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海の向こうから来た薔薇

08 棘が抜けた


それからどれだけ時間が経ったのか、八束には見当もつかない。
(死ぬ……)
思わず額を押さえて悶絶する八束に対し、長畑は隣で熟睡していた。
自分が情けなく泣くのを宥めてくれていた男は、自分が泣きやむと「ごめん。やっぱりちょっと寝かせて」と言って即行でダウンした。
あまりの寝落ちの早さに、八束も驚いた。
聞けば、昨日あまり寝ていなかったらしい。それでこの炎天下の中働いていたら、具合を悪くするのも当たり前だ、と八束は思った。

勢いに任せて「好きだ」と言ってしまった。
彼は「気付かなくてごめんね」と言った。

相手が弱っているときにそんな事を言ったのも、反則だ。だが止められなかった。
答えらしいものは聞けていない。
だが、八束が一番恐れていた拒絶も何もなく、そこにあったのはいつも通りの長畑だった。
額への口づけは、聞きわけのない泣くだけの子供を、優しくあやすような雰囲気だった。
何も変わらなかった。
それはいいのか悪いのか。
多分ここに居辛くなるとか、そんな事はないだろう。しかし目が覚めた彼と、どんな話をしたらよいのか、どんな顔をしたらよいのか。八束は頭を抱えて悩んでしまった。
少々どろついた感情を思いきりぶつけられて、八束の心臓は未だにどきどきと激しく脈打っている。

(この人は、素直じゃない人なんだ)

表面を取り繕う事は本当に上手いのだが、素直に「甘えたい」とか「寂しい」とか、そういった誰にでもある当たり前の欲求を、他人に言えない男なのだ。
そうさせているのは彼の気の強さでありプライドなのだろうが、それが言えていたら、もっと楽になれるだろうに、と思う。
彼は、自分で自分の首を絞めているタイプだ。
(……言いたい事は……言ったけど)
好きだと気持ちを伝えたら、それでいいのだと思っていた。言えたらどんなに楽だろうか、なんて思ったりもしていた。
だが、本当に人を好きになるというのはうまくいかない。
進む事もできないし、今更引き返す事もできない沼にはまった気分だった。
これから自分は、一体どうしたらいいのだろう?

ちらり、と隣で寝ている長畑に目をやる。
規則正しい寝息が聞こえるが、ソファで座ったまま寝ていたら肩もこるだろうし、横になって寝た方が本人も楽だと思うのだが。
多分本人は意識を失いそうに眠たくて、動きたくなかったのだろう。
自分が彼を担げればいいのだが、身長差もあるし意外に重たそうな彼を運べる自信は、八束にはなかった。
ソファの上に投げ出されている、長畑の白い腕。
彼はあまり手袋をせずにバラを触るので、あちこちに棘で引っかいたらしい小さな傷がある。
自分の頭を撫でたり、どうしようもない自分を引っ張り上げたりしてくれていた手。
関節の目立つ、長いが節ばった指。
唐突に触れたい、と思った。
今まで感じた事のない欲求だ。そういったものが、むくむくと沸いてきた。
──少しくらいなら。一瞬なら。
どことなくやましいような気持ちを抱えながら、八束は手を伸ばした。
ずっと、この人の「生」に触れたいのだと思っていた。
ばくばくする心臓を感じながら、手を伸ばそうとしたとき。
「八束君」
「……っ!」
突然自分を呼ぶ声に、驚いた八束はソファから飛び上がりそうになった。
声に振り向けば、客間の引き戸が少し開いて、そこからグラハムが顔を覗かせている。
もう少しわかりやすく登場してほしい、と八束は思う。
「ごめんね、結構遅くなった。何買ったらいいのか迷ってさ」
「いや、それは大丈夫ですけど……」
「何、永智寝てるの?……もしかして私、すごく邪魔?」
「いや、あー…そうでもないです」
八束は煮え切らない返事をしながら、客間を出る。よく寝ている長畑を、今度こそ起こしたくなかった。

台所のテーブルの上には、グラハムが近くのスーパーで買ってきたであろう食材が入ったビニール袋が置かれている。
床にはスイカが一個まるごと、ごろりと転がっていた。
「……なんでスイカなんですか?」
「スーパーで試食やっていて、美味しかったから。季節の食べ物食べた方がいいんでしょう?」
グラハムは当然のような顔をしていた。
ここの園主は一人暮らしなわけだが。
一個まるまるは多い。と言うか、長畑はスイカを食べるのだろうか。
「しっかし色気のない冷蔵庫だねぇ」
文句を言いながら、適当に食品を詰めるグラハムの後ろ姿を眺めつつ、八束は迷ったが、自分のした事を告げる事にした。
彼には言っておかねばならないと思う。隠したって、好い事にはならない。ぬけがけもしたくないし、保護者への了解的な意味もかねて、だ。
「グラハムさん」
「んー?」
「……俺、長畑さんに好きだって言いました」
「へぇ」
グラハムが冷蔵庫を閉めて、興味深そうな顔で振り向いた。
「で。君の熱烈な思いをスルーして、彼は寝てるのかい。ほんと駄目だよねぇ彼、そういうところは。こんな若い子が勇気を振り絞って頑張ったのに」
「いや、俺も具合悪い所に悪かったなって……」
八束は頭をかく。
別にスルーはされちゃいない。そう思いたい。
「しかし君も紳士だねぇ。寝てる子に手出さない辺り。そんな現場に遭遇してたら、多分君にスイカをオーバースローで投げつけていたよ」
「……」
実際にやりかねないから、この人は怖い。
未遂で良かった、と八束は思った。
手を出すも何も、彼の腕に手に触れたかっただけなのだが。
「あの人が大事ですから、俺も。変な事はしませんよ。って言うか、できないです」
そう言うと、グラハムがにやりと笑みを見せた。肯定なのか青さを馬鹿にされたのか、よくわからない笑みだった。
それから二時間近くが経過した夜。
やっとまともに目を覚ましたらしく、長畑が起き出してきた。
「おはよう……と言うには時間がおかしいね。もう夜だしね」
台所のテーブルに座りながらそう言うグラハム、同じくテーブルで何か言わなきゃと焦る八束、そしてシンクの桶の中でぷかぷかと水に浮かぶスイカ。それらを見渡して、長畑は何とも言えない表情を浮かべていた。
「君達はほんと、仲良くなったね……」
「心配しなくても私は君一筋だから。八束君とは後ろめたい事は何も」
「何もないです!」
同時に喚く男二人を眺めた長畑は、少し苦笑いをしながら頭を下げた。
「二人とも、御迷惑おかけしました。もう大丈夫なんで」
「でもあまり無理しないで下さいね。普段から働き過ぎなんですから」
長畑の元へ歩み寄る八束に、長畑はいつも通りの柔らかな笑みを向ける。
「君もね。足、怪我してる事を忘れないで」
「あ……」 今の今まで忘れていた八束は、思わず声を漏らした。
「忘れてるくらいなら、大丈夫なんだろうけどね。グラハム、彼を家まで送ってあげてくれないかな。もう外真っ暗だし、危ないから」
「了解ー」
「え、大丈夫ですよ!自転車で帰れますから」
「駄目。家には遅くなるって連絡いれてる?」
「……電話はしてます」
「なら大丈夫だね。本当は僕が送ってあげれればいいんだけど、ごめんね。待っててくれたのに」
本当に大丈夫なのだが、と思うが、彼がここまで言うのは、自分の事を大事にしてくれているからなのだとは理解している。
未成年の自分は親からの大事な預かりものだと、長畑は言う。
多分これは、自分が成人するまで続くだろう。
気恥かしいような、申し訳ないような、自分が情けない様な。だが彼のこういった真面目さは好きだった。
「じゃあ、スイカは明日皆で食べればいいじゃない。私も来るけどいいよね」
グラハムがスイカを指差して言う。
(あんたが食べたかっただけかよ…)
八束は内心つっこむ。試食で食べて、気に入ったのかもしれない。
「それはいいけど。グラハム、君どこ泊ってるの? これから帰るんだよね」
「そうだけど。ホテルは駅前のとこの新しくて、おっきいやつ」
ふーん、と長畑が特に表情もなく呟く。
「帰るの面倒だったら、泊っていいよ。布団でいいなら、余分にあるから」
「え」
グラハムが、見た事のないくらいの驚きに満ちた表情で固まっていた。
「嫌ならいいけど」
「い、嫌じゃない! 帰るの面倒だから! 疲れちゃったし、私泊るからね!」
「そう? なら準備しとく」
長畑はそう言うと、台所を出て行った。
隣のグラハムを見れば、驚きなのか感激なのか、小さく震えていた。
「でれた……でれたよ八束君……」
「今のでですか」
滅茶苦茶そっけない態度に見えたのだが、今までどんな扱いだったんだよ、と八束は密かに思う。
「何て言うか彼、棘が抜けたような気がするね」
ちょっとだけだけどね、とグラハムは満足そうに笑っていた。
「安心しなよ。私は何も、悪い事はしないから」
「……別にそれは。って言うか本調子じゃないんですから、ちゃんと気を遣ってあげて下さいよ」
「勿論。君もいつかお泊りしたらいいのに。家近いし、仲良しなんだから」
「それは……無理」
「どうして?」
「泊りとか、恥ずかしくて……まだ無理」
そう言うと、グラハムが今度こそ「こいつ駄目だ」と言うような視線を向けて来たので、少し八束は落ち込んだ。
(仕方ないじゃないか)
八束は心の中で悪態をついた。
──俺にとって、あの人はハードルが高すぎるんだ。


帰る前に長畑に挨拶がしたくて、グラハムに「すぐ行きますから」とだけ伝え、八束は客間へ入った。
長畑はどこからか引っ張り出してきた布団に、カバーをかけていた。
「あの、長畑さん」
声をかければ、長畑が顔を上げる。
「俺帰りますから。……その、ありがとうございました」
「お礼を言うのはこちらの方だよ。お休みの日だったのに、ゆっくりできなかったよね。きてくれて、ありがとう」
長畑はそう言うと、立ち上がって八束の元へ歩いて来た。
八束は妙に緊張してしまっていた。
何でもない、態度の変わらないこの男と話しているだけなのに。
どことなく顔が強張っている。
「あれから、考えたんだけど」
そんな八束の目の前まで来て、長畑が言う。
長畑も少々言い辛そうな、なんと言ったらいいのかわからないでいる様子だった。
「僕も、君の事は好きだと思う」
八束はぽかんとしながら、長畑の顔を見上げた。
「僕があれからすぐ寝たからね。ちゃんと答えてないなって思って」
申し訳なさそうに笑う長畑に、八束はぶんぶんと首を横に振った。
「いや、俺が悪くて……あんなときにそんな事言って、ほんとすいません!」
長畑が困っている、そんな感じがして八束は謝った。
「それはいいんだ。君が好きだって言ってくれて嬉しいよ。でも、一つだけお願いがあるんだ」
「……何ですか?」
八束は恐る恐る、聞く。
「今まで通り接してくれないかな。僕は逃げはしないし、ここにいるから。でも別に、なかった事にしようなんて事じゃない。ただ君が、いつも通りに僕と話してくれたらそれで」
「……」
長畑も不安なのだ、と思った。
思えば当たり前なのだ。八束だって、これをきっかけにこの男と気まずくなるのが怖かった。
それに男にいきなり「好きだ」と言われて、この男だって悩まないわけがないわけがない。
(……当たり前だよな)
誰だって、わからない事は怖いに決まっている。
「俺は、変わらないです。今までだって貴方が好きだったし、これからだってそうだから」
「君は男前だねぇ」
穏やかに笑われながら言われて、八束は恥ずかしい気持ちになった。顔が熱い。
──沼にはまった状態だろうと、動けなかろうと。
この先の事なんてわからない状態だろうと、この男の顔を見ると、どうでも良くなってしまう。
それぐらい、自分はこの男の事を好きになっていた。
後戻りなど、できないほどに。
「グラハムが待ってるだろうから、もう行きな。また明日ね。おやすみ」
長畑はそう言うと、八束の頬に優しく口づけた。
「っ……!」
おやすみの、キス。
今なら、頭から湯気くらい出ているかもしれない。それくらい、八束は体を強張らせ、赤面していた。
(なんで。なんでこの人はこんなに簡単に、手慣れたキスできるんだよ……!)
外国帰り恐るべし、だ。
「お……おやすみ、なさいっ!」
八束はそう言うと、逃げる様に部屋を走り出てしまった。
(ああもう……!)
これではいくら「今まで通りに接して」と言われたって、無理に決まっている。
と言うか、自分からキスできるのはいつになるのだろう。
(俺だってしたいんだけど……)
自分だってしたい。そう自覚して、八束は恥ずかしいやら眩暈がするやらで、転びそうになりながらもグラハムの車まで必死に歩いた。
自分からのキス。
それは当分、無理な様な気がしていた。

海の向こうから来た薔薇/完