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二人の兄貴

07  猟師再び

兄の状態が治まるまでそばにいようと思ったが、一向に義成の嘔吐が治まる様子を見せず、しかも吐瀉物に血が混じり始めていた為、景伊は慌てて人を呼びに走った。
部屋を出て一番近くにいた使用人の女性に「医者を呼んで下さい」と言ったが、首から血を流す景伊の姿を見ただけで悲鳴を上げて卒倒された。
慌てていたので自分の姿を見直す暇もなかったのだが、恐らく相当ひどい姿だったのだろう。
首は真っ赤で着物は着崩れ、髪も乱れてほこりまみれ。
とにかく近くにいた別の人間を捕まえ、医者を呼んで下さい、と頼んだ。

嵐のような時間だったと思う。

自室に運ばれ着替えさせられて、布団に寝かされた義成を前に、景伊は力が抜けたように座り込んでいた。
やって来た見知らぬ医者は初老の男で、この家と縁ある男だったらしい。
その医者は景伊の姿を見るなり「止血もせずに何をしているのか」と怒鳴ってきた。確かにそうなのだが、気が焦っていて自分の傷の事まで考えていなかった。
とりあえず叱られながらも手当してもらったが、今になってずきずきと傷が痛みだし、景伊は眉をしかめる。
義成の方は医者が到着した頃には、胃にあるもの全て吐き尽くしたのか落ち着き始めていて、今はぐったりとしていた。意識はあるのでもう大丈夫だろう、とは言われたが、どうなのか。

とにかく尋常じゃない吐き方だったので「何か毒物でも摂取したのでは」と医者は言っていたが、義成はそんな覚えはないと言う。
吐いたのは人の生き血を口にしたからでは、と景伊は思ったのだが、それは口にしなかった。
人間の胃は生き血を普通受け付けないようになってる、と以前定信が言っていた気がする。
しかし義成の様子があれから変わる事はなかったし、誰も義成がいきなり、首に噛み付いたなんて事は信じないだろう。自分はこの場で余計な事は言うまいと、思った。
「しかし君は何に噛まれたんだ」と言いながら包帯を巻く医者に、景伊は目線を反らしながら「……犬ですかね」と答えるしかなかった。
「……首、大丈夫か」

閉め切った部屋の中、随分とかすれた声で義成が呟いた。
ひどい声だ。恐らく吐き続けた事で胃酸で喉を焼かれたのだろう。

「……大丈夫ですよ。貴方の声の方がよっぽど酷い」
「茶化すな」
「本当です」

布団に横たわりながら、義成が景伊の方を見る。
その目を見て、景伊はああ、いつもの兄だと思った。

「何があったんですか」
「……」
「こういう趣向があったわけじゃないでしょう?」
「……当たり前だ」

義成が疲れたようにため息をついた。額に手をやりながら、天井を見つめている。

「いきなり咳が止まらなくなって……息もできなくなった。あの後少し意識が飛んだんだが、お前を噛んだあたりの事は覚えている。信じられないが、お前の細い首が、うまそうでたまらなくなった」
「……ちゃんと食べさせてもらってるんですか?」
「だから茶化すなと…飯は食ってる」

景伊は包帯の巻かれた、自分の首に手をやる。
定信が一時期、景伊に付けたあだ名は「鶏ガラ」だ。
どちらかと言えば痩せで、背ばかり伸びた自分。
それを「うまそう」と見えた時点で何かがおかしい。

「すまない」

かすれた、謝罪の言葉。

「……」

景伊は無言で首を横に振った。
そんな景伊を、義成が黙って見つめている。
ああ、この目だ、と景伊は思った。
この自分に対する申し訳なさそうな目。
この目で見られるのが嫌だったから、ここに来なかったのに。


「俺は、お前に傷ばかり増やす」

違う。

「二度とあんな目に遭わせないと思ったはずなのに」

違う。力強く首を横に振った。
そう思っていてくれただけで自分は嬉しい。
そんなに罪を背負い込むような真似はしなくていい。
自分は、以前の事はもういいと思ってる。

今回の事だって、きっと病で錯乱しただけだ。
気に病んで、どんどん弱っていく貴方をこれ以上見たくはない。

「貴方がこれ以上気に病む必要なんて、ない」

どうしたらいいのだろう。
どうしたらもういいのだ、とわかってくれるのだろう。
自分の口べたが嫌になる。

「……お前、俺が恐ろしくないのか」
「怖いですよ」
「……」
「でも、怖いと嫌いは違う。貴方の事が嫌いなわけじゃない」

確かにこの人の事は怖かった。
三年前、この人は自分を殺そうとした。
その瞬間、本当は好かれてなどいなかったのだと思った。
優しかったこの人も、本当は自分を面倒に思っていたのだと思った。この家の人は、誰も自分を認めてくれない。
邪魔だと、嫌われていた。自分に優しくしてくれていたのは、全て偽善だ。
そう思って、ここから逃げ出した。

兄に抱いていた恐怖心は、怪我によるものもあっただろう。
だが、会えば言葉で罵られるかもしれないという事を、一番恐れていた気がする。
誤解は解きたかった。言葉で説明したかった。
でも、再度拒絶さえれたら。「本当は嫌だった」とでも言われたら。
当時、あれほど自分が精神的に崩れたのは、寄りどころが兄しかなかったからだろう。
自分の世界の基準は全て目の前のこの男だった。

再会してから、兄は優しかった。
でもそれも信じる事ができなくなっていた。
いろいろなものが壊れる原因を作った自分を、本当は恨んでいるのではないか。
面倒な事になったと思ってはいないか。
死ねば良かったと思っていたのではないか。

そう思い始めてしまったから、きっと昔のように話せなくなった。
そのくせ、兄の事は嫌いになれない。
まだどこかで甘えている面もある。
自分はなんて都合がいいのだろう。
信じる事ができない自分が、最低すぎる。

「……あの部屋、どうした」
少しの沈黙の後、義成が口を開く。
「まだそのままです。ばたばたしてましたし。後で俺が片付けます」
「俺が吐いたもの…あの粉とか、まだあれば残しておけ。あれが何か、あの医者も知りたいだろう」 「粉…」

最初、義成は咳き込んで白い粉を吐いた。

あれからだ。彼がおかしくなったのは。

確か義成と同じ症状だった患者達は、消える前に白い粉と衣服を残して一時的に姿を消している。
あの吐き出した粉が、それと同じ物なのだろうか。
しかし今の義成は体調は悪そうだが、いつもの彼に戻っている。ここにいる。

「今まで俺と同じ症例の奴はいたんだろ。俺はお前にあんな事をしたが、他の人間はどうなんだ」
「……そういう話は、聞いてません」

粉を残し、衣服を残し姿を消す。その現場を見た人は今までいない。
これから先の事は景伊にもわからないし、少し聞いた話と事情が異なってきている気がする。
(……定信と別れるんじゃなかった)
景伊は定信と別れて動いた事を悔やむ。
彼ならばやはり自分よりうまく動けたかもしれないし、何か知恵が浮かんだかもしれないのに。
しかし約束は約束だ。
今自分がやらねばならない事は、兄の力になる事。自分はまだこの人を失いたくはない。

「あの」

景伊の声に、義成がこちらを見た。

「今日はもう、こちらにいていいですか」
「聞く事じゃないだろう。好きにしろよ」
「俺の家じゃないんですから、一応聞かないと」
「お前のいた家だ。遠慮なんかするなよ。それと、景伊」
「はい」

名を呼ばれて、思わず姿勢を正す。

「……もし俺がまたお前に何かするなら、それは俺の意志じゃない。そのときは遠慮なく斬れ」
「嫌です」

突然の言葉に景伊は眉を寄せて、不機嫌そうに言い放つ。

「人は斬りたくない。貴方にそんな事したくない。……無茶言わないで下さい」
「殺されるならお前がいい。何の為に鍛えてるんだ?こういうときの為だろう」

あくまで冷静に「もしも」を語る義成に、景伊の苛立ちが高まった。
何なのだこの人は。
自分が剣を学んだのは、兄への復讐の為だとでも言いたいのか。
そんな事、これっぽっちも考えていないと言うのに。

「……そんなの自分勝手だ」

苛立ちのまま、言葉が漏れた。

「俺はやりたくない。こんなものに貴方が負けるなんて思わない。貴方がそれぐらいの気持ちでいなくてどうするんですか!貴方はもっと強い男だったじゃないですか!」

つい激しくなった口調で言えば、義成が堪えきれなくなったように笑った。

「……お前、変わったよ」
「……変わった?」

その表情に面食らったように、景伊が言う。

「ああ、良い意味でな。背も伸びたし、顔も男になってきたし……俺に口答えするようになった」
「それはいい事なんですか……」

景伊は呆れたような声を出した。そうとは、到底思えないのだが。

「いい事だよ。昔はまだお前が小さかったのもあるが、何でも俺の言う事に頷いていただろう?子供の癖に聞き分けが良すぎると思っていた。文句もあったろうに、何も言わなかったから」
「……」
「言いたい事言ってくれた方が、俺も嬉しい」

兄の言葉を聞きながら、景伊も考えていた。
この人ももしかして、信じれなかったのだろうか。……相手の言葉を。
「恨んでいない」と言った自分の言葉を。
自分が内にまだ溜まる恨み言を秘めているのでは、と思っていたのだろうか。


「向こうで随分可愛がってもらっているようだが。あちらの生活は楽しいか?」
「……楽しいですよ」
「なら、いい。安心した」
「でも貴方もここで元気でいてくれないと嫌だ」
「……わがままだな」
「わがままですか?」

そう言えば、義成が困ったように苦笑いする。

「お前、わがままを言う方ではなかったからな。できれば叶えてやりたいんだが」
「できれば、じゃなくてやって下さい」
「手厳しいな」

義成の言葉に、景伊は笑みをこぼした。
互いに笑顔で話ができたのは、随分久しぶりの事のような気がした。




「ちょいとお医者様。この先に行くのかい?」

例の集落まであと少し。
そう思いながら定信が田畑の続く街道を歩いていたら、田んぼにいた農家の女性に声をかけられた。

「そうですが…」
「この先の集落、もう無いよ」
「え」

思わず声が出た。…無くなった?

「ありましたよね、小さい集落が」
「少し前まではね。家も五、六軒しかないようなところだけど、今はもう誰も住んでないよ」
「……」

急な事過ぎて、定信は言葉を失う。

(…何だそれ)

確かに小さい集落だったが、たった三年でそこまで廃れるものなのか。

「何があったんですか?」
「さぁねぇ。もともと変わり者ばっかりで、あまり付き合いのないところだから。気になるなら様子見てみればいいよ」

そう言われて、定信は礼を言うと駆け足で向かった。
細い道の続く雑木林を駆け抜ける。
息を切らしながら林を抜けたそこには、家が何軒が見えるはず、だった。

「……」

定信は呆然としながら、辺の光景を見渡す。
数軒ある家には蔦が巻き付き、屋根には草が生え、いくつかあったはずの田畑も雑草が茂り荒れている。
山に浸食されたかのように、一面の緑。
人が住んでいた痕跡は残っているが、三年でここまで集落というのは荒れるものなのか。
呆然としながらも、歩き始めようとしたときだった。
背中に、ごり、と何か固い物が当たる。

「この村になにか用かい?」

背後に人が立つ気配に、定信は気が付かなかった。
しかしこの声、聞き覚えがある。
後ろをちらりと見ると、自分の背中に押し付けられているのは鉄の長い筒。
……猟銃。物騒だな、と定信は思う。嫌に落ち着いていた自分が嫌だった。

「昼間っから猟銃突きつけられるハメになるとは思わなかった……」
「あ?その声…赤毛…」

男が猟銃を定信の背中から下ろすと、ずかずかと正面へ回り込んで来る。

「…あんときの医者か?」

どうやら忘れられてはいなかったらしい。定信は安堵する。

「お久しぶりです、太助さん」
「あぁ。でも何しに来たよ?この先こんなだって道中忠告受けなかったか?」

気配もなく後ろにいたのは、この村にいた猟師の太助。
腕のいい猟師で、以前自分達の道案内をした男だった。

「受けたけど。…ここまでとは思ってなかったし、あんたに聞きたい事もあったので」
「…山の事か?」

その瞬間、太助の顔色が変わる。

「俺から言う事は何もねぇよ」
「何でもいいんです。可能性の一つを潰しに来ただけなんで」
「可能性?」
「知人が妙な病気になってる。俺の住んでるところでいくつか出てるんだ。……でも医学的にわからない点が多すぎる」
「……山のアレが何か絡んでたら、って事か?」

太助が真顔で定信の顔を見上げた。
しばしの沈黙があった。
太助も言いたくないような、何か知っているような、そんな顔をしている。

雑木林で鳥が不気味に鳴いた。

「場所、変えるか」

そう呟くと、太助は猟銃を肩にかつぎ、歩き出す。

「どこ行くんだ」
「そろそろ日が暮れる。俺、今この近くの山の炭焼き小屋にいるんだわ。医者先生もそこで良ければ泊めたるよ」
「……俺、今そんなに手持ちないんだけど」
「金か?いいや今回は。前にあんたらには、たんまり貰ったし」

そう言いながら山への小道に入って行く太助を、定信は慌てて追う。


付き合いもなく物騒な男だが、今はこの男を頼るしかなかった。