこの屋敷。
そんなところで働きたくない、というのも当たり前の心理だろう。
(貴方はどうなんだ)
義成にとってもここは居心地の悪い場所ではないのか、と問おうとしたがやめた。
愚問だ。
生まれたときから長男として跡を継ぐとして育てられてきた彼が、そう簡単に自分のように、何もかも投げ捨てるような事ができるはずがない。兄と自分では、家との関わりの深さがまるで違う。
「…定信は何か言っていましたか」
話題を変えるように景伊が言うと、ああ、あの医者、と義成は呟いた。
「特には。長居していたわけでもないしな。『この家は辛気くさい』とは言っていたが」
「……」
何を言ってくれているんだ、と景伊は頭を抱えたくなった。
変な顔をして黙り込む景伊を見て、義成が笑う。
「別に気にしちゃいないんだ。そう思うならそうなんだろう。お前にはどう見える?俺も辛気くさいだろうか」
「…そうは思わないですけど」
答え辛い問いに、景伊は視線を兄から反らす。
そんなの、言えるわけがない。自分に答えを求めないでほしい。
そう思いながらも早く整理を終わらせてしまおうと、何冊かまとめて持った本の中に、景伊は見覚えのある表紙を見つけた。薄くほこりをかぶっているが、どこかで記憶に引っかかっているものだった。
どこで見たのか。この家?利秋の家?
手に取り、ぱらりぱらりと中を捲ると、中の紙はぼろぼろになっている。虫にでも食われたようだった。
最初の数項が破れて抜けているが、中身は歴史人物の伝記物。
数行目を通して、読んだ事があるものだと確信した。
字も読めるようになった頃、兄が教材として貸してくれた本。
義成も子供の頃、これを使って勉強していたのだ、と言っていた。教科書のようなものなのだろう。
古びて埃だらけで、中の紙もいくつか抜けてしまっている和綴じの本。
以前はこれほどにぼろぼろではなかったはずだが、自分がまだ幼い頃だったのだから、読んだのは何年前になるのだろうか。確か褒められるのがうれしくて、必死になって読み書きを練習していた。
少しでも優秀な兄に認められたい、と思っていた。
(…貴方は変わった)
昔を思い出し、陰鬱な気分になった景伊は本を閉じる。
あの頃と貴方は変わった。景伊はそう感じている。そう、本人に面と向かって言う勇気はないが。
もっと堂々としていればいいのに。
自分なんかに気を使う必要はないのに。
そんな申し訳なさそうな、哀れみにも似た視線を向けないでほしい。
自分はもういい、と思っている。
でもあれから兄とうまく話せなくなった自分も、変わったのだろうか。
兄の目には、自分はどう映るのだろうか。
こんな苛立ちにも似た、もやもやとした思いを、この人も持っているのだろうか。
そう思いながら、何も言わずその本を棚に入れた。
その瞬間、景伊の思考をかき消すように、義成が激しく咳き込む。
口元を押さえ、背を丸めて。突然だったが、ちょっと普通ではないような咳の仕方だった。
我に返った景伊も義成の元へ駆け寄る。
「大丈夫ですか」
うずくまる義成の背を慌ててさするが、喘息のような咳は治まる様子がない。
景伊は焦る。
「…医者を」
医者を呼びます、そう言いかけて立ち上がろうとしたとき、がは、と義成が何かを吐き出した。
板張りのの床の上に、白い粉が散る。
何が起きたのか、景伊の思考は一瞬止まる。
乾燥した白い粉。咳と共にそれが床に落ちた。
「…兄上」
景伊は定信の言っていた事を思い出した。
この症状の患者は、白い粉を残して消える。
まさかこれが、そうだと言うのか?
しばらく義成は咳き込んでいたが、粉を何度か吐き出すと落ち着いて来たのか、肩で荒い呼吸をしている。
呼吸の度にひゅう、と喉が鳴る。
(どうしたらいい)
こんなとき、定信がいてくれたら、と思う。
しかし彼は今いない。自分で考えて動かねば、と己を叱咤した。
「人を呼んできますから、少し待ってて下さい、すぐ戻りますから」
景伊が立ち上がろうとした瞬間、義成が景伊の腕を掴んだ。
「兄上…?」
早く誰か呼ばないと駄目なのに。
そう焦った目を義成に向けた瞬間だった。
いきなり強く腕を引っ張られる。
突然の事だったので、景伊は反応できずバランスを崩し、音をたてて床に倒れ込んだ。
軽く頭を床に打ちつけて、一瞬くらりと意識が飛ぶ。
「…何を」
いきなり何をするのかと思い、兄を見上げて、景伊は息を飲んだ。
義成が景伊を上から押さえつけるようにしながら、虚ろな目で見下ろしている。
先ほどまでとは全く違う、兄らしさのない感情のない瞳だった。
ぞくり、と背筋に寒気が走った。
何だ。
この人はどうしたというのだ。
「…離して、下さい」
姿勢的なものに不安を覚えて、景伊は兄に向けて懇願のような声を出す。
だが義成は離してくれない。
暴れようにも体格が一回り大きい義成に体重をかけてのしかかられては、逃げ出す事もできなかった。
人が変わった、と本気で思った。
義成の腕が、景伊の首へ伸びる。
首を絞められると思った。だがその手は、景伊の首を撫でるだけだ。
何がしたいのかわからない。
兄に上から見下ろされる、という構図は、斬られたときの事を思い出させて、景伊は声も出ないほど萎縮していた。
声が届かない。
この人がおかしい。
誰か呼ばなければと思うのに、少しも声も出ない。
どうしたら、と思ったとき。
義成が突然、今まで撫でていた景伊の首に噛み付いて来た。
「……!」
驚いて引きはがそうとするが、どこにこんな力があるのかと思うような重さで押さえつけられて、できない。
首筋にぬるりとしたものが触れた。
舌の感触だと自覚する間もなく、歯が首筋の肉に食い込んでくる。
「いっ……!」
痛みに体が跳ね上がる。焼けたような痛みだった。
容赦がない。噛んで、そのまま肉を引きちぎろうとするかのように引っ張られる。
何かが首を伝う感触がした。…血が流れている。
「兄上…兄上、やめて下さい!」
食い殺される、と本気で思った。この人は正気じゃない。
自分の知る兄ではない。
一瞬押さえつける力が弱まった瞬間、景伊は拳を握り思い切り義成の頭を殴った。
だが離してくれる様子はなかった。より噛み付く力が強まる。
「あ…っ…が、あっ!」
より深く噛み付いてくる痛みが、冷や汗とともに流れた。
どうしたのか、何が起こっているのか。景伊には全くわからない。
痛みで焦ってうまく呼吸ができない。
どうすればいい。この人に殺される。
こんな死に方は嫌だ…!
景伊がぎゅ、と目を瞑ったときだった。
義成の歯が景伊の首から抜ける。
それまで上から押さえつけていた力が、一気になくなった。
義成の体はよろめいて、景伊の体の脇の倒れ込むと、そのまま嘔吐した。
「……」
景伊も荒い息を吐きながら体を起こす。
何だかよくわからないが解放された。…助かったらしい。
首からだらりと血が流れ出ている。…頸動脈を肉ごと噛き切られるかと思った。
苦し気に体を震わせて隣で吐き続ける兄の背に、景伊は恐る恐る手を伸ばす。
「…景伊」
突然の名を呼ぶ声に、景伊の手がびくりと止まった。
「離れろ。…俺はまともじゃない、だろ」
「……」
しかし景伊は黙って兄の背をさする。
「…離れません。今はまともでしょう、貴方は」
そう言い放つと、義成が心底呆れたような、そんな表情を一瞬見せた。
「……馬鹿」
よく言われる、と言うと己が本当に馬鹿みたいで、言えなかった。
何故逃げ出さなかったのかわからない。
兄が落ち着くまで待つべきか、いやしかし医者は呼ばねばならないな、と思いながら、景伊はまだ血が染みだす傷口を手で押さえた。