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海の向こうから来た薔薇

05 ばら撒かれた餌に引っ掛かる


 自転車ならこの足でも帰れると告げたのだが、長畑は「送る」と言って聞かなかった。
 八束としても彼の手を煩わせるのは申し訳なかったのだが、断れる雰囲気でもなかったので、そのまま甘える事にする。自転車はまた取りにくればいい。
 長畑は、八束がいつもより言葉少なめなのを怪我のせいかと思っているかもしれないが、そういう事ではなかった。
 足の怪我なんか大した事ない。問題は、今の八束が抱える心の重さだった。この数カ月で少しずつ蓄積してきた何かが、今日の事をきっかけにあふれ出しそうな感じがしていた。今までうまい事おさめてきたものが、はみ出して蓋が閉まらなくなったような。
(体も小さいが、我慢できる容量も小さいのか、俺は)
 そんな自分自身に、苛々している。
 他の人間に小柄な事を指摘されたら普段は苛立つが、今なら素直に認めるだろう。周囲が大人ばかりだから、己の幼さに嫌という程気がついて、自己嫌悪に陥っている。
(いや、違う)
 また周囲のせいにしている、と八束は唇を噛んだ。
(悪いのは俺だ。煮え切らない、踏み切れない俺の)
(こんなぐるぐる情けなく悩んでる、どうしようもない俺の――)
「すぐ着くから、少し辛抱してね」
「あ、はい」
 車に乗ってから初めて沈黙を破る長畑の言葉に、八束は慌てて返事をした。家までの距離は自転車でも遠く感じないのだから、車で走ればすぐの距離なのだ。だが今、この密室で、二人でいる時間を、何故かどうしようもなく長く感じた。長畑も責任を感じているのだろうか。
 この怪我は貴方のせいじゃない。それを気に病んではほしくない。俺の完全な自損事故です。気付いていたのに踏んだ俺がバカなだけ――そう言いはしたが、長畑はそう思ってはくれていないようだった。
(あぁ、駄目だな俺)
 八束は頭を抱えたい気持ちだった。
 この人に心配かけるつもりじゃないのに。この人のこんな顔が、見たいわけじゃないのに。
「明日はちゃんと病院行きますから、大丈夫です。痛みはあまりないですから」
「本当に? 何なら今からでも」
「大丈夫ですよ、ほんとに。そんな酷いものじゃないですから」
 ぶんぶんと首を振って、八束は笑う。笑うが、長畑の顔に笑みはない。
「君に何かあったら、親御さんに申し訳が立たない」
 そう答える長畑に、八束の笑みは固まる。
 この男は雇用主で年上で、ある意味保護者で、歳の離れた友人のようで。自分はまだこの男から見たらただの子供で、手のかかる存在なのかもしれない。そもそも自分はあのバラ園で戦力になっているのやら。そう思うと不安になった。
「……すみません。迷惑かけてばかりで」
 思えば雇ってほしいといきなり押しかけて、ずぶの素人にあれこれ教えてくれたのは彼の善意だ。それに甘えて、自分は今までこうしてきた。
 ――君といて楽しいと思っていたのに。
 長畑の言った言葉。あのときは本当にそれが嬉しくてたまらなかったのに、今は本当か素直に信じる事ができない。心は悪い方ばかりへ考えている。
「迷惑だなんて言った覚えはないよ、僕は」
 それに答える長畑の声は、少し苛立っているようにも感じた。怒られているのかと思ったが、声音に反した台詞にどう反応したらいいのかわからない。運転中の長畑の視線は前に向けられたままだ。
「君が僕のところで働くとなった以上、僕は君を守らなきゃいけないし、事情は知っているから助けになりたいと思っているよ。でも、仕事する上で迷惑になっているのであれば、僕はそうはっきり言っている」
「……」
「君は良くやってくれているよ。申し訳ないくらいに」
 その言葉自体は嬉しい。長畑が本当にそう思ってくれていたのなら。
 でも、もし。もし八束が、長畑に負担をかけるような事を言ったら?
(貴方はそのときは、俺を切り捨てる?)
 長畑の事を好きだと言ったら。
 ──貴方にとって、それは迷惑ですか?
 言葉が喉の奥まで上ってきた。だがぎりぎり音になる直前で、それを飲み込む。八束が、不自然に黙り込んだからだろうか。
「……僕の思い違いならいいんだけど」
 長畑が心配そうに視線を寄越す。
「君は、何か悩んでいる……?」
 どくん、とその言葉に心臓が跳ねた。
「いえ。何も」
 首を振って、八束は笑った。笑ってごまかしたつもりだが、うまく笑えていたのか自信がない。引きつっていたかもしれない。長畑は何か言いたげな顔をしていたが、ならいい、と視線を前に戻す。
 密室で、二人きりで。忙しくしているこの人と語れる機会なんて、滅多になかったのに。好きだと伝えるなら、今くらいしかチャンスはなかったかもしれないのに。
(でも俺は、この人に邪魔扱いはされたくないんだ)
 この男に、余計な物を背負わせたくない。やりたい事をやって、日々楽しそうにしているこの男を見るのが好きだからだ。
(俺がこの気持ちを飲み込みさえすれば、これは終わる話なんだ)
 好きな人の負担になりたい人間が、どこにいるというのだろう。八束は外の景色を眺めながら、唇を噛んだ。

 家に着いたとき、長畑は「明日は休んでいいよ」と言った。別に大丈夫だと言ったが、「いいから病院行って、たまにはゆっくりしたらいい。君も疲れているみたいだし」とも言われた。
 確かに夏休みの間はこのところ、アルバイトに行きっぱなしで、休みらしいものはあまりなかった。友人と会う事もあまりなかったような夏休みだが、それも別に悪くないと思っていた。
 自分はあのバラ園に行きたかったし稼ぎたかったし、体力も有り余っていたし、何よりこの男に会いたかった。そんな突然の休みは、とても喜べなかった。

 だが次の日は約束通り、バイトを休んで病院に行った。長畑との約束だからだ。
 やはりというか、傷は縫うほど酷いものではなく、ただ夏だから化膿に気をつけて、と薬をもらって包帯を新しく巻き直されただけだった。
 自転車は昨日置いて来ていたし、母親は仕事。市街地にある病院には、バスを乗り継いで行くしかない。
 病院の帰り、一時間に二本出るか出ないかのバスの時刻表を確かめて、八束はため息をつくと、バス停のベンチに座る。家方面のバスはちょうど出たところだった。次のバスまでは、四十分近く待たねばならない。誰もいないバス停。蝉の鳴き声はうるさいし、日差しもきつい。腰を下ろしたベンチも熱い。
「疲れているわけじゃないんですよ……」
 昨日の長畑の言葉を思い出して、八束は独りで呟いた。
「悩み」を指摘されたときは驚いたが、それが何なのかまではあの男は気付いていないらしい。それに安堵したのと同じくらい、絶望もしている。
 この思いに気が付いた時も相当悩んだが、そのときはまだ希望があった気がする。人を好きだと思ったのは初めての事だったし、浮かれていたし、不安ながらもまだ頑張ろうと思えていた。
 だが時が経つにつれ、この思いは叶わないのだと自覚する。それなのに思いは強くなる一方で、一向に諦めようなんて気になれないでいた。だが、疲れているわけじゃない。そうじゃないと思う。
(いや、疲れているのか?)
 何かもう、自分でもよくわからなくなってきた。自分がこんなに重たい男だとは思わなかった。そう、八束がもう一度ため息をついたときだった。
 目の前に黒塗りの車が止まる。
 八束は思いきり、眉をしかめる。忘れようにも忘れられない、昨日の車だ。
「やっぱり。昨日の少年じゃないか」
 そう言って窓を開けてこちらを見るのは、自分が答えの出ない感情の渦に巻き込まれるきっかけを作った男だった。黒髪に、緑の瞳の中年の男。
「グラハムさん……」
 名を呼ぶと、当の男はにっかりと笑ってこちらを見て、車から降りて来た。わざわざ八束を見かけたので、車を停めたらしい。何事かと思ったが、物好きだなと思う。
「どうしたの。今日はお仕事、お休み?」
「まぁその、そうですけど」
 ぶっきらぼうに返してしまうのは、まだこの男に対する警戒心が解けていないせいだった。長畑の古くからの知り合い。いろいろ思うところはあるにしても、まだ八束はこの男を知らな過ぎる。
「君、暇そうだね。私も暇なんだよ、この土地には永智しか知り合いがいないし、彼はかまってくれないし。ちょいと私に付き合わない? 家まではちゃんと送ってあげるから」
「……は?」
 突然の申し出に八束の思考が止まる。そう言えば長畑が言っていた。悪い人ではないが、人の話を聞かないところがあると。
「何で、アンタに付き合わにゃならんのですか」
 人を勝手に暇と決めつけるな、そういった反発心がむくむくと湧いてくる。確かに暇ではあったが、よく知りもしない男に暇人扱いされたくはない。睨むように見上げると、グラハムは少し意地悪く笑った。
「いいじゃない。少し親睦を深めようよ。永智の事も、少しくらいなら話してあげるからさ」
「……」
 それが自分にとって、最大の餌だった気がする。これ見よがしにばら撒かれた、一番の餌。