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海を挟んだ薔薇と薔薇

01 八束編


目が覚めると、見慣れぬ天井が広がっていた。
「……」
八束はしばらく布団の中で、自分の部屋よりも高い天井を見上げていた。
いつもベッドで寝ているはずなのに、今は床に敷かれた布団の中。
(──泊まったんだっけ?そういえば)
徐々にはっきりとしてきた意識の中でそう自覚した瞬間、八束は布団から飛び起きた。
同時に部屋のひんやりとした空気に、震えながら思わず布団で身を包む。
畳の和室。畳は日に焼けた少し古いものだが、部屋自体は殺風景な家具もほとんどない部屋で、ほこりらしいものもない。
この家の主の性格がよく出ている、と思う。
枕元には、自分のカバンと携帯電話が置かれていた。
それで時刻を確認する。
午前9時半。
自分は、人の家で思いっきりよく寝ていたらしい。

昨日はあれこれ長畑と話をしていて、寝たのは日付を回ったころだっただろうか。
「僕の部屋は狭いから」と、空いている部屋に布団を敷いてもらって寝た。
とことん自分はお客さん扱いされているらしい。
カーテンを開けてみると、雪こそ振っていないものの、外は霜でも振ったのかうっすらと白い。
起き出すにも寒い、と八束は自分の上着を引っ張り出して、それを羽織る。
農家の朝は早い。
長畑はさすがにもう起きているだろう、と曇りガラスの引き戸に手をかけると、部屋の外からそれらしき声がした。
会話しているような様子に、誰か来ているのかと八束は引き戸を軽く開ける。

「……どうも。こんな忙しいときに電話するくそったれですよ」

その瞬間聞こえてきたのは、長畑のどうにも物騒な言葉だった。
驚いて顔をのぞかせると、長畑は台所の電話で誰かと話しているらしい。
会話に時々英語が混じる。
(あー……グラハムさんだろうな。多分) 砕けているというか、長畑の遠慮のない物言いに八束はそう確信する。
人の電話を聞くのも悪い気がして、八束は顔を引っ込めた。
とにかく寒いので、八束は先に着替えることにする。


「あ、起きてる?」
それからしばらくして、長畑が八束を起こしにきた。
電話はわりとあっさり終わったらしい。
寝起きで顔を合わせるというのも初めてなので、八束は少々気恥ずかしい。
「すみません、なんか思いっきり寝てて」
「いいよ別に。それより、君に手紙」
「……え?」
自分に手紙? と八束は怪訝な顔をしながら、長畑が差し出してきた白い封筒を受け取る。
表には「やつか君へ」とずいぶんと可愛らしい文字で書かれていた。
裏には何かサインらしき英文。癖が強い字でよくわからないが、何か見覚えがあった。
「……グラハムさん?」
「そう。よくわかったね」
「さっき電話してましたよね?」
「うん。手紙着いたら連絡よこせって書いてあったから電話した。まぁ向こう夜だったし、どうも仕事の納期前で忙しかったみたいで。ちょっと悪い事したかな」
長畑の肩をすくめる様子から、八束はなんとなく事情を把握する。
──おそらく長畑が電話した時、そうと気づかず感じの悪い態度をとったのだろう、あの男は。
それで長畑のあの返しだったわけだ。目の前の男の機嫌は悪くはないので、恐らくグラハムは長畑と気づいた瞬間、土下座する勢いで謝り倒したに違いない。
不憫だ、と八束は思った。
「これ、読んでいいんですか?」
「どうぞ。君宛だし」
そう言われて、八束は封筒を開ける。
そこには便箋に宛名と同じく、あの男に似合わない可愛らしい文字で手紙が入っていた。

やつか君へ。
君とぼくのつきあいだし、もうじしょ引くのめんどうだから、かたっくるしいのぬきで書くよ。
げんきですか? 永智は君にやさしくしてますか? 君も永智にやさしいですか?
てがみついたら返事くらいよこせっていっといてね。
またそっちいきます。
そのときはよろしくね。

「……」
八束は手紙を読んだ後、どういった顔をしたらいいのかわからなかった。
長畑と話すためだけに日本語を死ぬ気で身につけたというグラハムの語学力は、会話能力のみに特化している。
読み書きは少し苦手、とは聞いていた。
しかしこれ、わざわざ海を渡る手紙で書かなくてもいい内容だろうに、と八束は思う。
「せっかく手紙貰ったんですけど、これ返事どうしたら……」
「いいよ別に。どうせまた近いうちに来るでしょ、彼」
確かに、彼はいきなりやって来そうなので笑えない。
相変わらずだなと思いながら、八束は手紙を折りたたんで、封筒にしまった。
長畑を見れば、彼の手にも八束への手紙とは比べ物にならないくらい、便箋の線と余白を無視する勢いでびっしりと書かれた手紙がある。
一枚ではない。合計、三枚。
「グラハムさんって、筆まめですねぇ」
「あれで結構古風なところのある男だからね。メールとかでも来るけど、たぶん書くのが好きなんだと思う」
「そんなにびっしり……何書いてあるんですか?」
「まぁ彼の近況と、たまにはこっち来たら? って事かな。さすがに帰ってこいとは書いてないね、今回」
「……たまには帰ってあげてもいいんじゃないですか?」
「僕? うん……まぁね。少し、考えておこうか」
「仕事の方は、何日かくらいなら俺も三崎さんもいますし」
そう言えば、長畑が少し笑った。
「そうだね。冬くらいなら、多少空けてもいいかもしれないけど」
「……」
確かに、生物相手にしている商売であれば、家を数日空けるのも難しい事かもしれない。
しかしあまり言いたくないが、長畑の両親もあちらに眠っているのだろうし、全く向こうへ帰らないというのも良くないのでは、と思うのだ。
多分、自分なんかが言わなくても彼はわかっているだろうから、八束もそれ以上は言わなかったが。
「どうせ、彼はまた連絡もなしにいきなり来るよ。サプライズだとか言ってね。まぁ来るなって言っても来る男だし、彼が今度来たらご飯でも食べに行こうか。君も」
「え。俺もですか?」
「仲いいでしょ? 君たち」
「あー…いいって言うか、何ていうのか……」
八束は思わず、視線を泳がせた。
グラハムは少々怖いし面倒くさい。だがなかなか面白いと思える面も持っていて、八束にとっては今まで出会ったことのないタイプの男であったが、嫌いにはなりきれない。そんな男だった。
なにより自分たちの関係は、仲がいいとか悪いとかではなく、ある意味「同盟」的なものだ。
ある日突然、同盟破棄されるかもしれないし、こちらが何かやらかしたときは条約違反で埋められる。
そんな関係でしかないのだ。
八束はグラハムが長畑宛てに書いた手紙に目をやる。
相変わらず英語は読めないが、熱烈、という思いしか感じない。
普段、長畑とグラハムがどんな感じで話をしているのか、八束はあまり関わらないので知らないのだが、グラハムの年季の入った「好き」という思いを、長畑は知っているのかどうか。
なかなか聞く勇気はない。
こんな自分を選んでくれたのはうれしいが、そこは少し気になっていたりする。
「……なんか、怒ってないですね」
「何が?」
「前は、手紙来たときはすごい不機嫌だったのに」
「そんなに僕、顔に出てた?」
「はい」
そう苦笑いをして答えると、長畑が少し困ったような顔をして考え込んだ。
「……なんと言うか。僕も、心境の変化があったというか」
「はい」
そうだろうな、と八束は思う。
この人は最近、少し柔らかくなった。以前から穏やかではあったが、どこか気難しい一面も持っていた。
自分がそれに慣れただけなのかよくわからないが、最近あまりそれを感じない。
「……夏に、彼が来たときさ。家に泊めたじゃない? 夜にいろいろ話してたんだけど。僕が調子悪いときだったから、そんなに長くは話さなかったけど」
長畑も、手に持っていた便箋をたたみ、丁寧に封筒にしまう。
「確かにうるさいし、腹が立つこともあるんだけど。でも彼は親類でもなんでもない。離れたところに住んでるのに、何十年も気にかけてくれていた。そう思うと、邪見にしてたのが申し訳ないなって気持ちになって。僕は何も返せてないのにね」
「長畑さんが普通に話してくれるだけで、あの人泣いて喜ぶと思いますけど」
「そういうものかな?」
「……多分。見返りとか求めるような人じゃないと思うし。……何だかんだで、紳士ですよあの人」
紳士、という言葉に、長畑が少し噴いた。
「もう少し静かだったらねぇ、あれで」
長畑の言葉に、八束も苦い笑みを浮かべた。
しかし、油断はならないと思っている。
あの男は嫌いではないが、横からこの人をかっさらわれる可能性だってあるわけだ。
それは嫌だ。
気を許しすぎなのも問題だと思う。
好意の方向性が、自分とは若干違うとしても。

「ところで君、お腹空いてる? 朝ごはん食べようか」
思い出したような長畑の言葉に、八束は思わず携帯電話で時間を確かめた。
あれこれ話していたら、時刻は午前十時を過ぎている。
「長畑さんは?」
「まだ食べてない。君と一緒に食べようかと思って」
「あー……ごめんなさい」
待っててくれたのか、と八束は申し訳なくなった。
「先に食べてて良かったのに」
「いいよ。せっかく家に誰かいるなら一緒に食べたいじゃない。……でも君は先に、鏡見ておいで」
「鏡?」
「寝癖ひどい」
長畑の視線に、八束は自分の髪に触れる。
一部触覚のように髪が立っており、押さえてもまた跳ねあがる。
「君の髪は根性あるよね」
その様子を、長畑が少し面白そうに見ている。
「……いらない根性ですよ、これは」
八束の基本直毛だが硬く太い髪の毛は、一度癖づくとなかなか落ち着いてくれない。
「ちょっと洗面台行ってきます……」
情けない思いでそう言うと、八束は部屋を出た。

洗面台に行くと側の窓から、冬の少々寂しいバラたちが見える。
冬はバラの眠る季節だ。
好きな人と穏やかな時間を過ごせるのも、時間に余裕のある今の間だけ。
きっと春からはまた忙しくなるだろうし、なかなか二人で、なんて時間はとれないかもしれない。
言えばきっと彼は応えてくれるだろうが、仕事の邪魔はしたくない。
忙しくしている長畑の姿も好きだし、一日の仕事が終わってぼんやり「花見」をする彼の時間の邪魔もしたくない。
でも自分はきっとまた不安になるだろうから、爆発する前にときどき彼の「好き」を確認させてほしいと思う。
今回みたいに。ときどき、でいいのだ。
昨日みたいなのが毎日であれば、自分の身が持たないだろうと思う。
キスするにしても、触れるにしても。
そう思うとこの底冷えする寒さが、少しだけ愛おしく感じた。