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町に潜む獣

14 あきらめ

己の部屋の前に着いて戸を開けると、布団の中に景伊の姿がなかった。
それに、定信は軽く舌打ちをする。
いつもの事だと思った。
ひどい風邪を引いて寝込んでも、少し具合が良くなればこちらの心配をよそにうろちょろする。
「お前は小さいガキか!」と何度か言ったのだが、そのたびに「普段ガキ扱いしてるくせに、こういうときだけ大人扱いするなよ」と非常に腹の立つ顔で平然と言われ、そのたびに苛々したものだった。
可愛くない──わけではないのだが。
どこいったんだあいつ、と周囲を見渡せば、景伊の居場所は案外すぐに見つかった。
庭に出て、隣家との境の塀を見上げている後姿が見える。

「おい」

縁側から定信が声をかけると、景伊はびくりと肩を震わせて、悪戯を発見された子供のような顔で振り向いた。
「やばい」という表情をしている。少し困ったような顔をして、景伊は言った。
「……猫がいたんだよ」
「猫?」
この家で猫は飼っていない。
どうやら、庭に迷い込んできた野良猫につられて起き出したらしい。夢中になっていてこちらに気づかなかったようだ。
この若者は動物好きだった。
とにかく触りたいらしい。
小さなころにそういったものと触れ合う機会が全くなかったようなので、その反動だろう。
そして幸運にも、景伊は動物からも好かれる。
定信は図体がでかいせいなのか、猫には驚かれて逃げられてばかりだし、犬は自分が苦手なので普段近寄らない。
景伊も人間関係を築く事は苦手だが、そういった犬猫は無条件で手懐けてしまうようなところがあった。
それはある意味、天性の才能と言えるものなのかもしれない。

──だが、庭で勝手に野良猫に餌付けをするのは勘弁してほしいと思う。

家主も猫は嫌いではないようだし、定信もそうなのだが、この狭い庭がたまり場になっても困る。
ただでさえ食が細くて体も細いのだから、「猫にやるくらいならお前が食え!」と叱ったのはいつの事だっただろうか。
定信はよく思い出せなかったが、景伊はそのときの事を思い出したのか、「また怒られる」という顔をしている。
「……餌はやってないよ」
景伊はこちらに、両手を開いて見せた。
そのいらぬ必死さに、定信はため息をついた。
言いたい事はたくさんあるのだが、なんだがどうでもよくなってしまう。
とにかく、彼の調子は戻ってきているらしい。
「それはいいから、とっとと上がってこい。そんな薄着でうろうろしてたらまた体壊すぞお前」
寝巻の薄手の着物姿の景伊に向かって、定信は手招きをした。
怒られないとわかったのか、景伊も思いのほか素直にこちらへやってくる。
その足取りはしっかりと庭を踏みしめていた。
ふらつくものもない。
数日前は死にかけていたというのが、嘘のような回復ぶりだった。
顔色も、怪我をする前よりも健康そうになっているのが腹立たしい。
だから義成も、あんなことを聞いてきたのだろう。

──景伊の状態が急に良くなったのは、お前の腕か?それとも何か別の要因?

医者の自分が見て、じゃない。
素人が見ても、この状態は異常なのだ。
異常な傷の治りの早さ。
利秋も刺されたところは見ている。太助も直後に立ち会っていた。
二人とも「おかしい」とは思っているのだろう。だが口には出さない。
あの男だけ、直接自分に尋ねてきた。

助かってよかった、とはみんな思ってくれているはずなのだ。
ただその「おかしい」と思っている事を、口に出していいものなのか迷っているだけだと、定信は思っている。
あの言いたい事をぽんぽん言ってしまう利秋でさえ、何も言ってこない。
空気を読んでいるというべきなのか、大人の気遣いというやつなのか。
定信は自分が目にしたものを説明しておくべきなのか悩んだが、こちらとて状況をすべて把握しているわけでもなかった。
それに、定信には「何が起こったのか」なんていう事は、わりとどうでもいい事でもあった。
あの後目覚めた景伊は、いつも通りの若者だった。
今目の前にいる景伊も、あの日から何が変わったというものもなかった。
ならいいじゃないか、と思う。
彼がこのままで、変わらぬ日常を共に送れるなら、自分はそれ以上を望まない。
失うかもしれないという恐怖に比べれば、恐ろしいものでもない。
義成もそうなのだろう。
あの男は弟がどうなろうが、受け入れる覚悟でいる。
定信とはどうにも合わない男ではあるが、今はあの男の不器用な愛情を疑う事はしていない。
あの兄弟がうまくやれるなら、自分がそこへどうこうと口をはさむ必要はない。


定信のもとへやってきた景伊は、縁側に腰かけた。
大人しく布団へ戻る気はないらしい。引きずって連れて行っても良かったのだが、景伊はまだ庭を眺めていたいようだったので、無理に連れ戻すことはしないでおいた。
定信には、この狭く植えてある庭木も適当で、ちょっと枯れかけた木もあって、「庭園」ともほど遠いこの屋敷の庭なんかを眺めて何が楽しいのだろうと思うのだが、景伊はここに来た時から、こうしているのが好きだった。
動けるようになったころ、よく布団から抜け出して、縁側に一人座って日に当たりながら、嬉々として外の様子を眺めていた。
日向ぼっこが好きなだけなのか、何か面白いものがあるのかと気になって、一度尋ねた事がある。
すると景伊は「空の色が変わっていくのが面白い」と答えた。
ほかにも、「よその家の炊事の匂いとか、人が生活している感じがわかるから、嬉しい」とよくわからない事を言ったので、定信は首を傾げた事を覚えている。
景伊がほとんど日にも当たらず、人とも接しない空間に長年一人でいた事を知ったのは、それからもう少し後の事だった。

「……三年か」
「え?」

定信の呟きに、景伊が首を傾げて聞き返してきた。
「いや、なんでもない」
「やけに、感傷にひたるんだな」
「だからひたってないって」
意固地になって否定する定信を見て、景伊が笑みを浮かべた。
景伊は、定信の考えている事を見透かしているようだった。
「……お前、わかっちまうんだっけ?」
「……少しだけね」
「……」
定信は黙る。
景伊は確かにあの瞬間、こちらの心を読んで見せた様な仕草をしていた。
「お前が思ってるほど、なんでもかんでもはわからないよ。あの人なら、違うのかもしれないけど……」
俺は万能ではないから、と景伊は小さく付け加えた。
「あの人」とは、あの夜部屋に現れた不気味な存在を示しているのだろう。
はたしてあれを「神」と呼んでいいものなのかどうか、定信にはわからない。
ただあの山にいて、人に害をなすものを狩っていたから、地元のものに「山神」と言われただけだろう。太助もそんなことを言っていた。
ただその「山神」も決して無害というわけでもなかったので、互いに恐れられていたわけだが。
人間の体を使い捨てて生きる「山神」は、今景伊の中にいる。
傷が驚異的な速さで塞がったのは、それのおかげなのだろう。
彼はこれから、どうなるのだろうか?

「……あのひとはね、時間をくれてるんだ」

定信の疑問に答えるようなかたちで、景伊は庭を見つめたまま言った。
「体はあなたにあげるから、少しだけ今を過ごす時間を下さいって言った。律儀に今そうしてくれてるんだ。あのひとが中に入ってきて、なんとなく気持ちもわかったよ。さびしかったんだなぁって。俺に力を分け与えたのも、理解してもらえる仲間がほしかったんだなって。まぁ、いざとなったときのために居心地のいいからだを造るって思いもあったみたいだけど」
寂しいって言う気持ちは俺もわかる、と景伊は定信を見る。

「……その時間ってのは、どれくらいあるんだ?」

定信は、少しだけ震える声で言った。
今のままの状態が続くだけなら怖くない。
だが、景伊の言う猶予期間はどれだけあるのだ?
それが終わったら、彼はどうなるというのだ。
定信の言葉に、景伊も少しだけ考えるように首を捻った。

「……正直わからないけど、傷が完全に治ったらじゃないかな。早く帰りたいみたいだし」
「……あの山へ?」
「うん。……あのひとの、故郷なんだって」
「でもあの山、もう化物でいっぱいだぞ」

定信は以前、あの山を訪れた時の事を思い出した。
太助と山に入ったとき、異様な気配があちこちからこちらを伺っていたのを覚えている。
「うん。それはわかってる。でも元々はこのひとの土地で、あれはもっと山深いところからきたものだって言ってる。あれは里山に降りて来ちゃいけないものだって。本来ならもっと奥へ追い返さないといけないものだって」
そう言ってる、と景伊は膝を抱えた。
定信たちが「アレ」と呼ぶ人を食い殺す化物に、景伊の体に宿る「神」は負けた。
里の人たちの夢に現れ「逃げろ」と伝えたその神は、恐れられながらも、それなりにその土地の人間を守ってきたのだろう。

いずれ、この神は生まれ故郷の山へ戻る。
そしてあの薄暗い山の中で、異物との死闘を再び演じる。
景伊の体を使って。
そのとき景伊は、どうなるのだろう。その体は、完全に「神」のものとなるのだろうか?

「……お前はそれから逃れられないのか」

思ったよりも自分は落ち着いているな、と定信は思った。
景伊が己のもとを去ることに怯える自分は、叫びだしはしなかった。景伊がひどく落ち着いているからだろうか。
ただ自分の中で、「無」とも思える空間が心の中を支配していくのを感じていた。
景伊は、そんな定信の顔を黙って見つめている。
少し眉を下げて、苦笑いを浮かべた。
「俺は、ずるしたわけだから。死ぬはずだったところを、無理やり生き延びたんだから。……ずるしたんだから、償いはしなきゃいけない。逃れるも何も、あのひとはもうここにいるわけだから。……俺も、それで納得したわけだから」
景伊は、己の胸に手を当てた。

逃げ場などないのだ。

定信は歯を噛みしめた。
あの存在がいなければ、景伊はこの場に生きてはいなかった。
己にいつものように、笑いかけてくることもなかっただろう。
今景伊を生かしているのは、あの山神なのだ。

───彼がこのままで、変わらぬ日常を共に送れるなら、自分はそれ以上を望まない。
失うかもしれないという恐怖に比べれば、恐ろしいものなんてない。

でもその恐怖は、そう遠くない日に来るのだな、と定信は思った。
自分がどう喚こうが、景伊の手を掴もうが。掴む腕をすり抜けて、景伊はきっと風のように去っていく。
それはもう決められたことで、どうにもできる事ではないのだ。
景伊も、もうそれを受け入れている。
自分はいったいどうすればいいのか、定信にはわからなくなっていた。
最後まで、この若者に付き合う。その気持ちは変わっていない。
事実を「そうですか」と受け入れる気持ちにはなれない。だが、受け入れるしかないというのだろうか。
置き去り、という言葉が頭の中に浮かんだ。
景伊はどうなるのだろう。体をあの神にあけ渡した瞬間、今までの彼は消えるのか。
今ここにいる心根の優しい若者は、本当にこの世からいなくなってしまうというのか。
自分はそれを、追う事はできない。追いかける道すらない。
見ている事しかできない。

考えるたびに、立ち上がる力を奪われていく。
これが、「諦め」なのだろうか。
大事な人間を見送っていく人たちは、こんな感情を乗り越えて生きていくのだろうか?
そんな強さは、ない。
定信は目を伏せた。
そんな強い気持ちを、今の自分は持つことなんてできない。

「……定信」

景伊が、こちらの顔を覗き込むように定信の顔を見つめている。

「……泣いているの?」

言われて、頬に手を当てる。指が湿った。
嗚咽もなく、ただ涙だけが頬を滑り落ちている。
手のひらで拭っても止まらなかった。
何故こんなに溢れて止まらないのか、定信は自分でも理解できなかった。
己の無力さを嘆いているのか、景伊と離れるのが辛いからなのか、景伊を憐れんでなのか、全くわからない。
そのすべてであったのかもしれない。
泣き顔を見られるのが情けなくて、定信は顔を背けた。
だが、景伊がじっとこちらを見ているのがわかる。
「……見るな」
苛立ちのある声でそう言っても、景伊が立ち去る気配はなかった。
かわりに、定信の背中にそっと手をはわし、景伊がすがりつくように抱きついてくるのがわかった。

「……お前は俺を、愛してくれた。未熟な俺を理解して、全部受け入れてくれた」

景伊の声は、予想外に震えていた。
景伊の顔を見ようにも、定信の背中に顔をうずめて、表情は見えない。

「お前が俺にしてくれてるのと同じくらい、愛してあげたかった。でも方法が、わからなかった。お前が望むなら、俺だってずっと一緒にいたかった」

鼻をすする音がする。
景伊も、泣いているのかもしれない。

「……ごめんね」

何に対してのごめんねだ。
謝るくらいなら行かなきゃいいんだ、と言えたらどんなに楽だっただろう。
景伊だって、本心では行きたくないのだ。
でも「神」の手をとって生き延びた以上、もうその道を歩むしか道はないと知っている。
定信は背中の景伊を引きはがし、抱きしめた。

「死」を通り越した別れが、いずれ来る。