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閉された薔薇園で

03 閉ざされた庭

「見分けがつかん……」
 家に帰り、自室のベッドに転がりながら、八束はぶ厚い本を片手に頭を掻きむしる。
 読んでいる本は以前長畑に借りたものだ。基本を知っておけば仕事が楽になるかもと言われ、借りたバラの本。品種や育成の基本が記してあるものだ。
 バラなんて、色の違い程度の認識しかなかったが、品種が腐るほどあるという事を知った。それにフランス語やドイツ語など、外国の言葉で名付けられたバラの名前は長く、まるで呪文のようだ。
 この本を選んだのは、他の本よりも写真が多そうだったからで、長畑は「古い本だから新しい品種は載ってないよ」と言っていたが、初心者過ぎる八束にはあまり関係のない事である。
「長畑さん、よく一人であれだけやっているよな……」
 八束は感心したように呟いた。本には学生の教科書のように、あちこちに書きこみがある。神経質そうな、角ばった文字。恐らく長畑の書いたものだろう。指で、その字に触れる。温和な長畑らしくない字だと思った。
「ちょっと遼、いる?」
 いきなり部屋の扉を開けられ、八束は瞬間的に本を閉じた。別にやましいものを読んでいたわけでもないのだが、過剰反応してしまった。
「ちょっと、母さん、何……」
「これ見て。凄いでしょ」
 母は八束の問いを無視して、目の前に紐で巻き締められた肉の塊を差し出して見せた。
「……ハム?」
 お中元に送られてくるような、大きな塊のハムだった。
「どうしたの、それ」
「会社の人にもらったのよ。二本貰ったんだけどうちじゃ食べきれないし、一本長畑さんところに持って行ってあげてよ」
「はぁ? 長畑さんのところに? 何で」
 何故ここで長畑の名が出てくるのかわからず、八束は眉間に皺を寄せる。
「何でって、あんたお世話になっているじゃない。若い男の人なら好きでしょ? こういうの。ほら」
 差し出されたハムを、八束は渋々受け取る。
(唐突に俺がハムなんか持っていったら、あの人呆れるんじゃないだろうか……)
 それでも忙しそうだし、ちゃんと食べているのか、という不安もある。
「……まぁ、持って行ってみようか」
「今度、長畑さんにご飯食べに来てって言っといてよ」
「母さんが会いに行きゃいいだろ。多分親切にバラ売ってくれるよ」
「無理。あたし枯らすから」
「……」
(俺が朝顔を三日で枯らしたのは、絶対にこの人の血を引いているからだ)
 八束はそう確信しながら、外に出た。

 季節は初夏に足を突っ込み始めており、十八時前でもまだ明るい。
 八束は自転車の前かごにハムと、母親がついでにこれも、と持ってきたりんごやバナナなどの果物も入れて走り出す。
(……迷惑にならなきゃいいけどさ)
 田舎故に、こういったお裾分けの文化はまだ生きてる。だがそれは親しい近所の人たちの間のもので、あの男は言葉は悪いが、余所者だ。あまり近隣と接触を持っていないというのもある。決して関わりたくないから付き合いがない、というわけでもないだろうが、自分達の付き合いもまだ浅い。馴れ馴れしい、しつこいと思われるのは嫌だなぁ、と思う。
 自転車を下に停め、階段を上がると彼の庭が見えてくる。
 山間の、薄暗くなり始めた空間に咲き誇る、色と香りの洪水。昼間、明るい日差しの中ではどこかはつらつとした印象を持ったが、今は少しだけ、怪しいものを感じる。
(確か、夜は家の中で仕事しているって言っていたな)
 夕方彼の言っていた事を思い出し、事務所へ向かおうとしたとき、八束は茂る薔薇の奥に、動く彼の茶金の髪を見た気がした。
(長畑さん?)
 見えたのは一瞬だ。背の高いバラに隠れ、よくわからない。夜は水やりも剪定もしないはずだ。
「長畑さん」
 声をかけるが、返事がない。
 木々の間に作られた小道を歩くと、庭の中心辺りに開けたスペースがあった。
 長畑は、そこにいた。
「……君、どうしたの?」
 人の気配に振り向いた長畑は、木々の間から突然現れた八束に、驚いているようだった。彼は冷たい地面に胡坐をかいて、座り込んでいる。
「どうしたのは、こっちの台詞って言うか……」
 八束は困ったように、言葉を濁した。お互い、何をしているのか謎過ぎる。
「あの、何をしているんですか?」
「何って、お花見?」
 疑問形で答えられた。
「桜は終わったけど、バラは今が見頃だからね。春しか咲かない子もいるから、しっかり見てあげないと、可哀そうかなと」
 年中咲くバラもあるが、一季咲きといって、春しか咲かないものもある――それはさっきの本で読んで覚えたが、何もこんな薄暗くなり始める時間にしなくても、と思う。しかし彼がのんびりできる時間というのは、大体の仕事を終えた、この時間からなのだろう。
「君は? 買い物の帰りか何か? それとも忘れ物?」
「いや、これは……」
 八束は手に下げたスーパーのビニール袋を見て、苦笑いした。
「うちの母親が持って行けって。貰い物で悪いんですが」
「それでわざわざ来たの?」
 長畑も苦笑している。確かに考えれば、次にバイトに来る時で良かったのだ。少し気が急いてしまったかもしれない。
「いや、でもありがとう」
 こんな時間に突然来て、迷惑だったかもしれないと不安があったが、長畑の相変わらず人を安心させるような、柔らかい笑い方を見て、八束はほっと安堵する。そのまま、長畑の隣に腰を下ろした。
「あとうちの母が、今度ご飯食べに来て下さいって言っていました。長畑さんに会ってみたいって」
「僕に? それは、ありがたいけど」
「凄く面食いな人なんで、若い男の人って言ったら興味持っちゃったみたいで。でも結構、料理うまいんですよ。それに……」
「……君は、大事にされて育ったんだね」
「え?」
 長畑は優しく微笑んで、八束を見つめた。彼の言う意味がよくわからず、八束は目を丸くする。
「だって、君ぐらいの年齢の頃って、お母さんの事とか煩わしく思う子多いじゃない? そういうのが感じられないから。決して、悪い意味じゃなくてね」
「いや、普通ですよ。うちは反抗も何もあったもんじゃなかったですから。怒ると怖いですし……」
「でも、大事に厳しく、きちんと育ててもらったって感じる。良い事だし、羨ましいよ」
(――羨ましい?)
 そんな事が? と問おうとして、八束は今日の夕方、共に見た彼の昔の写真を思い出し、はっとした。
(あぁ、そうか。この人は……)
 両親を早くに亡くしたのだと言っていた。詳しく聞いたわけではなかったが、安易に語れないような苦労も、多かったのではないだろうか。そんな彼の前で家族の話をべらべらと喋って、少し無神経だったかもしれない、と八束は罪悪感を抱く。
「……すみません」
「だから、何で君が謝るの? そこは誇らしく思っておけばいいじゃないの」
 困ったように笑う長畑は視線を、周囲を取り巻くバラ達に移す。八束もそれを黙って眺めながら、周囲の景色に視線をやった。
 勢いよく茂る、深い緑の葉達。茎を彩る長い棘。儚く、ときには毒々しいまでに自己主張をするバラの花達。
 彼がもう一度見たいと言った庭の話。長畑が趣味と語る、この一角。
 ――彼が今も見ているのは。再現したいのは。
(昔の庭、なのかな)
 八束はそう考え、口を引き結んだ。何故か、今この時、この男がとても孤独に見えた。八束は恐る恐る、口を開く。
「……あの」
「何?」
 長畑は、不思議そうに八束を見ている。
「長畑さんは、どうしてこの仕事をしようと思ったんですか?」
「どうしてって……こういうのが昔から好きだし」
「そうじゃなくて」
 八束は、自分でも何を言っているのか、よくわからなくなっていた。別に長畑に突っかかりたいわけではない。それができるほど、まだ自分達は親しくない。だが唐突に、胸の中にもやもやとした、なんとも言えない感情が湧き出てきた。
(何だ、これ)
 胃もたれのように、胸の奥から上がってくるそれを必死にこらえながら、八束は言葉を続けた。
「何となく思ったんですけど、長畑さんが見たいものとか、目指しているものっていうのは、昔の――」
 そう言いかけて、じっと自分を見上げてくる長畑の鳶色の瞳に、八束の心臓はどくりと跳ねた。咄嗟に視線を逸らす事もできず、無言で見つめ合う。
 長畑が忘れられないと言った光景。彼は、「今」この時など見ていないのではないか。見ているのは過去のみなのではないか?
   色鮮やかなバラを通して、幼い頃の思い出を見つめているのではないだろうか。
 ――自分と話すこの一瞬なんて、その時間を邪魔した自分なんて、どうでもいい存在なのではないか?
 そう思ってしまった途端、八束はそれを悔しいと思った。
 信じられないほど強く、そう感じた。何に向けていいのかわからない苛立ちに、思わず唇を噛みしめる。咄嗟に、昔ばかり見ていても――というような言葉が喉を飛び出しかけた。
 しかし飛び出しかけた言葉を、八束は飲み込むしかなかった。長畑の笑みも浮かべぬ真剣な表情に、思わず怯えたからだ。
 言葉を失う八束を、長畑はじっと見つめている。
「君の言いたい事は、わからないでもない」
 静かな声だった。子供の苛立ちなど受け流すかのような、そんな声だった。
「確かに、僕はあそこから動けていないかもしれないね。僕が見たいものは、過去に見たもの。それが見たくて、この世界に入ったようなものだろうから。……でも、いいじゃない。見たいものは皆、人それぞれでしょう?」
 長畑はそう、八束に優しく微笑んでみせた。だが表情とはうらはらに、人それぞれという言葉に、お前には関係ないじゃないかという冷たい意思も感じた。
 その瞬間だった。八束の中で、何か渦を巻くような猛烈な感情が吹き上げて来て、ぷつりと切れた。

 ――その後、八束は何か、長畑に言った気がする。

 今まで感じた事のないような激しい感情に襲われて、八束は自分でも、どうかしていると思った。
 気がつけば道路のそばに停めた自分の自転車の前まで来ていて、長畑とどういった話をして別れて来たのか、思い出す事ができなかった。失礼な事を言っていないか不安だったが、今更戻る勇気も出ない。
(なんだ、この気持ち)
 八束は乱れる息を落ち着かせるように、胸のあたりを押さえる。心臓はばくばくと音を立てている。蒸し暑くもないはずなのに、こめかみから汗が伝った。胸の奥がじわじわした。
 何かが浸食してくるような不快感のような、高揚のような。あの人が自分など見てはいないのかもしれない、と思った途端、生まれたもの。
(好きだ)
 その感情が言葉となって、突然体の中に広がった。八束は胸を押さえてしゃがみこむ。自分でそれが、理解ができなかった。
「好き……?」
(俺が? あの人を? ……男を?)
 今更ながらにゆっくりと自覚して、八束は苦笑した。憧れの裏に感じていた、なにか。
 彼の前だと妙に緊張して、舞い上がっていた。何故だかわからなかった。その理由が、今やっとわかった。
「何自爆しているんだろ、俺……」
 こんなになるまで、気が付かなかったなんて。
(あり得ないだろう、俺)
 彼の過去に嫉妬などしたりして。だがその嫉妬は、あんなに柔らかく大人な態度で拒絶された。
(俺一人で、馬鹿みたいじゃないか)
 笑いさえ漏れた。あの人はきっと、こんなどうしようもない自分に、あきれ果てただろう。
 風に吹かれて、高台に咲くバラの香りが八束の元へ届いた。それから逃げる様に、自転車に飛び乗る。全速力でこいだ。今は、バラの香りなんて嗅ぎたくなかった。