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海の向こうから来た薔薇

04 園主と後見人


 急いで靴を脱ぐと、室内に駆け上がる。
 台所を通り抜け、室内に踏み込もうとして――足下の床に、グラスの破片が飛び散っているのに気が付いた。先ほどの何かが割れたような音は、これのようだった。
 普段室内でスリッパを使っていないので、八束はそれを踏まないように避けながら奥へ進む。
 辺りを見回すが、長畑の姿はない。八束はもう、何だか泣きたい気分だった。彼らの「話」が穏やかなものではなかった事が、ありありとわかるようで。一日でいろいろとあり過ぎて、自分の決して賢くはない脳みそでは処理できない。
 自分が何か言える立場ではないのはわかっていたが。
「長畑さん……」
 遠慮して待たずに、様子を見に来れば良かったのか。思ってもそんな事、多分できなかっただろう。だがそう思わずにはいられなかった。室内が荒れている様子は、割れたグラス以外なさそうだが、彼の身に何か起きていないか、不安で不安でしょうがなかった。
 あの男の意味深な言葉。放置されたままのグラスの破片。
 見当たらない園主。嫌に静かな室内。
 ぐちゃぐちゃになった、自分の気持ち。
「長畑さん!」
 わけがわからなくなって、八束は叫んだ。彼の顔が見たくて、話が聞きたくて。呼ぶ声が聞こえたのだろうか。奥の方で人の気配がした。
 軽い足音と共に、向かいの引き戸が開く。そこには長畑が、泣きそうな顔をした自分に驚いたような顔をしている。本人は特に何があったわけでもない様子で、手にはほうきとちりとりを握って。
「あ……」
 目が合って、八束は狼狽えた。顔を見て安心したとか、何があったのかとか、聞きたい事は山ほどあったし、何より怪我とかなさそうで良かったとか、何にもされてないですよねとか、そんな思いがどんどん内から湧いてくる。言いたい事がありすぎて、何から言ったらいいのかわからない。
 そんな無言で、挙動不審な八束を黙って見つめる長畑の視線は、八束の顔からゆっくりと下に移る。
「……八束、足!」
「え」
 突然の、長畑の焦ったような声に驚いて、八束は己の足下を見る。床に血が滲んでいた。
 右足が、気付かずグラスの破片を踏んでいたらしい。興奮しすぎて、痛みには全く気が付いていなかった。足の裏が真っ赤に染まっている。うわぁ、と思う前に、長畑に腕を引き寄せられ、半ば抱えられるように廊下を運ばれる。
「え、ちょ……ちょっと」
「いいから手当てが先!」
「は、はい」
 真顔でそんな事言われたら、八束も反論できない。と言うより、この男の片腕に軽々と抱えられてしまう自分は何なのだろう、と凹む気持ちの方が強かった。優男なのにやっぱり力あるんだなぁ、とか。身長差もあるから仕方が無い事なのだが。

(この人の事を心配して来たのに、自分が怪我してどうするんだ……)
 そんな思いで、八束のテンションは下がる一方だった。
 幸い大きめの破片を踏んだだけのようで、中に破片が食いこんだりはしていない。
「大丈夫? 今からでも病院に」
「いや、大丈夫ですよ…すみません……」
 長畑の声を遮って、八束は場を取り繕うように笑う。
 客間のソファに座らされ、怪我した足の裏を長畑に手当てされているという、恥ずかしさと情けなさ。あまり生活感のない家ではあるが、一応救急箱はあったらしい。ひとまず傷口を洗われて消毒され、包帯を巻かれる。
「ごめんね。僕が早く片付ければ良かったんだけど」
「あ、いや、大丈夫です。俺が勝手に怪我しただけですから……」
 長畑は申し訳なさそうに謝るが、破片に気づいていながら踏んだ事に気づかなかった自分も、相当アレだと思っている。
「長畑さんは怪我とかないんですか?」
「怪我?」
 長畑は首を傾げる。見た所、彼には怪我らしいものはない。
「いや、だって……あの人と揉めたんじゃ……」
「ああ」
 ようやく理解したらしく、長畑が笑った。
「彼とは揉めたわけじゃないよ。グラスは彼に出した物を、僕がうっかり落としただけだから」
「え」
「だって、でかい男が二人してここで暴れていたら、この家滅茶苦茶になっているよ」
 確かにそうだろうけど、と思いながら、八束は部屋を見回した。そっけないが、よく片付けられたいつもの部屋だ。
 それでは、自分が心配したような事はなかったと言う事か? どうも、少々的外れな事を真剣に心配していたらしい。長畑は八束の足に包帯を巻き終わると、八束の隣に腰掛ける。
「彼……グラハムとは、お茶を飲んで昔話して、これからの事をちょっと話しただけだよ。君が心配する様な事は何もない」
 八束は隣に座る長畑の顔を見る。笑っているが、少し疲れているようにも見えた。
「あの人って、どういう人なんですか?」
「彼は、イギリスで建築会社を経営している。別に法に触れるような仕事をしているわけでもないから、安心してね。まぁ強面だから仕方ないけど」
 八束が彼の第一印象を「マフィア」だとかなんだとか思っていたのは、長畑にはお見通しのようだった。自分はどうも、顔に出やすいらしい。
 とりあえず笑って、八束は誤魔化しておいた。
「それで、まぁ話した通り、彼は僕の両親の友人だった。歳は離れていたけどね。学生時代に日本にいた事があるって言っていたから、それがきっかけだと思う。子供のときに遊んでもらった事もあるし、僕にとっては知り合いの、仲の良い兄さんみたいなものだったわけだけど」
 その後両親は事故で他界し、財産などは長畑に相続される事になった。
 しかし当時彼はまだ幼く、頼れる親戚も現地におらず、それであれこれ助けてくれたのが、あのグラハムだったのだという。
 法的な事では世話になったが、特に彼の元へ身を寄せていたわけでもなく、学校は寮に入って通っていたし、年に何度か会うだけだった、と長畑は語る。
「元々離れて暮らしていたから、今回みたいによく手紙でやりとりしていたね。いろいろ好きにさせてくれたし、僕が造園の仕事がしたいって言って勝手に職を見つけて来たときも、何も言わなかった。ただ、独立して日本に行くって言った時に、初めて反対された」
「なんで……?」
「イギリスでもできる仕事だろって。むしろ向こうの方が本場と言うか、造園関係は歴史もあっていろいろ進んでいるのに、なんでそんな所行くんだって言われてね。僕はいずれ帰るつもりだったし、独立できるチャンスもこちらの方があるかなと思ったんだけど」
 長畑からグラハムへの報告は、事後報告のようなものであったらしい。その後のやりとりがどんなものであったかは語らなかったが、見かけによらず頑固な男だ。八束にも何となく想像がつく。きっともめて、酷くこじれたまま、長畑は日本に帰って来たのだ。
「その後も何度か連絡はしていたけど、グラハムが僕を認める事はなかった。いい加減だとか、なってないとか、まぁぼろくそに言ってくれるものだから、僕も意地になってね。勉強し直しに帰ってこいとか散々言われていたけど無視していたら、勝手に来られた。それが今日の話」
 長畑はため息をつく。
「だから殴り合いもしていないし、ここで喧嘩していたわけじゃない。君が心配する様な事は何もないよ」
 そんな長畑を眺めながら、八束は去り際のグラハムの様子を思い出していた。
 彼は自分を認めてくれる事はなかった、と長畑は言う。だが去り際にグラハムは庭を見渡して、美しい庭だと言っていた。八束に見せた穏やかな表情――それは彼を認めているって事じゃないのか? と八束は思う。
 長畑に、イギリスへ戻ってほしいと言うグラハム。
「何故?」と聞いた八束に、グラハムは「君にもわかる感情」だと言った。
(俺にもわかる感情……)
 自分は、長畑にイギリスに行ってほしくない、と思った。それは彼へのメリットどうこうではなく、ただ単純に自分が会えなくなるのが嫌だったからだ。
 グラハムも、日本に来る事を反対していた。彼の仕事を認めているのに、貶してまで自分の元へ帰そうとしていたのであれば。
 ――君にもわかる感情。
 グラハムの言った言葉に、あぁ、と何か納得がいった。
 あの男も、この男の事が好きだと言うのか? 
 自分の元を離れてしまうのが嫌だから。近くに居てほしいと思うから。これは、そういう話なんじゃないのか?
(……なんだ。俺と同じなんじゃないか)
 そう思うと、あの強面で自分より年上の異国の男が、随分と身近に感じられた。
 グラハムはあのとき気が付いたのだろうか? 目の前の子供も、長畑の事が好きだと言う事を。
「今日は送っていくよ。傷むようなら必ず、明日病院へ行くんだよ」
 そう言いながら優しく自分に笑いかけるこの男は、その気持ちに気づいているのだろうか。人当たりも良くて優しい男なのに、人の気持ちに関してはかなり鈍感な様な気もする。鈍感と言うか、気付いているのに、気付いていないふりをしているような気さえする。
 そんな疑いを持ってしまう。八束だって鈍い方だが、今日初めて出会った男の気持ちがわかるのに、長年付き合いのある人間の気持ちくらいわかるんじゃないのか、と思ってしまうのだ。
 確かめたかった。長畑がどう思っているのか、聞いてみたかった。だけど彼が自分に心の内を語ってくれるとは思えなかったし、確かめる勇気もなかった。
(俺、駄目駄目じゃないか……)
 自分は臆病で、今の関係が壊れるのが怖くて、「好きだ」という気持ちは伝えない、と勝手に誓った。今はこれでいいのだ、と自分に強く思い込ませた。
 でもこれから先、長畑が自分以外の誰かを選んだとき、自分は多分嫉妬に狂ってまた意味不明な事を言うかもしれない。長畑を傷つける様な事を言うかもしれない。それが目に見えていた。自分で言わない、と誓っている癖に。
「立てる?」
 長畑が目の前に手を差しだしてくる。
「……はい」
 少し躊躇して、手を握って立ちあがった。足の痛みはそれほどでもない。ただ考える事が多くて、夏の暑さも重なってくらくらする。
 全ては、この男を好きにならなければ生まれなかった悩みだ。後悔はしていない。出会わなければ良かっただなんて、これっぽっちも思っちゃいない。
 だが、出口の閉ざされた迷路にいるようで、八束にはどうしたらいいのか全くわからなくなっていた。