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海の向こうから来た薔薇

07 ダウン


「ところでグラハムさん、いつまで日本にいるんですか?」
「来週末までいるよ。なに、早く帰ってほしい?」
「いや、そう言うわけじゃないんですけども……」
 八束は口ごもる。運転中のグラハムは、そんな八束の様子にけたけたと笑って見せた。
「私も向こうで仕事があるし、ずっと居座るつもりなんてないよ。こっちにも休暇半分、仕事半分で来ているから」
「仕事? こっちで?」
 確か彼は、建築士だと言っていた。向こうで建築会社を経営しているらしいので、この男は四十そこそこで「社長」になるのだろう。
「留学生時代の友人とか、知り合いが何人かこちらにいるし。実は、日本には結構頻繁に来ていたんだよ? ここまで会いに来たのは初めてだけどね」
 じゃないと言葉を忘れてしまうよ、とグラハムは言った。
 英国在住なのに、かなり流暢に話せるのはそのせいなのだろう。好きな男と会話をする為だけにここまで話せるようになった、というのには八束も正直感心する。
 逆の立場になって、八束が英語もしくは他の言語を話せる様になれ、と言われたらどうするだろうか、と考えた。 多分勉強はするとは思うのだが、ここまで流暢に話す事はできないかもしれない。
「グラハムさんって、長畑さんと喧嘩するときは英語と日本語、どっちで話しているんですか?」
「喧嘩とは失礼な。コミュニケーションだよ。……多分」
 最後、少し自信なさげにグラハムは言葉を付け加えた。
「最近は日本語。私の方がやっぱり語彙が少ないから、どうしても負けるよね。でも永智にファックとか言われたら凄く落ち込みそうな気がするから、それでいい」
「あぁ……」
(この人も苦労しているんだなぁ)
 別に彼以外に言われるのは構わないんだけどねーと語るグラハムに、八束は何となく同情のような視線を向けた。
(この人、長畑さんの事、凄く好きなんだなぁ……)
 昨日出会ったとき、八束はこの男とは「同類」だと思った。
 同じ相手を好きだ、という確信にも似た香りを香りを感じ取ったのだ。だがその同じ相手に苦労してるところまで同じだとは、予想外だった。この男はもう少し先を行っているのだと思っていたからだ。
 八束と彼の苦労は、少し方向性が違う。グラハムは自分が言った事のせいで長畑とうまく話せなくなったと思っているし、八束は関係自体は悪くないが、自分が抱いた感情にどうしたらいいのかわからなくなり、それが態度に出てしまって、どこか長畑とぎくしゃくしてしまった。ライバルだと言えばそうなのかもしれないが、青臭い自分とは別の次元で苦労しているこの男も、少しは報われてほしいと八束は思う。
(って言うか長畑さんは、この人の事本当はどう思っているんだろう?)
 意見が合わなくて困っているとは言っていたが、あの男が八束の前で、他人に対する負の感情など正直に吐くわけがない。八束は長畑が怒るところなんて見た事がない。だから彼が数年ひきずるほどに怒ったと言うのは、よっぽどの事だったと思うのだ。
(俺が、首突っ込んでいいわけじゃないんだろうけど)
 でもここまで話を聞いてしまって、知らんふりをすることも、八束にはできなかった。


 八束の自転車は、昨日と同じ場所に停まったままだった。道の脇に停めていたというのに撤去されていない辺り、いい意味でのどかな地域だと思う。
 時刻は十五時を過ぎているが、未だに日差しはきつくて暑かった。山が近いので、先ほどまでいた駅周辺に比べれば、まだこの辺りは涼しい方だったが、今日は風がないので蒸し暑い。
「で、どうする? 君も永智の顔見て帰る?」
 そう言いながらも、グラハムは既に階段を上っている。
(あー……どうしよっかな)
 別に自分は今、長畑と会う必要はないし、用事もない。だが昨日怪我をしてひどく心配をかけているし、いろんな意味で彼らを二人にする事は不安だった。少し迷ったが、八束はグラハムの後を追う事にした。

 ここに来ると、まず長畑を探す作業が始まる。
 彼は本当にあちこちをウロウロとしているので、長畑宛に電話や来客があった際は結構苦労する。シフトの事を思い出せば、確か今日、三崎は休みを取っていたはずなので、彼は一人でいるはずだった。考えながらぐるぐると敷地内を見て回るが、姿が見えない。外出するとは聞いていないし、暑いし中で仕事しているのか、と建物の方へ足を進める事にした。
「結構広いよね、ここの敷地」
 前を歩くグラハムの言葉頷きながら、八束はここに初めて来た時の事を思い出す。
 確か、自分もそう思った。あのときはちょうど花の盛りで、花に興味もなかった自分が感動できる程度に、ここの光景は美しかった。いろんなものが珍しくてしょうがなかったが、今はこの敷地で何があるのか、大体把握できている。長畑や三崎があれこれ教えてくれるので、以前に比べれば専門用語などもわかるようになってきた。
 わからない事と言えば、あの園主の事だった。この数カ月で彼の事もそれなりに知ったつもりでいたが、そんなもの彼の一部分でしかなかったらしい。相手の事を何もかも知ろうなんて、そんな事は思っていない。八束だって、彼に語っていない事はあるのだから。
(でも、俺はまだあの人の事、半分も知らないんだろうな)
 八束はなんとなく、そう思った。
 別に長畑も、自分を偽っているわけでも、そうしている気もないのだろう。しかし今回の事は、この目の前の英国人が来なければきっと知る事はなかった。そこを悔しいと思っているのは、自分がまだ、彼に心を許されていないのだ、と思うからだ。
(なんだろうな。そう思うのは、おこがましいのかもしれないけど)
 彼にとって、自分は対等な存在ではない。昨日の事でよくわかった。対等と言うには歳も経験の数も違う。自分は子供過ぎた。彼にとって自分は「面倒をみてあげねばならない存在」なのだ。
(俺がもうちょっと歳が近かったら、違ったのかな)
 もうちょっと心を開いて、いろいろ言ってくれたのだろうか。考えてもどうにもならない事だが、八束は少し、心を沈ませた。

 玄関の戸を開けると、室内はしんと静まりかえっていた。
 台所にも姿が見えない。鍵もかかっていないし靴もあるので、多分室内にいるはずなのだが、人の気配がなかった。
「なーんか嫌な予感がするなぁ……」
 グラハムは少し眉を寄せると、そのまま靴を脱いで上がり込んだ。
「え……ちょっと、勝手に!」
 勝手に上がっていいんですか、と八束は言いたかったのだが、グラハムは八束が言って止まる様な男でもない。
(ああもう、この人は!)
 八束も慌てて後を追う。
 多分自分に足りないのは、こういった強引さだと思った。だが真似できるとは、到底思えない。玄関から台所を抜け、狭い廊下を隔てた部屋の引き戸を、グラハムが開ける。そこは昨日、八束が手当てしてもらうのに入った客間だった。
「永智」
 グラハムが名を呼ぶのを聞いて、八束も彼の体の横から顔を覗かせた。
 ソファに腰掛けた長畑が、顔を上げてこちらを見ていた。長畑の視線が、グラハムと八束の顔を交互に見ている。
「……何で、君達が一緒なの?」
 それは、心底不思議そうな声だった。
「えっと、その、いろいろあって……」
 八束は説明に困った。あなたの事をいろいろ聞いていたから、とはとても言えない。
「来る途中で会ったんだよ。この暑い中バス停で座り込んでいたから、拾ってきた」
 グラハムはそう言うと、室内に入り、長畑の前に立つ。
「彼に、余計な事を言ってないだろうね」
「余計な事も何も」
 グラハムの答えに、長畑は座ったまま、目の前に立つ男を見上げた。その目つきはあまり良くない。八束は少々ハラハラしたが、グラハムにはいつもの事なのだろうか。平然としている。
「なんで君はいつもそう、喧嘩腰なの? 良くないよそういうの。私がこの子と仲良くなっちゃ不満?」
「……そんな事は言ってない。大体何しに来たんだ、怪我している子を引っ張り回して」
(あ、やばい)
 長畑の機嫌がだんだん悪くなっているのがわかる。しかも何か、自分の事で怒っている。
「あの、怪我は大した事ないんですよ、病院も行った帰りなので。帰りにこの人に会って、送ってもらっただけで」
 そこは否定しておかないと、と思った。別に自分は、グラハムに引っ張り回されているわけではない。自分で興味があって、この男について来ただけだ。叱られる事をした覚えはないが、黙ってあれこれ聞いてしまった後ろめたさはあった。
 長畑のこちらを見る目が怖い。目が合った拍子に、心臓がどきりと跳ねる。だが長畑の顔を見た瞬間、八束は妙な違和感を覚えた。
「もしかして、ですけど……どこか具合、悪いんですか?」
 顔色がいつもより悪い気がする。
「だよね。人の事心配している場合なの? 青い顔してさ。どうしたの、病院行くなら連れてくから」
 グラハムが長畑の額に手を伸ばすが、額に触れる前に長畑の手で払われる。
「大丈夫だよ。多分軽い熱中症。日の当たる所にいすぎた」
「馬鹿だねぇ、こんな暑いときに外出ていたらそうなるに決まってるじゃない。一人身なんだから自己管理しなさいよ」
「君に言われなくても」
「あぁもう!」
 大人二人が険悪な空気を出し始めた瞬間、八束は思わず叫んだ。驚いて、二人がこちらを見ている。
「喧嘩している場合じゃないでしょう! 大丈夫なんですか?」
 八束も室内に踏み込んで、男二人の間に割って入ると、長畑の前にしゃがんで視線を合わせた。
「……大丈夫だよ。少し立ち眩みがしただけだから」
 長畑は勢いよく飛び込んできた八束を見て、少し笑った。
「いいから少し休んでいて下さい。やらなきゃならない事があるなら、俺がやりますから。俺ができる事ならなんでも」
「いや、でも君も怪我して」
「俺は元気ですよ。今は長畑さんの方が心配です。それに、この人もいるから大丈夫ですよ」
「え、私?」
 戸惑うグラハムを指差して、八束は叫んだ。

 何でもする、と張り切って告げたのだが、長畑から頼まれたのは「水切れしそうな鉢があったら、夕方に水やっといて」という事だけだった。
 日が少し傾いた頃、八束が畑と鉢が置いてある辺りで作業を終えると、前方にグラハムが立っていた。八束を待っていたような様子だった。
「八束くーん、お仕事終わった?」
「はい。グラハムさんは……帰るんですか?」
 彼の手には車の鍵が握られている。
「いや、まだ帰らないけどちょっと買い物に。さっき試しに冷蔵庫覗いてみたら、ほとんど物が入ってないんだもの。水分とか何か入れとこうと思って。じゃないと彼、死ぬわ。ほんと、ああいうところは駄目野郎なんだから」
 グラハムはため息をついた。
「駄目野郎言わないで下さいよ……長畑さんは?」
「しんどいなら寝とけって言っておいた。まぁ、様子見てあげてね。私の言う事は意地でも聞かないので。すぐ戻る。留守番よろしく」
 そう言われては、八束も頷くしかなかった。

 家屋の中に入る。先ほどの客間へ行けば、長畑はまだそこにいた。ソファに座ったまま、少し体を斜めに傾かせて寝ている。
(横になればいいのに……)
 とは言ってもよく寝ているようで、八束が前に立っても起きる様子がない。静かな寝息が聞こえるだけだ。
 八束は少し迷ったが、隣に腰掛ける事にした。当たり前だが寝ている長畑を見るのは初めてで、少々恥ずかしいが隣からじっと寝顔を見てしまう。
 髪の毛と同じ色をした色素の薄いまつ毛は、長い。顔の彫りも深く、思わず八束は自分の目もとを触ってみる。奥二重の自分の目元は平らで、顔の造りが根本的に違うのだと、改めて思った。
 隣に座ったのに起きないあたり、彼は本当によく寝ているようだった。眠りを妨げたくなくて、八束は身動きを控える事にする。とは言ってもする事もないので、ただぼんやりと座っている事しかできない。
 辺りはコチコチと時計の秒針の音が聞こえるほど、静寂に包まれていた。この二日、いろいろ慌ただしかった。自分もいろいろと考える事があったが、きっと長畑も疲れたのだろう。
「……頑張り過ぎ、だと思いますよ」
 八束は誰に言うでもなく、呟いた。彼は一人で何でもやるし、その能力もあるのだろう。そうできる事は凄い事だと思う。でも、グラハムは「もっと頼ってほしかった」と言っていた。
 自分もそうだ。
 頼られても綺麗に解決できるほど、自分は頼もしい人間ではない。でも完璧でなくてもいいのだから、少しくらい、彼の生の気持ちに触れる事ができたら――。
「……自分じゃそうは思っていないんだけどね」
 突然聞こえた長畑の声に、八束は目を見開いて隣を見た。
 長畑が、寝起きのような薄眼でこちらを見ている。驚いた八束は、固まった。
「……起きていたんですか」
「寝てたよ。さっきまでは」
 長畑はそう言うと、斜めになっていた体を起こす。どこから起きていたのかは知らないが、自分の呟きは聞こえていたらしい。
(起きていたなら起きていたって言ってくれよ……)
 八束は顔を赤くさせながら、歯を噛みしめた。
「グラハムは帰った?」
「また来るって言っていました。買い物行っただけなんで」
「あ、そうなの? 彼日本語読めないんだけど、大丈夫なのかな」
「え。でもあの人、凄く喋れるじゃないですか」
「うん。喋れるけど、ほとんど読めない。漢字とか駄目なんだって。平仮名程度ならなんとか。まぁ、彼なら大丈夫だろうけど。わからなきゃ聞けばいいんだし」
 長畑はこり固まったらしい、肩の関節を腕を回して鳴らしている。
「あの」
 八束の遠慮がちな問いに、長畑がこちらを見た。
「長畑さんはあの人の事、嫌いなんですか?」
「そういうわけじゃない」
「じゃあ、何で」
「別に喧嘩はしていないんだよ。昨日も言った通り。言い合いばかりしているわけでもないしね」
「……でも」
 会うたびになんだか不機嫌そうだと思う。昨日も今日も、この男はどこか刺々しい。
「グラハムさんだって、長畑さんの事認めてないわけじゃないのに」
 そう言うと、長畑が笑った。
「グラハムと、いろいろ話したんだね」
 あれこれとこの男の事を聞いた事が見透かされているようで、八束はぎくりとした。この男は、本当に妙な所で鋭い。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。別に怒っているわけじゃない。僕も大人げないんだよ。彼が僕に言う事は、間違っているわけじゃない。彼に比べたら、僕はまだ青いわけで」
 長畑は少し考えるように間を置いた。
「悪いのは、僕だ」
 そう呟く長畑の表情を、八束は初めて見た気がした。少し罪悪感を持っているような、そんな顔だった。弱っている今だからこそ、見られたような。
「悪いって、何がですか?」
「君は本当に真っ直ぐ斬り込んで来るなぁ」
「あ……すみません」
「だから謝らなくていいってば。そう言うところは嫌いじゃないよ」
 笑いながら言われて、八束は恥ずかしくて情けなくて、顔を俯かせた。昨日から謝ってばかりだ。
「グラハムが昔、僕の事を助けようとしてくれていた事はわかっているし、今も気を遣ってくれている事も理解しているよ」
「……」
「でも、彼に甘える事だけはしたくなくてね。一度甘えてしまったら、もう駄目というか……それ無しにはもう二度と、自分の足で立てない気がしていた」
「そんな事は」
「人はずっと側にいてくれるわけじゃないでしょう? グラハムだって、君だって……いずれはここを去るように」
 え、と八束は固まって長畑を見た。視線が合う。
 確かに今、八束はただここでアルバイトをしているだけだ。まだ高校生で、先の事がどう転ぶかはまだわからないし考えてもいない。でも確実に、卒業するまでにはここを辞めるはずだ。
 だが八束は今、そんな事は考えていなかった。
 春先に出会ったこの男に、とても人には言えない様な気持ちを抱き、好きだと伝える勇気も、応えてもらえる確率もないと思っていたから、せめてこの男と関われる日々を大事にしようと思っていた。
 だが良い思い出にしたいなんて、最初から考えていたわけではない。この男が心配だし、困っている事があるなら力になりたかった。その気持ちは、誰にも負けるつもりなんてない。この男のためになりたかったのだ。
(でも、この人は)
「……そう、思っていたんですか」
 自分はいつかいなくなる、一時的な存在でしかないと。
 ショックで、目の前がぐらぐらした。
 彼の根底には、家族の事が根深く存在しているのだろう。彼は両親の葬儀のときも泣かなかった、とグラハムが言っていた。しっかりしなければ。自分ひとりで生きていかねば、という決意があったのかもしれない。誰かに甘えてその決意が揺らがないよう、必死に生きていたのかもしれない。
(でも俺が来て、楽しく感じているって、言ってたじゃないか)
 そう言ってくれたのが心から嬉しかったのに、あれは本心からじゃなかったと言うのか。
 そう思うと、声が震えた。初めてこの男に対して、強い苛立ちを覚えた。
「……何なんですか、それ。そんな、俺が……どうでもいいと思ってるなら優しくしないで下さいよ!」
「どうでもいいなんて言ってない」
「同じでしょう? そうやって俺の事なんか最初からすぐいなくなる奴だと思って、線引きしていたんでしょう? 話合わせてくれていただけなんでしょう! 俺が馬鹿だからすぐそういうの信じるから、適当に言ってくれただけで!」
「違う!」
 長畑とこうして、お互いを責め合うような口論をしたのは初めてだと思った。互いに睨み合いながら、八束は動悸が激しくなっていくのを感じていた。
「あれは嘘じゃない。どうでもいいなんて思っていたら、何で怒らせたのかもわからないのに、僕は謝りになんて行かない」
 長畑は興奮を落ち着かせるように、額を押さえた。八束相手に冷静に、言葉を選んでいるようでもあった。
「君は、僕とは違う。僕のように性根が捻じ曲がってもいない。それなのに、こんな僕に懐いてくれた。それが嘘じゃないってもわかっていたし、信じたいさ。でも僕は、君みたいにはなれないんだよ。君みたいに、勇敢ではないんだよ」
 勇敢、という言葉に、八束は引っかかるものを感じた。自分は勇敢などではない。臆病で、悩んでばかりでちっとも動けない駄目な男――そう思っているからだ。しかし長畑は、黙る八束に言葉をぶつける。
「君はいずれ外に出て、どこでも上手くやるだろう。僕のところでそうだったように、いろんな人に好かれながら、生きていくだろう。そのとき僕が内心どんな気分かなんて、多分君はわからない」
 血を吐く様な言葉に、八束は息を飲んだ。
「僕は、君が思う様な人間じゃない。嫌なら……もう、好きにしていい。いてほしいとは言わない」
「違う……そうじゃなくて」
 今度は八束が呆然と、首を横に振りながら否定した。
「ここがいい。俺はここがいいです。長畑さんがいいんです」
 抉られるような言葉と視線に、八束も自分を押さえる事ができなくなっていた。
 ――ここじゃないと、嫌だ。決めつけないでほしい。勝手に、そうだと思わないでほしい。
「……ずっと好きなのに。好きで、どうしていいかわからなくて、俺おかしいのかと思って、ずっと苦しくて仕方なかったのに! 俺の気持ちも知らないで、そんな好きにすればいいとかわけのわからない事言って……皆、あなたの事好きなのに、そうやって人の事を決めつけて引き籠るから、上手くいかないんですよ!」
 ぼろぼろと涙がこぼれた。興奮し過ぎて、何を言っているのかも自分ではよくわからなかった。ただ、今まで溜めに溜めていた思いが、一気に噴出してきた。呆然とする長畑の両肩を掴んで、八束は叫んでいた。
 ――やっぱり自分には、綺麗な恋愛なんてできやしないのだと思った。
「あなたは勝手だ! いなくなるとか何とか、そんな先の事ばっかり考えてないで、今の俺の言っている事も信じてくれないんですか! 俺が離れたくないのに、何でどっか行くとか、そんな事ばっかり!」
 酸欠になりそうなくらい叫んで、八束は泣きながら肩で息をする。
 格好悪い。
 どうしようもなく恰好悪いと思った。怒っているのか告白しているのか、自分でもわからない。ぐちゃぐちゃになった顔を手で擦っていると、何かにきつく抱きしめられた。
 自分の背中を撫でるのは彼の腕。自分が額を押しつけているのは彼の胸板。
「……泣かないで」
 耳元で少々辛そうに言う声は、彼の声だ。そうだと自覚するのに、少し時間が必要だった。
「……長畑さんが悪い」
 鼻水をすすりながら言うと、優しく背中をさすられた。
「うん。僕が悪い。ごめんね」
 ――気付いてあげれなくて、ごめんね。
 長畑はそう言うと、八束の額に唇を落とした。