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閉された薔薇園で

04 好きな人、好きなもの(終)

 人を心の底から好きになったと自覚したのは、いつの頃だったろうか。
 八束は記憶を探ってみる。確か、なんとなくひっかかるのは、小学生の頃の事だ。
 友人同士の会話で「このクラスで誰が一番可愛いと思うか」という話になった。そこまで規模の大きな小学校ではなかったので、同じ学年の生徒全てを「友人」と言えるくらいには濃く、狭い人間関係を築いていた。当然女子とも普通に話していたし、遊んでいた。誰が好きかと聞かれれば、当然「誰か」と答えなくてはならない気がした。
 だから、当時クラスで一番明るく、勉強もできて運動神経も良い女の子の名をあげた気がする。
 そのときは他の友人達とも「お前もか」という話しで終わり、特に行動に移す事もなかった。誰もがそうだった。そもそも「いいよね」程度の感情しかなかったので、こんな無様な感情を持ったこともなかった。多分、本気で好きなわけではなかったのだろう。
 中学生、高校生となり、周囲に彼女持ちの友人がいくつか現れたが、八束の興味や情熱はアルバイトの方に向きがちで、女の子と遊ぶ事はほとんどなかった。
 もちろん全くそういう事に興味がなかったわけではないが、何となく、そういう話は自分とは無関係だと思っていた。
(――それが何で)
 今になって。しかも、綺麗とはいえ、年上の男に。

 次の日、八束は一人、自室のベッドの上で転がり転がり、悩んでいた。
 幸いと言っていいのか、日曜日である今日は、たまたま出勤日ではなかった。どちらにしろ後日、顔を合わせないといけないが、昨日の今日で、長畑とまともに話ができる自信がなかった。
 何か、酷い捨て台詞でも残していないだろうか?
 興奮し過ぎて、昨日の事はよく覚えていないが、長畑に対して失礼な事を言って帰ったのではと思い、気が気でなかった。何か変な事を言っていたのであれば、謝らなくてはいけない。しかし……と八束は枕に顔をうずめる。
 辞めたくはない。
 やっと植物相手の仕事の楽しさもわかりかけてきたし、他に今バイトがあるわけでもなかった。あれこれ悩んだが、やはり我が家の金銭事情的に、自分は自立せねば、という思いがある。長畑は多分、気にしていないと言うだろう。尋ねて行けば、普段通りに出迎えてくれるだろう。あの男は、そういう男だと思う。
 だが、自分を見てくれているかと言えば、そうではない。彼は自分など眼中にない。彼の大事な物は、別の、もっと遠い所にあるものだからだ。
 そのとき、突然ベッドの上に転がしていた携帯電話のバイブが鳴った。
 驚いて体が跳ねる。恐る恐る見れば、同級生の佐々木からの着信だった。
「……もしもし?」
『お、この時間に電話出るとか珍しいな』
 元気の良い声が聞こえてくる。その能天気な声に、八束はあからさまにため息をついた。
「今日はバイト休みだからさ。何?」
『なんだよ、機嫌悪いな。寝てたのか? せっかく合コンに誘ってやろうと思ったのに』
「合コン?」
 八束は寝転がったまま、怪訝な声を出す。
「そう。隣町の女子高の子たちと約束できたから、お前もどうかなと思って。今日休みなら、来る?」
 何度か誘われた事はあったが、今まではバイトを理由に断っていた。何で今、このタイミングで、と八束は苛立ってくる。
「俺はいいよ。そういうの興味ない。初対面で女子相手に何話せばいいのか、わからんし」
 そう言うと、佐々木は「あー?」と、呆れた様な声をもらした。
『まぁ、お前はそう言う奴だよな。わかってたけどさ。好きな奴とかいないの?』
 ――好きな奴。
 その言葉を飲みこんだ。長畑の姿が浮かぶ。まだ好きな人、と言っていいのかわからない。だが、あれから八束の心は完全に、あの男に占拠されている。
 好きという言葉は、もっと優しいものだと思っていた。だが、これは何なのだろう? 自分は沼にはまっているように、動けない。全然楽しくなんかない。浮かれるようなものなんて、何一つない。
「――いる。好きな人」
 考えながらほぼ無意識に――八束は低く呟いた。
『マジか! 誰? 俺知ってる奴?』
 佐々木が異常に食い付いてくる。八束が「誰かが好き」と友人に漏らした事はないから、興味を持ったらしい。
「お前の知らない人だよ。年上。社会人だ」
『へー、お前って年上好きだったんだな。そりゃ女子高生とか興味ないわなー』
 何か勘違いされている気もするが、否定するのも面倒だったので、八束は適当に相槌をうって言葉を続ける。
「すっげぇ、綺麗な人なんだ。可愛がられている自覚があった。でも、実際は俺なんかに興味がないって、昨日わかった。調子に乗っていた自分が嫌になる。こういうとき、どうしたらいいんだ」
『どうしたらって……。俺もその手のバージョンは初めてだ、すまん』
 佐々木は賑やかで会話上手なせいか、交友関係が広い。今は他校の女子と付き合っている。自分の友人の中でも恋愛経験豊富な一番手がこう言うのだから、自分の年代でこういった悩みは相当重い分類になるのだろう。
 相手が男だ、とまでは、八束も言わなかった。言う勇気もなかった。だが佐々木は何も知らず、真剣に電話の向こうで唸ってくれている。その事に少しだけ、罪悪感があった。
『最近知り合った人?』
「うん」
『じゃあ、まだわかんないじゃないか』
「でも俺、その他大勢だぞ、多分」
『その他大勢から、特別な存在になる努力ってのをするしかないだろ。俺はそうした』
「……は?」
『今の彼女には半年間、ずっと告り続けたからね。うざがられたけど、本気にしてもらえてなかったからそうした。まぁ、俺のときとお前のは違うかもしれないけど、年上だろ? 意識してもらえるまで気長にやれば? ストーカーにならん程度に。あとは年下アピールで、甘えて母性本能くすぐってみるとか』
 佐々木は、どんな相手を想像しているのだろう。猛烈な美女だろうか。美人には間違いないが、相手に母性は多分ない。八束は苦笑いを浮かべる。
「うん……まぁ、そうなのかな。ありがと。そういうわけだから、俺は合コン行きません」
『了解ー。まぁあれだ、振られたら慰めてやるわ。また誘う。気長に頑張れよ』
「お前も好きな子いるなら、合コン行くなよ……」
『俺幹事なんで。他の奴らに紹介してやるだけだから。浮気はしませんから。じゃあな』
 そう言って、佐々木は電話を切った。
(気長に、か)
 確かに、自分は長畑と出会ったばかりだ。ここ一週間くらいの付き合いでしかない。まだ、何も始まっていない。
 ――気長に。
 だがあんな態度を取った手前、自分にそうさせてもらえる資格は、あるのだろうか。
「……」
 八束は考えながら、携帯電話を握りしめた。
 あのとき、自分はすっかり訳がわからなくなって、何もかも中途半端にしたまま、逃げてきた。何かよく覚えていないが、暴言も吐いたような気がする。
(とりあえずよくわからん事言った事を謝って……あとは、言わなきゃ、駄目だよな……)
 そうしなくては、自分はこのまま動けない。自分の気持ちについては、八束は長畑に話していない、とは思う。
(拒否されて、当たり前なんだから)
 そう自分を奮い立たせたときだった。小さい足音が、階段を駆けあがってくる音がする。
「お兄ちゃん、お客さんが来てるよっ!」
 慌てた様子で部屋の戸を開けたのは、小学生である妹の、奈々子だった。
「客? 誰」
「知らない男の人。大きくて、外国人みたいな」
 奈々子の言葉に、血の気が引いた。
 ――外国人みたいな。
 その言葉に当てはまる人物を、八束は一人しか知らない。
「何かお兄ちゃんに用があるって、下に」
 妹の言葉が言い終らないうちに、八束は階段を駆け下りていた。
(何でこんなときに……って言うか、仕事は?)
(何でうちに?)
 そんな思いが交錯する。今は会いたくない、と思っていたはずなのに、八束は家の中を走って玄関まで出ていた。息を切らして玄関の戸を開けると、そこには見覚えのある男がいた。
 日に透ければ金に輝く茶金の髪に、ベージュの作業着を着た、長身の男。
「……長畑さん」
 八束は、思わず呟きをもらす。長畑は、突然息を切らして勢いよく玄関を開けた八束に少々驚きながらも、いつも通りの笑顔を見せた。
「こんにちは。お休みの日にごめんね」
「いや、それはいいんですけど……どうしたんですか? 仕事は?」
「僕がやらなきゃいけない事はやってきたよ。あとの事は三崎さんにお任せした。今度お茶おごる事になったけど」
「……」
 八束は、どっと力が抜ける気がした。いつも通りの長畑すぎる。だがわざわざ自分のところに訪ねて来たという事は、何かあったという事だろう。そして確実に昨日の事だ、とわかっていた。
「……すみませんでした!」
 八束は思い切り、頭を下げる。
「昨日は、その、変な事言っちゃって……俺、興奮してて全然最後の方覚えてなくて。失礼な事を言ったんじゃないかと」
「いや、それは大丈夫。失礼だとは思ってないから」
「俺、別れ際、なんて言いました……?」
 聞くのは怖いが、恐る恐る尋ねる。捨て台詞を吐いて、長畑の言葉も聞かぬまま、その場から逃げたところまでは覚えている。
「……聞きたい?」
 長畑が珍しく、悪戯を思いついた子供のような顔で笑った。
「『俺の事も見てよ』って」
 その言葉にがつんと、大きな衝撃を頭に感じる。
(ちょっと待てよ俺…!)
 八束は顔の温度が一気に上がるのを感じた。
(死にたい。いや、消えたい……!)
 八束は顔を紅潮させながら、ぐるぐると巡ってくるそういった思いと戦った。
 この男が過去の事ばかり想っていて、それが悔しかったのだ。自分は微塵も意識されていないのだと思った。
(だからって、ないだろ、これは……!)
 恥ずかしさのあまり、長畑の顔が見られない。
「それ、言いに来たんですか」
 必死に呟いた言葉は、思わず刺々しい口調になった。
(……駄目だ)
 うまく気持ちが伝えられないと、自分は相手に八つ当たりをして攻撃的になってしまう。
(こんな子供じゃ駄目だ)
 八束は拳を握りしめる。
(きちんと、伝えないと。言葉として)
 そんな八束を、長畑は黙って見下ろしている。
「別に、だからどうってわけじゃない。それをからかいに来るほど、僕は暇でもないよ」
「じゃあ、何で……」
じと目で見上げると、長畑はにっこりと微笑んだ。
「君が、何か勘違いしていそうだから。それでこのまま君が辞めてしまうのも、悪いと思って」
「いや、辞めるつもりは……って、勘違い?」
 長畑の予想外の言葉に、八束は目を見開いて、目の前の長身の男を見上げた。
「俺の事を見て、と君は言ったね。……僕が昔の事に囚われ過ぎているから。そういうことでしょう?」
 八束は、小さく頷く。長畑も頷いてみせた。
「それは正しい。昨日言ったように、昔いたあの世界を空間を、再現してみたいって思っているのは事実だし、その考えは今も変わっていない。僕の人生、こうすると決めさせてくれたきっかけでもあるし、大事な思い出だから。 でも、僕が君を見ていないってのは違う」
「……え?」
「君が来てから、僕は楽しく感じていたのに」
 長畑の言葉に、八束の口が開いた。
「最初は、苦労しているみたいだからっていう同情もあったよ。でも一生懸命だし、走り回るし、いろいろ聞いてくるし、懐いてくれるし。僕は結構楽しいと思っていたよ。 君は違ったの? 僕の、何がいけなかった?」
「違……いけないとかはなくて、長畑さんが悪いとか、そんなのは全然なくて」
 八束は首を横に振った。
「俺だって、長畑さんに会うのが楽しみだったんです。バラの事は難しいけど、知らない世界の事過ぎて面白かった。貴方の庭が綺麗過ぎて、行くのがいつも楽しみだった」
 ──この何もない町の、山の中にある小さなバラ園。
 美しく、不思議な、特別な世界だ。八束が必死に、すがるように長畑を見上げると、彼は笑って、八束の頭を優しく撫でた。
「じゃあ、仲直りしよう。これでもね、結構気にしていたんだよ? 何か傷つけるような事言ったんじゃないかってね」
 少し照れくさそうに言う長畑を見ていたら、自分の思いも、高校生にもなって頭を撫でられている事も、どうでもよくなってしまった。
「仲直り」の為だけに、確かに近所ではあるが、彼はわざわざ来てくれた。この男が、自分の為に。
(負けだ……)
 八束はどこか清々しい気持ちで、そう思った。
 この男が好きだ。その気持ちを正直に打ち明けられたわけじゃない。多分この男は自分の気持ちの本質を、わかっちゃいない。だが自分はこの男が好きで、この人も俺を気に入ってくれている。
(今はそれでいいじゃないか)
 それだけでいいと思える。――手の施しようがないほどに重症だ、と思った。
「……ところで」
 長畑が、八束の後ろを気にしながら言う。
「さっきの女の子、妹さん?」
「あ、はい。奈々子っていうんですけど」
「そっか。いや、驚かせるつもりは全然なかったんだけどね……」
 どうやら外で遊んでいた妹に普通に声をかけたところ、驚いて逃げられたらしい。
「僕、やっぱり怖く見えるのかなぁ……」
 らしくもなく、長畑が凹んでしまっている。百八十五は超えているだろう長身に、日本人離れしたモデルみたいな男がいきなり現れたら、妹でなくても驚くだろう。実際八束も驚いた訳だが、本人はどうやら自分の容姿を良しと思っていないらしい。恵まれた容姿だと思うのに、本人は悩んでいるようだった。
「話せばわかると思いますよ。長畑さんが優しいの。奈々子、ちょっとおいで!」
 八束は家の中に向かって、妹を呼んだ。
 ――今日はご飯でも食べていってもらおうか。
 母親にも連絡しないとな、と思いながら。

(海の向こうから来た薔薇に続く)