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町に潜む獣

18 手と手を繋いで

これは、光の加減だろうか?
定信はできればそう思いたかった。だが景伊の黒い瞳が光に透けたとしても、こんな色になるのを見たことがない。
──猫のような、灰色の瞳。
景伊は定信が肩を掴んでいるというのに、ぼんやりとした瞳でこちらを見ている。
「──おい」
力を入れて、肩を揺すった。定信の片手で掴める薄い肩。だが景伊は、寝ぼけているような目で見つめるだけだった。
「──おい!」
それが悪い事だとかなんだとか考える前に、定信のもう一方の片手は景伊の頬を強く引っ叩いていた。
乾いた音が室内に響く。
数呼吸ほど間があっただろうか。
「……いたい」
景伊が頬を抑え、こちらを恨みがましく見つめている。
「いきなり何するんだよ……」
「お前が呼んでもぼーっとしてるし寝ぼけたみたいなツラしてるからだよ!」
──だからと言って、普段は叩くまではしないのだが。
言い訳じみた事を言いながら、定信は内心ほっとしていた。
景伊の反応はいつも通りだ。目の色も、今は黒い色をしている。
一瞬見えた灰色の瞳。あれは気のせいだったのか?
「……確かにすごく眠いんだけど。だからって、叩かなくたって」
「叩いたのは悪かったけどな。……お前大丈夫か?なんかふらふらしてるが」
言いながら立ち上がる景伊は、確かに「眠い」のだろう。
とろんとした表情をして、心ここにあらずといった様子だった。

「どうした?」

こちらの様子を不審に思ってか、縁側にいた義成が部屋をのぞいた。
「……なんでもないです」
殴られた景伊は兄にちくるでもなく、そう答えた。言うと面倒な事になると判断したのだろう。
だが義成は景伊の様子を見るなり、少し首を傾げて室内に入ってくる。
「お前どこか具合悪いのか?しんどそうだが」
「眠いだけです」
「眠い?」
義成は景伊の顔を覗き込む。
「……病み上がりで疲れたか?少し横になって帰る?」
景伊は首を横に振る。
「今寝たら、朝まで寝そうです」
その言葉に、義成は笑う。
「いてもいいぞ。……お前の家なのに」
苦笑いする義成を見て、景伊は再度首を横に振った。
「──帰らないと」
景伊のそんな言葉を受け止めて、義成は小さく笑って景伊の頭を撫でた。景伊にとって、この家は未だに帰るべき家にはなっていない。義成と話をするようになってからはまめに帰っていたが、泊まる事はほとんどなかった。
食事を食べて帰る、という事もなかった。
迷惑にならない時間に行って、食事時になる前に帰ってくる。「お前はお客様か」というような関わり方を、彼はこの数年間していた。
義成がそれをどう思っていたのか、定信にはわからない。
ただ実の兄に遠慮ばかりしている弟に、罪悪感を感じているようではあったし、寂しさを感じているようでもあった。
「何かあったら、俺を頼れよ。役に立つかは別として」
「そういう、自信なさげなのはやめてくださいよ」
景伊はそう笑って言うと、義成に頭を下げた。
「……それでは兄上、お元気で」
「……うん」
頷くように言って、義成は景伊の肩に手を置いた。
「お前も元気で。……また来いよ」
義成の、静かに語りかけるような言葉に頷いて、景伊は義成にもう一度頭を下げると、背を向けた。
「……じゃ」
先を行く景伊の背を見て、定信も義成に短く、片手を上げて声をかける。
「あぁ。お前も気を付けて」
定信は頷くと、景伊の後を追った。
長い廊下を歩く景伊の足取りはしっかりしていたが、その表情は未だに眠そうだった。


外に出た景伊の腕を、定信は握る。
景伊はそんな定信を怪訝な目で見上げてきた。
「……なに?」
その目は「いい年こいた男同士が往来で手なんか繋いでどうするのか」という様子だった。
「いや、なんていうか」
定信だって、それは思う。夕方とは言え、まだ人通りのある通り。
気恥ずかしさがないわけではないのだが。
「寝ぼけたお前はあちこちぶつかるしずっこけるし、怖いから」
「……そこまで馬鹿じゃないつもりなんだけど」
「いや、そうだから。大人しく握られとけ」
そう言うと、景伊は何も言い返してこなかった。
普段なら恥ずかしいからやめろとか、お前馬鹿じゃないのかとかなんだかんだと小言を言って嫌がるのだろうが、今は大人しく手を繋がれている。
本当に眠いのだろう。
自分の半歩後ろを、のろのろとついてくる若者を見ながら、定信は眉を寄せた。
確かにぶつかったりこけたり。それが怖い、というのはある。だがそんなものは、ただ寝ぼけてやっているのであれば「お前何してんだ」と笑う事ができるものだ。怪我さえしなければ。

ただ、今は違った。
景伊の雰囲気がおかしい。

それは定信が見ていてそう思うほど、唐突な眠気であるように見える。
先ほどまで、景伊は普通に話していた。その後は一人で猫を撫で繰り回していたのだが、それからだろうか。
しばらく、定信は義成と話し込んでいたので気付けなかったが。
眠さからか、無口になった景伊の腕を引いて、定信は歩調を合わせながらゆっくりと道を行く。
平静を装いながらも、手はじっとりと汗をかきはじめていた。
恐らく今の自分の手のひらは、景伊にとっては不快だろう。だが景伊は何も言わなかった。
少し俯いて、黙って手を引かれている。
心にあるのは、恐怖だった。

(お前、行ってしまうのか?)

定信は歯を噛みしめる。
景伊はそう遠くないうちに、必ず行くのだと言っていた。それがいつになるかは彼もわからないと言ったが。
あの灰色の獣のような瞳は、以前見た「神」の目を思い出させた。

待ってくれ、と思う。
心の準備ができていない。
いや、準備する時間ならあったはずだった。事前にそうなる、と一番自分は詳しく聞かされていたではないか。
景伊は行くと決めた。
本心は別としても、そう決めたのだ。
自分がそこで足を引っ張ってはいけないはずだった。
ここで自分が駄々をこねたところで、景伊を困らすだけだというのはわかっているのに。
ぎゅ、と少し力を入れて手を握ってみた。
景伊は痛くないのか、何も言葉を返してこない。

夕暮れの町の往来は賑やかだった。
夕飯の準備時なのか、あちこちで炊事に匂いがする。

早く家に帰りたいはずなのに、足が鉛のように重かった。ざわつく町の人通りの歓声も、全く耳に入ってこない。

(俺にどうしろと?)

こんなとき、自分はどうすればいいのだ。
受け入れろと?
この愛しい存在を諦めろと?
呪いたくなるような相手に差し出せと?

手を放せば、終わってしまう気がした。
それこそ風のように、持って行かれてしまう気がした。
だから往生際悪く、手など握っているのだ。

(──このまま、こいつをどこかに閉じ込めて)

そんな暗い思いも浮かんだ。
出口もないようなところに閉じ込めてしまえば、こいつは行かなくてもいいのではないか?

だがそんな黒い事を考える自分に気づいて、定信は舌打ちをする。
それは最もしてはならない事だと、同時に思った。
自分の気持ちのために、景伊の自由を奪う。それでは意味はない。自分は、この若者にいろいろな世界を見せてやりたかったはずだった。
己だけを見ていればいいなどと、そんな浅はかな感情は屑だ。
体裁を考えて景伊の少年時代を奪った、あの家の人間とこれでは同じになってしまう。
屑だ、と定信は自分に対して小さく呟いた。
どれだけ阿呆なのだ。未だに自分自身の事ばかり──。

「──別に閉じ込めなくたって、帰ってくるよ」

突然景伊の口から呟かれた言葉に、定信は驚いた。
「……お前、当たり前のように言葉返してくるなよ」
己の心を読まれたのだと思った。定信の苦言に「ごめん」と一応謝った景伊は、眠たげな眼をこすりながら、定信を見る。
「鎖はつけてもらわなくても、帰るところはわかってるから、戻れるならちゃんと帰るよ。帰れるかどうかわからないから約束できないけど、俺はそう言う気持ちでいる」
「……」
「帰るなら、お前のところに真っ先に帰るから」
「……義成のところじゃなくて?」
「……お前は真っ先に顔見せないと後でうるさい。だから最初に行く。そのあと、一緒に兄上のところに行けばいい」
あのひとはちゃんとわかってるよ、と景伊は言う。
それではまるでこちらがわがままな駄々っ子のようではないかと反論しかけたが、大して変わらないなと定信は思い直した。
「だから、手を握ってもらわなくても大丈夫だよ。俺は帰る場所を忘れたりはしない」
「景……」
名を呼びかけて、定信ははっとした。
見上げる景伊の瞳。それはまた、あの不気味な色に染まっている。
「……つとめを、はたしてくるからね」
景伊はその目の色のまま、穏やかに笑った。
──行くのか。
そう思ったのに、声が出てくれなかった。
待ってくれ、と叫びたかった。
お前はまたこんな他愛もない会話を交わして、俺の目の前から消えるのか。
定信は足を止めた。

まて。
まってくれ。
様々な感情が一気に溢れ出してきて、どの言葉を選べばいいのかわからない。
時間が止まったような感覚だった。
周りの雑音も聞こえない。
景伊は静かに笑っている。
お前はこんな表情もできたのかと思うほど、柔らかく穏やかな笑みだった。
反対に自分は、今ひどく情けない顔をしているのだろう。

「──またね」

呟かれた言葉は、ずいぶんとそっけないものだった。また数日後にでも会う約束をしているような響きだった。
「景伊!」
やっと出た声で叫んで、その手を強く握ろうとしたが、定信の手のひらは空を掴む。
瞬きした次の瞬間には、景伊の姿はどこにもなかった。
煙のように跡形もなく。
定信は呆然と、さきほどまで握っていた手のひらを見つめた。
まだそこには、人肌の温かみが残っていた。

──音が戻った。

我に返ると、定信は町の往来の中で立ち尽くしていた。
愕然とした顔で立ち尽くす、上背のある赤毛の医者を、人々が怪訝な顔で一瞬見ては通り過ぎていくのがわかった。
この手を振り切って、というものでもない。
もぎ取られたのでもない。
本当に彼は、風にように消えてしまった。まるで最初から、そこにいなかったかのように。




それから後の事は、呆然としていて記憶にほとんど残っていない。

気が付けば日も落ちた暗闇の中、定信は自分たちの暮らした屋敷に戻っていた。
利秋や屋敷にいた太助が、己の表情を見て何事かと声をかけてきたが、そこは当たり障りなく事実を説明したのだろう。
彼らは驚きはしたが、予想もしていたのか、定信が説明に困る事もなかった。

暗い中、定信は景伊の部屋をのぞいてみる。
勿論そこには彼の姿はなかったが、部屋はそのままになっていた。元々私物の少ない若者ではあったが、部屋の中はきちんと整理されていて、何かを持ち出したという様子もない。
義成から貰った紋付。
あれだけ、後生大事に握りしめていたからか、景伊と一緒に姿を消していた。
義成の気持ちは持って行ったのだろう。それくらいは許されたという事なのか。
きっとあの着物を、おいそれと着はしないだろう。
好きな食べ物は後に取っておくし、本当に大事なものはまとめて箱に入れて隠しているような性格だ。
どこに置くのかは知らないが、きちんと大事に取っておくのだろう。宝物として。
俺も何か持たせてやればよかったとか、あのとき殴らなければよかったとか、後悔が生まれる。
義成にはあの後、景伊が去ったことを告げに戻った。
義成は短く「……そうか」と言っただけだった。
すでに別れはしてあったからか、急だったなというだけで、狼狽えはしなかった。
この男も本心を押し隠すところがあるから、悲しむ素振りが見えないからと言って、動揺していないわけではない。
それはわかるから、定信も「もっと何か言え」と怒る事はしなかった。

心の内に、空白ができたような感覚だった。

何もする気が起きないと言うのが事実だったが、ここで泣き暮らしていればそれほど情けない事もないだろうと思えた。

屋敷の門を叩く音がする。
しばらくすると応対していたらしい利秋が、部屋までやってきた。
「急病人らしいんだが……どうする?行けるか?」
遠慮がちな物言いだった。
しばらく無言で見つめ合う。
「お前が動揺して手元狂うくらいなら、行かない方がいいと思うが」
「……それはありません」
定信は深い息を吐き出して、答える。
自分はあの若者の運命を変えてやる事ができなかった。
本人も周りもそれを望んでいた、「普通の暮らし」すらさせてやる事もできなかった。
だからこそ、自分の手で誰かの命を救えるなら、全力でそうしたかった。
ただ嘆くだけの時間は終わっている。
もう、一生分嘆いた。
己は医者なのだ。その仕事こそが己の誇りであり、自身を形作るものだった。

「すぐに準備して向かいます」

定信は躊躇うことなく言った。
覚悟を決めて去った景伊に、情けない姿などさらせるはずがなかった。