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町に潜む獣

12 時間を下さい

「目玉」を握りつぶしたその腕を、どろりとした濁った液体が伝う。
定信は、心臓が引きつるように痛むのをこらえながら、布団から伸びたその腕を見た。
息を整え、景伊の顔に視線を移す。
布団に力なく横たわるその若者も、こちらを見ていた。
──力ない瞳ではあったが。

「景伊」

何度となく呼んだ名を口にする。
すると景伊は、少しだけ微笑んだ。腕が力を失ったように、ぱたりと畳の上に落ちた。
液体が床に散る。
慌てて、定信はその手を掴んだ。
「おい、お前っ……!」
大丈夫なのか。
痛みはあるのか。
聞きたい事は山ほどあったが、景伊の状態を見ていればわかった。
彼の瞳は、夢の中でたまたま目を覚ましただけのような、まどろみの中にいるような色をしていた。
手を放せば、即座に夢の中に沈んでいきそうな。
顔色は相変わらず青白い。
決して良くはない。
むしろ、悪い──。

「……嫌だったんだ」

景伊はまどろんだ瞳のまま、小さな声でつぶやいた。
「勝手に身体盗られるのは嫌だ」
「そりゃ、誰だって嫌だろそんなの」
腕を握りながら出た言葉は、ひどく慌てたものだった。
こちらの気持ちを知ってか知らずか、景伊は穏やかな表情で続ける。
「兄上が言ってた。……お前の好きにしていいって。決めていいって」
「あぁ」
頷きながらも、定信は思う。
義成が言いたかったのは、彼の生き方であって生き死にの話ではない。
大人の不都合を押し付けられて少年時代の大半を失った弟の為に、自分のした事への償いの為に、あの男は景伊に自由を与えた。
それだけの事だ。
だがそう言う事はできなかった。定信は言葉を飲み込んで、頷く。
「だから、俺が決めたかった。……あなたに、時間がないのもわかるけど」

あなた?

景伊の言葉を、定信は疑問に思う。
この部屋には自分と景伊のほかに誰がいるというのだ。
──まさか。

「……あいつがまだいるのか?」

定信は息を飲んだ。 先ほどの、不気味なもの。
何故腐りかけの目玉だなんて姿で出て来たのかは知らないが、あの山の「神」がまだいるというのか?
正直、定信はあんなものを「神」と呼んでいいのかわからなかったが。
「いる。……あのひとにも、あとはないから」
景伊は力ない指で、部屋の隅を指差した。
定信は、恐る恐る振り向く。
気配や匂いも、何も感じない。
だが、確かにそれはいた。
定信が「あいつだ」とわかったのは、その「神」の姿が、自分達が一番最初に見たものだったからだ。
薄らと、背後の闇が透けて見える。
彼にはもう実体はない。だが定信の目に映ったのは、若い男の姿であった。
色の抜けてしまったような白銀の、ざんばらに伸びた髪。猫のように光る灰色の瞳。
この姿も、この「神」がもといた人間から奪い取ったものなのだろう。
そしてこの姿は過去のものだ。
もう「ぼろぼろになったから捨てた」とは、以前この「神」から直接聞いている。
生存競争に負け、もうほかの体を奪い取る力もなく、狡猾に機会を伺い、己に最適の状態となった景伊の体が弱ったのを見計らって現れたこの存在が、そう簡単に引いてくれるわけもなかったのだ。
引けば、この存在もまた「死ぬ」のだろう。
互いに後がない。

定信は、ゆらりと佇みながらこちらを見ている存在に、背筋の冷えるものを感じながらも、景伊をかばうようにそちらへ体を向けた。
こんなものに景伊を奪われてたまるかと思った。
自分の都合しか考えていない。ほかは全く見えていないような輩。
そんなものにこれ以上虐げられてたまるかと思った。
これで目の前の「神」が死のうが消えようが、己は全く罪悪感など抱かない。
むしろ早く消えてしまえばいい。
そう心の中で毒づくと、景伊がかすれた声でつぶやいた。

「……定信。そんな事思っちゃ駄目だ」

「……え?」
何の事だと思った。
自分は、口に出してはいない。
「俺は何も……」
言ってない。そう言おうとして、ふと気づいた。
この目の前の「神」も、人の思っている事を読み取るような力があった。

(……お前もなのか)

この「神」は景伊に己の力を分け与えた。
その結果、彼は「アレ」を殺す毒の血を持ち、獣のような感覚を得た。
変化はそれだけではなかったというのか?
「……そうみたいだ。化物じみて、きたね」
定信の心の声に反応して、景伊が苦い笑みを浮かべた。
「……」
定信は景伊の言葉に、顔を歪める。
景伊の手を握る腕に力を込めた。
「……だがお前のものじゃない」
目の前の今にも消えそうな存在に向かって、定信は低い声でつぶやいた。
「こいつは俺のだ。お前なんかにやるもんか!お前が何しようが何考えようが、お前の取り分なんかはなからねぇよ!」
子供じみた主張だったのかもしれない。
自分でも何を言っているのかよくわからなかった。
だが渡せないと思った。
目の前でそんな事を許せるはずがない。
それを許せば、「景伊」は死ぬのだから。
「……定信」
「お前も弱っちぃ事言ってんじゃねぇぞ!死ぬなんて許さない。──お前が死んだら俺も死ぬ」
景伊がわずかに、目を見開いた。
「お前……何言ってんだよ……」
「冗談でもなんでもない。んな事言う余裕は俺にはねぇよ。お前がいなくなっちまったら、俺どうすりゃいいんだよ……なぁ」
「……」
景伊は、驚いたような瞳でこちらを見ていた。
「……本気で、言ってる……?」
「お前、わかっちまうんだろうが。……だったら嘘か本当かなんてわかんだろ」
「……」
無言でこちらを見つめる景伊の瞳から、涙が一筋流れた。
「何泣いてんだ」
「だって」
景伊は泣いているのか笑っているのかよくわからない表情を浮かべている。
呆然とこちらを見つめた後、涙を絞りきるように瞳を閉じた。

「──神様」

景伊は力を振り絞るように、呻くように名を呼んで身を起こした。
定信は慌てて止めたが、景伊は首を振る。
弱々しく半身を起して、部屋の隅にいる「神」に向かって片手を伸ばす。
「……あなたに、この体をあげる。でも、ただではあげれない」
「おいお前!」
景伊の言い出したことに、定信は慌てた。
怒鳴りかけたこちらを制するように、景伊はこちらを見る。真剣な瞳で。
「お前ならわかってるんだろ?……俺、この傷じゃ、もう助からない」
「……」
定信は息をのんだ。
咄嗟に反論することができなかった。
「普通なら刺されたときに死んでた……今もってるのは、このひとの血が混じって少しだけ人間辞めてるからだ。少しだけ出血に強い……それももう、もたないけど」
景伊は苦しげに、深く息を吐き出す。
定信の肩に手を置いて、景伊はこちらを見つめる。真摯な黒い瞳で。
そしてそのまま、するりと口づけてきた。
「っ──」
定信は目を剥く。
唇に触れるだけの、さりげない口づけだった。
自分達が抱き合うときにするような、ねっとりと絡み合うようなものでもない。
触れた唇からは少しだけ、血の味がした。
景伊は唇を放すと、少し照れくさそうに笑った。
彼から進んで口づけてくることなどなかった気がする。
「……お前を、殺すわけにはいかないし」
驚いたままのこちらから体を放すと、景伊は支える力を失ったように崩れ落ちそうになる。
慌てて抱きかかえ支えると、景伊は今にも眠りそうな表情でこちらを見ていた。
今眠ってしまえば、きっともう目が覚めない。
それは定信にもわかっていた。
だが認めるわけにはいかなかった。
医者の経験は、こいつはもう駄目だと言う。
上条定信としては、そんなことはない。大丈夫だと喚き続ける。
どちらもが声を大にして、頭の中で叫び続けていた。
その叫びが大きすぎて、定信は頭を振った。
景伊を抱きしめる。
骨ばった、痩せた体の若者の体は熱かった。
確かにここに、生はある。
あるのだから、別れのようなものは欲しくないのに。
「嫌だ……!」
定信が絞り出すように言えば、景伊も苦笑いのようなものを浮かべた。
「……俺もまだ、死にたくないなぁ……」
呟いた景伊は、大きく息を吸う。

「……時間を下さい神様。あと、少しだけでいいから──」

景伊の白い手が、部屋の隅の「神」に向けて伸ばされる。
「神」は少し目を伏せたように見えた。
次の瞬間、それは姿を消す。
煙のように消えたそれは、一呼吸の間を置いて定信と景伊の目前に現れた。
景伊の指も伸びきらず、今にも力を失いそうな腕に、「神」の手が触れた。
定信が何かを言う間もなかった。
それは景伊の中に、吸い込まれるように消えて行った。