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町に潜む獣

13 ありがとう

部屋の中から、その異質な気配は消えた。
姿も見えない。
定信の目には、それは景伊の中に吸い込まれたように見えた。
自分の腕の中にある景伊は、また意識を失ったようだった。目は閉じているが呼吸はしている。
抱く身体からは温かみが伝わる。呼吸も眠っているように静かだった。

──何が起きたのか。

定信は景伊を見る。
何かが変わったようには見えない。でも、あれは──。
そのとき、すっと音をたてて背後の障子が開いた。びくりとして振り向くと、そこにはお盆に湯飲みを乗せた太助が立っている。
両手が塞がっており足で障子を開けたようだが、こちらの驚いたような顔を見て、太助は怪訝な顔をして首を傾げた。
「……どうした先生?」
「あ……いや」
太助は何事もなかったような顔で、室内に入ってきた。
「ほい、茶。適当に入れたから、うまいかどうかはしらねぇけど」
「すみません」
言いながら、定信は景伊の体を布団に寝かせ直した。
太助も壁際に座り込み、自分の入れた茶を一口含んで「渋っ!」と苦い顔している。
どうやら濃すぎたらしいのだが、何も気にしていないようなその姿に、定信の方が違和感を覚えた。
「……あの」
「何?」
「太助さん、何か気が付きませんでした?」
「何が」
「……おかしな、気配とか」
「気配?」
太助が目を丸くする。
この家はそう広くはない。台所の土間とも、そこまで離れているわけではない。
壁も薄いので、話し声はよく通る。
景伊の声には力がなく響かなかったとしても、自分はやたらと大きな声で話していた気がする。
それにこの男が気が付かなかったなどあるのだろうか?
この男は猟師で、ささいな物音にも敏感なはずなのだが。
「いや?俺は……マチも寝てたしさ。なんかあった?」
あの犬も反応せず寝ていた?
その事実に定信は眉を寄せつつも、定信は「おそらく、俺の気のせいです」と告げた。
「……まぁ、あんた神経過敏になってんだよ。疲れてんだろうな。……寝た方がいいだろうけど、寝られんよなぁ」
太助は苦笑しながら、寝ている景伊の方へ目をやる。
「でも多少落ち着いてきたんじゃないか?さっきより、顔色良い気がする」
「えぇ。……そうみたいですね」
景伊の額を撫でながら、定信は思う。
誰も、この部屋で起きたことに気づいていない。
あれは夢か?
(……いや、気のせいなんかじゃない)
自分の体の傍には、汚れた景伊の腕をぬぐってやった布がある。
何かをふきとったような汚れもあった。
これは、己がおかしくなってしまったとか、幻覚を見ていたとか、そういったものではない。

確かに、この部屋には何かが来ていた。

定信が額を押さえながら考え込んでいると、玄関の方が騒がしくなる。
「旦那たち、帰ってきたみたいだな」
俺が出てくるわ、と太助は利秋達を迎えに部屋を出て行った。
部屋には再び、定信と景伊の二人のみが取り残される。

誰にも気づかれる事のなかった接触。
己の心を読んでみせた景伊の変化。
あれから少しだけ良くなったような、景伊の容体。

深く考えなくてもわかった。
この若者は、生き長らえる為に、あの存在を体に迎え入れる決意をしたのだろう。
少しだけ時間をくれ、と景伊は言った。
彼らの間でどういった取り決めがされたのかはわからないが、すぐにあの「神」に肉体を持って行かれてしまうとか、そういったことではなさそうだった。
どちらにしても傷を癒さなければ、動くどころではない。
(そういえばあの神様って奴は……なんか傷の治りの早い奴だったな)
定信は以前、あの「神」の傷を見たことを思い出す。
派手に出血していた傷口は、定信が手当てするうちにも塞がりはじめていた。己の血を武器として使うという特性を持っている故に、治りは早いのかもしれない。
景伊は似たような力を与えられていたが、それそのものではなかった。
傷の治りは人より良くなっていたとしても、今回の傷は間違いなく致命傷だった。
あのままでは、彼の命が終わりに向かっていたのは間違いなかったのだろう。

その力を与えた親元とも呼べる存在が肉体に入ることで、傷の治りが加速しているということなのだろうか?

あの「神」が言った「体は助かる」とはそういうことだろう。
(──お前はとっくに覚悟していたんだろうけどさ)
定信は、深い息を吐く。
死ぬのが怖い、と言っていた。それは責める事ではない。人間、動物として当たり前の本能だと思う。
でも、お前はどうなってしまうのだろう?
どこへ向かおうとしているのだろう?
(俺があんな事を言ったせいか?)
お前が死んだら俺も死ぬだなんて、陳腐な台詞だと今は思う。でもそのときはそう思った。
この若者を失った後の自分というのが、全く想像できなかったのだ。
景伊が口づけてきた己の唇に触れてみる。微かに触れた感触はまだ唇に残っていた。
景伊らしい、そっけない口づけだった。
「……」
定信は膝の上で拳を握る。
早く目が覚めればいい。
いつもと変わらない顔を見せてほしいと思った。
言ってる事がよくわからない、まとまらない言葉でもいいから、いつも通りの言葉で自分と話してほしい。
「……俺はお前がお前なら、何になっちまったっていいからさ」
廊下をばたばた歩いてくる男たちの足音が近づく。
「お前を大事に想ってる人間は、俺以外にもたくさんいるぞ。わかっとけよ、そこは」
定信は苦笑を浮かべた。
「俺も、最後までお前に付き合うからさ」
嫌って言ってもいるからな、と定信は静かに告げた。
おそらく聞こえていないだろう若者へ向けて。



景伊が目を覚ましたのは、それから丸一日経過したころだった。
まだ体を動かせばひどく傷むらしいが、それでも自力で身を起こすことはできた。
刺された直後の傷を診ている楠も様子を見に来ていたが、「不思議な事もあるものだ」と首を傾げていた。
定信も見たが、驚異的な速度で、傷は塞がりはじめている。
助かるかは運だ、と告げていた楠だが、心の内ではもう助からないと思っていたのだろう。

「人の体ってのは、たまに奇跡みたいな事を起こすよなぁ」

楠は心底感心した様子でそう言っていた。定信も、それには頷く。
まれに、医者の自分たちがさじを投げた患者たちが驚異的な回復を見せる事がある。
そういったものを目にするたび「生きてるってのはすげぇな」と定信は毎回思う。
だが今回の景伊の件は、彼の生命力が死に打ち勝ったわけではない。
全く別のものによる力で起こされた奇跡だ。
目覚めた景伊には、とくに変わった様子は見られなかった。
しばらく療養と言う形で、外へは出さず屋敷でのんびりさせることにした。

現実問題としては、道場で師弟とも呼べる男二人が重傷を負ったことは隠すこともできず、公になりつつある。
定信はあれから潮津に会っていない。その後の彼の様子は義成から聞いた。

「辞めるそうだ。道場の方は」

義成はあれから、こちらと潮津の両方へ足をよく運んでいる。
あのときあれほどまでに動揺していたこの男は、あの夜利秋と共に帰ってきたときには落ち着きを取り戻していた。
一晩こちらで景伊の様子を見て、時折家に帰りながら潮津の様子も見に行くという慌ただしい生活をしていたせいか、少し疲れた顔している。
あれから二、三歳は老けたかもしれない。
その日も昼過ぎにやってきて、景伊と言葉を交わした後、自分のもとへとやってきた。
今は台所の土間の上がり戸のところに突っ立って、黙々と片づけをしているこちらを見ている。
「──怪我がひどいって事か?」
定信はそれを、手を動かしながら問う。 最近慌ただしく、ろくに片づけもできていなかった為、家の中は荒れる一方だった。
潮津の怪我。
肩の刺し傷もあるだろうが、問題は指の方だろう。腱が切れている、と楠は言っていた。
剣はもう駄目かも、とも。
「それはまだわからん。傷も閉じてないし、また竹刀握れるかは、もう少し後になってみないと」
「じゃあなんで」
「同門で私闘なんてコレもんなんだよ、うちは」
元塾頭である義成は、指で首を切る仕草をする。
「竹刀でやりあった結果ならともかく、噛み傷と刺し傷だ。どう見ても喧嘩だろう。景伊があれで死んでたら、もっと大事になってた」
「……腹切るとか?」
「実際切るって言って聞かなかった。利秋さんと二人がかりで止めたが」
あの夜、二人の帰りが遅かったのは、そういった騒ぎがあったかららしい。
「悪い事をしたと何度も言ってる。お前にも謝りたいと。……良くなったら顔見せるかもしれないから、会うくらいはしてやれよ。嫌だろうけど」
「そこまで大人げない事はしない」
定信は眉を寄せながら義成を見た。
潮津が全て悪いわけではないと、わかってはいるのだ。
ただ以前のような気持ちで話をできないだろう事も、わかっている。
その潮津も、今は療養と謹慎という形をとってるのだという。
「ある意味脅されてたわけだが、証拠もない。潮津も直接手を出しているわけだから、今後の状況によっては何かしら罰があるかもしれない。あいつ自身もそれを望んでるしな」
「あの人のところに集まっちまった金は?」
「そこはまだ黙ってる。今それが出たら、あいつは完璧に一連の事件の犯人だろう。俺も庇いきれん」
「……弟殺しかけた奴の事庇えるの、ある意味すげぇな。相手が友達っていうのもあるんだろうが」
決してほめてはいない言葉を、定信は冷たく言い放つ。
義成も定信の毒には気づいたらしいが、反論はしなかった。
「……俺も二度、やらかしているものでね」
そう言いながら、義成はため息をついた。
「まぁある意味、謹慎っていうのは景伊も同じだな。道場辞めることになるのは同じだろうし、騒ぎが落ち着くまで大人しくしてたほうがいい。あいつにも言ったが、潮津の方にも道場の方にも頭は下げてきた」
「もうかよ」
やる事が早いな、と定信は思う。
「後で揉めても嫌だろう。まぁそっちはこちらで何とかするから、あんたは怪我の方を頼む」
「……あぁ」
定信は重たい声で答えた。
確かに町医者の自分にできる事など、それくらいしかない。
だが……。
「──あと一つ、気になったことがあるんだが」
土間を出かけた義成は、思い出したようにこちらを振り向いた。
「なんだよ」
「景伊の状態が急に良くなったのは、お前の腕か?それとも何か別の要因?」
「……」
義成と目が合う。
向こうは真剣な顔で、こちらを睨むように見ていた。
聡いこの男は、何かを感づいているのだろう。
「……俺の腕じゃねぇ事は確かだな」
「そうか」
義成は帰るつもりなのか、再び背を向ける。
「なぁ待てあんた。……俺の腕じゃなくて、何か別の原因だったとしたら、あんたどうするんだよ」
「別に何も」
義成は短く答えた。
「俺はあいつが生きてるならそれでいい」
「……まぁ、それは俺も同じだが」
この男はどこまで知っているのだろう。
利秋は何か話したのだろうか?
あれからそれどころではなくなっていたので、まだ話はできていないかもしれない。
思えばこの男に、自分は何も語っていないのだ。一度殴られた方がいい、とは思っているが。
黙り込む定信を、義成は目を細めて見ていた。
定信は黙っているのが辛くなってきて、低い笑い声をもらした。
「……お前はほんと、聞いてこないよな」
「なにを?」
義成がいぶかしげに問う。
「余計な事聞いてこないって言うか……あんたもいろいろ疑問思ってるんだろうけどさ」
「お前が全部把握しているとも思えんし」
「まぁそうなんだがね。いろんな事が起きすぎて、俺もついていくのが精一杯なんだ」
定信は頭をかく。
義成は、その様子をじっと見ながら言った。
「……覚悟はできているよ。何が起きても驚かないと思う。さすがに今回は焦ったが。昔の俺なら馬鹿にして、こんな事信じなかっただろうけどな」
──実際に目にしてしまえば、馬鹿にするどころじゃなくなってしまう。
そう呟いて、義成は体を定信の方へ向けた。
「この三年は、俺にとって濃いものだった。感情に流されてひどい事をして、後悔も死ぬほどしたし、悩んでばかりだったような気もする。だが内に籠ってばかりでは何の償いにもならないんだと、あいつに気づかされた。俺ができる事は、常にあいつの味方でいてやる事くらいだ。何が起きても覚悟はしている」
「……覚悟、ね」
定信は一度、口の中でその言葉を呟いた。
自分だって覚悟はしている、と定信は思う。
最後まで自分は、景伊と生きる。
何があっても最後まで。そう誓った。
「俺だって一緒だ。……俺はお前みたいに血のつながりがあるわけじゃないけど、あいつが大事だ。正直、お前にも渡したくないくらいに」
こんなときでさえ、独占欲はうずく。
自分の俗物さ加減にいい加減吐き気を感じながらも、定信は義成を見た。

「お前のそれは、何なのだろうな」

俺にはよく理解ができない、と義成は静かに首を振った。
「正直複雑な気分なんだ。弟を手籠めにした奴と、顔を合わせて協力しなければならないというのが」
その言葉に、心臓に冷たい刃を突き刺されるような気分になった。
「……知ってたのかお前」
「あいつは正直なのでね。思うところあって尋ねてみたら、素直に告白したよ」
思うところ、というのが定信にはわからない。
景伊の態度か、もしくは情交の痕に気づいたか。
「どうせお前が無理を強いたんだろうと言ったら、あいつは自分が望んだのだと言ってお前をかばう。殴る気も失せたよ。……戯れだったならお前を斬り殺してやりたいと思ったが、お前もあいつも、そうではないらしい。なら仕方ないじゃないか。お前に、あいつを頼むと言ったのは俺だ」
「……後悔したか?」
「正直。でもあいつは、俺といるときよりもお前といる時の方がのびのびしている。それはきっと、そう言う事なんだろう」
そう言うと、義成はしばらく黙った。
定信も、義成の言葉を待つ。
自分の弟がいけ好かない男と寝ている、というのはこの男にとって複雑な事だろう。
公にできるものでもない。
兄ならば、弟にはまっとうに育ってほしいと思っていたはずだ。道を踏み外させた自分を憎んでも仕方がない。
この男自身も過ちを犯したが、今は弟の身を本気で案じている。

「……あんたには言っておくよ。覚悟できてる、っていうならな」

待っても義成の言葉が出てこず、定信は先に重い口を開いた。
「景伊は本当なら、今回死んでてもおかしくなかった。というか、死んでた。俺にもどうしようもなかったさ。間違いなく致命傷だった」
定信は、深く息を吐き出す。
じっとこちらを見る男を、負けじと見た。
「でも、いわゆる奇跡ってのが起きた。あいつの生命力なんかじゃない。あんな痩せた貧弱な奴にそんなものあるわけがない」
首を振りながら、定信は言った。
「あいつは取引をした。望んであの山の神様を体に入れて、命を長らえさせた。でもこれからあいつがどうなるのか、俺にも正直わからない。このままでいれるなんて俺も思ってない。お前はそれでも、あいつの味方でいてくれるのか?」
「……」
義成は少し考えるように目を伏せ、こちらを見た。

「……俺の気持ちは変わらんよ」

静かな言葉だった。
その目に偽りがあるようには見えなかった。いつも通りの、静かな男だった。
何があろうと、この男は弟を、家族として愛す。
冷たい男だと思った事もある。
だがこの男は自分の思うより、もっと愛情深い男だったのかもしれない。
見せ方が、わからなかっただけなのかもしれない。
景伊は兄を、それこそ己の「神」のように慕う。
義成は景伊の親代わりでもあり理想の大人であり、唯一あの家で信頼することができる男だった。
事件後、しばらくはびくびくしながら兄の顔色をうかがってた景伊は、今は自分からあの家へ赴き、兄と嬉しそうに話をする。
あんな目にあわされながら兄を慕える気持ちが、定信にはずっと理解できなかった。
(──俺が理解できるわけがないんだ)
定信は幼いころの景伊の事は知らないし、義成が「優しい」というのも知らない。
そこには二人の兄弟にしかわからない愛情が、きちんとある。
それなのにあいつは、「愛してほしい」なんて言うのだ。
きちんと周りから愛されているくせに。

だが定信は、義成の言葉が嬉しかった。
景伊は、一番に慕う人間からの愛情を、きちんと受けている。そう思えたからだ。

「……ありがとう」
「なんで、お前が礼を言うんだ?」

定信の礼に、義成は少々うんざりした顔をしている。
この男にとって自分は、すぐかっとなってやかましく嫌味をたれる、理解できない男なのだろう。
そう思うと少しだけ情けなくなってくる。
別のところで出会っていれば、もう少し友人としてうまく付き合えたのだろうか。
だが少しだけそう考えて、やはり無理だなと思った。
自分達は違いすぎる。身分も生活も、性格も。共通点は、一番大事な人間がそれ、というだけだ。

義成を見送って、定信は台所を出て、景伊のいる部屋へと向かう。
自分が今できる事は、少しでも彼の傍にいる事だけだ。