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町に潜む獣

15 互いを認める

景伊が実家に行く、と言い出したのは、その次の朝の事だった。
「……お前の兄貴なら、あっちから来るだろ?」
用があるなら別にお前から行かんでも、と食器を洗っていた定信が答えれば、ちょろりと後ろにやってきた景伊は、少し困ったように言う。
「……来てもらってばかりじゃ悪いと思って」
「阿呆、見舞いに来てるんだからあっちから来るのが当たり前だろうが」
「そうなんだけど」
景伊は引き下がらなかった。
怪我の様子は、もう問題ないように見える。
今朝も傷口を見たが、刃物が深くめり込んだような跡はほとんど残っていなかった。
昔の負った刀傷の方がまだ目立つというのはどうなのだ、と定信は思う。
その上、殴られた拍子に折れた奥歯も新しい歯が生えたと言う。
「歯って折れてもまた生えるの?」と真顔で聞いてきた景伊に、思わず「んなわけあるか!」と声を荒げてしまった。
恐るべき治癒能力だ。
医者の、人間の常識など飛び越えて、あの神は存在しているのだと改めて思った。

しかしそれは良いとしても、近所で話題になってしまった流血沙汰の当事者が、死にかけていたという噂の中、元気に出歩いてもいいものだろうか?
不審に思われるだけではないだろうか。

「あまり、出歩かない方がいいとはわかってるよ」

定信の表情を読み取って、景伊は少しだけ笑みを見せる。
「でも行ける時に行っておかないと、なかなか行く機会を逃しそうで」
そう言う景伊の顔に、定信は眉を寄せた。
景伊の実家……あの無駄に広いあの家は、彼にとってはあまり良い思い出の場所ではないはずだ。
あの家自体は好きではない、と何度も口にしているのを聞いた。
だが今行きたい、というからには理由があるのだろう。その理由とは、深く考えなくても定信にはわかってしまう。
そう考えると、周りからどう見られようが関係ないなと思えた。
景伊は今元気で、実家に顔を見せたがっている。それのどこが悪いと言うのだろう。
少々周りに不思議に思われても、今はこの若者の気持ちを優先してやりたいと思った。

「……お前、歩いてしんどくないんだろうな?」
「大丈夫、歩けるよ」

朝日の中で見る景伊の顔色は、さほど悪くはない。
どこか青白い顔をした、あきらかに虚弱な若者はもういないのだと思った。
それだけ見れば喜ばしい事なのかもしれないが、定信にはそれを喜ぶことはできない。
寂しさにも似た、空虚が心の内に広がる。
「……俺もついて行くけど?」
それでもいいかと問えば、景伊はこっくりと頷いた。
「なら、さっさと行こう。あいつが先に来ちまうかもしれないし、入れ違いになったら面倒くさい」
「あぁ。あの人、朝早いからね」
景伊は笑って言うと、着替えてくると言って台所から消えた。
定信はその背を見送って手を拭くと、軽く息を吐き出す。
こちらの気持ちは今、景伊に筒抜けなのだろう。だが景伊の考えている事も、悲しい事にこちらには筒抜けなのだ。
それはもう、ずいぶんと昔から。
定信には、景伊のような芸当はできないが、定信にとって景伊の心情を予想することは難しくない。
あの若者は基本単純だ。
隠し事などできるわけがない。長年共にいた定信には、景伊の考えている事など手に取るようにわかるのだ。

──別れでも言いに行きたいんだろう。

景伊はきっと、兄には誤魔化したくないのだ。
ここを去るのであれば、己の口からきちんと別れを告げたいと思うはず。
(……どこまで馬鹿正直なんだか)
定信はため息をついて、頭を掻いた。
あの素直さは景伊がもともと持っていたものなのか、義成と接する中で身につけたものなのか、定信にはわからない。
少なくとも、そこに自分はまったく感知していないというのは確かだった。


外に出ると、まだ空気の澄んだ早朝だからか、町の通りの人はまばらだった。

出てくる前、家にいた利秋に「ちょと連れだって義成のところへ行ってくる」と言えば、部屋で寝転がっていた利秋はしばらく考えるようにこちらを見ていたが、「任せる」とだけ言った。
以前、この男は「何かあったならきちんと言え」と自分達を叱った。
だが今回も、定信はこの男に黙ったままだった。
利秋も聡い男だから、定信が何かを隠しているというのはわかっているのだろう。景伊の異常な傷の治りにも疑問をもっているだろう。
人の事を言えはしない、と定信は思う。
自分自身も単純な男だ。この男に隠すなど、できるわけがない。
畳の上に寝転がっていた利秋は身を起こすと、あぐらをかいて定信を見上げてきた。
「……なんです?」
怪訝に思って問えば、利秋は少し複雑そうな、言い難そうな顔をしながら口を開く。

「お前に、あいつの事はまかせるけどさ。いや、まぁずっとまかせきりだったけど。俺はほとんど関わってなかったし」

利秋はその言葉の後を、考えるように少し黙った。
「……まぁ、どうしようもなくなったら俺に言えよ。どうにかできるとも思えないけどさ。……言うだけ楽になる、と言うか」
「らしくない事言いますね」
定信は苦笑いしながら答える。利秋もらしくないと思っているのだろう。照れのような、気恥ずかしいような笑いを浮かべていた。
「じゃあ、行ってきますね」
「ちょい待て定信」
背を向けかけた定信に、慌てたように利秋が声を投げかけた。
「景伊に言っといてくれんか?俺別に困ってないし、迷惑だとも思ってないって」
「自分で言えばいいじゃないですか。今更そこで遠慮しますか?」
『言いたい事を言いまくって問題を作る男』が何を言っているのだと、定信は呆れる。
「……苦手なんだよそういうの。あいつ俺の事怖がってるみたいだし」
「別に怖がってはないでしょう?将棋の相手してやったり本やったり、普通に相手してるじゃないですか」
「そういうのは別にいいんだが……二人きりだとね。俺もあいつに何言えばいいのかわからんし、あいつもそうなんだろう。別に嫌いとかじゃないんだが……あいつの顔見てたら、俺がいろいろ腹黒い事考えてるのが申し訳なくなってくる」
「……貴方にもそういう感情あるんですね」
定信は正直、利秋はそういう点は気にしないのだと思っていた。
とにかく上にいきたい、自分の能力を人に認めさせたい。
そう考える利秋は、確かに景伊との出会いも利用してきたと言った。
正確には、景伊自身ではなくその背後の人間との出会いを、だが。
「……景伊はわかってると思いますけど」
定信は、体を利秋の方へ向ける。
「利秋さんを怖がってるのは、扱いが乱暴だからでしょう?いきなり頬つねってみたり背中に雪入れられたり、子供みたいな事ばっかりしてるからあいつ何されるのかと思って、びくびくしてるだけなんですよ」
言いながらその様子を思い出して、定信は呆れた声をもらした。
最初見たとき、「何この人いじめっこみたいな事してるんだ」と思ったのだが、見るうちにそれはこの男なりの構い方なのだとわかった。
景伊も悪意はないとわかっているらしいのだが、そういったいじり方にうまく反応できる人間でもない。何でこんな事をされるのかわからないまま、呆然として困った顔をする。
利秋の子供じみた構い方も、いまいち感情表現の薄い子供にどう接したらいいのか悩んだ挙句のものらしいが、互いにそんな人間同士であったから、うまく噛み合わずにここまできたらしい。
「……あいつもなー、もうちょっと驚いてくれたりしたらこっちも構いがいがあるんだが」
「いや、あいつに面白い反応を期待する方が間違ってますけどね……」
定信はため息をついた。だからこの人はこの年になっても浮いた話が何一つ来ないんだ、と思った。
この男もあまり人間関係を築く事に関しては、器用ではないと定信は思う。

「でも何度も言うけど、俺は嫌じゃなかったよ」

利秋は定信の呆れ顔を見ながら頬杖をついて、笑った。
「楽しかった。家に若いのが増えるってのは賑やかでいいよな。俺は所帯を持つ気はないし、これから先にもないだろうが、あいつくらいの年の息子がいてもおかしくないわけだ。まぁ気にせずいろよって言っといてくれよ。まぁ景伊が帰るって言い出したらそれまでだけどな」
「……そうですね。でも、あいつは喜ぶと思います」
「おう。んじゃ、よろしくな」
ひらひらと手を振る利秋の言葉に頷いて、定信は部屋を出た。
あれくらいの歳の息子が、と言った利秋は、直接は言わなかったが景伊の事を息子のように思っていたのかもしれない。
(……あの人もへたくそなんだよな)
自分で言えばいいだろうに、照れが勝つのだろう。
利秋が景伊を息子のように思っているというのであれば、自分はなんだろう。
弟?恋人?友人?
そう少し考えて、定信は鼻で笑った。なんとも言い難い。
だが己の独占欲は強く、嫉妬も強く、執着心も異常だと思う。
うまくそれを当てはめる言葉が見当たらない。愛しいだなんて生やさしいものでもない。
こんな感情を向けられて、景伊はさぞかし戸惑っただろう。昔の自分の行動を思い起こすたび、自分を刺し殺したい衝動にかられる。
(──でも、家族だろう?)
少々世間と比べれば、自分達は歪んでいるのだろうが、家族であったと思う。
はみ出し者の寄せ集めではあったけど、共にいるうちに家族であると、少なくとも定信はそう思えていた。

──自分の本当の家族とはうまくやれなかった。

今更修復は難しいだろうし、そんな気もない。
袂を分った父親もそうだろう。全く互いに気にかけていないわけではないが、景伊のように直に会い話をし、理解し合うという気持ちは全く持てない。
今思えば、己も青かったのだと認めることができるのに。
うまくはやれなかったが、一人でも大丈夫なのだと言い切る強さもまた、己の中にはなかった。
だから仲の良い家族というのには憧れた。
ここは少々いびつな家族ではあったが、定信にとっては大事な場所だった。
守りたいものだった。

だからこの環境が変わることを、望んでいなかったのに。

そこまで考えて、定信は軽く頭を振る。
感傷的になっている場合ではない。自分の気持ちなど、今はどうでもいいのだ。
あまり残されてはいない時間の中で、景伊が自分を待っている。そう思って、定信は家を出てきた。


景伊の実家であるその白壁の屋敷についたのは、それからしばらく後の事だった。
義成はこちらの屋敷に来るつもりだったらしいのだが、逆に訪れた景伊の姿を見て、流石に驚きを隠せなかったらしい。
義成の部屋をのぞけば、彼は珍しく慌てて近寄ってきた。
「お前どうしたんだ。一人で来たのか?体は?」
「残念ながら、俺もいるんだが」
驚きすぎてこちらの姿が目に入っていないようだったのでそう言えば、気付いた義成はあからさまに嫌な顔をして見せる。
「……いたのか」
「どうも」
今にも舌打ちしてきそうな顔に対し、定信は皮肉も込めて丁寧に頭を下げる。
そんな兄二人のいがみ合いなど無視する術を身につけていた景伊は、気にせず義成を見上げた。
「いつも、あなたに来てもらってばかりだったので。体もある程度よくなったので、お礼に来ました。迷惑でしたか?」
「いや、迷惑とかはないが……」
義成は少し考えるように黙ってから、景伊の肩に触れる。
「俺に気を遣う必要なんてないんだぞ、お前」
「そういうのじゃないです。ただ俺からどうしても、来たかったんです」
見上げる景伊の無垢な視線に、義成は少し戸惑っている様子だった。
「……まぁいい。のんびりしていけばいい。そこの、お前も」
「俺はおまけ扱いか」
そう定信が言えば、義成は「とても嫌なものを見る目」で定信を見てきた。
知らないものが見ればすくみ上りそうな視線だったが、こちらは慣れているし、邪見な態度であればこちらの方がたくさんやらかしている。
以前は義成の方から、ここまで露骨な態度をとることはなかったのだが、弟が己と肉体関係を持った事に感づいてからはこれだ。
とにかく気に入らないのだろう。
気に入らない、その気持ちはこちらも痛いほどよくわかるので、その刺すような視線はこちらも受け止めようと思う。
いや、受け止めねばならない。
一番刺されなければならなかったのは恐らく自分だ、と定信は思った。

「殴りたい気持ちはあるんだけどな」
義成の部屋で茶を貰っていると、この部屋の主は苦々しい顔でこちらを見ていた。
「前、殴る気失せたって言ってたじゃねぇか」
定信が茶を飲みながら言うと、義成は深いため息をついた。
「あれは景伊がお前をかばうから。……なんでこんな奴にと思うと腹が立つ」
「それはお互い様だろ。俺はお前にそう思ってるよ。なんでこんな奴に、あいつは無条件で懐くのか。俺の理解を越えてるね」
互いに最低だと思っているのだから、何も取りつくろう必要がない。
潮津は互いに言いたい事を言い合える自分たちの関係を「友人」とは言っていたが、やはり定信はそれは違うと否定したい。
友人ではない。知り合ってからは長いが、友人だと思えた事は一度もなかった。それは相手も同じだろうが。
「で、当のあいつはどこいったよ」
義成の部屋に、いつのまにか景伊の姿がない。
何でこの男と顔を突き合わせて話さねばならないのだと悪態をついていると、義成は茶を一口すすって「猫」と呟いた。
「猫?」
「飼い始めたんだ、数週間前に」
「お前が?」
定信が信じられないものを見る様な目で言えば、義成は「俺がそこまで面倒見ているわけではないが」と首を振った。
「うちに、若い女中がいるの知ってるだろう」
「あぁ」
景伊と歳もさほど変わらない娘だった。
こんな辛気臭い屋敷で働くより、どこぞの商店で働いている方が似合いそうな明るい性格をしている。
「その娘が拾ってきた。猫に罪はないし、たくさんいたら困るが一匹だからな。飼う事にした」
「あー……それで。あいつ動物好きだからな」
構い倒しに行ったか、と定信が言えば、義成は苦笑する。
「あいつが喜ぶかもしれないと思った、下心があったのは認める」
「遠回しな可愛がり方するなあんたも」
「まぁ、あいつの為だけでもないよ。俺も好きなんだ、猫は。昔拾ってきてこっそり育てて、親父に殴られたことがある」
「……お前も案外普通の子供やってたんだな」
想像できなくて、定信は笑った。
景伊は今、その女中と猫を撫で繰り回しているに違いない。
「お前に会いに来たのにな、あいつ。お前猫に負けてるぞ」
「猫以下でも構わんよ。話はあとでゆっくり聞くさ。言いたい事はあるんだろうから」
「わかるのか?」
「そんな目をしていた」
「……」
定信は黙って湯飲みを置いた。
この男も感じ取っているのだろう。
景伊がただ、いつものように兄に会いに来ただけではない事くらい。
「……言っても無駄だろうけど、一応お前には言っとくわ」
定信は軽く手をついて、頭を下げる。
「俺は確かにあいつに手を出してるよ。俺が求めなきゃ、あいつは男に抱かれるなんて事、一生知る事なかっただろう。余計な事教えやがってって言う、お前の気持ちはわかるよ。お前は兄貴だから、弟に、しかも俺なんかにそんな事されて許せないっていうのもわかる。俺だって、俺以外にあいつがそんな目にあわされたらそいつ殺してやりたいって思うから」
「……物騒な医者だな」
「品行方正なお医者様ってのには、やっぱり俺はなれないよ」
性格的にはやっぱり向いてないんだろうな、と定信は義成を見上げた。
「許してもらおうとかは思ってないさ。でも言っておく。俺は、いたずらに手を出したかったわけでも、あいつを困らせたかったわけでもない。──好きなんだよ、あいつの事が。どうしようもなく」
優しいだけの兄でいられたら、どんなに良かっただろう。
ただ優しく愛してやれるような人間であれば、景伊にとってもその方がよかったのだ。
自分はそこに肉の繋がりがほしくなった。一度そうできれば終わるのかと思った感情は、より強くなるだけだった。
自分でも予想外に、その感情には底がなかった。

義成は定信の言葉を、静かに聞いていた。
こちらを軽蔑しているような視線もなかった。

「……あいつは獣のような奴だと、潮津が言った」

思い出すように目を伏せ、義成は静かに言う。
「あいつには優しい奴だが、生きることに関しては貪欲だと俺は思う。あんな環境で過ごさせてしまったが、死にたいと口にした事も、自殺を図ろうとしたこともないよ。俺はあいつを一度殺そうとしたが、あの後あいつは死のうとしたか?お前に死にたいと口にしたか?」
定信は首を振る。
出会った頃の景伊はすべてに疲れ、絶望はしていたが、いっそ死にたいと言った事はなかった。
必死に生きようとしていたように見える。
「獣というのはそういうものだ。自ら死を選ぶことはない。身の危険を感じれば、必死に相手を殺すつもりで抵抗する。潮津もそうだ。あの大きな男が、まぁ長引けば殺されていたのは景伊の方だったろうが、あそこまで痛めつけられる。気を許した相手にしか、体を撫でさせはしないだろう」
「……利秋さんも似たような事言ってたよ」
嫌なら、噛みついてでも抵抗するんじゃないか──。
利秋は以前そう言っていた。実際、最初未遂で終わったとき、定信は噛みつかれたわけだが。
「見る人は見てるよ、あいつの本質。そしてあいつも人間をよく見ている。……そういうことだよ。まぁ、俺は気に入らないから嫌味は言わせてもらう」
「……あんたは娘を持たない方がいいな」
「何故?」
定信の言葉に、若干義成が目を丸くする。
「嫁に出すとき、頑固なうるさい親父になりそうだ」
「そんなものになる気はないが」
いや、なるって。──と思いながらも定信は笑みを浮かべた。
景伊にとっての幸運は、定信にとっては嫌な人間でしかないが、この男がそばにいた事なのだろう。
どちらかと言えば不器用だか、愛情深い男だとは思う。
その裏返しであんな事になってしまったのだと、今なら理解できる。景伊もわかっているのだろう。
景伊がこの男にあれほどまでに懐くのは、恩義を感じているのもあるのだろうが、誰よりも優しい男だとわかっているからだ。
「頭じゃわかってんだけどな」
定信は苦笑いを浮かべた。
「そう。頭ではわかっているんだが」
義成も、珍しくこちらの言葉に同意した。

「認めると言うのは、難しいな」