HOMEHOME CLAPCLAP

絡まる薔薇たち

03 茨の腕


「え? 泊るの? 珍しい」
夕方、八束が家に電話をすると、母親が出た。八束の母は電話の向こうで、素っ頓狂な声を上げている。
「じゃあご飯用意しとかなくていいのねー?」
「あ……うん。ご飯はこっちで……頂く事にするんで……」
「あんた、なんかどもってるけど大丈夫?」
母親は八束のしどろもどろな言葉に笑う。
「いいけど、迷惑にならないようにしなさいよ。またご飯食べに来てって、長畑さんに言っといてね」
「はい……」
何で俺母親相手に敬語になってるんだろう、と思いながら、八束は電話を切る。
窓の外を見ると、外はもうすっかり暗い。
携帯で時刻を見ると、夜の七時半だった。
(───俺、どうしたらいいんだろう)
八束は客間のソファの上で、頭を抱えていた。
嫌じゃない。この展開が嫌な訳では決してないが、今までにない緊張を感じているのは確かだ。
そんな感じでソファの上で身もだえていると、引き戸が開いた。
長畑だった。思わずびくっと姿勢を正す。
「君、食べれない物とかあったっけ?」
「は、はいっ? いや、何でもよく食べれます」
「あー、それはいい事だね。もうちょい待ってて。テレビとか観てていいから」
そう言うと引き戸は閉まり、長畑は奥に引っ込む。
(……落ち着け俺。落ち着くんだ)
八束は再度頭を抱えた。よくわからない回答してるんじゃないよ俺、と己を叱咤しながら、必死に心を落ち着かせる。
お客さんはゆっくりしてて、と長畑は言った。
台所に立つ彼に、何か手伝いましょうか?と言ったときだった。
そう言われてしまえば、やる事がなくなってしまう。
素直にお客さん扱いされていればいいのだろうが、普段はここで仕事しているわけで、長畑だって雇い主であるわけで、彼からのおもてなしというものに、全く慣れていない。
私情で二人きり、というのは、あれから忙しかった事もあってほとんどなかった気がする。
自分は切り替えができないのかもしれない。
長畑はいつも通りだし、自分は意識し過ぎ、とは思っている。
気を紛らすようにテレビをつけてみた。
賑やかなバラエティをやっていたが、内容はさっぱり頭に入ってこず、笑えなかった。

ご飯出来たから、と呼ばれたのはそれから少し経ってからの事。
いつも休憩をしたりする台所のテーブルの上に、食事が乗っている。
豚汁とサラダとご飯と……焼き鮭。なんという和食、と思わずよくわからない感動をした。
「それじゃ、頂きます」
「い、頂きます」
向かいあった席で、八束は思わず給食を食べる前のように手を合わせた。その様子を、長畑が見て笑っている。
「おいしいかどうかはわかんないよ」
「いや、なんていうか……長畑さん、結構まめに作るんですね」
「そうでもないよ。今日は君がいるから品数多め」
「一人の時って、何食べてるんですか?」
「んー……きちんと食べたいときは何かしら作るけど、面倒な時は卵かけご飯とか。あと納豆とか」
「もっとちゃんと食べましょうよ、体使ってるんですから……」
八束がそう言えば、長畑はそうだねぇ、と苦笑いするだけだった。
「足りないなら、何か焼こうか? 肉とか」
「いや、大丈夫ですよ?」
「君、あまり食べない方?」
「そうでもない……と思いますけど……」
多分、量は人並みに食べる。
小食と言われるほどでもないし、大食いでもない。同じクラスの運動部連中と比べると、小食になるのだろうが、と八束は思った。
それより今は、なんとなく緊張で自分の胃の感覚が無い。
どれくらい隙間があるのか、それさえもよくわからない。
今日は昼から何も食べていないから、空腹には違いないはずなのに。 豚汁をすすってみると、家の味とは違うな、と思った。
余所の家のご飯の味だ。出汁も味噌も恐らく違う。同じ豚汁でも、入っている具も大きさも異なる。
だが素直に美味しい、と思えた。
「おいしい、です」
「なら良かった」
少し安堵のあるような声を聞いて、自分も固まっている場合ではない、と八束は思った。
多分こんな機会、滅多にないはず。
好きな人が自分の為に、共に過ごす時間をくれた。
なかなか懐に入らせてくれない長畑が、だ。
いろいろ話がしたくて自分から頼んだのだから、その貴重な時間を生かさなくては勿体ない。
そう思いながら目の前の男を見つめていると、目が合った。
「どうしたの?」
「えっ、いや、その……」
なんか今日は、どもってばかりだ。何でうまく話せないのか、と自分に心の中で舌打ちしていると、長畑がにやりと笑った。
「百面相みたい」
「ひゃく……?」
「見てたら、表情がころころ変わって面白い」
「そ、そうですか……」
それはいい事なのだろうか。褒められているのか何なのか、いまいち八束にはよくわからない。
「緊張してる?」
長畑の言葉に、どきりとした。
「…………して、ます」
「取って食ったりするわけじゃないんだからさ。多少力抜きなよ」
いつもいるじゃないここ、と華やかな笑顔で笑い掛けられて、八束はごくん、と米粒を飲み込んだ。
自分がどんなにこの人の前で見栄をはろうとしても、多分見抜かれているのだろう。
だったらそんなもの、はなから諦めた方が良い。
格好つけようとしたところで、この人にはお見通しだ。見抜かれているのに格好つけても、ダサい。
「何か僕に言いたい事とかあったんじゃないの?」
「それはまぁ、沢山あると言うか」
「言ってごらんよ。答えれる範囲なら、僕は答えるから」
「……」
そんなに両手を広げるように構えられると、途端に何から言えばいいのかわからなくなる。
言いたい事は腐るほど。聞きたい事も腐るほどある。
「……長畑さんは」
少し悩んで、八束はぽつり、と口にした。
「今まで付き合った人って、いますか?」
「え」
その手の質問は予想外だったのか。長畑が少し目を丸くしている。
だから何だ、と言われればそれまでなのだが、聞いてみたかった。
「……いるよ」
ですよねー、と八束は内心思う。それに対して嫉妬を抱かないわけではない。自分はそこまで達観できていない。
だが、いない方がおかしい、とも思っている。
「でも大抵長続きなんてしなかった。僕は振られる側。いつも『わかんない』って言われて終わるから」
「……嘘」
「ほんと」
八束はそう答える目の前の男を、じっと見ていた。
──確かに自分も、この男の事はよくわからない。
この人は、自分と同じ目線から「好き」と言ってくれているのだろうか? 
本当はどう思っているのか。
あまり伝わってこないので、不安がつきないのだ。
しかし、だからと言って、自分で好きだと言った癖に諦めようなんて、そんな風には思わない。
この人の中でどれだけの人が通り過ぎて行ったのかは知らないが、そいつらには自分は絶対に負けない。
負けたくない。
「……君もそう思った?」
「だから、話したいって思った」
思わず反論する様な口調で答えてしまった。敬語もつけ忘れた。 一瞬しまったと思ったが、荒くなりそうな語彙を落ち着けるように一息置いて、八束は目の前の男を見る。
「わかんないけど好きだから。俺は、そういう貴方と、わかり合いたいですよ」
そう言うと、長畑が少し目を細めるような顔をした。
子供が何を言ってるんだろうとでも、思われているのだろうか。若さ故だとか思われているのだろうか。
でも仕方ないじゃないか、とも思う。
余裕なんてない。
金魚が水面で口をぱくぱくさせているような、そんな苦しさと必死さしかない。
自分はがむしゃらにでも、この人にぶつかって行くしか方法を知らない。
「──君のそういうところが、僕は好きだ」
いつの間にか挑むような目をしていた八束に対し、長畑は静かに笑う。
「己の気持ちを恥じない所。さらけ出して伝える事が出来ること。勿論悩みはあるんだろうけど、必死にかき分けてでも前に進む事ができる君の事を、僕は好いてる」
声は、少しいつもより低かった。だか八束と目が合うと、いつもの優しげな微笑をくれる。
「逆に思うんだ。僕でいいんだろうかって。君がストレートに好意を僕に伝えてくれるのを見る度、そう思う」
珍しい、と思った。
彼にしては弱気な発言だ。決して自信家というわけではないが、自分のやる事には強い意思を持っている男。 仕事中に「どうしようか?」と聞かれる事はあっても、それは大抵、もう長畑の中では決まっている。
ただ人の意見も聞きたいだけだ。そこに迷いがあるわけではない。判断を人に振る様な男でもない。
そんな男が、「僕でいいんだろか」なんて言っている。
「俺こそ、俺でいいんだろうかって、毎回思ってますよ」と言いたかった。
だが何となく、長畑のその言葉に、下手な言葉を返せない気がした。

そもそも、付き合っているというわけでもない。
湯船につかりながら、八束は今までの事を思い出していた。
食事も終わって、「いいから先にお風呂入ってきなよ」と片付けもそこそこに、今は緑色の入浴剤の入った湯に浸かっている。
僕でいいんだろうか、と語った長畑の言葉が蘇る。
(いいに決まってる)
思い悩んで、泣きながらダサい告白をして。
自分の気持ちの事ばっかりで。相手の事を思いやる余裕もなくて。
一喜一憂、激しくて。
そんなのを好いてる、と言ってくれる長畑の気持ちは嬉しいのに。
相手の事を知りたい、と時間を選んだはずなのに、話す程によくわからなくなる。
気持ちがちっとも、近付いた気がしなかった。 過去の人間たちに負けるつもりはない。だが長畑に「わからない」と言葉をぶつけて別れを告げた過去の人々は、きっとこんな気持ちだったのではないだろうか、と思った。
近づきたいのに近づけない。
原因は、あの男が無自覚で持っている壁のせいだと気付いている。どんなに近づこうともその壁を越えられなくて、受け入れてもらえない、と失望して去るのではないか。
その様子が手に取る様にわかる。
(違う)
知りたいのはそっちの気持ちじゃない、と八束は湯を叩いた。自分と似たような、過去の人間の気持ちを理解してどうすると言うのか。
知りたいのは長畑の、生の気持ちだ。
あの夏の夜の様に、不安めいた気持ちを暴露された方が、まだ安心できる。

鬱々とした気持ちで風呂を上がると、客間のソファに長畑が座っていた。
何かを読んでいる。
その横顔は綺麗で整っていて、真顔なのが少々怖いが、たまらなく美しいと思う。
佐々木は彼を「妖怪レベル」と言ったが、あながち間違ってもいないかもしれないなぁ、と今は思った。
(恋人……じゃないよなぁ、俺らって)
甘さなんて全くないこの関係を、そう呼べるとは思えない。
経験値など全くない八束だって、そう思っている。
──この人は、どこまで自分が近寄ることを許しているんだろう?
黙って突っ立ったまま長畑の横顔を眺めていると、ようやくこちらに気がついたのか、長畑がこちらを見た。
「髪、ちゃんと拭きなよ」
「え。あ、はい」
首から下げたタオルを手に取ろうとすると、立ち上がってこちらに歩み寄ってきた長畑にタオルを奪われた。
「風邪引く」
そのまま、わしわしと頭を拭かれる。
え、ちょっとと言う暇もない。
「君の髪の毛、ほんと真っ黒だねぇ。カラスの濡れ羽みたいだ」
頭上から少し感心したような声が降ってくる。
まるで幼子みたいな事されているなぁ俺、と八束は少々情けなくなってきた。
「だ、大丈夫です……自分で拭けますから!」
言いながらタオルを押さえて見上げれば、笑みもない長畑の顔と目が合った。
「……」
言葉が出て来ず、無言でその顔を見ていると、長畑は思い出したかのように顔に笑みを浮かべる。
「うち、少し寒いかもしれないから、風邪引かないようにね」
それだけ言ってソファへ戻る長畑を追って、八束も隣に座った。
「──君は、将来の夢とかあるのかな」
座ると同時に、長畑は唐突に問いかけてきた。八束は隣の男を見上げる。
長畑はそれまで読んでいたらしい本をテーブルの上に置いて、隣の八束を色素の薄い鳶色の瞳で見つめている。
「君もいろいろ考えてるとは思うんだけど、それを僕がいる事で、君の選択肢を狭めたくない。自分が好き勝手やってきたから、余計にそう思う」
八束は少々、ぽかんとした顔でそれを聞いていた。

夢とか、目標とか、やりたい事とか。そういったものが自分にはなかった。

だから、そういうものを強く持つ長畑に憧れた。こうなったのは、それがきっかけだったように思う。
確かに今も、将来的な自分の情熱の矛先というのは見つかっていない。
「稼ぎたい」ばっかりだった自分が、ようやく立ち止まって考え始めた、その程度の位置にしかいない。
「そうだとしても、長畑さんが邪魔とか、そんな風には思わないですよ、俺」
「思うんだよ。人に譲れない、やりたい事ができたとき。恩人ですら煩わしいと思う時がね。僕は思った。……情けない事にね。今思えば、どうしようもない自分勝手だったんだけど」
恩人、とはグラハムの事なのだろうか。
日本に戻ると告げた長畑とグラハムは、激しくぶつかったという。
そのときの事を、八束は正確に聞いたわけではない。ただそう言う事があったという事を聞いただけだ。
あの男も長畑も「喧嘩じゃない」と言うし、今は笑い話くらいにはできている。
ただ己の気持ちに正直な、引く事を知らない男二人の衝突は数年、関係に傷を残すような激しいものだった。
互いに譲れないと思っていたからこそ、余計に。
「でも、先の事ばっかり考えて、人を好きになるわけじゃないでしょう?」
八束は言いながら、佐々木や、他の友人達の事を考えた。
あの中で、どれだけの人が先の事まで考えて、好きな子と付き合っていると言うのだ。
大学進学や就職でこの先、離ればなれになる可能性は高い。それでも今は好きだから、付き合っているのではないか。目標を持って進む者もいるだろう。それを、好きである人が障害になるなんて、きっと誰も考えちゃいない。
「……多分、それは僕が君ほど若くないからだと思う。この歳になるといろいろ考えるしね。あと元々、重く考えがちではあるんだけど」
長畑は少し、苦笑する。
過去に囚われ気味の男と、今を主張する自分。
最初から見ている物は違うのだ。それはわかっていた。
それでもいいと、自分はこの男に手を伸ばしたのだ。
きっと長畑は、自分の事を思ってこんな事を言うのだろうと八束も思う。
これは、平坦な道のりにならないもの。八束が選ぼうとしている道は、決して周囲全てに祝福されるとは限らないもの。
それに八束がもし、どうしてもやりたいのだというような物を見つけた時、長畑はその枷になりたくないと思っている。
引きとめはしない、と言うだろう。
……口では。

「僕がおかしくなったら、ひっぱたいてね」

少しの沈黙の後、長畑が言う。八束はその言葉に眉を寄せた。
「……何言ってんですか」
「今、いろいろ考えてるから」
長畑はぼんやりと、天井を見ている。
「僕はもう、いいだろうか。誰かと歩んでもいいだろうか。力を抜いてもいいだろうか」
その言葉は、なんなのだろう。長畑自身に向けて呟いたのか、八束に向けての言葉だったのか。
どう反応していいのかわからず、八束はじっと、隣の男を見ていた。
「長年そうし過ぎていたせいで、力の抜き方がわからないんだ。気を抜くと、いろんなものが一気に君に行きそうで。……そういうのは、僕も嫌だ。君には嫌われたくない。でも当たり障りのない関係なんて、無理だから」
「……嫌いになんて、ならない」
嫌いになれる、自信がない。
綺麗なままでなくていい。
もっといろいろ見せてほしいのだ。この人を。長畑永智という人、そのものを。
「俺だって、できれば長畑さんとずっと一緒が良い。でも俺、最初の頃言ったでしょ? 俺あまり、将来の事とかこだわりとかなくて。長畑さん見て、格好いいなぁって思ったんですよ。やりたい事仕事にして、夢中で一日を終えるって、いいなぁって」
「うまくいかない事も多いけどね」
「それは、何でも一緒かと思いますけど……。俺も、そういうのできたらなって思ってて。畑仕事も庭仕事も俺は大好きです。いろんな事を教わるのも楽しい。でも、まだいろいろ見てみたい。決めるのは早い気がする」
「……そうだね。君はまだ、いろいろ見るべき。僕の所だけに留まるべきじゃない」
八束は、隣の男を見上げる。
ソファに置かれた手に手を伸ばす。その節ばった指に、指を重ねた。
「貴方から離れるんじゃない。一瞬離れたとしても、すぐに追いつきに行く。一方的に支える訳でも支えられる訳でもない。長畑さんとおんなじ位置に、俺は立ちたい」
「……立って、どうするの?」
長畑が浮かべた微笑は、氷のようだった。
冷たい笑み。いつもの、柔らかなものではない。
こんな表情を向けられたのは初めてだ。
背筋が少し、冷えた。
「生意気言って、すみません」
「謝らないでいい。そのくらい気が強い方が、僕は好きだ。ねぇ、八束。僕と同じ位置に立って、どうするの? 君の言う、その位置がどこなのか僕にはわからない。君は、そう宣言した君は、それまで僕を見ていてくれるんだろか。違う物に目を奪われたりしない? 待たせた僕を裏切ったりしない?」
長畑の言葉は、重い。
言葉の一つ一つが、八束の体に絡みついていくようだった。
(この人は……)
この人は、他人に依存しないと、心に誓っていた。
一人で生き抜く為に。自分の決意を崩さないように。
でもそれは、悲しさと寂しさの裏返しなのだろう。
両親の葬儀でも涙を見せなかったという少年時代の、彼の。
その彼が、八束の手を取ろうとしてくれている。
答えを間違ってはいけない、と八束は思った。
自分はこの人が好きなのだ。
優しかろうが怖かろうが、それでも好きなのだ。
綺麗だろうが少々どんくさかろうが、重かろうが。
気持ちは、変わらない。
「……俺がどれだけ好きか、長畑さんわかってないでしょう?」
答えになっていたのかは、わからない。
それでも八束は、隣の男に手を伸ばす。首の後ろに手を回して、自分より大柄の男にしがみつく。
「俺がどれだけ好きか、長畑さん知ったら。……多分、引く」
そう言うと、長畑が少し噴き出すような笑みをもらした。しがみ付く八束からは、顔は見えない。
「あのね。僕の方が、どん引かれると思うんだよね」
「……じゃあ、お互いさまで」
先ほどまで張り詰めたような空気だったと言うのに、何故か今は自然と、笑みが生まれた。
──なんだろう。
多分これはきっと、普通じゃないのだろうと、八束は思う。
人に言わせれば、おかしな恋愛をしているのかもしれない。
それでも今自分が感じている気持ちは、間違いなく「幸福」だった。

「ちょ…ちょい待ち……!」

突然。
首にしがみついていた八束は、べりっと引き剥がされたかと思うと、そのままソファに押し倒される。
覆いかぶさってくる長畑に、八束は慌てた。
「待って下さいよ!」
「……どうして?」
長畑は妙に冷静な顔をしている。男の顔だ、と八束は思った。
間近で見る男の顔は、嫌になるくらい美しい。この顔でこの声で耳元で囁かれたら、誰だって堕ちるに決まっている。
「いや、その……俺、やり方……知らないし……」
「今覚えて」
(この人スイッチ入るの早えぇぇっ!)
驚愕していると、首筋に口づけられる。
初めて体験するぬるりとした感触にやばい、と思った。
流石に自分だって、この人とこうなる可能性があるとは考えていた。
でもそれは、まだ先の事だと思っていた。
今いきなりは、無理だ。心の準備というものが全くできていない。
「……待って、待って待って長畑さん!」
両肩を掴んで、勢いよく覆いかぶさる男を引きはがす。
「何」
少し不服そうな男に、八束は引きつった笑いを向ける。
「いや、嫌じゃないんですけど、今は無理って言うか……」
「誘ったのは君の癖に?」
(え、俺誘ったの?)
よくわからず混乱する思考をとりあえず放り投げて、八束は自分を見下ろす男を見上げる。
「俺は、キスくらいからお願いしたいんですけど……」
「……」
長畑が少しぽかん、とした表情を浮かべた。
次の瞬間おかしそうに、声を出して笑われたので、八束は少々傷つく。
「いや、笑い事じゃなくて本気で……」
「……ごめんごめん。悪かったよ」
笑いながら八束の上からどく長畑を見て、八束も身を起こした。
「君は、ことごとく僕から毒気を抜いていくなぁ」
「すみません……」
八束だって、応えられないのは申し訳ないと思っている。
恥ずかしさに手で顔を覆った。
同じ位置に立てたら、とまでは言わない。
もう少し。あともう少し、自分には踏ん切りが必要だと思った。
「……待つよ」
「え?」
長畑に静かに笑いかけられて、八束は目を丸くしして相手を見た。
そこには、先ほどまでの冷たさはない。
「君がいいって言うまで、僕は待つ。対等になってくれるんでしょ? 僕だって子供を苛めたいわけじゃない。嫌がる相手を抱く趣味もないし。楽しくないからね」
「……ほんとに?」
この人は、自分を待ってくれるというのか。
「君の言ってた今の気持ちってものが変わらないか見て、待ってる。何か別のものに目を奪われるのはいい。ただ、その間に、別の人間に目を奪われたら許さない」
「……奪われない」
八束は隣の男を、まっすぐに見上げた。
きっとこの男は、自分の手にはあまるような男だ。
グラハムが「彼は大変だよ?」と言った意味が、ようやくわかってきた。
彼はまだ隠している。
心の内に、茨のように絡みついて相手を離さない様な腕を隠し持っている。
ただそれを八束に見せようとせず隠すのは、この男自身も束縛を好まないから。
己の棘のある束縛、独占欲は、八束の為にならない。傷つけるとわかっているから、見え隠れするそれを必死に隠しているのだろう。
「……大丈夫」
その腕を、この人に使わせたりはしない。
そんなものなくても、己はこの人の側にいる、と誓う。
手を伸ばす。隣の男に向かって、八束は手を伸ばす。
再びその背に手を回し、長畑を見上げた。
後戻りはできない。だが、逃げる気もない。
自分から、男の唇に口づけた。
長畑も八束の背に手を回す。
美しい花の茎に鋭い棘を持った花だって、人々の生活に密着し、愛されている。
自分だってそうできるはずだ、と八束は思っていた。

絡まる薔薇たち(終)