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町に潜む獣

10 とろりとした闇

腹部に、焼ける様な痛みがあった。
己の腹に、短刀が深々と刺さっている。
時間が止まったような一瞬だった。
声が出てくれない。
立っていられない。足に力が入らなくなった。視界が急に狭く、暗くなっていく気がする。
日が落ちたからではない。
自分の目が見えなくなってきているのだと、景伊は思った。
ぐらり、と体が傾く。

(俺は馬鹿だ)

きっと潮津の体に潜んでいた「アレ」は、体の中を食い荒らすでもなく、決して前面に出ることなく、ただ息をひそめてこの瞬間を待っていたに違いない。
なり替わろうとしたわけでもなく、ただ自分を殺すために。
潮津が自分を殺せばそれでよし。
失敗したときの保険として──相打ち覚悟で潜んでいたのだ。

周囲が何か言っているが、よく聞こえない。
だがこのままでは終われないと思った。

景伊は歯を食いしばり、刺さった短刀を引き抜くと、己の血に染まったそれを潮津の肩に突き刺す。
潮津の体が一瞬、激しく痙攣した。
そのまま、後ろに倒れる。
──己の血は、中のあいつらを殺せたのだろうか。
確かめる気力もないまま、口の中に血が溢れてくるのを感じた。
意識が急激に暗くなっていく。
その闇は、夜の闇よりも濃い。
何も見えない。
「景伊」!
義成の、自分を呼ぶ声が聞こえた。
立っているのか兄に支えられたのか、自分がどうなったのか、景伊には全くわからなかった。
ただ着物の、腹のあたりから膝にかけて、何か暖かいもので湿っているのがわかった。
自分の中から、流れ出ていけないものが流れ出して止まらない。
──医者を。それよりまず、止血を。
利秋と義成の声が、どこか遠くで聞こえた。
景伊の目には、その姿はまったく見えていなかった。
辺りは暗い。
だがその暗闇は、どこか懐かしかった。
あの暗い土蔵の中に舞い戻ってきたような感覚があった。
自分はやはり暗い中で生きて、暗い中で死んでいくような人間なのだと思うと、笑いたくなってきた。……本当に笑う力は、残っていなかったが。
(……定信の居場所、聞けなかったな)
それだけが心残りだと思った。

闇はいつか終わる。
朝がくれば、暗いながらも周囲は光に照らされるはずだ。
でも自分のこの闇は、終わるのだろうか?
──明けない闇なのかもしれない。
怖いな、と景伊とは思った。
完全な暗闇に一人閉じ込められる。それはとても──怖い。



朽ちかけた蔵の中にいた定信は、心臓をわしづかみにされたような寒気を感じた。
(……なんだ?)
何にひやっとしたのかと、思わず周囲を見渡す。
右手で心臓あたりを撫でる。ばくばくと、緊張しているように脈打っているのがわかった。
唐突に感じた、不安と寒気。
腕には鳥肌が立っている。
確かにひんやりとした空間ではあるが、外気によるものではない。
これはなんだ、と思った定信は、その瞬間蔵の扉を蹴り上げた様な激しい音に、びくりと体を跳ねさせた。
外にいたマチが、ひゅん、と小さく鳴く。
「おい!お前は生きてるのか!」
もう一度戸を叩く、激しい音がした。
その男の声に、定信は目を見開く。
「……義成?お前、なんでこんなところにいるんだ!」
太助には会った。
自分がこんな事になっている事を、道場にいるはずの景伊に伝えてくれ、と。そう頼んだはずなのに、なぜか駆けつけてきたのは景伊ではない。
なんで兄貴のほうなんだ、と定信は理解できないでいた。
「……ちょっと待ってろ、開ける。申し訳ないんですが、手元を照らしてもらえますか」
「あぁ」
太助の声もした。彼は確かに知り合いに助けを求める事はしてくれたらしいが、何故だ?
「ちょっと待て、どういうことだよ。っていうかお前鍵開けとかできんのかよ?」
「うるさい……開くとは思う。錆びてるから少し時間かかるかもしれんが、黙っててくれ」
その言葉に、定信はかちんときた。
「おい、事情を……」
「先生」
喚きかけた定信の声を遮るように、戸のすぐ前にいるらしい太助が声を発した。
言おうか言わまいか、少し悩んだような間の後、太助は短く言った。
「景伊が刺されてる」
「……さ」
「俺もちゃんと言われた通り、道場行ったさ。ちょっと迷ったけどな。そしたらえらい騒ぎになってた。あんたの事も伝えて、この人と慌てて引き返してきた。俺もよくわかんねぇよ。事情は、この人の方が知ってると思うけど」
「……」
外からは、錠前の中をいじくるカシカシという金属音が聞こえてくる。

──嘘だろう?

そう言いたいのに、言葉が出てこない。
「義成……」
扉に向かって声をかける。だが返答はない。
「刺されたってどういうことなんだ。あいつ、大丈夫なのか?」
「……知らん」
「知らんってなんだよ……お前あいつの兄貴だろうが!」
「いいから黙ってろお前は!」
こちらが扉を叩けば、がん、とまた外から扉を蹴り上げる様な音がした。
「時間がないんだ馬鹿!お前、腕だけはいいだろう!助けたいから、お前をとっとと出したくて来てんだろうが!……わかったら黙ってろ。気が散る」
それは、義成の怒りの声だった。戸を蹴り上げているのはこの男のようだ。
普段こちらが嫌になるくらい冷静な男が激昂している。頭にきているのとも違う。声に、焦りを感じる。
それは、つまり。
(それだけ、状態が悪いって事なんだよな?)
定信は唇を噛むと、自分の医療道具が入った箱を引き寄せた。
己の足先から嫌な冷えが上ってくるのがわかる。

──離れたからだ。

定信は歯を噛みしめる。
自分達は、共にいなければならなかった。
「……畜生っ!」
近くにあった箱を蹴飛ばす。中にあった金属が床に転がり、耳障りな音をたてた。
その音に舌打ちして、後悔している暇はないとすぐに思い直す。定信は拳を握る。
自分なら助けれる、なんて事を言うつもりもない。そんな自信もない。
医者も万能ではないのだ。
どうにもできず、目の前で人が死ぬのを、職業柄嫌と言うほど見てきた。
だが、そんな事今はどうでもいい。とにかく、景伊のもとへ行きたい。
今すぐにでも駆けつけたいが、今は扉を開けてもらうのが先だ。
気に食わないと思っているあの男に助けてもらわなければ、自分は何もできないのだ。


戸が開いたのは、それからずいぶん後の事だったような気もするし、すぐの事だったような気もした。
時間の感覚がよくわからないでいる。
扉が軋んだ音をたてて開いたとき、定信はそこから転がるように飛び出した。
途端に、己の袖を掴む腕がある。
「……あんたは、怪我はないようだな」
義成だった。
提灯の明かりにぼんやり照らされた男を見ると、着物のあちこちに血痕がついているのがわかる。
「……俺はなんともねぇよ。いいから早く行こう。……面倒掛けて悪かった」
定信が道具の入った箱を背負うと、義成はこちらを怪訝な瞳で見た。
「お前、いやに落ち着いているな。……もっと慌てるかと思った」
その言葉に、定信は少々苛立った視線を義成に向けた。
「医者が慌てたらどうにもならんだろうが。いいから行くぞ。詳しい事情は後から聞くよ。俺引っ張り出すまで何も処置してないとか、そんなわけないんだろ?」
「一応、利秋さんが医者呼んできてる。お前の師匠だとか」
「あぁ……楠先生なら、俺よりよっぽど腕いいわ」
それなら少し安心した、と定信は言う。
彼ならば、おかしな真似はすまい。妙な医者に見られるよりもよっぽど安心できる。
「だが一人じゃ足りん。怪我人はもう一人いる。……景伊ほど、ひどくはないが」
「誰?」
長く茂った草をかき分けながら、前を歩く義成に問う。
少しだけ、言いにくそうな沈黙があった。義成は定信の顔を振り返らず、告げる。
「潮津」
「……なんで」
定信は耳を疑った。
あの人の良い男まで、何があったというのだ。
「俺からは言いたくないから、直接本人に聞いてくれ。あいつは意識ある。……刺したのは、潮津だ。本人にその気はなかったんだろうが」
「……」
どこか含みを持たせたような義成の言い方に、定信は黙り込んだ。
だが今は、誰を責めるとか、出来事を嘆くとか、そんな暇はなかった。
この男も太助が来てからすぐ飛び出して来たのだろう。詳しい怪我の状態まではわからないようだ。
(潮津さんが、刺した?)
自分はあの男と、日が暮れる前まで話していた。
いつもと何かが違うとは思わなかった。
景伊にも好意的に接していたあの男に、恨みがあったとは思えない。
本人にその気はなかったんだろう、という義成の言葉。そして、言いたくないという態度。
考えなくても、最悪の可能性しか思い浮かばなかった。


道場の周囲は、恐ろしく静かだった。周囲はとろりとした闇に覆われている。
その中で一室、明かりがぼんやりとついているらしき部屋があった。
自分がよく診療に使わせてもらっている部屋だった。
戸を開ければ、その中によく知る男の背を見つけて、定信は声をかけた。
「……利秋さん」
定信がそう声をかければ、利秋はこちらを振り向いた。
「……よう。お前は、元気そうだな」
その表情は定信の無事を安心している様子も汲みとれたが、この男にしては随分憔悴しているようにも見えた。
──お前は。
その言葉に、利秋が座っているそばを見下ろす。
「……景伊」
敷かれた布団の中に、景伊が寝かされているのが見えた。側に寄り、しゃがみこむ。
顔に触れてみれば、彼の体はまだ温かさを持っていた。
微かに胸が上下している。息をしている。──まだ、生きている。
少し安堵の息をついて、利秋の顔を見れば、彼は微かに頷いた。
「処置は、楠先生がやってくれた。腹刺されててな。出血がひどくて」
景伊の顔は白い。
元々、見かけからして虚弱そうな顔色をしている若者ではあったが、こんな顔色を見たのは、出会った時以来のような気がする。
「楠先生は?」
「今、隣で潮津の手当てしてるよ。あいつもそこそこ、重傷でね。まぁあいつに怪我させたのは景伊なんだが」
「何があったんですか」
「何て言うか……非常に胸糞悪い、というか」
利秋は、ここであった成り行きを、簡潔に定信に語った。
「潮津の意識はある。昏倒したあと、目を覚ましたよ。すげぇ吐いてたから、多分義成のときと同じだろう。あいつの中にいた奴は殺せたんだろうが……憤りの、持っていき場所がねぇよな」
「……」
定信は黙って唇を噛んだ。
「……景伊が今少し落ち着いてるなら、俺向こう手伝ってきます」
「怪我人殴るなよ」
「殴りませんよ」
言いながら立ち上がり、背を向けようとして、定信はもう一度、景伊を見た。
どうしてこうなったのだろう。
潮津を責めるつもりはなかった。
責めるとすれば、大事なときに傍にいてやれなかった、阿呆な自分だった。


隣室の戸を開ければ、腕を血塗れにした男が楠に包帯を巻かれているところだった。
こちらに気づいた潮津と、目が合った。
「……先生」
非情に申し訳なさそうな、どうしたらいいのかわからないといった表情を浮かべている。
大きな男が、小さく見えた。
「なにか、手伝えることはないですか?」
潮津の問いには答えず、楠に声をかける。
「手当て自体は大体終わってる。こっちは大丈夫だから、お前さんはあの若いのの様子見てやんなよ。あっちのがひどい」
老齢の医師の言葉に、定信は黙ってうなずく。
「俺は傷見てません。先生から見て、あいつはどうですか。──助かりそうですか?」
楠は、一瞬こちらを見た。
だが視線を、すぐに潮津の傷へと戻す。
「正直、運だと思う」
「……そうですか」
定信は特に感情ものせずそう呟いて、部屋を出た。
潮津には悪いが、今は顔を見たくなかった。

部屋を出ると、義成が自分を待っていたように立っていた。
「……なんだよ」
そう嫌味をこめて言えば、義成は小さく息を吐いた。
ため息とも違う、疲れ切ってしまったような息だった。
「……あいつを殴らなきゃいいと思って」
「どれだけ信用ないんだよ俺は」
怪我人殴るような馬鹿な真似はしねぇよ、と言って通り過ぎようとすれば、義成は「悪いのは潮津だけじゃない」とつぶやいた。
「……あ?」
「目の前だった。止める事もできなかったし、庇う事もできなかった。潮津だけを責められたものじゃない。俺が無理やり、体ねじ込んででも止めるべきだった。……いた意味が、ない」
「……」
目の前だった、とは利秋も言っていた。止められなかった、とも。
「……責任感じるのは勝手だけどさ。俺は別に、あんたの事も責めるつもりはねぇよ」
立ち止まり、定信は義成の方を振り向いた。
「景伊はあいつら化物の事は殺したがってたけど、あんたの事は異常に好きだ。俺がお前に当たれば、あいつは怒るさ。お前を責めるなってね。俺にはぎゃーぎゃー言う奴だから」
言いながら、定信は足を止めて考える。
景伊は潮津の肩を刺していた。
咄嗟の事で、そこまで考えていたのかはわからないが、彼は潮津を殺す気はやはりなかったのだろうと、定信は思う。
刺されてもなお、殺したかったのは潮津ではなくあの化物だった。
(甘いんだよな、あいつ)
それを優しいと言っていいのか、定信は迷う。
「あいつが死んでも、お前は俺に同じような事言えるのか」
「言うんじゃねーよ馬鹿」
義成の言葉に、定信は忌々しげにため息をついた。
できる限り考えないようにしていた言葉を聞かされると、腹の底から苛々してくる。
「先生は運って言ってた。あいつは運が良いのか悪いのか正直わかんねぇけど、今まで死ぬことなくぎりぎりのところで来てるから、今回も大丈夫だって俺は勝手に思ってる」
「……意外に楽天家なんだな」
「……どうだか」
ただ自分は、最悪の結果を考えられない。
受け止める事ができないのだと思う。
「俺はただ、あいつがいなくなるってのが想像つかないだけだよ。傍離れるかもってだけで騒いでたんだぞ、俺」
景伊は案外、自分がいなくてもうまくやるのかもしれない。
ただ自分の方が、完全に駄目になるのが目に見えていた。
今だって、足元が全く見えないような不安な歩き方をしている。