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町に潜む獣

08 手紙の差出人

「景伊、大丈夫か?」
道場の入り口付近に立つ利秋の言葉に、景伊は無言で頷いた。
なんとなく煮え切らない。しかし兄の判断は正しいのだろう、と景伊は思う。
自分がどれだけ必死になろうと、潮津に勝てる可能性は低かった。
──冷静にならなければならない。
自分を落ち着かせるように深く息を吐くと、口の端からたらりと血が垂れた。
「お前、まだ血出てるじゃねぇか……どっか切ったか?」
利秋は、景伊の顔の血を取り出した手拭いで拭う。
……ごしごしやられて、かなり痛い。
「奥歯が折れただけです」
「奥歯ぁ?そりゃ痛ぇなあ。あーあ、顔も腫らして」
冷やした方がいいんだろうけど、と言いながら、利秋は道場の方を見る。
義成と、潮津。
二人の男が、無言で見つめ合っていた。
利秋がその様子を眺めながら問う。
「お前、何があった。定信一緒じゃないのか?何で潮津と喧嘩してる?」
「一緒だったんですけど……」
喧嘩ではないですと答えながら、景伊は手拭いを受け取った。
なんと答えるべきか。
景伊にも正直なんで、こんなことになっているのかわからないのだ。
「……定信がすぐ戻るって手紙残して帰ってこないんです。俺が待ってたら、潮津さんも道場閉めないで待っててくれてた。だけどあの人、突然、定信の居場所知りたければ勝負しろって」
「……はぁ?」
景伊がそう答えると、利秋の眉間が寄る。
「あいつが?何でそうなる」
「それがわからないんです。でも嘘じゃないみたいだった。潮津さんからも、あいつらの匂いが一瞬したし……」
でも手がかりはそれしかなかった。
嫌な予感しかしない。自分は潮津と対峙するしかなかった。
定信の事が、心配でならなかった。
「……意味わからん、けど」
利秋も頭を掻き毟る。
「今はあいつにまかせてみようかね。うまく話を聞き出せればいいんだが」
利秋の視線の先には、義成と対峙しているこの道場の塾頭の姿がある。
右手の指から流れる血が、腕を赤黒く染めていた。


「何があったのか、事情を聞くべきなんだろうが……先に止血した方がいいんじゃないのか?」
景伊達より少し離れた、道場の中心近くに立つ義成は、潮津の姿を見て眉ひとつ動かさず告げた。
ぽたりぽたりと、先ほど磨いたばかりの床に、血が落ちる。
潮津は口元で小さく笑った。
痛みをこらえているようでもあった。
「相変わらず、余裕こいた男だなお前は」
潮津は右手を押さえて立ち上がる。
「お前の弟は獣みたいな奴だな。躾が足りん。甘やかし過ぎだ」
「それに関しては謝るが、普段は大人しい猫みたいな奴だぞ。蹴っ飛ばしでもしなきゃ怒らんさ。お前が何をしたか、によるだろ」
──もしくは、何を言ったか。
義成の言葉に、潮津が竹刀を握り直す。
「……先生の居場所を知りたきゃ、俺に勝てって言ったのさ。そしたらこのざまだ。大人しい猫ってのを甘く見過ぎた」
「……」
義成の眉間が寄る。
その表情を見て、潮津は深い息を吐くと、笑みを浮かべた。いつもの、人の良さそうな笑みだった。
「なぁ義成。お前とまともに話すの、何年振りかな。……三年?それくらいか」
「恐らく」
「……会って顔忘れられてたらどうしようかと思ったよ」
「生憎そこまで馬鹿になったつもりはないな。お前とはそこそこ、付き合いも長いわけだし」
義成はそこまで言うと、ふぅとため息をついた。
「俺はお前と久々の世間話をしに来たわけじゃないんだよ。何なんだお前。どうしてこんな事してる?」
「……怒ってるのか。珍しいな義成」
「当たり前だ!」
珍しく声を荒げる義成を見て、潮津はどこか懐かしそうに笑った。
少し笑って──真顔に戻ると、手にした竹刀の先をトン、と床につける。そして、それを義成に向けた。
「なぁ、俺はやっぱりお前と勝負したい。一本付き合え」
突然の潮津の言葉に、義成が少し機嫌を悪くしたような顔した。
「なんだそれは。……景伊じゃ満足できなかった、とでも?」
「そういうわけじゃない。そういうわけじゃないが、お前なら、俺にきっちり引導渡してくれそうな気がする」
「意味がわからん」
「わかれよ。……俺はお前に一回もかなわなかったけど、年月経ってやっぱり変わらないのか、少しは追いついたのか……それが知りたい。勝っても負けても、それで納得する。先生の場所はちゃんと教えるさ」
「……生きてるんだろうな?」
「それは誓ってもいい」
「……」
義成は少し黙って、考えているようだった。
しかし無駄に時間を使うのもどうかと思ったのだろう。
「景伊。竹刀貸せ」
「え」
「お前の持ってるの貸せ」
「……」
壁際に引き上げてくる際に一緒に持ってきた竹刀を、景伊は握る。
そしてそれを、黙って義成に渡しに行った。
「……兄上」
「すまんな。……利秋さんのところにいろよ」
景伊は無言で頷くと、竹刀を渡してまた壁際まで戻る。
兄に結局、勝負を任せてしまったのは情けないと思う。
だがこんなふうに、兄としてだけではない、一人の男としての兄を見るのは初めてで、それを見たいと言う気持ちもあった。
幼馴染。幼いころからの友人。
そういった存在を持っていない景伊は、潮津が義成に向ける感情、義成に潮津が向ける感情というものがよく理解できない。
今まで特に友人がほしいと思った事もなかった。
しかし今、義成と潮津の間には、景伊も知らない空気が流れている。 家族に向けるものとも違う。自分と定信の関係ともまた違う。 年上だからとか、年下だからとか、そういったものはなく、ただ対等であるような関係。
少し、羨ましいと思った。

「俺が勝ったらお前が知ってる事隅々まで話してもらうからな。あと、景伊に詫びろ。詫びるまで俺は許さん」
「お前がそんなに弟思いだとは知らなかったよ」
潮津が苦笑いを浮かべる。
「まぁ、謝らなければいけないのは景伊だけじゃないんだけどな」
そう言うと、潮津は竹刀を構えた。
握る竹刀を伝って、血はまだ流れ出ていた。


義成と潮津が睨み合う中、景伊と利秋は壁際で二人を見守るしかない。
利秋も止める気はないようだった。腕を組んで壁にもたれ、渋い顔をして様子を見ている。
この男は剣より口で身を立ててきた男だから、止めようにも手が出せないのか……それとも友人同士の男の話に、元から首を突っ込む気がないのか。
「……私怨だって言ってました」
ずくずくと痛む顔を手拭いで押さえ、景伊は利秋を見た。
少し顔が腫れてきたのか、話しづらい。
「私怨?」
「定信が憎いとか、俺が嫌いとかそういうことではないけど、私怨と言えば私怨だって、潮津さんが言ってました」
「ふぅん……」
景伊の言葉に、利秋が潮津を見る。
「なんで兄上と一緒だったんですか?」
「今日の事、一応あいつの了承もらわんとと思って、会いに行こうとしてたら途中で会った。義成も変な手紙貰ったとか言っててな。お前に会いに来る途中だったんだと」
「俺に?」
「うん」
利秋は壁にもたれたまま、景伊の顔を見て少し笑う。
「しかしお前よく無事だったな。何だかんだで潮津、腕は立つ男だぞ」
「まだ竹刀でしたから。真剣だったら三回は死んでるって言われましたけど」
景伊がそう答えると、利秋はまた笑った。
それに小さく笑って応えながら、景伊は考える。
(……潮津さんは、俺を殺す気だった……?)
恨むなよ、と潮津は景伊の首に手をかけてきた。
あの瞬間は確かに、こちらの命を取ろうとしていた気がする。
でも最初から殺す気であるなら、「勝負」だなんてまどろっこしい事をしなくてもよかったはずなのだ。
悔しいが、力量の差は大きい。
自分と潮津、二人しかいない道場で、自分を殺す機会などいくらでもあったはずだった。
そもそも真剣での斬り合いであれば、あっけなく己は死んでいただろう。
いきがったところでそんなものだ。

まるで時間を稼ぐかのようだ。

そして、利秋はこちらへ来た。恐らく帰ってこない自分たちを心配したに違いない。
兄もなぜか、一緒にいた。来たのは……。
──手紙。
ふと思い立って、景伊は隣に立つ利秋を見る。
「手紙って、何が書いてあったんですが?」
「え?あぁ、なんか差出人の名もなくて、変な手紙だったな。お前の一番大事なものを守れ、みたいな事が書いてあった。俺も見せてもらったけど」
「……」
「変な手紙だが、結果的に良かったんだろうけどね。俺だけじゃお前が半殺しにされてても潮津止めれないし。まぁでも、何て言うのか……」
「利秋さん。その、手紙の差出人って……」
もしかして。
そんな視線で利秋を見れば、利秋もなんとなく、景伊の言いたい事はわかっているようだった。
「……お前もそう思う?」
利秋の視線は、潮津に向けられている。
「まさかなぁとは思うんだけど、都合が良すぎるだろ?しかもあんなぼかした意味わからん書き方で、義成が動くかなんて博打に近い。まぁ本人に聞いてみにゃわからんけどね。でも俺は、潮津の様子見てたら、あいつは義成に止めてほしかったのかなって思って」
──憶測でしかないんだがね。
利秋の言葉に、景伊は黙って頷く。
最初、遠慮気味に自分と対峙していた時とは打って変わって、潮津はどこか生き生きとしているような気がする。
……定信の事が気になる。
兄の事も心配だ。
潮津が何を考え、何を知っているのか。
それもわからない。
今景伊にできる事は、見知った男二人の勝負を見守る事だけだった。