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町に潜む獣

17 黒い瞳

家を出たのはまだ空気も冷たい午前中だったのだが、いろいろ話すうちに気づけば夕方近くになってしまっていた。
ついて来たはいいものの、兄弟水入らずにしてやった方がいいかと思い、定信はその広い庭が見渡せる縁側に座り込み、庭を眺めていた。やる事もなく、たばこでも吸いたくなってきたのだが、生憎今日は持ってきていない。

「暇そうだな」

背後からかけられた声に、定信は怪訝な顔をして振り向いた。
先ほどまで部屋で景伊といたはずの義成が、後ろに立ってこちらを見下ろしている。
「あいつは?」
そう定信が言えば、義成は肩をすくめてみせた。
「俺は猫以下なんだ」
「またか……」
義成の言葉に、定信は呆れながらも笑ってしまった。
「あいつは一日中猫触ってても飽きない奴なんだろうよ。そんなに好きなら、もっと早く何か飼えば良かった」
「犬でもいけるぞあいつ」
「そのようだな」
お互いに苦笑を浮かべる。この男と顔を合わせると、話題は大体景伊の事になる。
「山に行っても、何か獣でもいればあいつも寂しくないのかもしれないが」
「あの山、獣あんまいねぇよ。太助さんが言ってた。あいつらが食い尽くしちまって」
定信は、こちらにやってきた早々とんでもない目に合わせてしまった猟師の顔を思い出す。


太助は以前、地元の山に何がいたのか、地元民の責任か興味からか、それを知りたいのだと言ってこの地を離れた。
彼の故郷である村には数世帯しか住んでおらず、それも元をたどれば同じ親戚筋だったらしい。
しかし太助もそこまで周囲を付き合いを大事にする人間でもなく、仕事柄山に籠りっきりの事が多かったので、あれから皆がどこへ行ってしまったのかは知らなかった。あちこちのつてを辿って、ようやく村の年寄りと会う事ができたらしいのだが、その年寄りもあの山に潜むものがなんなのか、というところまでは正確には知らなかったそうだ。しかしその年寄りが知る、何十年も前の山の様子は聞くことができたと言っていた。

その年寄りが言うには、昔からその山には何かがいた、というのは事実のようだった。
人はそれを山神と呼び、信仰の対象にしていたらしい。古びた社があったのはその名残なのだろう。何十年も前……その年寄りがまだ幼いころは、あの山には普通に人も出入りできていたし、社もきちんと管理されていたそうだ。

しかしある日突然、その山に別のおかしなものが現れ始めた事で、情況が一変したのだという。

それはあきらかに物の怪の類で、姿を変えて人を惑わし、襲い食う。
当然ながら縄張りを侵された神は、それを敵対するようになった。
何十年も争ううちに、その神もいつの間にか人の体に入り込み、山を彷徨うようになった。それがわかったのは、とある人が山に入ったっきり行方知れずになり、死んだのかと思っていると、何年も後になって山の中で生きているのを目撃されたからだ。
髪は色が抜け落ち、真っ白になっていたそうだが。
その神は出会った村人に「アレを殺す為だ」とは語ったそうなのだが、それを知った村の人々は嘆いたという。
どちらも、人にとってはよい影響をもたらすものではなくなってしまったと。

「もともとはさ、山に入って迷っちまった人間を助けたり、良い事もしてた神様みたいだったんだが」

太助は苦笑いをしていた。

「あんなおっかないものに変わっちまったのは、きっと何のために争ってたのかわかんなくなっちまったからなんだろうなぁ」

目的の為なら、手段を選ばない。
定信が見たあの神の姿も、確かにそうだったと思う。
景伊の体に己の血を仕込み、無理やり体を奪おうとした。
邪魔をしようとしたこちらは殺されかけた。

しかしあの山で助けられたのも、事実だった。
太助と山を転がり下りて、泥だらけになったあの夜。
太助の猟犬、マチの中には、あの神が宿っていた。
定信は思う。
確証はないので、これは己の推測にすぎないが。
ほかの村の人間がみんな去った後も、あの辺りの山をうろうろしていた太助。
その彼が食われずにいたのも、その神が彼を守っていたからなのではないだろうか。
それにあの神が体を奪う人間と言うのは、あの山で足を滑らせ動けなくなった人間であったり、迷い込んだ余所者だったりがほとんどだったらしい。
昔は信仰を受け、悪くはない付き合いをしていたふもとの村の住民と言うのは、荒んでしまった今となっても、あの神にとって大事なものだったのかもしれない。

あの村には帰るのか、と定信は太助に聞いた。
以前もう怖いし帰りたくないと言っていた太助だが、今は「うーん……」と言葉を濁していた。
「おっかないはおっかないんだけどねぇ。あ、先生知ってるか?うちの村、もの好きが住み始めたんだ、何人か」
「もの好き?」
定信がそう尋ねると、太助は「そう。もの好き」と笑った。
「なんでも、山の向こうの方であんま大きくはないけど、鉱脈が出たって話。あっこの山はそこまで標高ねぇし、そこの人間が人里に来ようと思ったら、あのあたりの山超えてこっちに下りてきた方が都合いいわけ。で、山下ったところに休める場所がありゃ、ちょうどいいだろ?」
「そりゃそうでしょうけど……あの山、うじゃうじゃいますよあいつら」
「うん。食われるだろうねぇ人が」
「……」
さらりと言い放たれた太助の言葉に、定信は黙り込む。
鉱脈が出た、という事はそこへ働く人間たちが大勢集まる事だろう。
犠牲は多く出るかもしれない。
黙る定信の顔を見上げて、太助も苦笑いをしてみせた。
「まぁ、だからまだ考えてるけど、悩んでる。帰って地主ヅラするつもりもねぇけど、勝手にされてもねぇというのが俺の複雑な心境」
まぁ、そうなのだろう。
定信は街中育ちで、故郷というものにもさほど思い入れはない。
だがこの男は、『くそ田舎』と言いつつも何だかんだで故郷を愛している気がする。
その鉱脈堀りがうまくいくようになれば、あのさびれた里は人が集まるようになるのかもしれない。


定信は、そんな数日前の会話を思い出していた。
地元を愛するあの男に、まだ「神の帰還」は話していない。
あの男はなんだかんだで、あの辺りに落ち着きそうな気もするが、全てはこれからだ。鉱脈堀りがうまくいくのかもわからない。しかしそこに人が集まれば、縄張りを広げるアレらにとっては格好の餌場となってしまう。あの神が山に戻ったところで、今更抑えられるものなのかも不明だ。
周囲の人々の状況は、少しずつ変化する。
ふと、この男はどうするのだろうと定信は廊下に立つ義成を見上げた。
「待つ」と言っていたこの男は、どうしていくのだろう?

「……あんたは?」

定信がそう言えば、義成の目がこちらを見た。
景伊と同じ黒い瞳だが、視線の強さの種類は全く違う。
「あんたは、とは?」
義成が少し、首を傾げる。
「いや、あんたはこっから先、どうしていくのかと思って」
「……大した人生は送らないだろうよ」
義成が目をふせて、定信の隣に座った。
「俺はこのつまらん家を引き継いで、聞き分けのない親戚まとめて、歳とっていくだけだ。何も面白いものはないさ」
「……あんまりつまらんつまらん言ってたら、佐知子さんに失礼だと思うけどさ」
定信は横目で隣に座った同年代の男を見る。
この男は、いずれ許嫁と結婚する。
この男があの女性の事を心の底でどう思っているのかは知らないが、佐知子は見かけによらず思い込みが激しく、勢いがある女性だ。行動力もある。変わった者が好きな男にとっては、退屈しない女性なのではと定信は思う。
「……俺なんかのどこがいいんだか」
「お前ら兄弟は俺なんかとか言い過ぎだ、めんどくせぇ」
自虐気味なとこは似てんだよなと言うと、義成は少し笑みを浮かべた。
「……あの人からもお見舞い貰ったよ。訪ねるのは迷惑になりそうだからって言って、俺に。気を遣わせてしまった」
「見舞い?」
「菓子、持って行っただろうが」
言われて、定信は「あぁ」と思い出した。
義成が頻繁に景伊の見舞いに訪れる中で、一度だけ嫌に繊細な箱入りの菓子を持ってきたことがある。
この男らしくないと思っていたが、どうやらあれは佐知子からのものだったらしい。
「言ったが、お前聞いてなかっただろう。それどころじゃなかったんだろうが」
「……申し訳ない」
それには、定信も素直に謝った。
「今度会ったらお礼言っといてくれよ」
「今度会うときは祝言だ」
「あー……そうなのか」
「もう互いに若くもないしいろいろあったから、身内だけでひっそりやるけどな。だからあいつに着物作ったんだ」
意外な言葉に、定信は目を丸くした。
余所行きにしろ、と言って手渡したあの紋付。
「景伊、呼ぶつもりだったのか」
「当たり前だ。あいつ呼ばない理由もないだろう。……嫌だって言ったら、無理強いはしないつもりだったが」
「そうか。……まぁ、おめでとう。祝いの酒は前飲んじまったから、また今度買うな」
「それは別にいい。俺はあまり飲めんし」
義成の言葉に、定信は噴出した。
そう言えば付き合いは長いくせに、二人で飲んだこともない。
「……俺からはおめでとうくらいしか言えねぇけど、あんたらは幸せになってくれよ。景伊もあの人ならって言ってた。あんたら二人が幸せにやってたら、あいつも喜ぶさ」
「……そうだろうか」
「そうだろうよ。あいつも見たかっただろうけどな、あんたと佐知子さんの祝言」
定信の言葉に、義成はため息をついて夕焼け色に染まった空を見上げる。
その男の横顔を見ながら、定信は思った。
この男だって、その姿を弟に見せたかったに違いない。
「……人の事ばっかり聞いてないで、お前はどうなんだ」
「俺?」
義成が目を細め、こちらを見ている。
「お前は納得しているのか?」
「するかよ」
定信は言い切った。
納得できるものでは到底ないが、それを飲むしか自分にはできはしないのだ。
ある意味、景伊の命があそこで助かったというのは、奇跡と呼べるものなのだろう。
だがそれに感謝する気には、定信はなれない。
しかし景伊はそれをすでに受け入れていて、すでに自分の中にいる者と歩む、と決めた。
だとすれば、自分はどうすればいいのか。
彼に最後まで付き合う、と決めた自分は。

「……俺さ、この町を離れようと思う」

定信の呟きに、義成は、目を見開いた。
「お前が?どこへ行くんだ」
まさかあいつに着いていくって言うつもりではないだろう?と義成は眉を寄せる。
「そりゃまぁ。俺が山まで行って役に立てるわけもない。餌が檻の中に飛び込むようなものだからな。だから、俺は山までは行けない。だけどふもとの村までは行ける。太助さんが言うには、新しい住民が出入り始めてるらしいんだ。山の向こうで鉱脈出たらしいから、あのへんも人がちょっとは集まってくるかもしれないし。僻地で医者ってのも、悪くないかなと」
定信は言いながらも、苦笑いを浮かべた。
自分も結局、父親と同じことをしていると思う。
自分を頼ってくれている、こちらも世話になっている人たちを捨てる様な形で、自分の都合で住まいを変える。
胸に罪悪感はある。でも自分は、そうしたいのだと思う。
「この町からじゃ、あの山は遠すぎる。出来る限り、俺は近くにいてやりたい。俺がそうしたい」
あいつの為だとかそういうものではなく、自分がそうしたいのだと、定信は思った。
たった一人で行かせたくはない。少しでも近くにはいたい。
だから、自分はそばにいる事ができるギリギリのところで、生きていたい。
「いろいろあったし、向いてねぇなと思う事もあるけど、俺はこれしか知らねぇし。この仕事はやっぱり好きだから、医者やりながら俺も待とうと思う」
「……手に職持ってる奴っていうのは、やっぱりいいな。どこでも生きていけそうだ」
義成は苦笑する。
「それを考えると、俺は何もない気がする」
「んな事もねぇだろ。あんたはやれば何でもできそうなのに、やる気がないのが一番の問題だ」
「あぁ……よく言われる」
義成は眉をしかめてこちらを見た。
「やる気がない」とは、耳にたこができるほど言われている事らしい。
複雑な表情を浮かべながらも、義成はこちらを横目で見た。
「……まぁでも、それもいいんじゃないだろうか。お前、何だかんだで腕はあるんだから、近くに医者もいないような田舎じゃ歓迎されるんじゃないか?住むところとか、いろいろ問題はあるだろうが」
「まぁ、それは今からおいおいと」
定信は笑うと、立ち上がった。
「そんな感じで、俺はやってくよ。多分あいつも動けるようになってるから、2、3日でこっちを発つことになるだろう。そんときに着いていこうと思ってる」
「いつかはまだわからない?」
「相手が気まぐれな神様なもんでね。景伊にもわからないよ」
「そうか」
義成は、立ち上がった定信を見上げる。
「……別れはすませたからな。これが、今生の別れというわけでもあるまい」
「まぁそう言う事だと、俺らは信じたいわけだが」
会えると言う確証もない。
だが自分達は、それを信じたいのだ。現実逃避と言われても構わないと思った。
「……本当に向こうで医者始めて、生活が落ち着いたら連絡でもくれ。俺もときどきは、近くに行ってやりたいから」
「あぁ」
言いながら、定信は景伊の姿を探した。
「そろそろ帰る。あいつ回収して帰るけど、あいつはまだ猫触ってんのか?」
「恐らく」
はぁ、とため息をついて、定信は廊下を歩きながら周囲を見渡す。
名を呼ぼうとしたとき、そばの部屋からちりん、と鈴の音が鳴り、例の白猫が出てきた。
見れば見るほど不細工な猫だなと思いながら、定信は部屋を覗き込む。
「おい景伊、そろそろ帰るぞ」
景伊は部屋の中に、背を向けて座っていた。
返事くらいしろ、と言いかけたところで、定信は妙な違和感を覚えた。
感覚が鋭いこの若者が、こちらの声が聞こえていないという事もないはず。
部屋に入り、景伊の肩に手をかける。
「……おい」
こっち向け、という前に、景伊がゆっくりこちらを振り向いた。
その拍子に、定信の心臓はどきりと跳ね上がる。

目の色が違う。

景伊のいつもの黒い瞳ではなく、そこでこちらを見ているのは、薄く色の抜けた様な灰色の瞳だった。
定信は、その色に見覚えがあった。
ざわりと、胸の内に嫌なものが満ちてくる感覚があった。