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町に潜む獣

06 景伊と潮津

もうすぐ日が暮れる。
景伊は定信の残した置手紙を握り、誰もいなくなった道場の空き部屋の壁にもたれて座っていた。
すぐ戻るなんて大嘘だ、と景伊は呟く。
どれだけ待ったのかわかりゃしない。
しかし心はいろいろな不安でいっぱいになり始めていて、待ち時間が長いとは思わなかった。
外が暗くなってきているのを見てはじめて、どれだけ時間が経ったのか自覚する。
己の中で、声がした。

──探しに行った方がいいんじゃないか?

景伊は首を横に振る。
駄目だ。利秋さんとの約束だ。一人で動くなと言われてる。
もしかしたら、治療が長引いているだけかもしれないし。
一人でうろうろしたら、それこそあいつは怒るかもしれない。

──でも、何かあったのかもしれないじゃないか。

「……」
景伊は唇を噛む。
恐らくこの手紙は、自分が心配しないように定信が残した物だ。
多分そのときは、すぐに戻れると思っていたのだろう。
自分の匂いが染みついているあの男を、あいつらが進んで食いたがるとは思えない。
しかし一瞬、この部屋の中にアレの残り香はあった。
自分の鼻を信じるのであれば、アレは確かにここに来ていた。
もしくはここの人間たちと、どこかで接触したという事。
──どうすればいいんだろう。
わかりやすく目の前に現れてくれるなら、まだやりようもあるのかもしれない。
しかし天敵とも言える自分の前に、あっさりとアレが姿を現すわけもない。
どうしたらいい。
景伊は頭を抱える。
己の行動に自信がなかった。
どうすれば最善だ。
今ここで自分が行動を誤れば、悪い結果が待っている可能性だってある。
自分がしっかりしなくては、と景伊は思った。
いつも散々助けられ、世話をかけている自分が、今このときはしっかりしなくては。
拳に力を籠めて握った。

「おい景伊。先生、まだ戻らんか?」

突然潮津に部屋の入り口から声をかけられ、景伊は顔を上げる。
「まだです……すみません、もう日が暮れるのに」
「いいさ。俺も予定はないから、最後まで付き合うよ。お前も暇なら道場の掃除でも付き合わんか?好きだろ掃除」
「……好きですけど」
今は掃除に集中できるわけがない、と思った。
だが潮津が一人で掃除しているのなら、こんなところに座っているわけにもいかないというのも事実だった。
彼は塾頭。自分は下っ端。
だが、やるとも嫌とも景伊が言う前に潮津は行ってしまう。
少し迷ったが、景伊は腰を上げた。

道場の中は薄暗く、がらんとしている。
いつも誰かが大勢いて、声が響く空間。
そこに二人しかいない、という状況は、景伊の心を少し不安にさせた。
ひやりとした床に足を踏み入れれば、潮津はすでに掃除を始めていた。
丹念に、床を雑巾で拭いている。
「……いつも掃除、一人でされてるんですか?」
塾生達でざっと掃除はしているが、潮津のように隅から隅までを気にするような掃除はしていない。
随分手馴れているなと思って、景伊は言った。
潮津はこちらを見て、にやりと笑うと雑巾を一枚放り投げてくる。
「お前らが帰った後にね、大体ざっと。俺も道場預かってる立場だからね。綺麗にしておかんと」
一応剣術師範と言える人間はいるのだが、高齢だった。
週に何度か姿を見せるが、基本的に道場で指導したり実質的な責任者となっているのはこの男だった。
元々ここの塾生で、腕と人柄を買われて鍵まで預かっているのだから、人望はあるのだなと思う。
景伊も黙って、放り投げられた雑巾を拾う。
床の汚れている部分を拭いていると、潮津が手を止めて、こちらを見ているのに気付いた。
「……なんですか?」
「いや、ね。お前はどうして、剣術始めたんだろうって思って。うちには塾生たくさんいるが、お前は少し変わっているから気になる」
「……目立ってますか俺」
景伊は少し、眉を寄せた。
集団の中で浮いているとか、そういう事を言いたいのかと思ったのだ。
潮津は悪い男ではない。皆と仲良くしろとか、まめに世話を焼いてくれる。
だがその事を感謝しつつも、少し煩わしいと思う事もある。
自分はそこまで「できない奴」と思われているのだろうかと思うと、自覚はしつつもみじめな気持ちになった。
だが潮津は、説教のつもりで話しかけたわけではなかったらしい。
「怒ってるわけじゃなくて、俺のただの興味」と前置きして言った。
「悪い意味じゃなくてな。お前は真面目だし、筋もあると思うよ。義成の事知ってる連中は、さすがあいつの弟だなんて言ってるし」
「そうですか」
景伊があまり反応を示さなかったからだろうか。潮津の顔が少し曇った。
「……もしかして、兄貴を引き合いに出されるのは嫌だったりするか?」
予想外な言葉が飛んできたので、景伊は顔を上げて慌てて首を横に振った。
「そんな事ありません。嫌も何も、兄の方がいろんな面で勝ってるのは事実ですし。俺じゃ一生かかっても敵わないだろうなって思ってますから」
「……お前はなぁ」 潮津がため息をつく。
「そういう卑屈なところは良くない。まぁ義成は確かに要領良い奴だから、何でもちゃっちゃとできちまう男だよ。そういう奴はたまに世の中にいる。同じ時期に物事始めても、あっと言う間に成し遂げて去っていく奴。こっちはまだそこまでたどり着けてないっていうのに」
そこまで言うと「俺も卑屈だなぁ」と潮津は苦笑いをした。
確か、潮津と義成は幼馴染だったのだという。兄の義成は潮津の前に、この道場で塾頭をしていた。
景伊は二人が共にいるところを見たことはないのだが。
「まぁ、俺の話はいいとしてだ」
潮津は咳払いして、景伊に向き直る。
「なんで剣術やってんだろうなぁと思う時が、お前にはある。好きでやってるのもわかるんだけどな。ここ、いろんな奴がいるだろう?剣術で身を立てたいとか、こんな世の中で勝ち抜くためにとか。……家の名背負って来てるのもいる。お前、勝っても負けてもあまり反応変わらないから」
「顔に出ないだけですよ。負ければ悔しいです」
そう言えば、潮津は笑った。
それ以上深く聞いてくる様子はなかったので、景伊は黙々と床を拭く。
──自分が剣術をはじめた理由。
おおもとの始まりは、利秋の勧めだった。
何もしていなくて、体も丈夫ではない。少し鍛えた方がいいかもしれない。
そんな、単純な理由。
──あと、友達つくってこい。お前と歳近いのがいっぱいいるから。
利秋はそう言った。
どちらかと言えば、そちらの方が比重が重めだった気がする。
彼らは自分達だけではなく、大勢の人間と接して来い、と景伊に言った。
勧めを断る理由もなかった。何もできない自分の事は嫌いだった。剣術を習えば、何かが変わるかもしれないと思った。
強くなれば兄は、褒めてくれるだろうか。
そんな下心があったのも、確かだと思う。
──あとは。
「……俺、よく定信の仕事にくっ付いて回ってて」
少し長く続いた沈黙のあと、ぽつりと漏れた景伊の言葉に、潮津が視線をこちらに寄こす。
「定信としては俺があまりにも世間知らずなので、いろいろ見せたいって気持ちがあったんだと思います。ただ、あいつすごく気が短いでしょう?」
「でしょうって言われても、俺は真面目な先生しか知らんから」
「真面目だけど、頭に血は上りやすいんです。喧嘩ふっかけられたりふっかけたりがしょっちゅうでした」
「想像つかんなぁ」
へぇ、と唸る潮津を見て、景伊は笑った。
「それ見て、『あぁこいつ命がいくつあっても足りないな』って思いました。医者なのに、俺なんかよりよっぽど侍が向いてます。喧嘩も強いんですよ。体も大きいし。ちぎっちゃ投げ、です。最近は落ち着いてきましたけどね」
景伊は少し、苦い笑みを浮かべた。
今はいない男。
ずっと待っているのに、帰ってこない男。
「あいつが心配だったから始めた……なんて言ったら、あいつはきっと怒るんでしょうね。馬鹿を言うなって」
──んなもんいらねぇよ。
きっとそう言うのだろう。
お前に心配されるほど落ちぶれちゃいない、とか言うに決まっている。
手に取るようにわかった。
だから言わない。
危なっかしい生き方をするお前が心配で、お前の助けになるような男になりたかったから。
だから似合わないなんて言われても、強くなりたいと思ったのだ。
兄の事は好きだけど、お前から離れるつもりもない。
そう言っても、定信はなかなか信じてくれない。
疑り深いのだ。己もそうだが。
だから、怒らせるだけだから。殴られるのも嫌だから。
自分は言わないと思ったのだ。
こんな理由は、己の中に秘めておいた方がいい。

「お前らは、本当に仲が良いな」

潮津は景伊を見て笑う。
「じゃあ心配だろう?先生の事」
汚れた雑巾を隅に置くと、潮津は立ち上がった。
もう掃除を終えるのだろうか?
そう思っていると、潮津はこちらへ歩いてきた。

「なぁ。お前、先生の居場所知りたいだろう?」

潮津が目の前に立つ。
この男は何を言うのかと、景伊は目を丸くした。
「──居場所?」
目の前に立つ男の威圧感に、景伊は無意識のうちに後ずさった。
あのとき、潮津に触れられたときに一瞬感じた、アレの匂い。
それはどこかで、この男がアレと知らずに触れ合ったせいだと思っていたが。
景伊も、ゆっくり立ち上がった。
潮津は景伊の目の前に立っている。
「……貴方は何か、定信の事を知っていますね?」
潮津は答えなかった。
ただそこに、いつもの人の良さそうな笑顔はない。
険しい顔で、こちらを見下ろしている。
この人は、潮津そのものだ。自分をからかっている様子もない。
アレが潮津のふりをしているわけでもない。
匂いは潮津そのものだ。
景伊は困惑していた。
──何故この男が、定信に手を出す必要がある?
どうして。
「景伊。一つ、勝負をしよう」
潮津の声は落ち着いていた。
笑顔はないが、いつも自分に話しかける様な声の様子だった。
「俺とお前で剣で手合わせをして、お前が勝ったら先生の居場所を教えよう。ただし俺が勝ったら。そのときは、わかるだろう?」
「……」
一度も勝った事のない男との勝負。
それがどんなに自分にとって勝ち目のないものか、景伊にはわかっていた。
背の高い大男を、景伊は下から睨みつける。
「……貴方は善良な人だと思っていたけど、違うんですね」
拳を握りしめ、景伊は言った。
不思議と恐れはなかった。
この男がアレとどういう関係なのか、今はわからない。
だが。

──俺から、あいつを奪うな。

ふつふつと、そんな怒りが心の内にわき始めていた。