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閉された薔薇園で

01 勤労少年と山あいのバラ園

 学校からの帰り道。
 いつも通る通学路の脇に、見慣れぬ看板を見つけ、八束遼は自転車を止めた。
 道路脇の田んぼのあぜ道に建てられた、白地に黒文字で書かれたそっけない看板。そこにはこの近辺にあるらしいバラ園への案内が書かれている。
「バラ園なんてこの辺にあった?」
「あー、なんか聞いたけど、何年か前にできたっぽい。行った事ないけど。山道入ったとこ」
 遅れて自転車を止めた友人の佐々木は、興味なさげに携帯をいじりながら指を差した。
 八束は佐々木の指差す山の方角を見て、看板に視線を移す。
 ──バラ園。植物園みたいなところだろうか?
 看板からは、詳しい情報は読み取れない。
 田んぼと空と、周囲に山が広がる田舎町。農園も牧場も、この町ではそう珍しいものではない。
「こういうところって、バイトとか雇ったりしてくれるのかな?」
 看板には、働き手を募集しているような文章はない。しかし案内板だけで、連絡先も書いていない。
「え? お前今バイトしてなかったっけ? コンビニ」
「そこ先週つぶれたんだよ。んー、花物か……」
 八束は看板を見ながら、唸る。
「多分花関連なら年中仕事あるよな。出荷とかやっているなら、それ関係の仕事とか……」
「お前はやたらとその手の経験豊富だからな」
 呆れたような声を出す佐々木を尻目に、八束はよし、と声を出した。
「俺、ちょっと行ってみる。もしかしたら、期間限定でも雇ってもらえるかもしれないし」
「おう。まぁ、頑張れ」
 苦笑いしながら手を降る友人に答え、八束は自転車で走りだした。五月の半ば。まだどこか冷たい風が気持ち良かった。

 八束は、数年前に父親を事故で亡くした。
 突然の事で、全ての事が慌ただしく、悲しむ余裕もなかった事を覚えている。
 母親は元々、地元の建設会社で事務として働いていたが、まだ小学生の妹を含め、育ち盛りの子供二人を抱えた家庭の懐事情は、決して余裕のあるものではなくなった。母親は子供たちにそんな事を愚痴る人間ではなかったが、家庭の金銭状況くらいは、当時中学生だった八束にも察することができた。
 そのため高校生になると、自分でいろいろと探しながら、アルバイトをするようになった。自分の小遣いくらい自分で稼ぎたかったし、少しでも母親の負担を減らしたかった。
 しかし八束が住むこの町は、過疎化が進む農業地帯であり、不況の影響もあって高校生ができるような職種は少ない。運よく見つけたと思っていたコンビニも、入って四か月程度だというのに経営不振でなくなってしまった。
 あの看板のバラ園がどういったものかはわからないが、運が良ければ何か、ちょっとした仕事にありつけるかもしれない。そう思いながら、八束は自転車を走らせた。

「……ここ、か?」
 自転車で坂道を走る事、約五分。
 細い道から山の中に入り、少し開けた場所に出た。道の脇から階段があり、そこに建物が見える。
 普通の日本家屋のようで、何か商売をしているような気配はない。目を細めて見たが、周りが木々で囲まれているので、よく見えない。八束は道の脇に自転車を止め、その階段を上り始める。入口付近には看板らしいものもない。
 あのそっけない看板といい、周囲の様子といい、商売する気があるのだろうか?
 八束はだんだんと不安になってきた。バラ園なんて書いてあったから、もっと華やかなものを想像していた。
 ──どうしようか、帰ろうか?
 そう思いかけた時、八束は足を止めた。風にのって、一瞬何か良い香りがしたからだ。
 濃くて重い、花の香りだ。階段を上り切った先にある生垣の向こう。緑の中に見慣れない鮮やかな色が見えた。
(バラの香り、なのかな? これ)
 香りに惹かれる様に、階段を上がった八束は、その場で息をのんだ。
 白、赤、桃色に黄色。……紫も。見渡す限りのバラの海が広がっていた。大小様々な花がたわわに咲き乱れ、強い香りを放っている。
「すっげ……」
 八束は自然と呟いていた。バラなど花屋で切り花程度にしか見た事がなく、特に今まで興味なんて持った事もなかった。だが、きちんと手入れをされて重厚とも言える花をつける木々は、ここまで迫力があるのだと思った。
思わず立ち尽くして見惚れてしまい──だから、後ろに人が立った気配に、全く気がつかなかった。
「……お客さん?」
 突然背後から聞こえてきた男の声に、八束の体は跳ねる。
「っえ、あ……!」
 驚き過ぎて、妙な声を出しながら振り向く。
(やばい、ここの人かもしれない……!)
 怪しまれないように、落ち着いて。そう思った八束だったが、その声の主の容姿に驚く。
 そこにいたのは、瞳も髪も色素の薄い、どこか日本人離れした容姿。目鼻の辺りの彫りは、どこか西洋人のような雰囲気がある。非常に、容姿端麗な青年だ。そして──。
(でっか……)
 どちらかと言えば小柄な八束は、思わず固まって、男を見上げてしまった。百八十センチはゆうに超えているだろうか。もしかするとここの経営者は、外国人なのかもしれない。
(どうしよう俺、英語とか全然できない)
 そんな焦りが生まれる。
「あ、あ……えーと」
 言葉が出て来ず混乱している八束に、その青年は不審な顔をする事もなく、にこりと笑って見せた。
「大丈夫です、僕、日本語できますから」
 そう笑う青年の笑顔があまりにも美しく爽やかで、八束はまたしばらく言葉を失っていた。

「バイト? ここで?」
 茶金の髪の青年は、八束にお茶を淹れつつ言った。
 八束はあれから畑の奥にあった、自宅と思われる建物に案内され、リビングのソファに腰かけている。平屋の建物の中は綺麗に整頓されていたが、外も中も少々年季の入った日本家屋であり、このどことなく西洋の雰囲気を持つ青年とは、不釣り合いに見えた。
「もし、よければ、でいいんですけど……」
 八束はソファで縮こまりながら、言う。農園にいるのは、どうせおじさんかおばさんだと思っていた。
(何だ、このモデルみたいなのは)
 八束は淹れてもらった温かい緑茶を飲みつつ、男をちら見する。
 男はすらりと背が高い。歳は三十手前くらいだろうか。
 少し長めの目にかかる程度に伸びた髪は、少し癖がかった茶金の色。肌は色白で、瞳は鳶色をしていた。
(近所にこんな人が住んでるとか、聞いた事ないな)
 田舎でこんなに目立つ男がいれば、小耳にはさみそうなものなのだが、と思う。だが相手の容姿が妙に整い過ぎていて、なんだか現実味がなく、怖い。八束は完全に委縮していた。
「そんなに怖がらなくてもいいよ。取って食ったりとか、そんな事はしないんだから」
「あ、いや、すみません……」
 青年が笑いながら、困ったように眉を寄せた。自分は見た目でわかるほど、怯えていたらしい。
「ところで、何でそんなに稼ぎたいの?」
 青年も向かいのソファに腰掛ける。服装は上下ともにベージュ色の作業着だ。だがその些細な仕草にも、どことなく上品さを感じてしまう。
 八束は、急に恥ずかしくなってきた。気持ちを落ち着ける為、ぼりぼりと頭を掻きながら、言葉を絞り出す。
「うち、母子家庭であんまり余裕がないので、バイトとかいろいろしているんですけど、前のところが潰れてしまったので、新しいバイトを探していました。田舎なので、高校生が働けるようなところも、そんなになくて」
「へぇ、偉いねぇ。それで、うちに?」
「看板見ました。何かあれば、と思ったんですけど……」
「あぁ、あの看板ね。業者さん用に出した看板なんだよ。ここの入口、わかりにくいみたいで。ちょっと山の中に入らないといけないでしょう?」
「いえ、でも……いきなりですみません」
「いや、いいよ。うちに高校生が来たのは初めてだったから、少しびっくりしたけどね」
 男は、じっと縮こまる八束を観察するように見つめる。
「──そうだね。あまり出せないけど、それでもよければ。肉体労働だし」
「本当ですか? ありがとうございます!」
 思わず身を乗り出して言うと、青年は苦笑した。そして、握手の為の手を差し出す。
「僕はここの園主の、長畑永智といいます」
「え、名前……」
「うん、皆驚くんだよね。一応日本人です。いろんなところの血は入っているけどね。だから、大体さっきの君みたいな反応をされます」
 そう柔らかく笑う長畑に、八束の肩の力が抜ける。身構えていたが、意外に気さくな人らしい。
「八束、遼です」
 八束もその手を握り返した。随分と、大きな手だった。

 そもそもこのバラ園は一般に公開目的のものではないらしい。
「まず説明を」と園内を案内する長畑によれば、階段を上がってすぐのバラの畑は言わば彼の趣味兼実験場あり、実際の商品になるバラは、主に奥のビニールハウスで育てているとの事だった。
 こんなへんぴな田舎で商売になるのかと思っていたが、今はネット販売などもあるし、全国の顧客を相手にしているという。苗木の販売の他には、オリジナル品種の育種もしているらしい。
「育種とかは、いい花ができるまでは儲からないからね。まだ実験段階だよ」
 さらりと案内しているが、意外に敷地は広い。
(若いけど、もしかしたら凄い人なのかな)
 八束は長畑の後ろについて歩きながら、前を歩く彼の姿を見上げた。
「ここって、長畑さん一人でやられているんですか?」
「さすがに僕一人だと死ぬよ」
 問えば、そう苦笑いしながら返された。パートで働いている人が一人いるらしい。今日はお休みなのだそうだ。
「でも、何か勿体ないですね。入園料とかでお金取れるレベルに見えます」
「見たいっていう人がいたら別に断らないけどね。でもそっちは趣味でやっているだけだから、お金はとれないよ」
「そういうものですか……?」
「そういうもの。でも、君は良い時期に来たよ。多分、今頃が一番見頃だからね。あとは秋かな」
「へぇ……」
 好きでなければできないだろうな、と八束は思った。実際、バラを見る長畑の瞳は、愛おしいものを見るかのように優しい眼差しをしていた。
   
「バラ園でバイトする? あんたが?」
 家に帰って早々、新しいバイトが決まった事を母親に告げると、母親はあり得ない物を見る様な目で、八束を見た。
「あんた、花なんて全然興味ないじゃない」
「……まぁ、そうだけど」
「小学校の時の朝顔だって、三日で枯らしたのに? 枯れた鉢の腐葉土からカブトムシ出て来て喜んでいたあんたが?」
「それはもう言うなよ……仕事だからきちんとやります。って言うか、教えてもらいながら覚える予定」
「ふーん」
 母親は訝しげな視線で、てきぱきと洗濯物を畳んでいく。
 八束があれこれバイトを見つけてくるのは今に始まった事ではないし、決してそれに反対してるわけではないのだが、恐らく自分の少々雑なところのある息子と、華やかな印象のある「バラ」のイメージが合わないのだろう。今日は面白半分に突っかかってくる。
 八束も、似合わないという事は重々承知だった。だが言い返してもからかわれるだけだと思ったので、黙って反論を飲み込んだ。
「いいじゃん、綺麗だったよバラ。長畑さんもいい人だったし」
「長畑さんって、そこの方?」
「うん」
 頷くと、母親は何か記憶を探る様に、少し唸った。
「あそこの辺りって、何年か前に余所から越してきた方がいるって聞いたけど、その人の事かな? 確か、外国の人とか聞いたような」
「うん。ハーフか何からしいけど、日本語ぺらぺらだったよ」
「あ、そうなんだ。あんまり人付き合いのない方みたいだから、あたしもどんな人なのかよく知らないのよね」
「なんか忙しそうだからね。でもすっげぇ綺麗な人だったよ。背が高くて、モデルみたいな人だった」
「そう? なら会ってみたいわー。今度連れて来てよ。イケメンとご飯食べたいし」
 母の声は、途端にワントーン高くなった。イケメン情報に反応したらしい。
(この人、面食いだもんな)
 八束はため息をついた。この面食いの母が、何故素朴な顔の父と結婚したのか、それは永遠の謎だと思っている。
 そんな母を眺めながら、八束は今日の事を再び思い出す。
 ここが退屈な田舎町である事を忘れる様な、美しい光景。そこにいた、どこか不思議な雰囲気を持つ男――突然遭遇した非日常の事に、興味が尽きない。