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海を挟んだ薔薇と薔薇

02 長畑編


年明けを控えた頃の事。
いつもの事だが、イギリスにいる古い恩人であるグラハムから、手紙が届いた。
慣れているから読めるが、彼の字は相当な癖字だ。
メールも寄こすが、基本的に彼は手紙は手書きにこだわっていた。以前「その方が気持ちが伝わる気がする」と言っていたのを思い出す。
長畑はは筆不精なところがあり、同じような量で頻度で、返事を書ける気が全くしなかった。
相変わらず便箋数枚にびっしり細かくインクで書かれた手紙を読んでいくと、たまには君からも返事がほしい、とあった。
定型文のようなものだ。
返事なんか期待していないだろうに、毎回毎回。

そうやって手紙を眺めていると、なぜだろう。今日に限って、気持ちが動いた。

たまには返事をするのもいいかもしれない。
長畑はそう思い、受話器を手に取る。
時差の関係で向こうが夜なのは知っていたが、自分の知る彼は夜遅くまで仕事をしている、どちらかといえば夜型人間だった。
これは気まぐれなのだから、出なければそれでよし。
そんな思いで、彼の会社に電話を掛けた。
数回のコールの後、電話に出たのは女性だった。
名乗れば、その女性は「あぁ、貴方のお話はよく伺ってますよ」と明るく答える。
「すみません、夜遅くに」
「いえ。うちの社長、夜にならないとエンジンかからないですから。でも今ちょっと忙しくて、機嫌悪いですよ?」
「お忙しいならいいですよ。またにします」
「いえ、代わらないと私が怒られそうです。ちょっと待って下さいね……社長!」
秘書なのだろうか。女性が電話の向こうで代表者をよぶ声がする。その瞬間、電話をひったくるような音がした。
「こんなクソ忙しいときに電話してくるクソッタレは誰だ」
電話の向こうで、聞きなじんではいるが猛烈に機嫌の悪い声がした。
「……どうも。こんな忙しいときに電話するくそったれですよ」
こちらも悪いなとは思ったが、少々かちんと来たので日本語でそう返す。
すると、電話の向こうで長い沈黙があった。
「…………永智?」
「そうだけど?」
確認するような声の後に、再び沈黙があった。
「忙しいならいいよ。またにする」
「いやいや待って待ってほんとにごめんって! え? ちょっと、何かあったわけじゃないよね? っていうかごめんね!」
「……何もないけど。って言うか、電話の相手くらい確認しなよ。僕だからよかったけど」
「あ、うん。それは申し訳ない……」
電話の向こうのグラハムの声は、先ほどのどすの利いた機嫌の悪さもどこかへ消え、今にも消え入りそうになっていた。
「いいよもう、こっちも悪いんだし。それより、この時期なのに忙しいみたいだけど」
そう言えば、少しグラハムの声の調子が明るく戻った。
「そうなんだよね。ちょっと調子に乗って仕事いろいろ引き受けちゃったからさ。楽しいんだけどね」
「君、まだ自分で図面描いてるの?」
「当たり前だよ。私指名だし。会社経営したくて社長してるわけじゃないもん。これでもね、いろいろ造ったんだよー建築物。奇抜な時計台から人の家まで」
「……そう」
そういう男だったな、と今更ながらに思った。
あまりグラハムの仕事を近くで見たことはないが、この男も自分の仕事は好きなのだろう。
それはよくわかるので、何も言えない。
この男はなかなかやり手なのだ。……悔しいことに。
「で、どうしたの?私のところまで電話してくるなんて、今までなかったじゃない?」
「……手紙にたまには返事しろって、書いてたじゃないか」
「うん。でもそれいつもの事でしょ? 今回に限って、珍しい」
「僕は、君みたいに長々と返事は書けないから。思った時に電話した方が忘れないでいいかなと思って」
「じゃあ、特に用事があったわけじゃなくて?」
「気分だよ。悪かったね、忙しいのに」
「あー、いいんだよ気にしなくて。仕事の事考えすぎて頭おかしくなってたところだったし。君と話せるなら、私は嬉しいし。あ、電話代大丈夫? こっちから掛け直そうか?」
「いい。長話する気もないし、それくらい」
「そうかー、まぁ君も暇じゃないんだろうしね。またそっち行かせてよ。で、前は飲めなかったからさ、一緒に飲もう」
「いいけど。……そういえば、さっきの女の人、誰? 秘書の人?」
そう言えば、電話の向こうでグラハムが椅子でひっくり返りそうにでもなったのか、何かガタガタと暴れているような音が聞こえた。
「……いや別に。普通に従業員だよ?おんなじ建築士の。最近入ったから君知らないだろうけど。ほんとだよ?」
「何動揺してるの」
「ど、動揺はしてない。君に変な誤解されたんじゃないかと思ってびっくりしただけだよ」
「……そう。なら、もう忙しいだろうから切るよ。悪かったね、いきなり」
そう言えば、グラハムは再び黙った。
どうしたのかと耳を澄ませば、相手の男は少し唸るように言った。
「……永智が優しすぎる。おかしい、おかしすぎる……。ねぇ、ほんとに何もなかったんだよね? できれば私、すぐにでも飛行機乗って君のとこ行きたいくらい。確かめたい」
「……」
少し、ため息をつきたくなる。自分はそこまで、この男に対して酷かったのだろうか。
「来てもいいけど、仕事は片づけてきてよ」
「ほら、やっぱり優しい。前は来るなの一点張りだったくせに」
「……来るなって言った方がよかったの?」
「そんなことはない、嬉しい。まぁ来るなって言われても行くのが私だよ!」
「まぁね……」
朝から……向こうは夜なのだろうが、テンションが高い。
また出かけたため息を、我慢して飲み込んだ。
「じゃあ、切るよ。仕事好きなのはいいけど、体壊さないように」
「わかってるよー。やっぱり君は僕の天使だなぁ、やさし……」
言葉を最後まで聞く前に、長畑は電話を切った。
今年三十の男に対してその台詞はないだろうグラハム、と今度こそため息をついた。
グラハムとの付き合いは年数だけみれば、そこそこ長い。
だが共に住んだこともないし、気軽に顔を見に行ける距離でいたのはわずかだった。

両親を亡くした時、彼は共に、と言ってくれたが、自分が拒絶した。

恐らくグラハムは、自分をどろどろに甘やかしてくれただろう。大事にしてくれただろう。
悪い男ではないし、手を引かれるままそうしていてもよかったのかもしれない。
ただ当時、それが怖かったのだ。
誰かを頼らなければ生きられないような人間には、なりたくなかった。
その決意は固さを生み、子供らしい素直さなど消えた。
可愛げのある子供ではなかったな、と今更思う。
自分がもう少し正直であれば。
あの少年のようにもう少し、自分をさらけ出せる人間であれば、自分の人生はもう少し違うものになっていたのかもしれない。
グラハムとの関係も。

(──僕がこういう選択をした事を、君は責めるだろうか)

何か言わせるつもりもないし、言われたところで気にするつもりもない。
ただ、自分が何か言われるのはいい。八束に何かが向く事だけは避けたいだけだ。
そんな攻撃的な男ではないと、思ってはいるが。