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海の向こうから来た薔薇

01 英国の紅茶

 一学期が終わり、夏休みに入った。
 普段より長めにバイトに入る事が多くなったバラ園で、八束はほんの小さな違和感を覚えた。
 例えば、台所。
 休憩のときにお茶を入れるのはいつの間にか八束の役目になっていたが、そこにあった紅茶の缶。ここの茶は、常に緑茶かほうじ茶だった。それがここの園主の好みによるものかまでは聞いた事がなかったが、突然現れた高級感のある銀色の缶に入った茶葉の存在に疑問を抱いて、長畑に聞いてみた。
「ああ、それ? 貰い物。使っていいよ。うちティーポットないけど」
 急須で紅茶を入れるのも気が引けて、そのときは使わなかった。

 そんな事も忘れた、お盆前の事。
 その日も同じく台所のテーブルで、仕事の合間にちょっとした休憩をしていたときだった。三崎の話に耳を傾けながら長畑に視線をやれば、彼はやけに真剣な顔で、届いたばかりの手紙を読んでいた。手には数枚の紙。テーブルの上には青と赤のラインが入った白い封筒。
 エアメールだ、と思った。
 長畑が海外とやり取りしている事自体は、決して珍しい事ではない。国内に出回りにくい品種を探していると顧客から相談を受ければ、あちこち直接問い合わせもするし、海外から苗木を取り寄せたりもする。だから海の向こうからの郵便物や荷物は、八束にとっても珍しくはなくなっていたのだが、このとき妙だと感じたのは、長畑の表情だ。
 ――眉をしかめるような、不機嫌そうな。
 あまり彼が浮かべる事のない表情だが、彼がやると顔立ちが華やかなぶん、非常におっかない。どうしたのか。何が書いてあるのか。そんな事を思いながら長畑を見ていると、長畑も視線に気が付いたのか、目が合った。
「どうしたの?」
「あ、いや」
 なんでも、と言おうとしたが、先に三崎に口をはさまれた。
「長畑さんが怖そうな顔しているからよ。何の手紙? 文句?」
(うわぁ……)
 ある程度の年齢を超えた女性というのは強い、と思う。自分の母もそうだが、こんなにはっきりとなんて自分は聞けない、と八束は思った。
「そういうものじゃないよ。ほら」
 長畑はそう言いながら、今まで読んでいた数枚の紙を八束に差し出してきた。なんとなく受け取ってそれを見た八束は、再びうわ、と潰れたような声を出す。
 便せんにびっしりと書かれた文字は、英語だ。しかも手書きの筆記体。英語はあまり得意でない上に、慣れない八束には非常に読みづらい。
(すみません長畑さん。俺には無理です……)
 彼に語学力が貧困だと思われたくはないが、読めないものは読めない。
「な、なんの手紙なんですか?」
 苦笑いを浮かべながら問うと、長畑は特に気にした様子もなく茶を飲んで言った。
「一言で言えば、僕にイギリスに来いと言っている」
「は?」
疑問の声が、八束の口から漏れた。
(イギリス? 来いって?)
(ちょっと待て……何の事だ?)
「でも長畑さん、ちょこちょこ行くじゃない。前はフランス? だったっけ」
 三崎の言い出した事にも驚く。
「長畑さんって、そんなにあっちこっち行くんですか?」
「そんなには行かないよ。あれはこっちの業界の研修。僕は半分、通訳に使われたようなものだったから。フランス語はわかりませんと言ったんだけど。英語わかるならどうにかなるとか言われて、無理やり連行されまして」
 長畑は思い出したのか、ため息をついている。
 ――それならわかる。国内の同じような、バラで仕事している関係者ご一行で、向こうの業界の視察に行く、と言うならば。
 しかし今回手紙は向こうから長畑宛に来ていて、便せん数枚にわたるびっしりと余白を埋めるような様子で。しかも誰かの直筆。熱烈なご招待にしか見えないではないか。研修などという短期のものでないという事は、長畑の様子からわかった。
「……行くんですか? イギリス」
 この手紙が誰からなのか、八束は知らない。差出人の名前も書いてあるようだが、癖のある筆記体でよくわからなかった。「G」という頭文字だけなんとなく読み取って、それ以降はあきらめる。
 誰だか知らないが、無性に苛立った。しかし長畑はいつも通り柔らかく笑って、「行くわけないじゃない」と答える。
「僕にはこっちで仕事もあるし、君らと働く今の仕事が楽しい。今向こうに行くメリットなんて、僕にはないよ」
「……」
「あー良かった。職を失う事にはならなそうね」
「僕もまだやりたい事が山ほどあるんで」
 三崎と長畑の会話を聞きながら、八束は震える手を押さえながら冷静を装って茶を飲んだ。
 ――君らと働く今の仕事が楽しい。
(俺、一応頭数に入っているんだなぁ……)
 お世辞でもなんでも構わない、と思った。
 好きだと自覚して数ヶ月。まだ何も自分からアクションを起こせてはいない。だからこうしたちょっとした事で、八束のテンションは急上昇したり一気に墜落したりする。我ながら情けないと思うが、今はそれでいいと思っていた。
 その手紙を出した人物に、出会うまでは。