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町に潜む獣

07 再会と過去の約束

じんじんと痺れる手首を握って、定信は疲れ果てたように壁にもたれこんでいた。
蔵の中で見つけた農作業用の鍬は、途中で壊れた。
元々古いものだったし、本来は畑の土を耕すためのものだ。
つるはしなどとは強度が違う。
しかし、必死に壁に叩きつけた結果、穴は開いた。
己の腕がようやく通るほどの、小さなものだったが。
これでは体ごと抜け出る穴など、いつ開けれるのかわからない。道具もないし手掘りか?
そんな事を思うと、どっと疲れがやってきた。
座った目線と同じ高さに開いた、拳大の不格好な穴。
そこからは外の様子が見える。
しかし日は落ちていて、辺りは暗く人がいる様子は全くない。荒れた空家の周囲には背の高い雑草が生い茂り、風と共に不気味なざわざわという音をたてていた。
穴から、外のぬるい空気が吹き込んでくる。
ちらりと、できるだけ気丈に考えないようにしていた「不安」が顔をのぞかせる。
「……駄目だ」
だがそれに反論するように呟いて、定信は拳で土壁を叩いた。
こうなったのも、己が阿呆だったからだ。
やすやすと騙されて、大事な人間を危険にさらす。
意地でもここから出ねば、と定信は再び立ち上がろうとした。
爪が剥げようがなんだろうが小さかろうが、穴は開いたのだ。
時間はかかるかもしれないが、必ずここから出てやる。

そう思ったときだった。

壁の向こうから、何かカサカサとした音が聞こえる。
生い茂った雑草を、踏みつけているような。
(……人?)
ただの人なら、助けを求めたい。だが。
(──俺を閉じ込めたあいつが戻ってきただけなら?)
そう思うと、出かけた声が引っ込んだ。
穴から覗くが、暗く様子がよくわからない。
何か息遣いもする。
人ではないと思った。人にしては足音が軽い。
(……獣?)
定信が息を殺して穴をのぞこうとした瞬間、何かがにゅっと穴からのぞいた。
「う……っ」
思わず叫びかけた声を、口を押えて必死に押さえる。
「……」
暗い中、目をこらしてよく見る。細長い何かが、外からこちらへ突っ込まれている。
ふさふさとした毛。はふはふという荒い息。……獣。
いきなり穴からのぞいたもの。

それは──犬の長い鼻先だった。

野犬かと思ったが、こちらに敵意はないらしい。
ふんふん鼻を鳴らして、引っ込んだかと思えばまた鼻先を突っ込んでくる。
人慣れしている様子だった。飼い犬かと思っていると、がさがさと今度こそ人の足音が近づいてくるにに気が付いた。
「おいマチ、急に走り出してんじゃねぇよ……」
ため息交じりの声。中年にさしかかった男の声。
その声に、定信は聞き覚えがあった。
それに犬の名。マチ。
「……太助さん!」
「……あ?」
男が突然蔵の中から聞こえた自分を呼ぶ声に、怪訝な声を出す。
のそのそと近づいてきたその男は、相変わらず鼻先を穴に突っ込んでふんふん言っている犬を抱えてどかし、こちらを覗き込んできた。
「……先生?」
太助も定信の声に聞き覚えがあったらしい。
穴を、手にした提灯で照らす。
ぼわりと浮かび上がった明かりの中で、しばらく前にこの町を発った男の顔が見えた。
「え?こんなとこで何遊んでんだよ」
いまいち状況が理解できていないだろう太助は、気の抜ける様な事を言い出す。
「遊んでるように見えますかこの状況が……」
定信はため息をついた。
だが、ここで知人と再会できたのは心強かった。
「事情は後話しますから。ここの戸開けれないですか?」
「戸?……ちょっと待ってよ、見てみる」
そう言いながら太助が表に回る。マチはまた穴に顔を突っ込んできた。
あまり鳴かないこの大きな犬は、壁に開いた穴と、中に何かいる状況、というのが面白いのだろうか。
ふんふん鼻を鳴らし、湿った黒い鼻をべろりと舐める。
「あー……ありがとなマチ。一応礼は行っとく」
犬に通じるのかわからないが、定信はそう言った。
自分の匂いに反応したのかなんなのか。あまり自分はマチには好かれていなかったようだし、なんとなく知った匂いに反応しただけかもしれない。
そんな話をしている間に、太助が扉をいじっているのか、がちゃがちゃと何やらやっている。
「だーめだ先生、鍵が開かん。これ開けれるような道具、今俺持ってねぇんだよ」
がすん、と扉を蹴り上げる様な音がした。
「……太助さん、ちょっと帰ってきて早々頼んで悪いんですが」
「利秋の旦那とかに知らせりゃいいんだろ?いいよ、寄るつもりで来たから」
「それもお願いしたいんですけど、先にこの近くにある剣術道場に寄ってきてほしいんです」
「は?」
「景伊置いてきてるんですよ。すぐ戻るとか手紙書いてきちまったんで、多分あいつまだ待ってる。……俺閉じ込めたのも、あの化けもんです。一人にしておきたくない。何かあってからじゃ遅い!」
「まじかよ……」
「お願いします!」
「……わかったよ。で、その道場ってのはどこにあるんだよ」
そういえば、この男は地元者ではなかった。
「土手上がって、橋渡って、まっすぐ行ってください。周りよりでかい平屋の建物が見えてくるはずです。それです」
我ながら適当な説明だと思う。
「道自体はちょっとわかりにくいですが、建物見えたら目指して行って下さい!」
「まぁ、迷ったら人に聞くわ。また人の家で駆けまわったらたまったもんじゃないから、マチは置いてくよ。ここにいろよお前。先生見張っとけよ!」
そう言うと、太助は走って土手を駆け上って行った。
自分が行けないのが歯がゆい。
畜生、と再度壁を殴れば、また穴からマチが鼻を突っ込んできた。
ささくれ立った心が、少し和む。
狐のように長い鼻先だけで、顔も姿もよく見えないのだが。
「……しかしお前は鼻がいいな。景伊とどっちが鼻がいいだろうな」
手を伸ばして鼻先を撫でると、がぶりとやられた。
「……」
血は出ない。
痛くもないが。
「お前、絶対俺の事嫌いだろ……」
マチはふん、と鼻息をもらす。
それは返事か、と定信は思った。
やはり犬は嫌いかもしれない。



「真剣だったら、お前三回は死んでるぞ」

潮津の言葉に、景伊は痛みをこらえて転がった竹刀を握った。
歯を食いしばって立ち上がる。
一度目は肩。二度目は胴。三度目は手首。
打たれたところが熱を持ったように、じんじんと痛む。
この目の前の塾頭は、どうしようもなく強かった。
何度か剣を交えたことがあったにしても、それはあくまで稽古でしかない。
始めて数年の自分が、道場を預かる男に勝てるなど、そんな事現実的にあり得るわけがない。
特別才能があるわけでもない。
筋があると言われても、それだけだ。
頂点にたどり着けるような人間ではない。中途半端に、そこそこできて終わる。
その程度の人間なのだと、景伊は思っていた。

「お前、怪我するぞ」
「……言ってる事とやってる事がめちゃくちゃですよ」

潮津の言葉に、景伊は反発を覚えた。
胴着も付けていない。
男の強い打ち込みは、己の体に直接響く。
最後に打たれた手首は、竹刀を握る手の力を奪っていた。
肉体的な強さでは全く敵わない。
潮津のような体格の良さ、力の強さが己にはない。
では技術は?
それすら及ばない。
──運。
まぐれとかそういうものを、この男が自分に許すだろうか。
そんな隙もないような気がした。
勝つ要素なんてどこにもない。
でもこの男は、定信に何かあったのか知っている。居場所を知っている。
そう匂わせた。
それが冗談ではないというのなら、景伊はこの男から引くわけにはいかないのだと思った。
例え勝ち目がなくとも。

「俺を気遣うような事を言っておいて。……あなたが何をしたいのか、全くわからない」
景伊の言葉に、潮津は答えなかった。
潮津は景伊を恫喝することもなく、ただ淡々としていた。
そこにいつものような、人の良い笑みがないだけ。
どこか心が痛む、という様子さえ感じる。
「……お前はその必死さを、いつもの稽古のときにも出せばいいんだ」
普段の説教のような口調だった。景伊は眉を寄せる。
「俺が勝てなかったら、どうするつもりなんですか」
「わかるだろう?こういうときどうなるか」
「わかりません」
「……」
真顔で即答した景伊に、潮津が少しがっかりしたような顔をした。
常識を察することが苦手な景伊に、言葉を濁した事を後悔しているような顔だった。
話せば、そこには普段通りのような雰囲気が現れるのに、どうしてこうなってしまったのか。
景伊はよくわからない。
何が目的だと言うのか。
「私怨ですか?」
景伊の言った言葉に、潮津が少し目を丸くした。
「定信が嫌いですか?それとも俺が」
「お前らの事は、気に入っていたよ」
「じゃあ何故」
「お前らに恨みはないが、私怨と言えば私怨だ。できればこんな事はしたくなかったが」
「──なら少し、安心しました」
「何が」
景伊は目の前に立ちふさがる大きな男を見上げる。
「貴方からすごく嫌な臭いがしていた。一瞬でしたけど。そんなものとつるんで何かしようとしてたくらいなら、私怨の方がまだ可愛いですから」
潮津の表情が、少しだけ固まった。
この男は正直な男だ。
何か思い当たるような事があったのだろうか。
景伊は続けて言う。
「……潮津さん。あなた、何かおかしなものと出会っていませんか?」
そう言った瞬間、ひゅんと音がして竹刀が首元に突き付けられた。
潮津は答えなかった。
大事なところにはいつも答えない。
「……答えないという事は、間違っていないって思ってもいいですね?」
「お前は変な奴」
潮津が少し苦々しい顔をした。
「全然怖いって顔をしない。このまま俺が喉突いてたら、ただじゃすまなかったぞ」
──まるで死ぬのが怖くないみたいな顔をする。
変な奴だ、と潮津はもう一度言った。
「肝が据わってるのか馬鹿なのか」
「……どちらかと言えば馬鹿、でしょう」
「お前は」
潮津の手が伸びた。 荒々しく景伊の胸ぐらを掴むと、そのまま力に任せて床に押し倒す。
固い床に背中から叩きつけられた衝撃に、ひゅう、と肺から息が漏れた。
「……俺をおちょくっているのか」
伸し掛かる潮津の顔には苛立ちがあった。
痛みに顔を歪めながら、景伊は潮津を見上げた。
「……おちょくるつもりなんてないですが」
不思議なほど、頭は落ち着いている。
恐怖はなかった。あるのは疑問だけだ。
この男に何があったのか、景伊にはわからない。
ただ、この男と「アレ」は何か関係していた。
「アレ」とこの男は協力して、自分たちを引きはがそうとした。
別々に屠るつもりか。
そう考えると、定信の事が心配でならない。

あいつは今どうしている?
別れてからかなり時間も経っている。自分達を離して、それで……。
別々に殺すなんて計画だったら?
もし本当にそうなっていたら。あいつに何かあったら。
──俺はどうしたらいい?
あいつの力になりたくて強くなりたかったのに、こんなあっけなくつぶされて。
自分も周りも、あんなもの達に振り回されて終わってしまっていいのか。

「景伊」

潮津が短く名を呼ぶ。
「……恨むなよ」
のし掛かった男の腕が、景伊の首へ伸びる。
「手合い」などではない。勝負でもない。
この男は自分を今、殺す気でいる。
(いつもそうだ)
景伊は伸し掛かる男の顔の遥か上、薄暗い道場の天井を見上げる。
いつもいつも、自分以外の何か。
それに、自分の運命は委ねられていた。自分以外の何かに蹂躙されていた。
今は命さえ勝手に終わらされようとしている。

認めることはできない子だとか。
外に出せば都合が悪いから、隠して飼うとか。
情けで生かしておいてやっているんだとか。

そんな事情、自分にとっては知ったことではなかった。
そんなのは周りの大人の事情だ。納得できるものではなかった。
ただそれを飲むしか、生き延びる方法がなかっただけ。
ふと、随分昔にした、定信との会話が甦る。
怪我も良くなってきた頃、恩を返せないと言った己に、定信は「そんなのいい」と言いつつも納得しなかった自分に、仕方なく言った。

──そうだな。お前がもうちょっとでかくなって、俺が困ってたら、そのときは助けてくれ。それでちゃらにしよう。いいだろ?

みすみす殺されるわけにはいかない。
恩を返す時は今しかない。

潮津の指が、景伊の顔に触れた瞬間。
その指を──景伊は噛み切る勢いで噛みついた。
「っ……!」
潮津が反射的に手を引いた。
だが離さない。
深く噛みついて、相手の血が口の中に溢れても景伊は噛むのを止めなかった。
潮津の片手が景伊の顔を殴り飛ばす。
容赦もない拳に顎が砕けるかと思ったが、一瞬暗転しかけた意識を必死にこらえ、潮津の顔を蹴飛ばす。転がるように男の下から逃れると、床に落ちた竹刀を握り、景伊はそれを潮津に向ける。
双方の荒い息が、広々とした空間に響く。
潮津の右手中指から、鮮血がぼたぼたと流れ落ちていた。
指の腱くらいは噛み切ったのかもしれない。
傷口を押さえ、潮津が憎々しげにこちらを見た。
「……お前は獣か」
その言葉に景伊は返事をするように、口の中に溜まった相手の血と、己の歯を噴き出した。
殴られた拍子に奥歯が折れていた。
「躾もなってないな」
「……よく言われますよ」
怒りをはらんだ潮津の声に、景伊も挑発的に答えた。
手段なんて選んでいる場合ではない。
自分は負けるわけにはいかないのだ。
絶対に勝つ。
勝って、この男から定信の居場所を聞き出す。
そんな思いで、景伊は男を睨みつける。
勝つ。そしてこの男を惑わした化物も、必ず見つけ出して殺す!
殺気立った空気の中で、互いに竹刀を構えたときだった。

「──お前ら待て!」

道場に別の男の慌てる様な声が響き渡った。
よく知る男の声だった。
潮津も景伊も、道場の入り口に目をやる。
薄暗くなった道場の入り口で、こちらに身を乗り出している男がいる。
利秋だった。
「なにしてんだよお前ら……」
惨状を見渡して、利秋が道場に上り込む。
その後ろには。
「義成……」
潮津が呟く。
利秋の背後にいた義成は、利秋を片手で制すと、黙ってこちらへ歩いてきた。
利秋がここに来るのはわかる。
帰ってこない自分たちを心配したのかもしれない。
だが景伊には、何故兄まで共にいるのか、わからなかった。
「……こんなもの手合いですらない。どちらも竹刀を下ろせ。離れろ」
道場に響いた義成の声は、静かだった。
潮津はしばらく、現れた義成をじっと見ていたが、口元に小さく笑みを浮かべると竹刀の矛先を、景伊から義成に変える。
「お前は本当に、要領よくいいときに現れるな」
潮津は血塗れの手で竹刀を握り、義成に突き付ける。
ぱたぱたと、未だに止まらない血が床に染みをつくっていた。
義成は、その様子を一瞥すると眉を寄せる。
「景伊、下がってろ。利秋さんのところへ行け」
「……でも」
自分でも何を言いかけたのかわからない。でも、これは自分がやらねばならない事のような気がした。
兄に助けられていいものではない気がした。
だが義成は、「いいから下がれ」と景伊の意地を許さない。
「こいつの相手は俺がするよ」
まずは話を聞かせてもらおうか、と義成は潮津の正面に立った。