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海の向こうから来た薔薇

03 連れて行かないで

(……何これ)
 八束は、目の前の光景を呆然と見ていた。「マフィア」に熱烈ハグをされている長畑の姿。
 ハグ? ああ、海外の挨拶ね、という事はわかっている。
(でも、ちょっと長いんでないの?)
 そう思って少々イライラしたが、それは嫉妬に結び付く程大きなものにはならなかった。長畑がそれに応えるわけでもなく、非常に「嫌そう」な顔をしていたからだ。
「……離してくれないか、グラハム」
 未だにぎゅうぎゅうと抱き締め続ける「マフィア」に対し、長畑が冷めた声で言う。
「君は、相変わらず冷たい男だなぁ。私が何時間かけて来たと思っているんだよ。十時間以上飛行機乗ってたし、知り合いに車借りて、自分で運転して来たって言うのに。労いの言葉もないのかい? 少しくらい歓迎してくれたっていいでしょう?」
 そう、グラハムと呼ばれたスーツ姿の男は苦笑する。
「僕は、来なくていいと返事した。離してくれ、仕事中なんだ」
 その言葉で、やっと男は長畑への拘束を解く。
「本当に冷たい」
 やれやれ、と降参のように両手を軽く上げて、男は言った。
「まぁ再会の挨拶はこれくらいにしとこうか。これ以上遊ぶと、君に刺されかねない」
 長畑の手には、常に腰に差している剪定ばさみがある。
 そんなまさか――とは思うが、八束にもわかるほど長畑は不機嫌で、眉間には皺が寄っている。温厚なはずのこの男が、ここまで人に対して「嫌悪」の態度をとるのは見た事がなかった。
「冗談言わないでよ。来たものは仕方がないから、話くらいは聞く。同意できるとは到底思えないけど。仕事の邪魔だから、中で待っていてくれない? きりがよくなったら行くから」
「わかりましたー」
 男は棘のある長畑の言葉に何を言うでもなく、くるりと背を向けて茂みの向こうに消えてしまった。
(……何なんだ、この人達は)
 八束は一人、言葉を発する事ができなかった。
 彼らはきっと、知り合いなのだろう。だが上機嫌なあの男に対し、長畑は猛烈に不機嫌だった。自分はこんな長畑を見た事がない。なのに、あの男はそんな長畑に慣れてさえいるような――。
「ごめん。驚かせたかな」
 動揺して黙りこむ八束を案じてか、長畑が気まずそうに声をかけてくる。今はあの異様な不機嫌さはないが、少し驚いてしまったのは確かだった。あれが自分に向けられたものでないから、まだいい。あんな態度を取られたら、しばらく自分は立ち直れないだろう。
「俺は大丈夫ですけど。長畑さん、あの人って……?」
 八束はあの男が消えて行った薔薇の茂みの方を見る。
 得体のしれない、しかし長畑と関わりの深そうな男。
 長畑はあまり、他人が自分のエリアに踏みこんで来る事を好まない。だから聞いてもいいのか、八束にはわからなかったが、あんな場面を見てしまっては聞かずにはいられなかった。
「彼の名前は、グラハムと言ってね」
 長畑は手にしたままだった剪定ばさみを腰のベルトに差して、いくつか地面に散った葉を拾い上げている。
「僕の後見人だった男だよ」
「後見人……?」
 言葉がうまく頭の中に入ってこない。八束は、長畑の節ばった長い指が、落ち葉を拾うのを眺めていた。
「両親の友人だった男だ。両親が亡くなってから僕が成人するまで、財産だとか土地だとか、面倒な事を向こうで管理してくれていた。世話になったし、悪い男ではないんだけどね。少々人の話を聞かない所があって」
「あぁ……」
 なんとなく、それは先ほどの遭遇でわかる気がした。でも、それよりも、八束が気になったのは長畑の事だった。
「長畑さん、怒ってます……?」
 八束の不安そうな声に、長畑が意外そうに顔を上げる。
 自分が知っている長畑は、ここまで激しく感情を出す事はなかった。今まで口論的な事をしなかったわけではないが、自分が子供だからか向こうが大人だからか、苦笑いされて終わるくらいだった。
 長畑はしばらくじっと八束を見上げていたが、立ち上がると八束の肩に触れる。
「君に対してじゃないよ。来なくていいって言ったのに、勝手に来た彼には少し怒っているけどね」
 そう言って長畑は、苦笑いを浮かべる。
「僕だって彼が憎いわけじゃないし。ただちょっと意見が合わなくて、困っているだけで」
 長畑の口調は穏やかだった。先ほどの怒りなど感じさせないほどに。
「意見が合わないって……」
「まぁ、話すといろいろ複雑なんだけど」
長畑はそのまま歩いて八束を通り過ぎる。あの男の所へ向かうつもりなのだろう。そして振り返り、少し困った様に笑った。
「彼はどうしても僕に帰ってほしいらしい。イギリスに」

「へぇ……そんな事情がね」
 三崎も初耳だったのか、事情を話すと驚いていた。
 先ほど、三崎もグラハムとは出会っていた。相手は紳士的に丁寧な挨拶をしていたので、三崎は特に悪い感情は抱かなかったようだ。相変わらず倉庫で梱包の手伝いをしながら、八束は暗い気持ちになる。
「長畑さん、連れてかれちゃうんですかね……」
「どうかしらね。あの人も相当な頑固者だしいい歳だから、簡単に人の言う事なんて聞かないと思うけど」
 三崎も付き合いは長い様だが、長畑の向こうでの事情ははっきりと知らないらしい。
「じゃあ毎年、イギリスから何か送ってくれていたのって、そのグラハムさんなのかしらね」
「送って……?」
「毎年まめにね、イギリスからあの人宛に荷物が届くの。お裾分けしてもらった事もあるけど、長畑さんもはっきり言わないから……今年は紅茶、もらっていたじゃない」
「あ」
 八束は少し前に、台所にあった紅茶の缶を思い出す。普段飲まないのに、珍しいと思ったのだ。妙に高級そうな、銀色の缶だった。イギリスと言われて、八束にもやっと話の筋がわかってくる。
 以前、長畑が渋い顔をして読んでいた手紙。
 ―― 一言で言えば、僕にイギリスに来いと言ってる。
 長畑はそう言っていた。あのとき微かに読み取った、差出人の名前の頭文字はG――グラハム。あの手紙の差出人も、彼だったのだ。長畑は以前からあの男と連絡を取り合っていた。だが実際に訪ねてきたのは、三崎の反応的にも初めての事なのだろう。
「三崎さん。俺、その後見人っていうのがよくわからないんですけど……そんなに権力あるものなんですか?」
「んー、場合にもよるだろうけど、長畑さんの場合は成人するまでの間って事でしょう? 今のあの人にそこまでの権限なんてないんじゃないかなぁ。それに言っていたじゃない。向こうに行くつもりはないんだって。あの人が、他人に好き勝手されるのを許すようなタイプに見える?」
「……見えないです」
「でしょう? だったら大丈夫。あの人はあれで、案外根性据わっている人なんだから」
 三崎はそう言って笑うが、八束はどうも不安でならない。
 ――長畑がもし、自分の手が届かない様な遠くに行ってしまったら。
 自分は、一体はどうするのだろう?

 その日、園主の姿はそれきり見かけなかった。夕方になり、三崎は「あとお願いね」と言って帰って行った。
 八束も予定分の仕事はやり終えている。腕時計を見れば、時刻は午後六時半。まだ外は明るい。いつも長畑に一声かけて帰るのだが、二人はまだ事務所の奥から出て来ない。
 邪魔する事もできず、その場に行くのもなんだか気が引けて、八束は一人緑の葉が広がる園主の庭に座り込んで、夕日に染まるバラ園を眺めていた。今はあの初めて来た時のように、満開の花はないけれど、大きく形のよい青々とした葉が風に揺れていた。
 手入れの行きとどいた庭。健康そうなバラ達。まめに管理をする彼がいなくなったら、きっと瞬く間に荒れてしまうのではないだろうか。
 ――あの人が遠くにいってしまったら。
 そんな事を考えた事はなかった。初めてそう不安になったとき、長畑の心配ではなく自分がどうなるのか、という事を真っ先に思ってしまった自分が嫌だった。
 好きだと自覚してから数カ月。悩まなかった日なんて一日もない。
 何故初めて好きだ、と思った他人が男だったのだろう。今まで、そんな事は一度も思った事がなかったというのに。
 何度だって悩んだ。諦めた方がいい、俺はどうかしている――何度も自分にそう言い聞かせて、諦めようとした事もある。
 だがここに来て、あの男の顔を見たら駄目だった。真面目で穏やかで、仕事以外はかなりいい加減だが優しいあの男の事が、好きになっていくだけだった。
 誰にも言えない。こんな事、誰にも相談できない。心の中には、重しだけが増えていく。
 だが、今は決して口には出すまいと思っていた。このままの関係を壊すのが怖かったのだ。
 彼にとっての一番の幸せは、心の中の庭を眺める事。それを自分の手で作る事。そこには幸運にも、自分もカウントされている。それで十分だと思っていた。でも、と八束の心は揺れる。
(俺は我儘だ)
 服の袖を掴む。自分はあの人が好きだ。それだけでいい、そう何度も自分に言い聞かせていたのに。
(あの人にも同じだけ好かれたいと、どうしても思ってしまう)
 そのときだった。
 がしゃん、と何かが割れるような音に、八束の思考は現実に引き戻される。
「え……」
 嫌な予感がして、腰を浮かす。音は事務所の方から聞こえたような気がする。八束は立ち上がると、音のした方へ向かおうとした。だがそこで、今建物から出て来たらしいグラハムと鉢合わせする。
「……」
 ばったりといきなり出会ってしまって、八束は言葉を失った。背の高い、スーツ姿の男。目の前に立たれると、凄まじい威圧感があった。
 話はもう終わったのか。どうなったのか。今の音、何。気になるところだったが、うまく言葉が出て来ない。
「まだいたのかい、少年」
 グラハムは緑の瞳を細めながら、黙って己を見上げてくる八束を眺めている。怖い男だ、と本能は告げていた。でもここで引く事はできない気がして、八束は目に力を込めて、男を見上げた。
「……連れて行くんですか。長畑さんを」
 すると、今まで自分に対して全く興味を持っていないようだったグラハムの瞳が、興味深そうに動く。小さな、面白い物を見つけたような目だった。
「私は、そのつもりで来たんだけどね。君はそうしてほしくないわけだ」
「どうして」
 何故、彼をそこまでして連れて行こうとするのか。彼の意思ではないのに――八束のそんな、責めるような視線に、男は苦笑いのような笑みを浮かべる。
「君にもわかるような感情だと思うよ」
 意味がわからなかった。八束が返答に困っている間に、スーツ姿の男は八束の側をすり抜けて、出口に向かって歩いて行く。
「今日はもう帰るよ。しばらくこちらにいる。また来るつもりだから、そのときはよろしくね」
 グラハムは足を止め、八束を一度振り返った。そしてゆっくりと周囲を眺める。
「ここは、美しい庭だね」
「当たり前です。あの人が造った庭ですから」
「まぁ、そうだね。そうだろうね」
 グラハムはそう言って微笑む。その笑みだけ見ていれば、このマフィアのような男からは優しそうな雰囲気さえ感じる事ができた。
「じゃあまたね、少年。永智によろしく」
 グラハムはそう八束に告げると、今度こそ振り返らずに、茂みの向こうへと消えて行った。その男の姿が完全に見えなくなるまで後ろ姿を見送って、八束は事務所へ向けて走る。長畑の事が、心配だった。