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閉された薔薇園で

02金とか夢とか

 次の日から、そのバラ園でのバイト生活が始まった。
 学校が終わった後、夕方のそう遅くない時間まで雑用をこなす。今出来るのは段ボールを組み立ててみたり、梱包の手伝いをするだけだ。この辺りは市場でバイトした事もあるので、慣れていた。
 八束に丁寧に仕事を教えてくれたのは、三崎という四十代の主婦だった。昨日は休んでいたパートの女性だ。このバラ園が出来た頃から働いている古株らしい。
「こんなところに来るなんて、八束君は物好きねぇ。長畑さんも驚いていたでしょう?」
 三崎は、上品な笑顔で笑う女性だった。恐らく、歳は八束の母親よりも上なのだろう。しかし綺麗に歳を重ねたのだな、と思う様な雰囲気を持っていた。
「突然過ぎて驚かせたかな、とは反省しています。でも、俺も驚きました」
 そう言いながら、作業場で梱包用の段ボールを黙々と組み立てる。
 何に、とは言えない。
 驚いたのは、ここの全てにだ。プロが咲かせたバラの美しさであったり、浮世離れしたあの男に対してであったり。
「まぁ大抵驚くのよね、あの人にあったら。なかなか、綺麗な人でしょう?」
「はい。……あの人って、独身なんですか?」
「独身よ。あの人は仕事馬鹿だから。言い寄る人は沢山いるのかもしれないけど、時間があれば畑にいたいって人だからね。絶対婚期逃すわ」
 三崎はそう、笑いながら言う。雇用主に対してそこまで言い切っていいのか八束にはわからないが、三崎は彼とも随分と仲が良いようだったので、そう言える仲なのだろう、と思った。
「なんか、勿体ないですね」
「まぁ今のご時世、相当頑張らないと畑で儲けるなんて難しいからね。でもあの人も少し変わっていて、とにかく好きなのよね、こういうのが」
へぇ、と八束が感心したような声をもらしたときだ。
「調子はどう?」
 そのとき突然、作業場の窓から声をかけられた。長畑だ。作業場の窓の外から、背の高い男が人好きのする笑顔でこちらを見ている。
「あ、まぁまぁ、です」
「八束君は優秀よ。若いから仕事の覚えも早いしね」
「三崎さんが言うなら、そうなんだろうね」
 素直に笑顔を向けられて、八束は少々照れた。
「終わりそう?」
「はい、あと少し」
「じゃあ、きりの良いところまで終わったなら、お茶しない? 君の歓迎会をしよう。箱ばっかり組み立てても、つまらないでしょう?」
「いや、これはこれで楽しい……」
「あぁ、気持ちはわかるよ。僕も工作は好き。じゃあ、台所で待っているから」
 長畑はそう言うと、窓の前から消えた。
「なんて言うか、ふんわりしていると言うか……呑気な人ですね」
「まぁねー。でも八束君、結構気に入られているのね。長畑さんに」
「気に入られている……んですか、あれ?」
「あの人はね、あれで結構人見知り激しいから」
「へぇ……?」
(しているのか? 人見知り)
 長畑はいつもあんな感じで、来客にも人好きのする笑みを浮かべていて、愛想がいい。気に入られているというか、新入りで気遣われているだけのような気もする。だが例えお世辞だとしても、そう言われて嫌な気はしなかった。
(そうだとしたら、ちょっと、嬉しい)
 八束は自然と緩みそうになった口元を引き締めて、残りの箱を組み立て始めた。

 彼の住処兼職場は、部屋のほとんどを事務所と兼ねているらしい。彼のプライベートルームはどこなのだと聞くと「奥の一番小さい部屋が僕の部屋」と言われた。本当に仕事以外には執着しないタイプらしい。そうかといって散らかっているわけではなく、整理整頓が行きとどいた室内は、彼の几帳面な性格を表していた。
「長畑さんって、ちゃんと食べているんですか?」
 八束は、淹れてもらったお茶を飲みながら、隣で羊羹を齧る男に聞く。羊羹は「歓迎会」で出してくれた御茶菓子である。出された茶も熱い緑茶だ。どちらかと言えば風貌に西洋の香りを感じる男は、こちらが違和感を覚えるくらいに、和風な暮らしをしている。
「え、何で?」
 八束の問いに、長畑は目を丸くしてこちらを見た。
「何て言うか、細いなと思って」
 身長があるのもあるが、肉体労働にしては細くないだろうか? と八束は少々心配していた。
「この人は着痩せするだけよ。スタイルいいからね。腹立つ事に」
三崎が茶をすすりながら、横目で長畑を睨んだ。そんな三崎に、長畑は苦笑を浮かべて見せる。
「勝手に腹を立てられても困りますよ。きちんと食べてはいるよ。これでも独り身長いから、料理はそこそこできるし」
「早く三食作ってくれるような、優しい嫁をもらいなさいよ」
「出会いがないんです」
 三崎の言葉に、長畑は平然と言い切る。思わず、八束は噴き出してしまった。

 簡単なお茶をした後、三崎は先に帰って行った。確かに時計を見れば、十八時を過ぎている。その日任された仕事も終わり、八束も帰るかと事務所内に入った。
「長畑さん、仕事終わったんで帰……」
 そう言いかけて、長畑の姿が見当たらないのに気がついた。あちこち動き回る園主の姿が見えなくなるのはいつもの事だが、家の中には電気も点いているし、ここにいると思ったのに、姿が見えない。
 おかしいなと思い、もう一度外に出ようとしたとき、玄関脇の棚に、写真が飾られているのに気がついた。
 写真立てに入った、随分と古い写真だ。
 数人が建物を背景に映り込んでおり、家族写真のようにも見える。建物の雰囲気からして、外国で撮られた写真だろうか。両脇に大人の男女。真ん中に小学校の低学年くらいの男の子。
 その少年の容姿に、八束は何か見覚えがあった。写真立てを手に取って、よく見てみる。ゆるくうねる茶金の髪。西洋人形のように整った、可愛らしい子供。
(――長畑さん?)
 あまりに幼くてはっきりとしないが、その面影はあった。
 隣の男女は両親だろうか。しかし、あまり似ていない気もする。
「それ、僕の家族ね」
「うわぁっ!」
 突然、背後からかけられた声に、八束は驚いて振り返った。長畑が、そこに立っている。
「……す、すみません、勝手に見て」
 いつの間に背後にいたのか。全く気がつかなかった。
「いいよ別に。隠している物でもないしね」
 笑いながら、長畑は八束の手から写真立てを受け取る。
 雰囲気は柔らかく、拒絶は感じられない。だから、立ち入った事とは思いつつも、聞いてしまった。
「隣にいるのって、ご両親ですか?」
「うんまあ。ずいぶん前に死んでいるけどね」
「え」
 彼は淡々と答える。その答えに、逆に八束の方が困ってしまった。やはり聞かなければよかった、と思うが後の祭りだ。
「あぁ、いいんだよ別に。もう昔の事だから」
 長畑は写真立てを元の位置へ置き直すと、申し訳なさそうに笑みを浮かべた。
「気を遣わせたなら、ごめんね。彼らは僕が、君よりも若い時に亡くなったから、もう何年前になるかな」
 写真に移る男女は、優しく幸せそうな笑顔をこちらに向けている。
「いい人達だったよ、ほんとにね。沢山可愛がってもらった。後ろにバラが映っているでしょう? 庭で沢山育てていたんだ。それが凄く綺麗でね。子供の頃から、そこにいるのが好きだった。僕がこの道に入ったのは、多分それがきっかけだと思う」
 彼が綺麗だった、と語る庭。その言葉に、八束は初めてこの園へ訪れた際の事を思い出した。
 目の前に広がる沢山の色。濃い香り。様々な緑の葉。思わず目を奪われたものだ。
「長畑さんが綺麗だっていうなら、相当凄かったんでしょうね」
「うん、今考えたら珍しい品種とかもあってね、もっと何があったか、詳しく覚えておけばよかったなって思うよ」
「俺も見てみたいです、その庭」
「うん、僕も見せたいけど、家自体もうないんだ。両親が亡くなった後、人手に渡ってね。もう思い出の中だけだよ」
 長畑はそう、笑いながら呟いた。悲観だとか、そういったものを感じさせる言葉ではなかった。果てしなく遠くなってしまった物を見るかのような、そんな声だった。
 ふと、八束は自分の人生と彼の生き方を比べみた。
(俺にそんな、好きな事とか趣味とか、あったっけ?)
 考えてみたが、思いつかない。
 人生を変える様な何かというのもないし、仕事にしたいほど好きな事なんてない。趣味もない。
 必要なのは、家族三人が人並に生きていけるだけの稼ぎであり、稼げれば、仕事の内容なんてさほど重視していなかった。高校卒業したら就職する気でいるが、別にこだわりなんてないので、受かったところでいい、と思っていた。
 なのに、今、自分はそういうものが眩しく見える。どこか羨ましさを感じている。
「――八束?」
 黙っている事を不思議に思ったのか、長畑が小首を傾げながら名を呼んだ。
「あ、いえ……何でもないです」
 八束は慌てて、首を横に振る。
「ならいいけど、もう暗くなってきたから、今日は帰りなさい。仕事は終わったんでしょう?」
「はい。あの、長畑さんって、夜はどうしてるんですか?」
「僕? 夜は机と睨めっこだよ。雑務もあるし、勉強もしなきゃいけないしね」
 なかなか大変だよ、と長畑は笑う。
「でも、そこまで好きな事を仕事にできるってのが、俺は憧れます」
 そう言うと、長畑は意外そうに八束を見た。
「そう? 趣味と仕事を同じにすると、苦労するよ」
 長畑は、柔らかな笑顔で八束を見送ってくれた。
 両脇を暗い山に挟まれた細い道を、八束は黙って自転車で駆け抜ける。
 憧れる、と言ったのはお世辞でもなんでもない。長畑はそう取ったのかもしれないが、心からの本音だった。
(考えたら俺、何もないんだもんな)
 途端に自分が小さく感じて恥ずかしいやらで、顔が熱くなるのを感じる。何を熱くなってしまったのだろう。こんなのは自分らしくない、とも思う。