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町に潜む獣

16 気持ちを込めたもの

ひとしきり猫をいじくり倒し満足したのか、景伊が義成の部屋まで戻ってきたのはそれから少し後の事だった。
景伊の腕の中には一抱えもある、ふてぶてしい顔をした大きな白猫がいる。
「猫を拾った」なんて言うから、てっきり定信は拾ったのは子猫だと思い込んでいた。

「拾うって言う大きさじゃねぇだろアレ……」
「ついてきたんだそうだ。後ろを」

定信の呆れた視線を面白そうに受け止めながら、義成は言う。

「別にあの娘は餌もやらなかったし、撫でもしなかったそうだ。それなのに後をついてきて離れない。追い払ってもいつのまにか、うちの屋敷の中で我が物顔でくつろぐ。面白いだろう?」

まるで自分で住処を選んだようじゃないか、なあ?と義成は景伊に笑いかけた。
もともと動物は嫌いではないようだが、この男が「飼う」と決めたのは、そんな出来事が興味を引いたからのようだった。
許可もしないのに我が物顔で居座り始めたこの猫を、義成は気に入ったのだろう。
変わったものが好きなんだなこいつも、と定信は冷めた茶を飲みながら、目の前の男を見つめた。
確か景伊に会いに行ったのも、確か最初は「興味」からだった、と言っていたか。

「お前も、こちらに来て座れ」

義成は、部屋の入り口に突っ立っている景伊に向かって手招きをした。
景伊は素直に頷いて、猫を床に下ろす。
その大きな白猫は、耳の後ろを後ろ足で掻き毟ると庭へ下りて行った。

「病み上がりだろう、あまりうろちょろするな。……まぁこいつが大丈夫って判断は出してるんだろうが」
こいつ、とは自分の事だろう。
定信はあぐらをかきながら横目で義成を見る。
「大丈夫だとは思うけど、お前からももっと言え。ちっとも大人しくしてくれねぇから、こいつ」
ため息をつきながら定信は言った。
こいつは甘やかしていればいいのだから楽なものだ、と思う。

義成は、景伊に読み書きも含めいろいろ教えていたらしいので、本の上の勉学というのであれば、景伊はそれなりにできる方だった。
しかし、それ以外が日常生活も含めてんで駄目だった。
景伊の世間知らずぶりに驚き、共にあれこれ見て回ってやらせてみて、ばたばたと過ぎたのが一年目。
精神的にも余裕が出てきて、のんびり家で過ごす景伊に対し、こちらの仕事が忙しくなってあまり構えなかったのが二年目。
暇なら手伝えとこちらの仕事の手伝いを教えてみたり、景伊も剣術を習い始めてみたり、それなりに変化があったのが三年目。
今年はどうなるだろうと思い始めていたころに、あの奇病騒ぎ。
それからはただ流されるだけであったように思う。

自分は何か一つでも、その流れの中で逆らう事はできたのだろうか?
自らの力で解決できたことなど、なかったように思う。

定信のもの思いをよそに、景伊は部屋に軽い足取りで入ってくると、義成の傍に座った。
その表情はいつもよりもにこにこと微笑んでおり、兄のそばにいれるのが嬉しくてたまらない、といった様子だった。
定信に向ける表情とは種類の違うものだ。
当然こちらとしては面白いものではないが、本人を前に文句を言う気には、今はなれなかった。
義成も、景伊がそばにいると若干柔らかい表情になる。
「俺に対してと全然態度が違うじゃねぇか」と思いながらも、この兄弟がここまで和解できたというのは、当初は想像もできない事だった。
それは自分の捻じ曲がった感情を抜きにして、本当に良かったことなのだと定信は思う。
彼らの仲がこじれる事を、こちらは望んでいるわけではない。
景伊には、自分だけでは駄目だった。

(お前の、神様だもんな)

定信は嬉しそうな景伊の横顔を見る。
その表情を見ていると、定信の口元にも自然と笑みが浮かんだ。
彼らの和解に、こちらは何か手を出したわけではない。
当初、景伊は義成に怯えながらも彼を慕っていたが、義成は景伊をできるだけ遠ざけようとしていたように感じる。
景伊を嫌って、という事ではないのだろう。
ただ取り返しのつかない事をした、という思い。己への自己嫌悪。それが原因だったのだろうと今は思う。
常に景伊を気にかけてはいたのだろう。でもこの男は真面目で、己を責めて責めて、態度は頑なになる一方だった。
定信には、未だにわからない。
いくら恩があり、あの事件が「事故」だったとしても。
そこまでけなされ痛めつけられた兄を、普通許すことができるのか。

景伊は逃げはしなかった。
臆病で怯える癖に、逃げたがる義成の腕を震えながら必死に掴みに行った。
恨み言をぶつける為ではなく、兄ともう一度話せるようになる為に。
(お前は勇敢だ)
定信は、心からそう思う。
自分にはできなかった事だ。
己は自分の家族と向き合おうともしなかった。
今もそんな気は起きない。
居場所を知らないわけではなかった。
だが会えば自分が間違っていたのだと認めることになる気がして、嫌だった。
会ったところで、もう父親は自分に興味などないかもしれないと思うと、怖かった。
話をする時間はたくさんあったはずなのに、あれこれ理由をつけて会いに行かなかった。
(それができるお前を、勇敢だと、心の底からそう思う)
こちらが黙ってそんな事を考える間に、二人の兄弟は和やかに会話をしている。

「何か、話があったんだろう?猫を撫でに来ただけとか言うんじゃないだろうな?」

義成のからかいを含んだ言葉に、景伊は微笑みながら首を横に振った。
ふと、景伊がこちらを見る。
じっと定信の方を見るので、話をするのにこちらが邪魔なのか?と定信は思った。
「何なら俺、外すぞ」
気を効かしたつもりで腰を浮かしかけると、景伊は「そうじゃなくて」とそれを制した。
「いい。いてほしい。お前も」
景伊は声を荒立てる事もなく、静かに言った。


定信が語った「景伊の身に起こっている事」を、義成がどれだけ信じたのかはわからない。
しかし冗談だと言うにはそれは趣味が悪く、義成自身も信じるしかないだけの体験をしてはいた。
景伊が義成に話したのは、定信に語った事とさほど変わらぬ事だった。

自分に何が起こったのか。
命が助かった理由、急激な回復。
そしてそのあと、どうしなければならないのか。

景伊の言葉を、義成は静かに聞いていた。
大雑把には、定信も話している事だった。
「何が起きても覚悟している」と語ったこの男は、定信の目には冷静に見えた。
景伊の言葉に時折頷きながら、じっくりと言葉を聞いているようだった。

「……お前は、ここを去るのか?」

景伊の、あまりうまくはない語りの中で、ぽつりと義成は呟いた。
義成にじっと見られて、景伊も困ったような顔をする。
「……そう、なると思います」
「それはどうにもならない事か?」
「……約束、ですから」

──そんなに体がほしいのなら、この体はくれてやる。
でも自分としての命を、もう少しだけ長らえる助けをしてほしい。
周囲の人間たちを話をつけていくだけの、時間がほしい。
そんな約束を、あの神は律儀に守っている。

「本来であれば、あそこで終わっていた命です」
景伊は膝の上の拳を握って、兄に微笑んで見せた。
「方法はそれしかありませんでした。俺はあのまま死ぬのは嫌でしたし、周りに何も言えないままなのも嫌だった。少しでも時間がもらえるならと、俺が決めたのです」
「……」
景伊の言葉を、義成は複雑そうな表情を浮かべて聞いている。
生き方を自分で好きに選べ、と言ったのは義成だった。
当たり前だが、当時はそんな思いで言ったわけではないだろう。
長い沈黙があった。
「……お前は今日、俺に別れを言いに来たのか?」
義成の言葉に、逆に景伊が黙り込む。
「貴方、ですから」
景伊は唇を噛んだ後、義成の顔を見つめた。
「迷惑かけてばかりの貴方に、何も言わずにいなくなるなんてできない」
「俺は何もしてない。迷惑だなんて思ってないぞ」
「でも」
「景伊」
義成は手を伸ばし、正座の上に固く握られた弟の拳に触れた。
「……俺は嫌だ」
義成の静かな言葉に、景伊が顔をこわばらせた。
その表情に、義成も眉を寄せる。
「……お前を困らす気はないんだ。覚悟だってしてたよ。でも……」
それきり、義成は黙り込んだ。
義成の気持ちは、定信にもよくわかる。
行かせたくない。
ここから、去ってほしくない。
自分は一人の人間として。義成は、たった一人の家族として。この若者を愛しているのだから。
「なぁ。行ったっきりって事はないんだろう?……少しは顔を見せてくれるんだろう?」
「それは……」
約束できない、と景伊が呟く。
本人でさえ、自分がどうなってしまうのか、よくわからないでいる。
景伊の中にいるもう一つの存在に主導権を明け渡してしまえば、景伊自身は消えてしまうかもしれない。
「……でも、ときどきは帰ってこれたらいいなとは思います」
景伊は少し唇を噛んで、笑顔を作った。
「貴方には会いたい。ここには、お世話になった人たちばかりです。……でも貴方はもうじき結婚するんでしょうし、そのときは子供もいるのかもしれない。そうなれば、今までみたいには」
「……帰ってこいよ」
景伊の声を遮るように、義成は静かに言う。
「俺の状況がどうなろうが、ここがお前の家で俺がお前の兄貴だって事には変わりないじゃないか。遠慮なんてする必要はない。もし帰ってこれるなら、いつでも帰ってこいよ。お前の部屋は空けておくから」
「……兄上」
「……あぁ。どうせなら今渡しておこうか」
義成は何かを思い出したように立ち上がり、「ちょっと待っていろ」と言うと部屋を出た。
景伊と定信が首を傾げていると、彼はすぐに戻ってきた。
手には、薄い包みを持っている。
「これは……?」
「お前用の紋付の羽織」
義成は、それを景伊の前に差し出した。
景伊は紐をほどき、包みを開ける。
そこには漆黒の光沢をもつ、質のいい着物が丁寧に折りたたまれていた。
「お前の体に合わせて仕立ててもらった。もっと前に渡そうと思っていたんだが、慌ただしかったからな」
「でも……こんないいもの」
着る機会ないですよ、と景伊が言えば、義成は苦笑した。
「いいんだよ。山に行くなら、それ持ってけ」
「山の中じゃすぐ汚れます」
「なら、里に下りる時にそれ着ればいいだろう?お前のよそ行きの着物って事で。人前に出るときとかさ。それなら、恥ずかしくない」
「……」
景伊はしばらく、兄の顔をじっと見つめながら着物を抱きかかえていた。
黒くて質のいい紋付。
その着物を、定信も黙って見つめる。
きっと、義成は子供とも言えぬ年齢になった弟を気遣って、ただ何かあったときの為に、彼の為に良い着物を仕立ててもらおうと思ったのだろう。
それが別れの餞別になるとは、思いもせずに。

「ありがとうございます……兄上」

着物を抱きしめたまま、景伊は深々と頭を下げる。
「大事に、着ます」
「うん……お前、まだ背が伸びるかもしれないから、少し大きめにしてもらってる。随分伸びたからな。昔に比べて」
「もう、伸びませんよ」
「そうかな」
義成は柔らかく笑った。
思うところはあるだろう。
不安もあるだろうし、「嫌だ」と言ったのが彼の本心なのだと、定信は思う。
だが彼は今、己以上に不安であろう弟を気遣って、あくまで優しく送り出そうとしているように見えた。
何があっても、帰る場所はある。
その事実は、景伊を何よりも安心させているように見えた。
景伊が実際、あの山に行ってから帰ってこれるのか、それは誰にもわからない。
だけど義成は、そう思いたいのだろう。
弟はいなくなるのではないと信じたいのだろう。
義成はここを離れる事などできない。だから弟を案ずる気持ちを、あの着物に込めた。
定信はそう思った。
気持ちだけは、そばにいてやるつもりで。

「出来の悪い兄貴で、ごめんな。大事な時に、何も俺はしてやれない」

義成の苦しげな言葉に、景伊は目を閉じ、首を横に振った。
「とんでもない。俺は幸せでした。最高の兄たちを持ちました」
「……たち?」
定信の疑問の声に、景伊はそちらを向いて笑った。
「俺はそう思ってるんだけど。……お前は一番が良いってやっぱり言うのかな」
「あー……。お前はそんな事言ってたのか」
義成がにやりと定信を方を見て、嫌な笑みを浮かべた。
「嫉妬深い男は見苦しいな」
「……やかましい。お前だけには言われたくない」
はん、と鼻で笑って、定信は庭の方を見た。
庭石の上に、あの不細工な白猫がだらんと伸びて日向ぼっこをしているのが見える。

誰だって自分が愛する人間から、一番に愛されたいと思っている。
そして、自分こそが一番愛しているのだと思っている。

(……小せぇよなぁ、俺は)

定信は苦々しく、景伊を見た。
景伊はきらきらと表情を輝かせて、義成と話をしている。
この兄弟の中には、行く決意、そして変わらず待つ決意がそれぞれ生まれている。
最後までこいつに付き合うなんて漠然と考えているが、自分はどうすべきか。
俺も腹をくくるべきなのだ、と定信は思った。