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海の向こうから来た薔薇

06 紅茶にあらず


 暑いからお茶でもしようか、と引きずられるように入った駅近くのコーヒーショップは、夏休み中の午後と言う事もあって混んでいた。
 そんな中、背の高い背広姿の外国人と高校生という組み合わせは、非常に視線を集める。もしかしたら八束の知り合いもその中にいたかもしれないが、それは別に見られたって構わないと思う。やましい事は何もない。
 だが適当に席を見つけ座ったはいいものの、よく考えなくてもこの男とは、ほとんど話した事がない。知らない人について行ってはいけません、と小学生の頃に言われた事を、今更思い出していた。
「君若いよねぇ。いくつ?」
「十七ですよ。一応」
「へぇ」
 多分もっと若い、と思われていたような反応だった。どれだけ子供と思われていたんだよと思いながら、八束はアイスコーヒーのストローを噛む。
「永智が褒めていたからね。しっかりしてるって」
「そう、ですか?」
 八束は怪訝な表情を浮かべた。しっかりはしていないと自分では思う。でないと、こんな事になっていない。
「でも実際会ったら、中学生くらいなのかと思っていたから。こんな若い子雇って大丈夫なの? と思っていたんだよね。悪い悪い」
「……」
(うるせー俺だって好きでちっさいわけじゃねぇんだよ)
 という言葉が喉まで出かかったが、言いたくても言えなかった。確かに、海の向こうの人にとっては、小柄で童顔な自分は幼く見えるのだろう。頬がひくりとなったが、耐える事にする。始終こんな調子では、長畑が不機嫌になるのもわかる気がした。多分、本人に悪気はないのだろう。グラハムはにこにこと、こちらを見つめている。
「ところで足どうしたの? 昨日は怪我してなかったよね」
 グラハムには病院帰りだと言う事を伝えてなかった。サンダル履きの右足には、昨日はなかった包帯が巻かれている。それを見て、気になっていたらしい。
「昨日あれからちょっと。ひどくはないんですけど」
「そうかい。まぁお大事にね。膿んだりしたら面倒だよ」
 そう言いながら、グラハムは紙コップのコーヒーを啜る。
(そう言えば俺、この人と呑気にコーヒー飲んでる場合じゃないじゃん……)
「強面」「マフィア」と思っていた目の前の男は意外にも人当たりが良く、言葉も流暢で、話す分には全く問題ない。少々無神経だが、そんなに悪い人でもないのでは? という思いも浮かんでくる。
 だがこの人は、長畑に「イギリスに帰ってほしい」と思っているのだ。そして多分、自分と同類の思いを抱えている。
 聞きたい事、言いたい事は山ほどあったのだ。少し考えて、八束はストレートに問いかけてみた。
「グラハムさんは、長畑さんの事好きなんですか?」
「好きだよ」
 問うのは勇気がいる事だった。しかしグラハムは緑の瞳を細めて、薄く笑いながらあっさりと答える。
「でも君は、どういう意味でそれを聞いているの? 私と彼は昔からの付き合いだし、友人と言う意味で? それとも、男女の間のような意味で?」
「え……っと、それは」
 意地の悪い質問だと思った。生々しい質問に頬が熱くなる。自分は後者だと思い込んでいた。早まった事を聞いたのかもしれない、という思いもあったが、八束には何となく確信的な思いもあった。
「どちらかなんてのは、別に気にしてないんです。グラハムさん、すごく長畑さんにこだわっている気がして。俺の勘違いなら謝りますけど」
「こだわる、ねぇ。確かに。だから私は永智に言わせたら重くてうるさくて面倒な存在なのだろうねぇ」
「……」
 別にそこまでは聞いていないのだが。自覚あるんだこの人、と八束は密かに思った。
「でも君もそうでしょう? 永智にこだわっている。あの男は大変だよ? 頑固だし口は悪いし、下手に頭が回るぶん扱い辛くて」
「別に、口は悪くないと思うんですけど」
「そりゃ君、君の前では猫かぶっているもの」
 グラハムはため息をつく。昨日長畑は「揉めてない」と言っていたが、口では結構やり合ったのかもしれない。あの自分への穏やかさは「猫かぶり」になるのだろうか? 八束にはよくわからない。
 だが、長畑がグラハムにきつく当たる理由というのは、なんとなく八束にはわかるのだ。
 彼はグラハムが自分の仕事を認めていないと思っている。認めようともしていない、とも。他人に言われるよりも、身内から言われる事の方が腹立たしく思う事はあるものだ。だから温厚な彼も、それほどに噛みつくのだと思う、のだが。
「グラハムさんは何で長畑さんの事、認めてあげないんですか?」
「認めてないわけじゃない」
「じゃあ何で」
「まぁ、タイミングを逃した、と言うか何と言うか。やっちまった、と言うべきか」
 グラハムは不機嫌そうに頬杖をついた。
「別に私は、彼がこの道に進むのが嫌だったわけじゃないよ、彼の人生だからね。日本に行くからって言われた時は最初えーって思ったけど。考えてみれば永智はもともとこっちにいたわけだから、おかしな話じゃないんだよね」
 言いながら当時の事を思い出したのか、グラハムは息を深く吐き出した。
「……でも当時の私は、彼が何も言わずに勝手に決めた事に腹が立ってしまって。彼はずっと向こうにいてくれるのだとばかり思っていたから」
(――それはつまり)
 八束は呆れて、ストローを口に含んだ。
 つまりグラハムは、「イギリスを離れる」と告げた長畑に、彼を頭から否定するような言葉を、勢いでぶつけたのだろう。
 何を言ったのかは知らないが、長畑の反応とグラハムの顔を見る限り、そんな予想がついた。大人げない、と思ったが言わないでおいた。自分も同じ事をしないとは言い切れない。
「しっかりやっている事は知っていたんだけど、あれだけ毒舌ぶつけた後ではさすがの私も手のひら返せないね。もうそう言うキャラでいくしかないよ」
 あはは、とグラハムは笑うが、少し寂しそうでもあった。
「アンタが悪いんじゃねぇか」とは何か可哀想になってしまって、言えない。だが、ふとグラハムの言葉に引っ掛かりを感じた。
「えっと……長畑さんって、ずっと海外にいたんじゃないんですか? 日本にもいたんですか?」
「いたよ。子供の頃だから、その頃の事を覚えているかは知らないがね」
 八束は、そのあたりをはっきりと聞いていなかった。両親の話に触れそうで、聞きづらかったのだ。
「彼のお父上は日本人で、大学で建築学を教えている教授だった。私は若い頃、日本の大学に留学していた事があってね。そこで、彼と出会ったんだ」
 もう二十年近く前になるかなぁ、とグラハムは思い出すように語った。
 異国の建築に興味を抱いたグラハムが、単身こちらへ留学に来ていた際の事だったという。学部の生徒数人で、ゼミの教授の家を訪れる機会があった。
 教授の妻は東欧出身の女性で、美しい人だったなぁ、とグラハムは言う。
「そこで幼い永智と初めて会った。そりゃもう天使のような子だったね。可愛くて。ほんとに天使だったね。今より素直だったし」
「……変態」
 恥ずかしげもなく熱く語るグラハムに、八束はその言葉を呟く事を止められなかった。八束も彼の子供時代の写真は見た事があるが、確かにお人形さんのようだった気がする。天使、とまでは思わなかったが。
「何とでも言うがいい。あの子は当時英語を話さなかったから、私が必死こいて日本語覚えたよ。話したかったからね」
 邪な理由で勉強に励み、驚異的な速度で語学を身につけ、そうするうちに大学の授業も身について、彼は良い成績をおさめて本国へ帰国。建築士として順調な道を歩んでいた。
 数年後に長畑の父親が縁あって、イギリスの大学に呼ばれ教授をする事になり、そのときに再会したらしい。
 駆けだしの建築士と少年と、その家族。その付き合いはずっと続くかに思えたが、突然の事故で教授夫妻が亡くなった。
「ずっと泣かない永智が不思議でね。日本ってのは、葬儀で泣いちゃいけないって決まりでもあるのかい?」
「いや、それはないと思いますが」
「そうか。まぁ、痛ましくてね。彼は『一人でも大丈夫』って言うし。寮のある学校に行くから心配いらないなんて言うけど、私としてはもっと頼ってほしかったのに」
 もちろん子供一人、社会の中で生きていけるわけがない。
 あとは長畑が語った通りなのだろう。グラハムは長畑を後ろから支え続け、長畑はただ、自分のしたいように突き進んできただけ。
「彼はとにかく強くて、自立意識が強い人間で。容姿からは想像できないくらい、しぶとく生きてきた男だよ」
 それは八束の知らない、長畑の空白の時間だ。
「……本当に好きなんですね。あの人の事」
「そりゃもう。わかるかい少年。私だって彼の事を思って生きてきたんだよ」
 そう言うグラハムは、穏やかではあったが『好きだ、という歴史がお前とは違うのだ』とも言われているようで、八束は気が重たくなる。自分なんかよりずっと近くにいた人間なのに、長畑だって、それをわかっていないはずがない。
「好きだって伝えたらあの人だって、グラハムさんになら応えたかもしれないのに」
「共に過ごした期間が、愛情に比例するわけではないよ。それに真剣に伝えようとした事はも何度あったし、勢いに任せて押し倒そうと思った事は数知れないし」
「……」
「そんな怖い顔しないでくれる?」
 じと目で睨むと、グラハムは苦笑いをした。
「もちろん未遂だけどね。そんな事したら一生口聞いてくれなくなると思って自重していたよ。そっちの方が私にとっては死活問題なので」
「でも、言うチャンスはあったんでしょう?」
「あったのかなぁ。今となってはわからないね。でもどっちにしろ、私は言うタイミングを逃した気がするね。今更そんな気はない」
「タイミング……ですか」
「うん。でもまぁ、出会った頃は天使の様だった永智も、今は立派な男になったし……あんなに背伸びるとは思わなかったけど。彼は今ここでそこそこ楽しくやっているようだし、誰の助けも必要としてない。もとより彼は、誰の手も求めてなかったけどね。彼が一番大変な時に求められなかった時点で、私は駄目だったのさ。彼が大事な事に変わりはないがね。今でも好きだよ、永智の事は」
 ただその愛情は、年月をかけて少しずつ姿を変えつつあるだけ――グラハムはそう語った。
「伝わらなくてもいい、と思っているんですか?」
「大事なのは、彼が幸せでいる事だからね」
 あっさりと言ってのけるグラハムに、八束は敵わない、と思った。自分はそんなに達観して人を想えない。
 この男は口では、イギリスへ帰ってほしいと言う。多分本当に帰ってくれたら、それに越した事はないのだろう。でもそれは、今やこの男にとって、長畑と会話をする口実でしかなくなっている。結局は長畑が元気でやっていればそれでいい、と思っているのだろう。手に入らないのをわかった上で。
 自分の手の中にいなくてもいい――そんな見守るような愛情なんて、自分の感情もろくに制御できない自分には抱けそうもない。氷ばかりになったグラスを両手で握る八束を、覗きこむようにグラハムは微笑みかける。
「でも、そう思うのは私が歳をとったせいだとは思うよ。君はまだ若いからね。どんなふうに道をたどってくれるのか、私はそれを楽しんで眺めていようと思う」
「え……」
 グラハムの言葉に、八束が驚いたように視線を上げた。
「永智は君を気に入っている。多分そんな風に、人に懐かれた事がないから。そして君も永智の事を気に入っている。でも、どうする? 永智からは絶対に動いてくれないよ。君が動かなければね」
 グラハムは意地悪そうに笑った。
「でもそんな事、俺にできると……」
「さぁねぇ、こればっかりは私にも。君の好きな通り、思う通りにやってみればいい。ただ、彼を傷つけるような真似は許さない。私の耳に入った時点で、その辺りの山に埋まる事は覚悟してもらう。まぁ君なら大丈夫だろうけど。この辺りは隠せるところ、多そうだからねぇ」
 グラハムは窓の外を見ながら、真顔で付け加える。
(ちょっと待て、今物騒な事あっさり言いやがったぞこの人)
 やっぱりマフィアみたいなものじゃないかと、八束はげっそりとしてきた。ジョークかもしれないが怖い。やっぱりこの男、怖い。
「冗談だよ」
 怯える八束を見て、グラハムはにっこりと笑った。
(目が笑ってないんですけど……)
 八束はその言葉を、喉の奥に飲み込む事にした。グラハムはそんな八束の反応を楽しそうに眺めている。
「私は、君の味方をするつもりはない。でも誰かに心を開いた永智の姿も見てみたい。それだけだからね」
(つまりは下手をすると、やっぱり俺は埋められるのか)
 八束はため息をついた。この男と話す事で、何か答えを出せるかもしれないと思った自分が馬鹿だった。逆に悩みが増えた気がする。
「あぁそうだ。君お昼まだでしょう? 何か食べれば? 強引に誘ったし、おごってあげるよ」
「いいですよ、昼飯くらい自分で払いますから」
「可愛いくないなぁ、そういうところは素直に甘えなさいよ。すみませーん」
 グラハムはメニュー表を片手に、手馴れた様子で店員を呼び始めた。


 店を出る頃には太陽の位置は大分下がってはいたが、まだアスファルトは焼ける様な熱を放っている。炎天下の下に置かれていた黒い車も、火傷しそうな熱さだ。
「あの……ご馳走様でした」
 結局、軽食を奢ってもらってしまった。コーヒー代まで払ってもらってしまった。
「いいのいいの、こっちが勝手に誘ったんだし。成長期の若者は食べねばね」
 グラハムはそう言いながら、機嫌よさげに歩いている。
 ある意味同類で、自分よりも相手の事を良く知る男との会話は、収穫があったような、なかったような。ただこの男を少し理解できた、それだけは確かだと思う。
 悪い男ではないが面倒臭いし、少々怖い──それが八束の抱いた、グラハムへの感想だ。 「さて。君の家まで送るよ。家どこにあるの?」
 運転席でグラハムがカーナビを操作している。そう言えばお茶した後に家まで送ってくれるとかそういう約束だったな、と八束は思い出した。
「家はいいです。俺、長畑さんのところに自転車置いているんで、それに乗って帰ります」
「あ、そう? なら私も永智の所寄って行こうかな。君がいたらぼろくそに言われなくてすむかもしれない」
「貴方は一度謝った方がいいと思いますよ……」
 笑うグラハムを横目で見ながら、八束は長畑の事を考えていた。昨日は何となく気まずい思いをして別れてしまった。今日はうまく話せるだろうか。
(この人もセットだけど……)
 それが一番、大きな不安だ。